19
秘書課、午後――。
執務室に和也、秘書室には橋本以下珍しく全員席に着いていた。
明良は夏休みが終って学校が始まっているため、さほど頻繁には来社しない。
遼二は明良に散々振り回されはしたものの、いざあまり顔を見なくなるとそれはそれで寂しい気持ちがした。
いずれ自分の上に立つ人とわかっているので、どれだけ明良が自分に懐いて来ても弟のような感覚にはならないが、ただ人として裏表のない明良の性格が遼二は好きだった。
秘書課配属から約三ヶ月。
遼二の仕事はまだ来客のお茶出しとファイル整理それに社内の使い程度だが、ようやく違和感なく自分のポジションを自覚出来るようになった。
秘書課の一員としての第一歩と言っても良い。
秘書室は全員が揃っていても静かだった。
仕事のやり取りの話し声やそれに関連した音(電話やPCのキーを打つ音など)はするが、無駄話しがないのだ。
もっとも、橋本のいるところで無駄話しなど出来るわけがない。
その辺の事情は、長尾、進藤がよく心得ている。
「長尾君」
「はい」
後ろから呼ばれた声に、返事こそ小声だが動作は素早い。
長尾は即座に橋本のデスクの前に立った。
「暫く隣の執務室にいますから。取り次ぎはなし、その間は君の采配で対処してください。以上、後を宜しく」
橋本は手短に言うと、長尾の返事も待たずさっさと執務室に入って行ってしまった。
執務室の方を向いたままの長尾の後姿からは、沸々と不穏な空気が派生し始めている。
高田と吉川は長尾が呼ばれた時点で既に察知していたので、早々と逃げる算段を考えていた。
「取り次ぎはなしとのことですので、受付に行って来ます!」
二人同時に立ち上がったが、吉川の方がひと声早かった。
咄嗟のとき、受付はとても良い避難場所だった。
「よ・・吉川君!君はまだ仕事が途中でしょ!受付は僕が行くから!」
普段いくら面倒を見ていても、吉川にとって高田は先輩なのだ。
高田が行くという以上、ここは高田に譲らなければならない。吉川は仕方なく着席した。
「高田君は仕事終ったの」
まだ固まっている長尾の代わりに、進藤が声を掛けた。
「はい。ちょうど手持ちの仕事が一段落しましたので」
綺麗に高田のデスクは片付いている。
例え進藤でも難癖をつける隙はないはずだと、高田は絶対の自信で長い睫毛を伏せた。
「えらいねぇ、高田君。君は本当に仕事が早くなったね」
進藤も切れ長の目を細めて、高田を褒めた。
滅多に褒められたことのない進藤から褒められた高田は、長い睫毛は伏せているのに顔は上を向いていた。
高田有頂天。
「そんな・・・」
それほどでも進藤さん、と高田が言いかけたところで再び進藤の切れ長の目が細まった。
「それじゃ、高田君は僕の仕事を手伝って」
「・・・そんな!!」
高田にとって、進藤は長尾よりさらに相手が悪い。
高田、一転して無間地獄に堕ちる。
「吉川君」
「はいっ!」
一旦は着席した吉川が、嬉々とした返事で立ち上がった。
「君が受付に行くのはいいけど、その仕事は中断しても大丈夫なんだね」
「はい、進藤さん!全然、全く、ちっとも、急ぐ仕事ではありませんから。では、行って来ます!」
吉川、秘書室脱出成功。
橋本がいなくなった途端騒がしくなった秘書室で、遼二だけが何がどうなったのか分からなかった。
ただ長尾の機嫌が悪い。それだけはわかった。
遼二は出来るだけ巻き込まれないように静かにしていようと、デスクの端で一人黙々と仕事を続けた。
「・・・進藤、絶対わざとだよな」
ようやく自分の席に着いた長尾だが、体は完全に進藤の方を向いている。
進藤の席は長尾の斜め後ろだった。
「橋本さんはしつこいからな、当分続くぞ。
あの時、誰かさんが明良君を営業部に行かせなきゃ、僕たちはもう少し早く帰って来れたんだけどね」
あの時・・・長尾と進藤が営業部で園田相手に油を売っていた時のこと。
橋本からの書類を届けに来た遼二に引っ付いて、明良がいた。
―明良君!何で君までついて来てるの?高田君はどうしたの―
―高田さんが行っていいって言った―
