扉の向こう





「…………」
長い沈黙に思えた。
リビングへと続いている扉を開けたのはWだった。
新たな来客に居間にいる全員の視線が集まっている中で姿を現した極東エリアのデュエルチャンピオンであるWの登場に、室内は耳の痛くなるような静寂に包まれる。
「Wだ!!」
誰ともつかない呼び声にWはにこりと頬を緩ませ手を上げた。
直後の子供達のテンションはと言えば、日頃免疫のないカイトやDr.フェイカーは思わず怯んでしまうほどのパワーである。
あっという間に子供達に囲まれた様子を見ると、Wが有名人というのはあながち嘘ではないらしいと漸くカイトの実感となって来た。
握手やサインを求める声に柔和な笑みで応えているWを見るに、どうやらあのカイトが薄ら寒さを覚える笑顔や口調はWの営業用の顔らしいと知れる。
やたらとファンサービスを連呼しながら笑顔でサインに応じる様子はなるほど。確かに有名人っぽい。
同時に入ってきたゴーシュとドロワはひとまずWから距離を取り、ゴーシュに至ってはファンに囲まれるWの姿を顔を盛大に顰めながら眺めていた。
そんなある意味場違いな、子供達とは異なりすらりと長身のドロワやゴーシュ達の姿に気づいたのだろう。
ソファでコーヒーを飲んでいたDr.フェイカーが訪れたばかりの2人をソファへと招き寄せた。
「おぉ、お前たちも呼ばれていたのか」
仕事場以外で対面したDr.フェイカーにドロワとゴーシュはかしこまって姿勢を正した。
「お疲れ様です。Dr.フェイカー」
研究所の所長とは言え、Dr.フェイカーもカイトたちと同じ研究室で働いているわけではない。
カイトやドロワ達の直接の上司はまた別の人間であり、息子であるカイトはともかくドロワやゴーシュがDr.フェイカーに直接会う機会というのは思いの外少ないのだ。
「なに、今日は日頃の上下関係など忘れて楽しんでいくといい。今度はいつ休みをやれるかわからんしな」
強面で気難しいと聞いていたDr.フェイカーと今眼の前にいる本人との妙な不一致に、2人はぎこちなくはにかむしかない。
カイトにとって日常であるゴーシュやドロワ、Dr.フェイカーとの生活は今のこの部屋の中では随分と霞んでしまう。
空のティーカップに熱いコーヒーを注いだカイトは、ぱくぱくと遊馬の持って来たデュエル飯を頬張っているハルトの横へ腰を降ろし、湯気を立ち上らせるコーヒーに口をつけた。
「兄さん?」
不意にハルトに問いかけられて、カイトははっと息を呑んだ。
ハルトはきょとん、と小首を傾げながらカイトの顔を覗き込んでいる。
「あ、あぁ…なんだ、ハルト?」
「兄さん。どうしたの?」
「どうもしないよ。…それより、お前は行かなくていいのか?」
どこに?と尋ねるハルトに視線でWのことだと示す。
漸く握手とサイン責めから解放されたらしいWは今度は目を輝かせる子供達にデュエルの話をしているようだった。
「僕は良いよ。会おうと思えばいつでも会えるし、それにWのことは昔から知ってるから」
「……それもそうだな」
指先についたご飯粒をぺろりと舐めとりながら答えたハルトにカイトも微笑む。
てっきり九十九遊馬の友人は皆Wの周りに集まっているものと思っていたのだが、よく見れば凌牙とVだけがWのところへは行かずのんびりとお菓子を摘んでいる。
のんびりお茶を楽しんでいるのは主にVの方であったが、凌牙は真っ黒いコーヒーを無表情で啜りながら、ちらりとWを一瞥した。
「なぁハルト。凌牙はWのファンじゃないのか?」
「兄さんって本当にテレビ見ないんだね」
ハルトにまで苦笑されカイトは少し後悔した。
真面目に注視できなくとも今後はテレビくらいつけておくことにしようと心に決める。
