川小牧地区の過去帳調査完了

 川小牧地域は、加治田山の裏にあって、城があった時代には要衝の地で
もっとも重要な地域であった、その時代には城を守る有力武将が守りを固め
ていたことから、多くの人たちが住んでいたものと考えられる。
 以後の時代も住人のほとんどが旦那寺を龍福寺としていたと考えられ、川
小牧の墓地を調査すると、古くに作られた自然石の墓石が他の地域に比べ
て圧倒的に多いのが分かる。それは、古くから、いわゆる墓石を作る資力が
ある人々が多くすんでいたことも伺えられるが、調査では龍福寺の過去帳に
記載されている仏様は300ほどで、他の地域に比べて”少ない”と思える結果
であった。
 墓地の更なる調査では、龍福寺の過去帳に記載がない仏様がその大部分
であって・・・・・・ということは、川小牧の人々は旦那寺を龍福としながら龍福寺
でお葬式をしていなかったと見られることが解ってきた。
 川小牧地区には、江戸時代から龍福寺の末寺としての「智勝院」という庵寺
がある、現在は無住になっていて寺院として機能していないが、30年ほど前
までは川小牧の人たちの拠所になっていた。
従って、龍福寺の檀家でありながら、この智勝院が利用され、葬儀も法要もこ
こで行われていた模様である。
 また、明治27年ころにこの地の総ての檀家が龍福寺を離れる事案が発生し、
昭和4年まで35年間ほど龍福寺の過去帳には記録がまったくない時代がある。
その後、半数くらいは龍福寺に戻ったと言うものの他の寺院に変更した家も
多数ある。
以上、いろいろな事情から智勝院を長く利用されて来たようである。
 川小牧の仏様を調査するには、いかにしても智勝院の”過去帳が見たい”
と思っていましたが、あちこちと尋ねても、その存在が知れなかった。
 ところが、最近その在りどころを知り、見ることができたことで、この地の過去
帳調査は一挙に進みました。
 それによって、1,300以上の仏様の過去帳記載を知ることができて、 現在、
川小牧の仏様は歴代の総て1,751を管理できるようになりました。
 この智勝院の過去帳からは大多数の施主を知ることができて、どこの地域
より高い判明率である、99パーセント知る結果になりました。


   智勝院の過去帳