18
角のとれた滑らかな石畳の続く道を、和也と麻理子は歩いていた。
夕食の用意が整う間の散策である。
周囲は昔ながらの木造家屋が軒を連ねているが、その所々に民芸品店や土産物店などが景観に合わせて配置されていた。
夜は陽が暮れるのと入れ代わりに、街灯と漏れる家屋の灯かりが石畳を照らし始める。
その灯かりも、都会の眩しい電飾の光とは異なった橙色(とうしょく)の柔らかな光だった。
「情緒豊かな処ね・・・。こんなところをあなたと歩くなんて、想像もしていなかったわ」
「・・・何?僕には日本の情緒は不似合いってことかい?」
「あらっ、不似合いなんて言っていないじゃない。想像がつかなかったって言ったのよ」
嬉しい誤算かしらと、麻理子は反論の後に付け加えた。
和也は黙って苦笑するしかなかった。
和也が静かな所を選んだのは、これからのことを話し合うつもりだった。
麻理子の二年間の研修期間もあと一年。
当初その長さに戸惑ってしまったが、いざ離れて過してみるとあっという間に一年が過ぎていた。
何ひとつまともに話し合っていない。
結婚のこと、仕事のこと・・・明良のこと。
麻理子は何も言わなかった。言わないからこそ、ちゃんと言葉にしなければならないと和也は思う。
あの日ホテルの一室で、麻理子からアメリカ行きを聞かされた。
本当は、あの時麻理子はアメリカに行くことを決めたのではないか。
和也の中で錯綜(さくそう=複雑に入り混じる)する思い。或いは自分のために・・・。
「お店はどこも閉まっているわね。この辺りは手織物が有名なのですって。
民芸品を見てみたかったわ」
何軒かの民芸店を行き過ぎるたび、麻理子は残念そうな顔をした。
「来るのが遅かったんだから、仕方ないよ」
「そうね、誰のせいかしら」
「・・・君のせいさ、麻理子」
話し合おうと思うのに、きちんと言葉にして伝えようと思うのに、言葉が零れる前に塞いでしまう。桜色の唇を。
麻理子の気持ちを聞いてゆっくり二人で考えようと思うのに、その前につい抱いてしまう。白い柔肌を。
―君のせいさ、麻理子―
そんな言葉で誤魔化しながら、和也にしては珍しく心が揺れ動くのだった。
「明日の午前中また出直して来よう、資料館もあるらしいし」
穏やかな口調の和也に、やはりそれ以上何も言わず微笑み頷く麻理子。
橙色の灯かりが照らす石畳に、二人の影が寄り添った。
「真紀!!お前・・・」
大声で遼二が怒鳴りかけたところを、
「おい、ここをどこだと思っているんだ」
すかさず吉川が、遼二の大声を遮った。
終業時間の午後五時。
遼二の家へ泊まりに行く明良、迎えに来た社長付き運転手の北山、明良を監督していた長尾.
明良が呼んだ真紀、受付にいた吉川、そして遼二の総勢六名がカウンター前でひしめき合っていた。
遼二の怒鳴り声を遮った吉川は、そのまま勢いがついたようだった。まくし立て始めた。
「秘書室前で大声を張り上げるなよ、みっともない。一番基本的なことだろう。
だいたい君はいつも落ち着きが・・・ふがっ?・・ぁうっ・・・!!」
いきなり長尾が、後ろから羽交い絞めで吉川の口を塞いだ。
その恰好で長尾、続いて明良、真紀、北山の四人が、遼二の周りを取り囲んだ。
「杉野君!早く消えてくれ!僕はね、今日一日社長代理の監督のおかげで頭が痛いんだ!!」
「杉野さん、早く行こうぜ!オレ朝から漢字の書き取りばっかやらされて、ずっとだぜ!!
どこが監督だよ!橋本さんが帰って来たら言いつけてやる!!」
「遼二に怒鳴られる筋合いはないわよ!私は坊ちゃまから誘われたんだから!!」
「・・・杉野さん、そろそろ宜しいですかね」
四人一斉に話し掛けられて、遼二はたまったものではない。
みんなそれぞれ好き勝手なことを言っているが、一人を除く三人(長尾、明良、杉山)は同じだ。
遼二は三人を除く一人(真紀)については仕方なく後回しにして、とにかく早くこの場を立ち去ることにした。
吉川ではないが、あまりにもうるさすぎる・・・?