「だから、進藤さん!僕は、明良君の社会勉強のために・・・!!」
「社会勉強も時と場合によりけりだろ」
「な・・長尾さん!」
しかし長尾の時と場合で明良の後継者教育が進められているわけでもないので、これはほとんど言い掛かりだった。
社会勉強と称して明良のお守りを長尾に押し付けようとした高田と、最初から橋本のいない時間を見計らって営業部で油を売っていた長尾。
どっちもどっちなのだが、長尾は予定より早く橋本が帰って来てしまっていたため、不在時間の長さから営業部で油を売っていたことがすっかりバレてしまった。
―長尾君、君のちょっとは1時間45分なんですか。誰かの1時間を大幅に破る新記録ですね。覚えておきます―
それ以来度々橋本は不在時には、はっきり言葉にして長尾に後を任せるようになった。
お陰で長尾は、なかなか秘書室を抜け出すことが出来なくなった。
しかも采配の意味はあまりにも広く、再度長尾は橋本に訊ねた。
―何度同じことを言わせるんですか。君の采配でと言っているでしょう―
「俺が訊いたのは一回だけだ。それも思いっきり人のネクタイを引っ張りながらぬかしやがって・・・」
こんなふうにと、長尾は遼二のネクタイをグィーッと引っ張った。
「うわぁっ!!・・くっ・苦し・・・長尾さん!!」
運悪く、たまたまファイルを仕舞いに長尾の傍を通ってしまった。
軽く引っ張ったつもりでも、長尾は力が強い。
遼二は引き寄せられるようにして、長尾の膝の上に前のめりに崩れてしまった。
「長尾、言葉使いが素に戻ってる。杉野君は長尾で良かったねぇ。橋本さんなら避けられてるところだ」
進藤が長尾に注意したのは言葉使いだけだった。
その他のことについては、長尾は橋本に比べてずいぶん待遇は良いらしい。
いきなりネクタイを引っ張られた遼二には酷い話でも、進藤にはまだ長尾で運が良かったと映っているようだった。
「あぁっ・・せっかく整理したファイルが散らばって・・・悪ふざけが過ぎます!」
遼二は急いで起き上がろうとした。
「誰が悪ふざけだって?僕は大真面目だけど。そう言えば、あの時は杉野君もいたよね」
「・・・あの、手を退けて下さい。・・・あの!長尾さん!俺の背中で肘をつかないで下さい!!」
これは事故と同じだ。注意していても巻き込まれる時は一瞬なのだ。
嫌な予感とともに、遼二の額から汗が吹き出た。
「君はもっと明良君に、厳しい態度で臨まないといけないな。だから何かと付け込まれるんだ。
・・・杉野君、汗。暑苦しい」
「それは・・最近はちゃんと厳しく・・・でも、明良君はまだ中学生だし・・・」
「'でも'は必要ないよ。聞き苦しい」
この体勢で見苦しいが出たら・・・遼二はもがくようにして体を起こそうとした。
「もがくな、見苦しい」
「三大ご法度に触れた杉野君、会議室行き決定」
ぱあぁと高田の顔に笑顔が広がる。地獄に仏、高田は遼二に手を合わせた。
「会議室に行かなくても、此処でいいんじゃない。その格好だし、ちょうどいい」
表情も変えず、進藤が提言する。
「そうだな、じゃ杉野君いくよ」
進藤の提言をあっさりと受け入れる長尾。
改めて遼二の腰に置かれた手に力が入って、尻がぐいっと突き上がった。長尾が足を組んだのだ。
「ぎゃあぁぁっ!!何する気ですかー!!」
頭でわかっていても、尻はまだ知らない。
「あれっ・・・杉野君、初めて?」
長尾が振り上げようとした手を止めて、不思議そうに聞いた。
「はじ・・はじめ・てって・・あの・・何が・・・・・」
遼二が言葉に詰まりながら青息吐息のその時、ガチャッと執務室のドアが開いた。
「杉野君はいますか」
「橋本さん!はひっ・・・」
橋本から呼ばれた遼二は、長尾の膝の上で返事をした。
「・・・忙しそうですね。すぐ執務室まで来れますか」
行けないはずはない。いやむしろ、こんな時にいちいち伺わないで欲しい。
すぐ来い!≠ニ命令して欲しいくらいだ。
「はいぃっ!!」
長尾も橋本の声の掛かった遼二を、このまま捕獲しておくわけにはいかなかった。
スッと力の弱まった長尾の腕を、跳ね除けるようにして遼二は体を起こした。
