扉の向こう





時刻は夕方の6時を示して暫く。
少しばかりの懐かしさを孕んで、あの聞き慣れた音が室内に響いた。
「はい」
解錠の金属音と、その後に続く重厚な扉の開く鈍い音の先で待っていたのは、カイトにとってとても懐かしい人物であった。
「V……」
数年ぶりの再会である。それも、予想外の。
驚きの余り瞬きを忘れる程に瞠られた白藍色の瞳が訪問者の姿をはっきりとその湖面に映した。
さらりと肩を流れている艶やかな銀色の髪の毛。
カイトが最後に見た時は腰のあたりまでで首筋から胸の前までざっくりとした三つ編みが垂れていたのだが、目の前のその人は長く伸ばした髪を結わえることもなく、さらりと伸びた銀糸はじき足元にも迫る勢いだ。
切れ長の瞳に垂れるほどに長い前髪から覗く双眸は、以前のままの深海を静かに湛え微笑んでいる。
「Trick or Treat?」
「え…」
薄い唇から低く囁かれた声は今日聞いてきたどの言葉よりも滑らかで、頭に入ってくるまでに刹那を要した。
その言葉が、何度も聞いた「トリックオアトリート」であると一呼吸後に気づいたカイトは、しかし意味を理解したからこそ戸惑うように空色の瞳を揺らす。
「あの…もう俺の焼いたクッキーは…」
この日のために作り置きしていたクッキーは食欲旺盛な子供達によって完食となったばかりである。
困惑しながらも申し訳なさそうに見上げるしかないカイトにVはくすりと笑みをこぼし、そっとカイトの頬へ掌を滑らせた。
「なら、イタズラだな…」
「え、…ぁ…」
ふっとVの影がカイトの顔に落ちる。
ひんやりと冷たい指先がカイトの細い首筋を伝った。
身を屈めたVの視線に縫い付けられてしまったかのように、カイトはぴくりとも動けなかった。
否、カイトに触れる拘束は白く長いVの指のみ。
カイトは動かなかったのだ。
Vの薄い口唇が迫る。
絡み合う視線に耐え切れずぎゅっと瞳を閉じた。
頬は上気し、心臓の鼓動は痛いくらいにカイトを追い詰める。
しかし、望んでいた箇所へそれは降って来なかった。
代わりに右の頬に柔らかな感触を感じ、カイトはゆっくりと震える睫毛を押し上げる。
すっと落ちていた影は次第に離れて行き、Vは苦笑とも微笑とも取れぬ緩やかな眼差しでカイトを見下ろしながら、肩に落ちた髪をかき上げた。
カイトがVの名を呼ぼうと口を開いた刹那。
「兄さん?」
「…っ────」
背後からの無垢な声にカイトの肩が跳ね上がる。
カイトの肩越しにVはハルトへ穏やかな声を掛けた。
「やぁ、ハルト。暫く見ない間に随分と大きくなったね」
まるで何事もなかったかのように平然と、Vはハルトへ微笑みを向けている。
「わぁ…!V、来てくれたんだ!」
「少々遅くなってしまったが、まだパーティーには間に合うだろうか?」
眉を曇らしながら問うVにハルトがもちろんと返事をかえしている。
その言葉尻が不自然に消えゆく。
先程から決して振り返ろうとしない兄の様子に違和感を覚えたのだろう。
「……兄さん?」
兄思いの弟は心配そうにカイトの顔を見上げた。
熱く火照った頬を何とか宥めようにも、羞恥に鼓動を早めた心臓はなかなか治まってくれそうにない。
「兄さん、顔赤いよ?」
熱でもあるの?と掌を伸ばそうとする健気な様子が愛おしいやら、恥ずかしいやら。
悔しさについ咎めるような視線をVへ送れば、相変わらず素知らぬ顔で微笑を浮かべている様がこの時ばかりは少し憎らしい。
そんなカイトの様子に気づいたのか、ハルトは何かに気づいたように声を漏らした。
「兄さん…イタズラされちゃったんだね」
「……ッ!?」
それは、どういう意味なのか。
何故かハルトはそれ以上は何も言うこと無く、足早にリビングへと駆け戻ってしまった。
「…………」
カイトは何事か話しかけようと口をぱくぱくと動かしたが、乾いた喉からは何とも言えぬ風切り音しか出ない。
唖然と見つめるしかないカイトへ、ところで…とVはただの世間話を中断でもしていたかのように自然に口を開いた。
「そう言えばカイト、Dr.フェイカーもいらっしゃるのだろう?」
「…え、…あ、はい」
枯れた喉はぎこちない言葉しか紡いでくれず、そんなカイトに小さく笑みをもらして、Vは試すような顔でカイトを見下ろした。
「私は今日、彼におみやげを持って来たのだが、何か言うことは?」
「え?」
唐突すぎる質問にカイトは先程から他人の物のような思考を何とかして働かせ、それを声に出した。
「…あ、ありがとうございます……?」
「律儀だな君は」
耐え切れぬ様子で軽く吹き出したVにカイトはますます羞恥に頬を染めた。
久しぶりの再会なのにさっきからみっともないところばかり見せてしまっている。
そんな自分が不甲斐なくて、情けない。