「吉川さん?・・・吉川さん!!」
遼二が長尾からふと目線を下に落としたそのところで、吉川は口を塞がれたままもがいていた。
と、その瞬間、カクッと動かなくなってしまった。
「あっ・・しまった。おい、吉川君!・・・落ちたな」
どうやら長尾の大きな手は、吉川の鼻まで塞いでいたらしい。加えて怪力だった。
「なっ・・長尾さん!!いっ・・いち・・119!救急車を―――!!」
動かなくなった吉川より、遼二の方が顔面蒼白だった。
「大声を出すな!頭に響く!吉川は大丈夫だよ、気絶しているだけだ。
全く煩わしい・・・君がもたもたしているから・・・」
頭が痛い長尾はちっ≠ニ舌打ちをして、面倒くさそうに吉川を抱え上げた。
「すみません・・・あぁ、そうですね!とりあえずは医務室に!」
「もう!杉野さん、ほっとけよ!吉川さんなんて、しょっちゅう長尾さんに落とされてんだからさ。
会議室で二、三発叩かれりゃ目が覚めんだよ」
秘書課のことは、まだ遼二より明良の方が詳しかった。
長尾に抱えられた吉川が行くところは、医務室ではなく会議室だった。
「そ・・そうなんですか。・・・わかりました。それじゃ明良君、行きましょうか。北山さん宜しくお願いします」
何がどうわかったのかは言うまでもなく、遼二は吉川に別条が無いことに安心して明良と北山に声を掛けた。
真紀は無視した。
真紀は遼二に無視されても、全く気にしている様子はなかった。
いやこの場合、それどころではないと言うべきか。
真紀はお姫様抱っこで吉川を抱えて行く長尾に釘付けだった。
もちろん、その右手にはしっかり携帯が握られていた。
そして―――。
「なぜ三人なんですか・・・どうして真紀が居るんだ!」
「エレベーター?また・・・そんな話聞いてないわよ、遼ちゃん!」
いちいち声を張り上げる遼二と真紀。キャデラックの車中でも、二人は明良が呆れるほどやかましかった。
―何でかオレがしゃべると、杉野さんと姉ちゃんがケンカする・・・―
築十五年。駅から5分。単身者用マンション七階建の五階1LDK。
家賃12万円は新卒社員の給料には高いが、そこは破格の福利厚生を誇るA&Kカンパニー。
独身者家賃に対して4分の1の住宅手当てが出る。
つまり三万円の支給で、実質遼二の家賃負担は9万円となる。
六畳の和室に十二畳のLDK、バス、トイレ。一人暮らしには十分な広さと言ってよい。
「明良坊ちゃま、いらっしゃいませ。狭苦しいところで申し訳ありませんが、どうぞごゆっくりなさって下さい」
ひと足先に部屋の鍵を開けに行った真紀が、明良を出迎えた。
「・・・狭苦しいところで悪かったな」
真紀は明良が泊まりに来る日を知っていて、片付けの手伝いにも来なかったのだ。
社交辞令とわかっていても、遼二としてはどうしてもひとこと言わないと気が済まない。
但しそれは遼二側の言い分であって、真紀からすれば内緒にされていたことが腹立たしい。
明良は立ったままキョロキョロと部屋の中を見回していた。
「すっげー・・・綺麗に片付いてんなぁ」
「いくらなんでも、散らかったところに泊まって貰うわけには行きませんから。徹夜で片付けました」
「オレは散らかってても全然平気だぜ」
「そう言うわけには参りませんわ!明良坊ちゃま」
―お前が言うな!―
出かかった言葉をかろうじて遼二は飲み込んだ。その代わりにキッと真紀を睨む。
しかし真紀も負けてはいない。何よ!と、真っ向から睨み返した。
もはや恋人同士というより、明良を挟んで天敵同士の様相を呈している遼二と真紀だった。
「何か姉ちゃん、杉野さんの奥さんみたいだな」
明良にまだ男女の機微(きび=表面からは知りにくい微妙な心の動きや物事の趣)はわからない。
冷やかすように遼二に向けた明良の笑顔は、実に純粋だ。
「はぁ・・・。まあ、その・・・」
遼二は思わずドキリとした。
結婚についてはまだ真剣に話し合うことはなかったが、いずれはと考えている相手なのだ。
あっさり明良に言われてしまった。
照れる遼二の気持ちは、そのまま真紀にも伝わったようだった。