「長尾君は采配の意味がまだよくわからないみたいですね。後で執務室に来なさい。
明良君の使っている辞書を貸してあげるから」
橋本が執務室に戻るのと一緒に、遼二も続いた。
そう言えば前にも似たようなことがあった。
あの時は橋本×進藤で、シュレッダーに掛けた書類の件だった。
進藤に会議室に引き摺られて連れて行かれそうになったのを、橋本から呼ばれて難を逃れたのだった。
今日は長尾だった。
止めの橋本の言葉に、長尾は不穏どころか怒り心頭だった。さすがに黙ってはいられない。
橋本が執務室に入るのを追いかけて詰め寄ろうとしたところで、続いて入って行った遼二に鼻先で執務室のドアを閉められてしまった。
遼二は遼二で必死なのだ。焦りたくっていたうえに、怖くて長尾の顔など見れない。
執務室に逃げ込むように入って、ほとんど目を瞑ってドアを閉めた。
進藤の時と同じに、それがさらに長尾の怒りを煽ったなどと、遼二は知る由もない。
「・・・すごい汗だね。うちはそんなに重労働なのかな、橋本さん」
執務室のドアに背中をへばり付けて、はぁはぁと息の上がる遼二の額からは玉のような汗が流れている。
「そうですね、けっこう体力がいるみたいですよ。ねぇ、杉野君」
「あ・・・すみません。別にふざけていたわけじゃ・・・」
遼二は話している途中でカァッと顔が熱くなるのを感じた。語尾が続かない。
しかし意識しているのは遼二だけで、橋本は全く意に介していないようだった。
長尾の膝の上で目が合った遼二に、普通に話し掛ける橋本。
それが社風を証明している。
橋本は温和な表情を遼二に向け、微笑んでいた。
「汗を拭いて。こちらに」
ドアの入り口付近で立ち止まったままの遼二に、和也はデスクの前まで来るように促した。
「はぃ・・・すみません」
拭いても、拭いても、汗が流れる。遼二はハンカチを握り締めてデスクの前に立った。
和也と目が合った。和也はじっと遼二を見ていたようだった。
黒目勝ちの瞳が一点を見据えているように動かない。
遼二は思わず畏怖(いふ=恐れること)を感じてドクンと心音とともに緊張が高まった。
「ああ・・ごめんね。睨んでいるわけじゃないから。橋本さんによく注意されるんだよ、私は目つきが悪いらしい」
緊張した遼二の表情に気付いたのか、和也も橋本と同じように穏やかな微笑みを浮かべた。
そしてそんな堅苦しい話じゃないからと、遼二の緊張を解(ほぐ)すようにひと言付け加えた。
「この間の明良君の泊まりの件で、改めて社長から君に謝礼が出ています」
「えっ!謝礼って・・・そんな要りません!俺そんなつもりじゃ・・・」
まさか明良を泊めたことで謝礼が出るとは思わなかった。いやそれよりも、これは受け取るわけにはいかない。
「わかっています。謝礼といっても、お金じゃないよ。'soleil'(ソレイユ)にディナーの予約を申し込んでいます。
いつでも都合の良い日に彼女と行って来なさい。営業部に彼女いるんだろ」
「あ、はい。でも・・・」
研修時代に応援で何度か行ったが、客としては行ったことがなかった。
遼二の給料ではとても釣り合いが取れない。
「杉野君、これは会社ではなく社長個人から出ていますから、安心して下さい。
社長は君の気持ちを配慮してのことなんだから、君も遠慮しちゃいけないよ」
「明良君はとても楽しかったと何度も社長に言われたそうだ。社長も親だからね、嬉しいんだよ。
社長の配慮に対して、親の気持ちを受け取ってあげるのが君の配慮だ」
和也は社長の観点に立って、橋本は親の立場から、遼二に示唆(しさ=物事を示し教えること)した。
遼二は二人の示唆に、拒否する言葉は見つからなかった。
「はい。ありがとうございます」
やっと遼二の顔が綻んだ。
「さて、杉野君の了解を得たところで、ここからが仕事の話だよ」
デスクに置いた手を組みなおして話し始める和也に、遼二は新たに気持ちを引き締めて返事をした。
「はい!」
「来月ホテル森之宮に新店舗がオープンするでしょう。店名の核となる基本は?