「今日は一体何の日なのかな?」
不甲斐なさを見かねてだろうか。
助け舟を出すように微笑まれて、カイトは漸く答えを見つけた。
「…っ、トリックオアトリート」
「良く言えました」
ぽん、と頭を撫でられる。昔からVに褒められる時はいつも柔らかく髪を撫でられていた。
昔は嬉しくて仕方がなかった行為が今はなんだか子供扱いのようで、カイトは少し不満気に眉を寄せる。
そんなカイトに気づいているのかいないのか。
Vはどこに持っていたのか深緑色のボトルを取り出し、カイトの目の前にラベルを向けた。
葡萄の描かれた上品なデザインのラベルだ。
あまり詳しくないが、ラベルにある年代はかなり昔のものであることを示している。
「これに免じて、イタズラはご勘弁願おうか」
「ワイン…ですか?」
Vの言葉に、カイトはその手に握られたボトルをまじまじと眺めた。
「恐らくハルトの声を掛けた対象に、成人している者は少ないだろうからね。お父上もジュースだけでは口寂しい時間だろうから」
「あぁ…」
ワインボトルを引き寄せ軽くウィンクをして見せるVに、実際には2つしか歳の差がない筈なのにそれ以上の年齢差を見せつけられている気さえ覚える。
自分ではそんなつもりは毛頭ないものの、Vには全て見透かされているのだろうか。
そう残念そうな顔をするな、と再び優しく髪を撫でられ、Vはもう一つ細長い瓶をカイトへ渡した。
「君にはこっちのぶどうジュースを持って来たんだ」
そう言いながら、Vはまるで悪戯っ子のように笑いながらカイトへ瓶を手渡した。
「……子供扱いしないで下さい」
ジュースの瓶を受け取りながら自覚なしに口をついてしまっていた言葉に気づいた時には既に遅く、あっと口を覆ったカイトの右手を苦笑したVが恭しく握った。
「私は君を子供扱いしたことは一度もないよ」
「…」
「もしそうだとしたら、それは君が可愛すぎるのがいけないんだ」
歯の浮くようなセリフもVはさらりと言ってのける。
言っている本人よりも聞いているこっちが恥じ入ってしまい、カイトは羞恥に声を震わせた。
「俺は……可愛くなんか…」
折角治まりかけていた頬の赤らみが、再びぱっと色鮮やかになる。
「いや、可愛いよ。君は昔から変わらない」
「貴方は…どうしてそんな…ッ」
滅多に表情を崩すことのない冷静すぎるVの考えがカイトには分からない。
VがDr.フェイカーの助手として働いていたのは今から数年前のことだ。
5年前にバイロンがDr.フェイカーの下から独立し、Vが父であるバイロンの研究を手伝うようになってからはほとんど……いや、全くと言える程会ってはいない。
もうずっと昔のことなのに、あの時──別れの際に交わしたVとの口接けの感触がカイトの唇に戻ってくるようだった。
お互い自分の研究で多忙な日々だ。
年に何度か学会やパーティーの席は設けられていても、目の前の仕事に負われていると出席できないことも多い。
本当に久しぶりに会うのだ。
一言連絡くらいしてくれれば……。
ましてハルトから連絡を受けてこの場に来れるのなら、どうして自分には何も言ってくれないのだろうか。
平然とした、憎らしい程いつも通りの綺麗なVの顔を直視することが出来ず、カイトは口篭った。
言いたいことはいろいろあった。
話したいことも山ほどある。
でも、これ以上何か言おうとすれば、きっとみっともないことを口走ってしまう気がした。
Vの困り顔が目に浮かぶようで、カイトは押し黙るしか無い。
そんなカイトの内心を知ってか知らずか。
紅潮し他より僅かに血色の良い頬に触れるよう手を伸ばしたVは、ごく自然な動作でカイトのすっと尖った顎に触れ、軽く上向かせる。
「カイト…さっき君は私が君のことを子ども扱いしていると言ったが、それは違う」
わかるだろう、とVはじっとカイトの空色の瞳を覗き込んだ。
カイトはVのこんな視線が苦手だった。
ただ静かに、カイトの心の隅々まで見透かそうとでもするかのように、瞳の奥からカイトの考えを読み取られる……そんな気がするのだ。
「trick or treat」
お菓子は無いと知っているはずなのに、Vはカイトの耳元に唇を寄せ熱っぽい吐息を吹き込む。
「甘いものが欲しい。無いのなら、君の唇を頂こうか」
お菓子か、イタズラか。
そのどちらかではなく、さりげなくVが求めたのは両方。
「……ずるい」
伏し目がちに視線を逸らしたカイトに薄葡萄色の髪をさらりと揺らしながら、Vは悪戯っぽく微笑んだ。
「そうだ。……私はずるい大人だよ」
久しぶりに交わしたキスはマシュマロのように甘く、柔らかい、甘い誘惑の味がした。



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