お互い睨み合っていた顔が、明良の言葉で再び恋人同士の顔に戻った。
ピンポン・ピンポン・ピンポン・ピン♪ポ〜ン♪♪
「なぁに?忙(せわ)しない鳴らしかたね。遼ちゃん、誰か来たみたいよ?はぁ〜い」
玄関のインターホンが鳴って、真紀が応対に出て行く。すっかり奥様気分の足取りだった。
「オレ腹減った・・・」
部屋では、明良が空腹を訴える。
「そうですね、俺も腹が減りました。今日はバタバタしたので遅くなりましたね。何か取りましょうか」
遼二は和也と違って料理は出来ないし、ほとんどする必要もない。
平日は会社のレストランで食べて帰るし、休みの日は大抵真紀と食べに出かける。
今回も明良の食事については、食べに行くか出前を取るかしか考えていなかった。
真紀がいてもそれはあまり変らない。
遼二が前もって用意していた店のメニューを広げようとしたところに、玄関から真紀の呼ぶ声がした。
「遼ちゃん!遼ちゃん!遼二ー!!」
「あっ、ちょっとすみません。・・・どうした?真・・・うわぁっ!!」
「うわぁって言われても・・・。とにかくここにハンコ下さい。三回も出直して来たんですよ」
パステルグリーンの上下に帽子。
A&Kカンパニー資材部配達部門の制服を来た配達員が、迷惑千万な顔で配達票を突き出しながら立っていた。
真紀の足元に大きなカゴがふたつ。全て食材だった。
それも一見して高級食材とわかるものだった。
「・・・誰がこんな、思い当たる節がないのに受け取るわけには・・・」
「あっー!親父、親父だよ!配達の兄ちゃん、オレのサインでもいい?」
明良が大人しく部屋で待っているわけがない。後ろから遼二を押し退けるように顔を出した。
「親父って、社長ですか!明良君!」
「明良・・・坊ちゃん!はじめまして!はい、もちろん結構です。お願いします!」
配達員は被っていた帽子を急いで取ってお辞儀をした。
「親父もちゃんと時間云って置けばいいのにな。今度会ったら言っとくから」
配達票にサインをしながら笑顔で言う明良に、配達員の顔は見る見る真っ青になった。
「ぼっ・・坊ちゃん!ととと・・とんでもありません!」
いくら明良が父親に言ったとしても、社長は個々に全社員を把握しているわけではない。
どうせそうか、それはすまなかったな≠ュらいで済むことなのだが、社員にとって社長はひとりなのだ。
「何回出直したっていいんです!ほんとうです!すみません!ごめんなさい!」
帽子を取った顔を見ると、まだ若い。
遼二と同じくらいに見える。彼も新入社員かもしれない。配達員は泣きの涙で遼二に訴えた。
「大丈夫です、心配しないで下さい。遅くなったのは俺たちの都合なんですから。こちらこそすみませんでした」
何度も大丈夫ですからと念を押して頭を下げた後、遼二は明良を配達員の前に立たせた。
「明良君も彼にお礼を言いなさい」
遼二の迷いのない明瞭な物言いは、明良に違和感を与えることなく素直に従わせた。
「ありがとうございました!」
配達員は明良の礼にやや戸惑いを見せたものの、やっとホッとした表情を見せて帰って行った。
配達物ひとつで、この騒ぎだ。ひと息つく暇もない。
「・・・で、これどうするの?」
足元のカゴを見つめながら、真紀がそっと遼二に耳打ちした。
何といっても社長からの差し入れなのだ。しかも明良の手前、あまり困った顔も出来ない。
「親父が差し入れ何がいいって聞くから食いモンって言ったら、じゃシェフに頼んでおくからとか言ってたけど、これ全部生じゃん」
カゴ二つのうち、冷蔵食料と常温食料に分かれている。
つまり大別すると旬の食材を中心に、肉と魚、野菜と果物が詰め込まれていた。
「杉野さん、オレ肉食いたい・・・」
見れば肉は極上霜降り和牛。
魚介類はキンメダイ、カンパチ、アワビ、伊勢エビ・・・。
素人目から見ても、すぐにでも食さなければもったいないと思うほど鮮度の優れたものばかりだった。
「そう言われても・・・俺は料理出来ないし・・・真紀にも期待しないで下さい」