それと前夜祭の招待客数を教えて下さい」
「森之宮の巨大シャンデリアと融合した'光'です。
'lumiere(リュミエール)'前夜祭の招待客数は16社50名と顧客50名です」
「そうだね。その前夜祭に社長ご夫妻、明良君が出席しますが、スタッフとして私と橋本さん。
そして今回は杉野君、君に出席してもらいます」
「あっ、はい!裏方は厨房でもウェイターでも、研修で経験済みですから大丈夫です」
スラスラと威勢よく答える遼二に、橋本が笑いを堪えながら言葉を挟んだ。
「君は相変わらず先走りが直っていませんねぇ。良く秋月さんの話を聞きなさい」
「あっ・・・はぃ・・・」
先走りと言われても、遼二には裏方以外想像がつかなかった。
「スタッフといっても、厨房やウェイターをするわけじゃないよ。社長ご夫妻と明良君に付くんです。
タキシードが必要だけど、君は持ってる?」
「えぇっ!?・・お・・俺が!!タ・・タキシード??いえ、タキシード!?」
まさか自分が出席するなんて思ってもいなかった。それも間の四人を飛ばして。
気持ちが動転してしまって、まともに和也に答えることが出来ない。
「わかりました。来週明良君が採寸に行きますから、君も一緒に。
タキシードは会社からの支給です。それに掛かる経費は要りません」
「ますます忙しくなりますね、杉野君。頑張って下さい」
ポンッと橋本が遼二の肩を叩いた。
先ほどの長尾とのことを揶揄(やゆ=からかうこと)して言っているのだが、遼二はそんなことを気にしている暇はなかった。
「橋本さん・・・。長尾さんたちがいるのに・・・俺・・・」
「'lumiere(リュミエール)'は来年に向けたシミュレーションだと言ったはずです。
長尾君たちは充分経験を重ねています。君は今回初めてでしょう。今のうちに経験しておくことが大事です」
「そういった意味では'soleil'(ソレイユ)も勉強になるよ。
ああだけど、そんな事を言えばせっかくの彼女とのデートが楽しめなくなるかな」
橋本の後を受けて、和也は遼二の不安を和らげるように冗談を交えながら微笑んだ。
「そうだ、杉野君、秘書室にはまだみんないましたか?」
用事が済んで執務室を出ようとする遼二に、橋本が尋ねた。
「はい。吉川さんは受付にいますので、すぐ戻って来れます」
「そう、それでは今の件をみんなにも言っておきましょう。そうしたら君も少しは安心でしょう」
橋本は和也にすぐ戻る旨を伝えて、遼二と一緒に執務室を出た。
遼二は橋本がいるので安心して秘書室に戻り、受付に吉川を呼びに行った。
「ああ、座ったままで。すぐ済みますから、会議室に行くほどのことではないので、ここで連絡しておきます」
全員着席のまま、一番後ろの橋本の席に向いた。
「来月オープンの'lumiere(リュミエール)'の前夜祭ですが、秘書課からは秋月さん、私、杉野君が出席します。以上」
すぐ過ぎる。
遼二を除く四人が四人ともまさかの表情で橋本を見ているのに、その橋本はもう席を立って執務室に戻ろうとしていた。
進藤が待ったを掛けた。
「橋本さん!僕は社長に付いていなくてはいけないんですよ!」
「進藤、君はそんな心配をする前にもう少し社長の動きに気を配りなさい。
そんなだから会議が終るのも気が付かないんです。どこの世界に社長を一人で帰らすばかがいるか!」
進藤も長尾と同じように営業部で油を売っていて、社長の会議終了予定時刻をそのまま鵜呑みにしていた。
―予定時間ほど当てにならないものはないぞ。様子ぐらい見に来んか、ばか者!―
進藤も長尾同様に、橋本にはお見通しのようだった。
「長尾、進藤、高田、吉川、君たち四人、今回はお仕置きです。最近弛(たる)んでるでしょう。
しっかり留守番をしておくように」
みんなそれぞれに思い当たる節があるのか、一様に押し黙って誰も橋本に反論する者はいなかった。
執務室のドアノブに手を掛けたところで、橋本は何かを思い出したように振り向いた。
「ああそうだ、進藤君。当日は社長には私が付きますから。心配しなくても大丈夫ですよ」
バタンッ!―――。
橋本は執務室に戻って行った。
―それでは今の件をみんなにも言っておきましょう。そうしたら君も少しは安心でしょう―
どこが安心なのか・・・。遼二は恐ろしくて、横も後ろも見ることが出来ない。
ますます状況は悪くなっている。長尾だけだったのが、四人全員になってしまった。
「くそったれ!!」 バンッ!!
