長久手の戦
岐阜城の織田信孝は柴田勝家と組んで、反秀吉の軍を挙げた。ところが天正11年4月(1583)には賎が嶽戦となって、勝家は敗退し、本国越前北荘の城に帰り妻お市の方と自害して滅びた。 信孝も屈伏の止むなきになり、尾張野間に送られて自ら果てた。
こうして美濃一円は秀吉の勢力範囲となった。秀吉は大垣城を池田信輝に、岐阜城をその嫡子之助に、池尻城(大垣市)を二男輝政に与えて美濃の守りとした。(之助を元助とした書もある)
織田信雄(信長の二男)は尾張清洲城に在ったが、秀吉の勢力の高まるのを恐れて、徳川家康と協同して反秀吉の軍を挙げ、ここに秀吉対家康の正に世紀の二大英傑の決戦ということになった。
家康は本国三河を発して、尾張小牧に本陣をかまえ、秀吉方は先鋒池田信輝父子と森長可が犬山を占拠してここを本陣として戦端が開始された。
両軍対峙の時が長びくにつれ池田・森らは長駆して家康の本国三河を衝いて勝を一挙に定めようとする策を採った。そして秘かに行動を開始したが、途中長久手で両軍の衝突となり激戦が展開かれた。然し秀吉方の作戦効を奏せず、池田父子の戦死に加え森長可も討死し、有力な武将を失い、多くの損害を出して戦は終わった。
これが、長久手の戦いである。
池田信輝と龍福寺
長久手の戦に戦死した池田信輝は、生前加治田龍福寺開山の天猷玄晃に帰依するところが深かった。その遺言により遺骸を龍福寺に運び、近隣の寺、富加町大山の齢峯寺において、天猷玄晃の焼香により荼毘に付したという。現在龍福寺には池田信輝の遺品として槍・鞍・鐙・轡が所蔵されている。
位牌は
護国院殿前妃州大守雄嶽宗英大襌定門(信輝公)
正宗寺殿前妃州大守顕功永節大禅定門(嫡子之助公)
池田家と天猷和尚との関係は深く、寺の過去帳によると、九日の命日には信輝と嫡男之助の供養が行われていた。龍福寺は佐藤紀伊守が自らの菩提寺として建立した寺であるが、池田家との関係も深かった。池田家の紋は揚羽蝶であるし、佐藤家は八本骨源氏車である、この両紋は寺紋の五七桐に合わせて副紋として併用されている。本堂の棟にもこれが使われている。
なお、龍福寺を龍福護国禅寺と称するのは信輝の法名護国院に因ると言う。
龍福寺の過去帳を調べると、長久手戦の戦死者と思われる9名の法名があるが、伝えられるところ長久手で生き残った家臣が、多くの戦死者を龍福寺に運んで弔いの後、主君信輝親子と共に大山の地に葬り、家臣であった武士を捨てて墓守をしながら大山に永住を続けて繁栄、今に至っているといわれている。
これらは、信長から信輝の時代に名古屋城を取り巻き、”尾張”を固めていた日比野の砦・福田の砦・谷口の砦・織部の砦・吉田の砦などを守っていた武将たちで、その姓、日比野・福田・谷口・織部・吉田が今も富加町大山の地には多い。
名古屋市内には、砦があった 日比野・谷口・福田などが「町の名前」で今も残っている。
愛・地球博が開催された町
長久手町と龍福寺
上の写真は龍福寺の
過去帳記載池田信輝公の記録
齢峯寺裏山の
信輝公・之助公 親子の
墓と伝えられる無縫塔