さすがの真紀も、失礼ね!と言えないところが辛かった。
こんな時に限り冷蔵庫も、冷凍食品と明良が来るので買い置きしていたジュース類で満杯状態だった。
保存する事も出来ない。
「そうだ!親父に電話して、シェフに料理作りに来てもらえばいいんじゃん」
名案とばかりに、明良は携帯を取りに行った。
明良が言うと冗談にならないところが、少し普通と違うところなのだ。
「明良君!ちょっと待って下さいぃ!!・・真紀!何でもいいから、頼む!!」
遼二が携帯を手にした明良を取り押さえた。
明良はせっかくの名案を邪魔されて不満の色を隠せない。
「・・・シェフなら、何でも作ってくれんのに。姉ちゃんに無理に作らせることないじゃんか・・・」
真紀も必死だった。とにかくここは遼二の立場を守らなければならない。
遼二に頼むと言われるまでもなく、真紀は高級食材を前にじっと考え込んでいた。
「・・・いいよ、そいじゃ何か取ってくれよ。オレ腹減って・・・」
明良が痺れを切らす寸前、真紀は食材の入ったカゴの中から一本のビンを取り出した。
「明良坊ちゃま!お待たせいたしました。すぐお仕度が出来ますから!」
「えっ!?すぐ出来んの!?」
「真紀、それ・・・」
「ウフフフッ・・・そうよ、遼ちゃん。ポン酢よ!!」
他に焼肉のタレもあったが、材料を豊富に使えるのは鉄板焼きより鍋だろう。
しかも生で食しても十分なほど鮮度の優れた食材は、サッと湯を通すだけで良い。
ダシは炊いているうちに食材から出る。
素材の味を最大限に引き出し、かつ絶対失敗のない料理。
「水炊き!?オレ、食べたことない・・・」
「ありませんか?色々な食材を鍋に入れて、みんなで鍋を囲んで食べるんです」
遼二は明良に説明しながら、引っ張り出して来た土鍋をダイニングテーブルのガスコンロに設置した。
―みんなで鍋を囲む―
明良は、無い経験にわくわくした。
小さい時はほとんど母親と二人の食卓だった。
中学生になると兄弟のいない寂しさからか遊び歩くようになり、食事時もあまり家には帰らなくなった。
その頃の明良には家で食べるご馳走より、友達と食べるファーストフードの方が美味しかった。
和也と暮らすようになって、明良の生活が矯正されるのと共に食生活も戻った。
ただ和也との食生活でも、鍋を囲むというような食事スタイルはなかった。
真紀が野菜、遼二が魚介類をさばき、着々と鍋の準備が進み、大皿に次々と鍋の材料が乗る。
但し切り方はどんな食材でも全てブツ切りだった。
普段和也の繊細な盛り付けを見ている明良には、それがまた豪快に見えた。
もうわくわくが止まらない。
「オレも手伝う!」
「そうですか、助かります。それじゃ明良君はその大皿をテーブルに運んで、そこの取り皿を並べて下さい」
明良は遼二に言われた通り大皿を運び、取り皿を並べた。
「杉野さん、並べたぜ!あと箸置きとランチマットは!」
明良、がさつなようで細かかった。
遼二には箸置きもランチマットも思いもしない範疇外のことだった。
こういうことは生活習慣で身に付いたものなのだ。取り繕ってもすぐボロが出る。
無いものは無い。遼二は無理に明良の言葉に合わすことはしなかった。
「・・・すみません、気が付きませんでした。テーブルは拭きますから、食べ零しなんて気にしないで下さい。
箸も・・直に置くのが気持ち悪かったら、ペーパータオルの上にでも置いて下さい」
これがまた明良の心をくすぐった。
和也にはうるさいくらいに注意される食べ零しが、遼二にはOKなのだ。
「だよなぁ!!オレだって、そんなもんいらねぇっつうの。和也さんがうるせぇんだもん。
ランチマット汚しても文句言うんだぜ!汚れるから敷いてんのにさ、バッカじゃねぇの!」
明良はここぞとばかりに日頃の鬱憤を遼二にぶちまけた。
こんなふうに言える相手がいることも、明良にとっては最高のことなのだ。
もちろんその相手の、遼二にとっては迷惑以外のなにものでもないが。
「えぇ・・っと・・・さ・・さあっ!材料を鍋に入れますよ!
