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 思う存分トシマを徘徊した時に、中立地帯のとあるクラブで派手な殺しが起こったと聞き、は世も末だと嘆きつつも、まずは自分の事が優先だと意気込んだ。
 アパートに帰ったはふんっと意気込んで、配管質の前に立った。
 昨日の話だ。朝起きると部屋の水道が止まっていたのである。洗濯をしようと思っていたのに、と眉を寄せて水の流れ出ない蛇口と睨めっこを続けたは、仕方なく洗濯するのを諦めた。しかしこのまま洗濯しないわけにもいかないし、シャワーだって浴びたい。となったら自力で直すしかないのだ。
 懐中電灯片手に1階にある配管室に潜り込む。部屋の中は酸素が薄いらしく、扉を閉め切ると眩暈が身体を襲って一旦外に出た。アパートの傍に積み重なったレンガブロックを運び、配管室のドアストッパーとして使う。ドアが開け放たれた配管質の中から、冷たい空気が漏れ出してきた。
 奥へ進むにつれて、パイプばかりで迷いそうになったが、以前にも水道を通すためにここに来た事があるのでなんとか道順は覚えていた。微かな水の音が聞こえてきて、は懐中電灯のライトをつけてそちらへ向かう。
 もともと断線していたパイプを無理やり襤褸切れ布でつなげたのだ。何かの拍子に襤褸切れがずれたらしく、固定されていたパイプがずれ、水が勢い良く噴出し床にあふれていた。しかしこうなっても配管質が水漏れしなかったのは何故だろうと床を懐中電灯で照らす。水の流れていく先には大きな排水溝があり、は納得してから溜息をはいてパイプに引っかかった襤褸切れを取る。
 パイプを動かすと、パイプが軋んだ音を立てた。切断面をなんとかあわせようと四苦八苦する。顔に水がはねるがはめげずにパイプをあわせ、襤褸切れ布で固定し、その上に更に汚れたさらしを巻く。一段落ついたころにはは上から下までずぶぬれだった。
 どうやら自分でも気づかないうちに濡れていたらしい。はがっくり肩を落として、懐中電灯片手に配管質を後にした。
 最上階にある部屋に戻る気にもなれず、とぼとぼと教会へ向かう。
 薄暗い教会の中には源泉はいなかった。
 は濡れたままずかずかと教会の奥の部屋に入り、棚からタオルを取り、服を脱いでベッドのフットボードにかけ、濡れた身体を拭いた。運よく下着とtシャツは濡れておらず、下着の上にtシャツを着て、その格好のまま頭の上から毛布をかぶって礼拝堂のほうへ戻る。
 蝋台に挿された蝋燭に火を灯し、長椅子に座ってタオルで髪を拭く。思う存分タオルで髪を拭いた後、はタオルを椅子において立ち上がる。何をするでもなくは祭壇の前に佇んで、十字架に磔にされた男の姿を見た。ほぼ裸の状態で、襤褸切れをまとっているその男を見つめた後、は自分の格好を見下ろす。似たような格好なのに、自分のほうは何ともいえないみすぼらしさが漂っていた。思わず苦笑してしまう。そもそも、たくさんの人々から崇め奉られるこの男と自分を比べるのはお門違いなのだ。
 しかし何故、この男はこういう格好をして、それを人々に尊敬されているのだろうか。尊敬される立場にあるというのに、この男の粗末な格好は何だ。もっといい服を身にまとった像を作ればいいのに。そんな事を考えた後、はふうと溜息を吐いた。
 トシマに来る前「神を信ずれば救われる」などといった言葉で宗教に勧誘された事を思い出す。神を信じる事はおろか、神様がいるかいないかという事を一度も考えなかったは当然宗教に興味を示すわけがなく、むしろニコニコ顔のままの勧誘者が薄気味悪くて、振り切るように走って逃げたのだ。
 いまさら思う。あの勧誘者は、救われていたのだろうかと。
 信じるという事は信じた対象に何の疑念も抱かない事だ。対象を心の中に強く信じ込み、信じ続ける事によって精神の安定を己にもたらす。源泉も小さいころから教会に通っていたといっていたし、時々ここの教会の椅子に座って静かに祈りをささげているのを見る。そういった漠然としたあやふやな存在を源泉は信じているのだろうかと考え、はふるふると首を振った。今の源泉の姿からは、あの勧誘者のような、神を信じるといったような純真さが感じられなかった。
 自身、神を信じるか信じないかと聞かれれば後者のほうに属する。人を信じる事ですらかなりの労力が必要なのに、神や仏といった、いるかどうかすらわからない存在など信じれるわけがない。
 …いやむしろ、そういったあやふやな、実在しない存在だからこそ、信じられるのだろうか。考えてみるものの、信じるものが少ないにはいまいちよくわからなかった。
 トシマに来て、なんとなく思索に耽る事が多くなったような気がする。成長しているのか、はてまた退化しているのか、それとも源泉の影響かはわからなかったが、すくなくともにはいいことのように思えた。今まであまり物事を考えずに突き進んできたので、尚更な気がする。