そんな決意の兄を尻目にハルトは小声で呟いた。
「実はWが優勝した大会の決勝戦の相手が凌牙だったんだ」
「そうなのか。…ということは凌牙はWに負けたことを気にしているのか?」
「そうじゃないんだけど……それは僕の口からじゃなくて、本人から聞いたほうが良いと思う」
まただ。
つきり、とカイトの体が痛む。
今日のハルトはカイトの知らない顔をする。
ハルトに会えない日も増え、仕事に忙殺される日々の中次第にそれも気にならなくなっていた。
ふとした瞬間にまたハルトのことが頭に浮かぶと、今度はそれしか考えられない。
そうして今日という日が訪れたのだ。
カイトの知らないハルトがどんどん増えていくのは仕方がないことである。
ハルトは日々大きくなっていく。成長していく。
思えばここにいる全員をハルトが集めたのだ。
今まで思いもしなかった弟の顔の広さにカイトは正直驚いている。
弟のめまぐるしい成長が素直に嬉しいが、自分のいない間にどんどんカイトの知らない人々と繋がりを広げていくハルトに寂しさを覚え、そこにほんの僅かな羨ましささえ生まれる。
顔には出さず何となく滅入っていると、そんな気持ちを吹き飛ばすかのような軽快なメロディーが流れた。
音の元はキッチンのオーブンである。
「ねぇ兄さん、あれって最後のクッキー?」
「ん、あぁ。そうだよ」
あれだけ大量に作り置きしていた筈のクッキーは既にラストが焼きあがった。
時刻はおやつ時から夕飯時へシフトしようとしている。
何よりも人数の力が大きいのだろうが、食べ盛りの子供達がこんなに大勢訪れるとは予想外だった。
カイトの焼いたクッキーだけではとても間が持たなかっただろう。
その分、子供達が各々持って来てくれた食べ物や、ゴーシュやドロワ、W達のお菓子ではないおみやげにかなり助けられた気がする。
テーブルにはまだ十分な量が残っているし、冷蔵庫内にはまだ出番を待っている料理もある。
カイトが数品追加すれば、このまま夕食にということも十分可能であった。
そんなことを考えながら焼き上がった最後のクッキーを皿に並べていると、キッチンに立つカイトの作業を覗きに来ていたらしいドロワが背後から感嘆の声をもらした。
「これ、カイトが…?」
「……あぁ」
女性に改めてそう尋ねられると何だか後ろめたい気分になる。
料理──も出来なくはないが──ならいざ知らず、お菓子を作る男というのは女性から見るとおかしいのだろうか。
無言のドロワに責め立てられている気がして急いでクッキーを皿に盛ったところで、ドロワが落ち着いた声音で口を開いた。
「カイトは良いお母さんになるな」
「……え?」
一瞬言われた言葉の意味が理解できず、思わずドロワを振り返った。
「どうした?」
至極真面目ないつも通りの彼女の表情だ。
カイトはなんでもない、と頭を振ると、最後のクッキーを乗せた皿をテーブルへと運んだ。
「いやー!すっげーうまかった!」
「本当。あっという間に無くなっちゃったわ」
「良かれと思って沢山食べ過ぎてしまいました〜」
ぺろりと完食された大皿には、数分前まで焼きたての熱々クッキーがほこほこと香ばしい香りを立ち上らせていた。
作るのは時間がかかっても、平らげるのは一瞬である。
それでもこうして自分以外の誰かに「おいしかった」と言って貰えるだけで、ぺろりと完食して貰えるだけで、嬉しさもひとしおである。
この後夕食もどうか、と提案すれば子供達は待ってましたと言わんばかりに歓声を上げた。
門限のある子も親の承諾を得たようで、それまでの腹ごなしだとばかりに各々カードを広げ、あちこちでデュエルが始まっていた。



>>