こうして炊きながら材料を継ぎ足しながら、食べるんです。明良君も好きなものを入れて下さい」
めったなことで相槌も打てない。遼二は鍋で明良を釣って、話題を変えた。
ぐつぐつと鍋が炊き上がる。
真紀もテーブルに着いて、いよいよ明良待望の鍋の始まりである。
「ちょうど良い具合ですね。では、食べましょうか」
遼二が鍋のフタを取って、箸を持った。
真紀もいそいそと箸を手に取ったところで、明良の声が響いた。
「いただきます!!」
「あっ!!はいっ・・いただきます!!」
これは箸置きやランチマットとわけが違う。食=命を頂く、礼儀なのだ。
遼二と真紀は、箸を置き直して明良に倣った。
「・・はふっ、・・はぐっ・・はふぅぅ・・・うっまーい!!」
「美味(おい)しいですか、明良坊ちゃま。
お肉はしゃぶしゃぶっと湯に通したら、こうしてサッと引き上げて・・・おっいしぃぃ!!」
「お・・俺も!・・・・・!!!」
まず一番先に飛びついた食材、霜降り和牛。
食に関しては父親の商売柄人並み以上の明良でも、霜降り和牛は格別に美味しい。
真紀はともかく、普段一人暮らしの食生活を送っている遼二にいたっては、その美味なる味に感動のあまり声も出ない。
三人の空腹に一気に火がついた。しかも一点集中。
「オレ、肉!こうしてしゃぶしゃぶっと・・・美味(うま)い!」
「そうですよ、明良坊ちゃま!お肉はこうして!しゃぶしゃぶと・・・美味しい!」
「に・・肉!!」
明良、真紀、遼二、代わる代わる肉に箸が延びる。
「に・・肉!!」
ものすごい速さでまたもや遼二。
「に・・肉!!」
再び遼二。
どうやら霜降り和牛は遼二の中枢を刺激したらしい。肉!肉!肉!猛然と箸が進み、歯止めが効かない。
「あーっ!ちくしょう!!オレも肉ー!!」
遼二のペースの速さに、明良も負けてなるものかと肉に箸を延ばす。
その実明良は肉よりも、遼二と競って食べることに必死になっていた。
楽しくて仕方がない。
「ちょっと、遼ちゃん!少しは遠慮しなさいよ、肉ばっかり!
明良坊ちゃまの分が無くなっちゃうじゃないの!」
二人の取り合いを見かねた真紀が遼二に注意するのだが、注意する真紀の取り皿にもしっかり肉が確保されている。
「ええっー!!もう、肉無ぇじゃん!!」
「明良坊ちゃま、すみません。杉野が遠慮なくて・・・」
「・・・・やっ・・・その・・・あんまり美味くて・・つい・・・」
鍋が始まってわずか10分。肉1キロを三人で完食。
「明良坊ちゃま、魚介類も食べごろですよ。・・・アワビ最高ですぅ!」
「そんじゃ、オレもアワビ!!」
「お・・俺も!!」
霜降り和牛に続いてアワビ。値段の張るものから順番に次々と消えて行く。
だいたい水炊きにアワビなど聞いたことがない。他にも伊勢エビ、キンメダイ、松茸・・・
「ふうぅぅ〜っ・・ふぅ、ふぅ・・・はふっ・・・ほがっ!?がぁぁっ・・・!」
「明良坊ちゃまったら、急いで食べるから伊勢エビの殻が・・・・・・・ぎゃあぁぁっ!!!」
「ま・・松茸!!って・・・どうした!真紀!キンメダイの目玉がどうかしたのか?」
全てブツ切りの食材は、さながら闇鍋のようになってしまっている。
シェフが見たら気絶しそうな鍋だが、素材が良いので味は抜群なのだ。
「姉ちゃん、料理上手いじゃん!!鍋すっげおいしいぜ!」
クーラー全開の中で熱々の鍋を、和気合い合いとみんなで食べる。
明良の興奮は最高潮に達していた。
網戸を通して入って来る風は、もう秋の風だ。
此処の夜は、都会のように生活音は聴こえない。
点在する離れの灯かりと少し遠くに見える本館の灯かり。そしてわずかな中庭の灯かり。