 ギッ、と入り口の扉が音を立てた。
 がびくりと肩を震わせ、それからくるりと振り返る。薄暗いせいで、相手の顔や姿が良く見えなかった。
「もとみ?」
 聞いてみると、その男が静かにたじろいだ。その際にフローリングが軋む。
「おまえ…」
 聞き覚えのある声だった。源泉以外の人物が来たという事態に警戒心を持つべきだったのに、どうしてか目を凝らしてしまう。
 は慄いた。ゆっくり後ずさりして、背中に祭壇のテーブルがぶつかりびくりと震えた。以前出会った男だ、名前は確かアキラと言っていただろうか。は警戒心を露にしながら腰に手をしのばせ…そして気づいた。今は丸腰だという事に。はっとしてアキラを伺うが、アキラのほうも警戒しているのかそれともただ単に驚いているだけなのか、四、五歩ほど足を進めてからは微動だにしなかった。
 しばらく無言のまま睨みあう――とはいってもが一方的に睨んでいただけだが、気が削げたようにアキラが先に視線を逸らす。しばらくして、も身体の力を抜いた。危ないとは思ったが、アキラのほうへ恐る恐る近寄ってみる。
 アキラは無表情だったが、それでもなんだか、今にも泣きそうな感じだった。
 声をかけようとして、口をつぐむ。下手に声をかけたところで何になるのだ。むしろ自分は早く奥の部屋に引っ込んだほうがいいんじゃないかと考え込んでいると。
 ギッ。また扉が開く。そこには源泉が立っていた。振り返ったアキラと毛布に包まったを交互に見比べて、源泉はわずかに苦笑した。
「……どういう状況だ、コレは」
 源泉が呟くのを聞いて、アキラはただ視線を逸らした。がその仕草にアキラを見上げたあと、源泉のほうを向いてさあ?というジェスチャーをする。源泉がアキラをまじまじと見てから溜息交じりに笑った。


 を無視して、源泉がアキラと話をするのを横目に見ながら、は椅子の背もたれに背中を預けた。
 二人の話を聞いて、なんとなく状況が理解できた。アキラの友達のケイスケという男がケンカした後行方不明になり、それから豹変して現れアキラに殺すという暴言を吐いた。まとめるとこんな感じだった。
 だからアキラの元気がないのかと、横目に盗み見る。隣に座っているアキラは源泉が言うとおり、本当にひどかった。顔は青白く血がめぐってないように見え、辛そうな面構えをしていた。
 友達が生きているだけまだマシだ、と皮肉交じりに言ってやろうと思ったが、その辛気臭い顔を見るとそんな気すらうせてくる。むしろ何か励ましてやるべきなのかと考え、ふと思った。
 自分は、彼に同情しているのだろうか。
 自問したあと、同情などしたくはないとゆるく首を振った。
「さて、俺はそろそろ行くぞ」
 立ち上がる源泉を、上目に見上げる。
「おれはここに残るけど……」
 はそう呟いた後それからアキラを見ると、彼は伺うようにこちらを見ていた。どうやらここに残るか立ち去るか、迷っているらしかった。
「……アキラもここに残るか?」
 聞いてみる。アキラが少しだけ狼狽したように見えた。聞いちゃまずかったかと源泉を見上げれば、にやにや笑顔で見返してきた。「いい傾向だ」と言われているような気がして、慌てて源泉から視線を逸らす。なんだかよくわからないけど恥ずかしくなってきて、口元を手の甲で覆った。再度アキラを見ると、しばらくしてから、小さく頷いた。
 マジか、と呟きそうになる。
「そんじゃまぁ、明日な」
 源泉が手を振るので、手を振り返した。源泉が2メートルほど歩いてから、ふと立ち止まって振り返った。
「そーいや、何でお前そんな格好なんだ?」
 今更のように聞かれて、苦笑するしかなかった。
「水道管壊れて、修理したら、この有様」
 ははっと源泉が笑って、また歩き出す。もその後姿を見送る気にはなれず、自分の前にある割れた窓ガラスを見つめた。
 扉が閉じる音のあとに、静寂が訪れる。教会には自分以外の誰かが居るのを忘れてしまいそうになるくらい静かだ。隣のアキラがちゃんと生きてるのか不安になってきてアキラを盗み見ると、アキラは無表情でじっと前を見据えたままだった。無性に心配になってくる。
「アキラ」
 声をかけてアキラの袖を掴むと、アキラが視線だけこっちによこした。
「おまえ…だいじょーぶか?」
 聞くが、アキラは戸惑うように視線を泳がせ、それから何も言わず視線を戻した。話すらしたくないのだろうか。はむっつり黙り込んでから、静かに立ち上がった。
「…どっか行くのか?」
 アキラにそう聞かれて、それがいきなりだったから驚いて振り返った。大げさに振り返ったせいでアキラも吃驚したのかびくりと肩が震えた。思わず苦笑する。
「あー、えと、奥の部屋に行くだけだから」
 言って、物置小屋みたいな部屋のあるほうを指差すと、アキラは安堵したように微かに息を吐いた。