静かに広がる視界の中で、月が近くに見える。余計な明るさがない分、はっきり映るからだろうか。
八畳の和室に用意された遅めの夕食を、和也と麻理子は楽しんでいた。
「またひとつ発見したわ。日本酒も嗜むのね」
「飲むよ、知らなかった?麻理子とは飲んだことがなかったかな」
和食の繊細な手技の一品料理が、小鉢や小皿に盛り付けられている。
「向こうでは、食事はどうしているの」
「どうって、普通よ。和食だってちゃんと食べられるわよ。
これほどのものは、日本でもそうそう食べられないけど」
麻理子はゆっくり器を眺めながら、八角小鉢の湯葉で巻いた鱈白子を美味しそうに食べた。
「違うよ・・・。自炊はしているのかい」
今でこそ和也は明良のために食事を作っているが、明良と暮らすまでは遼二と同じで自炊はほとんどしていなかった。
麻理子がまだ日本にいる頃は、よく和也のマンションに食事を作りに来てくれたものだった。
「あぁ、そっちの話。忙しくて、ほとんど出来ないの」
「ダメだな。忙しいなんて麻理子らしくない言い訳だね」
「バレちゃったかしら、実は少し面倒なの。ひとりでは料理にせいがでないわ」
「確かにね、それはそうだけど・・・。今度は僕が君のところへ行こうか」
本当は次に会うことよりも、もっと先のことを話し合わなくてはいけないのに。
和也は日本酒を傾けながら麻理子を見た。
「私の方に?二日や三日では往復だけで終わっちゃいそうね」
半分信用していない顔で、麻理子が笑う。けれど嬉しそうに。
「いや、その時は最低でも一週間は取るつもりだよ」
「そんなに取れるの?」
まだ半信半疑の麻理子に、和也は意外と信用されていないんだなと幾分自嘲気味に微笑んだ。
「取るよ。向こうへ行ったら、僕が食事を作ってあげるよ」
ああ・・・本当に大切なのは二人で共有するこの時間。
他愛無い話に終始しながらも愛が深まる時間。
和也は麻理子と向き合って座る席から縁側の方に移動した。
板の間に直に腰を下ろして、網戸から入る夜風に身体を当てた。
麻理子は気にせず、食事をしながら話を続けた。
「本当に?それじゃあ、私はエプロンを用意して待っているわ」
「うん・・・。フリル付きは勘弁して欲しいけどね」
「残念、先に言われちゃったわね。・・・あっ、ねえ和也さん、その時は明良君も連れて来てあげたらどう?」
くすくすと笑っていた麻理子が、はたと気付いたように言った。
「それこそ勘弁して欲しいね。休暇にならない」
「まあっ、酷いお兄さんね。・・・私はあなたのお兄さん振りが見てみたかったんだけど・・・」
「明良の前では兄じゃないよ。・・・それに、僕は明良から見ると兄のイメージじゃないらしいし」
―お兄ちゃんって感じじゃねぇもん!お兄ちゃんって、もっと優しくて会えば一緒に遊んでくれる直人の兄ちゃんみたいな人のことだ!―
和也はずっと前に、明良がまだ小学生くらいの頃に言われた言葉を思い出していた。
優しくした覚えも一緒に遊ぶこともなかったので、別にショックなことはなかったが、忘れることもなかった。
「・・・・でも、あなたにとっては可愛い弟さんなんでしょう」
明良のことも、もっと話そうと思っていたのに、いざこうして麻理子の口から話が出るとその口を塞ぎたくなる。
麻理子から明良のことを言われると、兄らしくない自分を再認識するからなのか。
それとも自分といる時はたとえ明良でも、麻理子に自分以外の人間のことは考えて欲しくないからなのか・・・。
そのどちらもだ・・・和也は心の中でそう呟いて、縁側の板の間から腰を上げた。
「いずれ君の義弟(おとうと)にもなるよ・・・」
「和也さ・・・・・・・・」
和也は麻理子の言葉を待たず、肩を抱き寄せてキスをした。
いろいろ話そうと思ったことが、一番端的な言葉で出てしまった。
―いずれ君の義弟にもなるよ・・・―
「・・・和也さん、食事は済んだの?・・・食事中に席を離れて、行儀が悪いわ」
「あははっ、誰かが聞いたら大喜びしそうな言葉だ。麻理子、君は飲まないの?」
「飲むわよ、知らなかったでしょ」
「・・・・・ごめん」
もう二人に話し合うことなどなかった。後の二日間は愛を確かめ合うだけで充分だ。
たまには怠惰な時間を過すのも、良いかも知れない。
和也は自分の席に戻って、ガラス製のちろり(冷酒を飲む時に氷を入れて冷やしておける茶瓶型のサーバー)から、麻理子の金明水柄の盃(ぐい呑み)に冷酒を注いだ。
「ふぁっ・・ぶぁ・・ぶぁっくしょ―――ん!!!」
「明良君、大丈夫ですか!風邪引いたら大変だ。真紀、クーラーの温度上げて!」
遼二のマンションでは、夕食がやっと終わり後片付けの最中だった。
何せ終わった時、鍋の汁はドロドロ、テーブルは食べ零しと飛び散った汁でベトベト、シンクは皿や残骸やらでグチャグチャの有様だった。
途中でひと足先に風呂に入った明良が、半分濡れた髪のままクーラーの前を陣取っていた。
「上げなくていいってば!せっかく涼んでんのに。風邪なんかじゃねぇって・・・きっと悪口言ってんだ」
また・・・この話になると遼二は気が気でない。
掃除に託(かこつ)け聞こえない振りをしてやり過ごそうと思ったのだが、ワイドショーネタ大好きの真紀が黙っているはずがなかった。
「明良坊ちゃまのですか!そんなことおっしゃる人なんていませんよ」
「和也さんだよ。オレのこと、旅行先で言ってんだ」
「秋月さんがですが?」
まさかと明良に尋ねる真紀の目は、しかし輝いている。
「明良君、そんな根拠のないことを言うものじゃありません。真紀、まだ片付け終わってないだろ!」
「根拠ならあるぜ!旅行前散々オレのこと文句ばっかり言ってたんだからさ。
ちゃんとやってんのかとか、どうせそんなこと言ってんだよ」
しつこく注意された上にカバンまで勝手に触られて、あげくキャデラックの車中から掛けた電話まで切られてと、よほど明良は悔しかったようだった。
「そんな、相手の方もいらっしゃるのにそんなこと・・・でも、相手の方ってどんな方なんでしょうね」
「女だよ」
「やっぱり!私たちの間では、逃げられたと噂になった彼女と実はまだ続いているのではないかと・・・」
「それは違うぜ、姉ちゃん。オレが聞いても言わないんだから、別の女だ」
A&Kカンパニー、ワイドショーネタで盛り上がる明良と真紀。
但し明良の情報は的外れもいいところだった。
噂がいい加減なのは、このように和也に一番近い明良の情報が、尤も的外れだったりすることにある。
しかも本人はそうだと思い込んで話をするので、事実とは裏腹にその雰囲気だけが伝わるのだ。
「真紀!いい加減にしないと・・・」
「しないと・・・何なの?遼ちゃん?・・・明良坊ちゃま!鍋はとっても美味しかったですよね!!」
「うっ・・・」
鍋で真紀に助けられた遼二は、それを逆手にとられて言葉に詰まった。
「とっても美味かったぜ、姉ちゃん!!
・・・なぁ、杉野さん、もうすぐ片付け終わるだろ。ゲームしようぜ!」
しかし遼二が心配するまでもなく、明良の関心ごとはゲームに変っていた。
「まだもう少し掛かりますから、明良君はTVか・・・そうだ、秋月さんが漢字ドリル入れておかれてたでしょう。
少しでもしておいた方がいいんじゃないですか」
「冗談言うなよ!オレ今日会社でずっとしてたの知ってるくせに!