 部屋に入って、棚から源泉のソリドと水を取る。アキラのぶんも持っていこうかと考え、アキラのぶんのソリドと水を手に礼拝堂へ戻った。
 の足音に気づいたアキラが、俯いていた顔を上げる。どうにも辛気臭そうな顔を眺めながら、はアキラに向けてソリドと水を投げてよこした。アキラは慌てる様子なくそれを掴む。
 手に握ったソリドを見下ろしたあと、アキラが口を開いた。
「アキラ、食べたほうがいい」
 先制するようにが強く言うと、アキラはぐっと押し黙る。アキラは大方、いらないとでも言おうとしたのだろう。はアキラの隣に座り、ソリドの表面を見る。オムライス味だった。
「アキラ、ちょっとソリド貸して」
 言うと、アキラが怪訝そうにソリドを差し出してくる。ただのカレー味だった。ラッキーと心の中で呟き、アキラに自分のソリドを渡した。
「交換してもいい?」
「……交換したあとに言うなよ」
 それはもっともだ、とは笑ってソリドの封を開ける。一口かじってから、ソリドの封を開けようとしないアキラを見て、は不安になって眉を寄せた。
「…ええと、それ、嫌いな味だったか?」
 聞くと、アキラがこっちを見る。それからソリドを見て、首を振った。どうやらただぼーっとしていただけのようだ。
「そっか。…ほら、食べよーぜ」
 肘でアキラを小突くと、アキラも観念したようにソリドの封を開けた。アキラはソリドにかじりつき、もぐもぐと口を動かす。ゆっくりしたペースだったが、それでも食べてくれた事にはほっとして、自分のソリドに口をつけた。
 しばらく無言でそれを食べ続ける。
「なあ、おまえ」
「ん?」
 声をかけられ、視線を向けることなくそれだけ返した。
「俺の名前、覚えてたのか」
「っぶ」
 思わず噴出しそうになった。
 何をいきなり言い出すんだこいつはとアキラを見ると、対するアキラはきょとんとした顔でこっちを見てくる。俺なんかへんな事言ったか?的な視線に射抜かれ、はむうと口を引き結んでから、視線を前に戻した。
「そりゃあ…まあ、余裕があったからな」
 は、と息を吐くようにアキラが笑う。皮肉な笑い方だったが、それでも笑ってくれただけよしとする。
「カレー味、すきなのか?」
「うん。ってか、ソリドに限らずカレー全般がすき。……あ、でも甘口限定な。グリーンカレー味とかもう辛くて食えないんだ」
 顔をしかめながら言ってみると、アキラが一瞬さびしそうな顔をしてから、
「そうか」
 と呟いた。なんか墓穴でも掘ってしまったのだろうかとはぎくりとしたが、アキラは特に何もなかったようにソリドを食べ始めるので、は何か引っかかるものを感じつつも気にしない事にした。
 最後の一口を水で流し込み、ぷはっと一息ついてアキラを見れば、既にもう食べ終わっていた。あのペースで自分より早く食べ終わっている事になぜか無性に悔しさを覚えつつ、毛布の間から頭を出した。アキラを見る。アキラもこっちを見ていた。
「俺、寝るけど…、アキラは?」
「ん…」
 気だるそうに呟いた後、
「まだおきてる」
 そう言った。こいつ寝ない気だな、と思ったがあえて口にはしなかった。きっと、ケイスケのことで相当堪えているはずだ。椅子の背もたれに身体を預ける。ゆっくり目を閉じる。
「寒くなったら、奥の部屋に毛布あるから、それ使って。…源泉のだけど」
 それだけ告げると、アキラから「ん」という返事が返ってきた。





2;アキラ
 ずっとケイスケのことを考えていた。
 がカレー味のソリドを食べながら「グリーンカレー味が苦手」と言ったとき、トシマに来てケイスケと一緒にソリドを食べた事を思い出していた。
 正直、ケイスケが自分に殺すと言った事に実感がわかず、すべては自分の白昼夢だったのではないかと思えてくるほど、あのケイスケを自分の中で否定している。
 しかし、鼻を噛み付かれた感触はいまだに残っている。頬や顎、耳に押し付けられたケイスケの唇の感触も、残っているのだ。
 ぞっとした。肌が粟立ったようになって、寒気が体中を襲う。
 なんで、こうなってしまったんだ、とアキラは震えて膝の上に置いた手をぎゅっと握り、拳を作った。爪が皮膚に食い込んで裂けそうなほど力をこめ、今まで感じた事のない絶望感に泣きそうになっていると、自分の腕に何かがふれた。
 見ると、がアキラに寄りかかって寝息を立てていた。あどけない表情で眠っているは、身動ぎのあとにアキラのブルゾンに顔をうずめる。
 いつの間にか、体中の寒気は収まっていた。まるで毒気でも抜かれたかのような感じだった。すっと音を立てて、あらゆる負の感情が抜け出て言った後のような感覚がアキラを包んでいる。
 ケイスケのことを思うと悲しくはあったが、それでもさっきよりはなんだか落ち着いてきたような気がした。
 辺りがうっすら明るいことに気づき、アキラは静かに息を吐いて、に寄りかかり返して目を閉じる。
 少しだけ寒かったが、それでもと引っ付いていると、一人で寝るよりは暖かかった。