・・・じゃあ、もういい。オレ寝る」
楽しい時が続くと、少しの我慢が出来なくなる。
明良は不貞腐れてリビングのソファに寝転んだ。
「・・・遼ちゃん、ここは私が片付けておくから、明良坊ちゃまのお相手してあげたら」
真紀は拗ねる明良にオロオロした。
いくら姉ちゃん、姉ちゃんと慕われても、やはり社長の息子なのだ。
「いいんだよ、真紀は気にするな。明良君、寝るならベッドで寝て下さい」
「・・・・・オレ、ベッドで寝てもいいの?」
「もちろんです。高野はベッドの横に布団を敷きますから。ソファには俺が寝ます」
オロオロする真紀とは違って、遼二の態度は明良に必要以上に甘える余地を与えなかった。
明良はムスッとしながらも体を起こしてベッドに移った。
しばらくどちらも、明良はベッドでごろごろと遼二と真紀は後片付けをもくもくとしていたが、やはり黙っていられなかったのは明良だった。
「杉野さんのベッドオレのよりデカイなー。・・・姉ちゃんも寝れるじゃん。
姉ちゃん、一緒に寝ようかー?ギャハハ・・・」
遼二は下宿からこのマンションに越してきた時に、ベッドをシングルからセミダブルに変えた。
もちろん、真紀が泊まりに来るからである。
それをあけすけに明良に言われて、遼二は焦った。
まさか色恋のことまで、明良に焦らされるとは思っていなかった。
一緒に寝ようかと誘われた真紀も、さすがに返事が出来ないでいた。
「ベッドは・・・ほらっ!明良君、俺・・寝相が悪い!そう、悪いですから・・・!」
「・・・・・・・・・・・・・・」
子供とはいえ明良はもう15歳なのだ。
ひと通りの男女の営みくらい知識として当然ある明良に、寝相が悪いは通用しないどころか火に油を注ぐだけだった。
明良はさらに面白がって、またもやとんでもないことをしゃべり始めた。
「へぇー!じゃあ、和也さんなんてもっと寝相悪りぃんだ。和也さんの部屋のベッドは・・・」
この話になると真紀の出番だった。活き活きと、それもオウム返しに明良の言葉の後を復唱する。
「秋月さんの部屋のベッドは・・・!」
「明良君!プライベートなことは、べらべらしゃべるものじゃありません。
真紀!!お前いい加減にしろよ!こっちに・・・?」
明良の話に飛びついて行った真紀が、ベッドを覗き込んだまま動かない。
「・・・明良坊ちゃま?・・・ベッドは何です?・・・坊ちゃま?」
たった今まで喋っていたはずの明良が、すぅすぅと寝息を立てながら眠っていた。
「寝ちゃってるわ・・・。だけど本当に明良坊ちゃま楽しそうだったわね、遼ちゃん」
振り向いた真紀の笑顔は、自分のことのように嬉しそうだった。
―気が強くて意地っ張りで、でもおせっかいなほど優しい―
・・・・・・・・・・・そうだった。
遼二は真紀を見つめながら何だか可笑しくなった。
「何よぉ・・・遼ちゃん。何が可笑しいのよ」
驚くほど寝つきの良い明良のおかげで、思わぬ二人の時間が出来た遼二と真紀だった。
リビングのソファに並んで腰掛ける。
やっとひと息つきながらも、真紀はさっきからひとり可笑しく笑う遼二が気になって仕方がない。
「いいわよ、そうやって笑っていれば。いい加減にして欲しいのはこっちなんだから」
「・・・・・・・・そうだな、今日は助かったよ。黙っていて悪かったな、真紀」
フンッと背を向けた真紀を、遼二は後ろから抱きすくめた。
一瞬真紀の肩がビクッと上がり、そしてスッと力が抜けていくのを遼二は腕の中に感じた。
「遼ちゃん・・・。そうよ・・・ちょっとショックだったんだから」
「・・・・・ごめん」
あれほど騒々しかったのに、二人でいるこの時間は不思議なほど静かだ。
真紀を抱いているといい匂いがする。
遼二は真紀のうなじに顔をつけた。真紀は微かに反応したが、すぐ抵抗を示した。
襖一枚隔てた向こうには明良がいる。
だが遼二にはわかっていても、真紀を抱く手を緩めることは出来なかった。
※ コメント
今回は会社から少し離れて、和也と麻理子、遼二と真紀の二組のカップルを中心に書きました。
どちらのカップルも、書いていて楽しかったです。
食事シーンは基本好きなので、やはり長くなってしまいました/汗。
特に和也と麻理子については、10話くらいの時からぼんやり思い浮かんでいた部分です。
和也と麻理子は書いていてどうしてもヒフティヒフティになるのですが、遼二と真紀は意外と遼二が強いのですね、ここという時だけですが(笑)
それに平行して、今回の和也に明良の兄としての部分が出ていれば嬉しく思います。
それはけして出来た兄ではなく、明良が兄ちゃん!と呼べるような部分です。
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