秘書室では聞いたことのない言葉と共に執務室のドアに物が当たった音がして、遼二は思わずその方向を見た。
「ひっ・・・!!」
進藤が橋本のデスクに置いてあったファイルブックを投げつけたのだった。
「進藤・・・素に戻ってる。はあぁぁ〜っ・・・」
今度は長尾が進藤に注意するものの脱力感著しく、長いため息をついて深く椅子に背もたれた。
高田はタキシードを、オーダーメイドで注文してしまっていた。
「もうタキシード裁断に入っちゃってるのに、出席出来なきゃ経費として認めてもらえないし。あ〜あ、自腹だ・・・」
こんな時だけ高田の用意は早い。
「みなさんのせいです・・・。僕は、ちゃんとしているのに!僕まで一緒にされて!!
長尾さんは営業部ばかり行ってるし!進藤さんは社長のお迎えをヘマするし!高田さんは髪の毛の色抜きすぎなんだぁー!!」
根が真面目な吉川にとっては、とてもショックなことだった。半分壊れたように喚き出した。
采配を任されている長尾はちらっと吉川の方を見ると短いため息をついて立ち上がり、宥めるように謝りながら吉川の席へ向かった。
「わかった、わかった、吉川君。ごめんね、君は真面目だからね。僕たちのせいだね」
「そうですよ!!僕は!僕は!・・・」
「わかったから、寝てろ」
長尾はそのまま吉川の席に座った。長尾が隣に来ただけで、また遼二の額から汗が流れた。
それも僅かに横を見た瞬間に、だらりと下がった吉川の腕が見えた。
吉川は長尾の膝の上で、すやすやと眠っていた。
長尾に絞め落とされて気を失っているのだが、悪夢から開放されたような安らかな寝顔だった。
そして長尾たち三人も、まったく無口になってしまった。
まるで吉川の睡眠を妨げないように気遣っているのかと思うほど静かだった。本来の秘書室の静けさに戻ったようだ。
ただし遼二には、その静けさはとてつもなく重苦しいものだった。
カチコチ、カチコチ、カチコチ・・・・・・・
時計の音など聞こえないのに、聞こえるような気がする。
時計を見ると、さっき見た時間からまだ5分しか経っていない。
手持ちの仕事も片付けて、次の仕事の指示を仰ぐ吉川は長尾の膝の上だ。
そうなると当然長尾しかいない。
いくら時間稼ぎをしたところでする仕事がないのだから、そうそう時間も経たない。
遼二は恐る恐る隣を見た。
「何?」
―うわぁっ!!― 心の中で絶叫した。
長尾は遼二の方を向いて、デスクに片肘をついていた。遼二をずっと見ていたことになる。
「あの、あの・・・」
重苦しい雰囲気に、さらに危険が加わる。
そこへ、
―コンコンッ・・・―
秘書室のドアをノックする音が聞こえ、了解の声も待たずにドアが開いた。
秘書課は受付があるので秘書室の入室は、基本秘書課の人間以外勝手に入って来ることは出来ない。
「こんにちは〜。営業部の美花(みか)ですぅ。書類届けに来ましたぁ〜」
「美花ちゃん!勝手に入って来ちゃダメでしょう。呼び鈴押した?」
高田が慌てて立ち上がり、注意しながら戸口のところまで行った。
「あ、呼び鈴あったんだぁ。だって、受付誰もいなかったから。
早く書類渡さなきゃいけないと思って、とっても急いでたんですぅ」
急いでいる割には、超おっとりした口調の美花だった。
「誰に渡すの?僕が渡しておいてあげるから」
「園田さんから、秋月さんですぅ。じゃあこれ・・・高田君、お願いしまぁす」
「はい、確かに。・・・長尾さん、やっぱり間違ってます」
高田は美花から受け取った書類袋をひと目見るなり、長尾に報告した。
長尾は特別眉をひそめるわけでもなく、呟いた。
「美花ちゃんなら仕方ないな・・・」
「やだぁ〜、これ企画部の・・・あ〜ん、ホントに間違ってるぅ。ごめんなさぁい。すぐ交換して来ますぅ」
美花はしゃべり方こそおっとりしているが、美花なりに真剣で一生懸命なのだ。
ただ周囲は美花=いつものことと認識があるようだった。
「いいよ、美花ちゃん。うちから営業部に取りに行くから。今日は園田さん居るの?」
さすが女性には微塵も不穏な雰囲気を感じさせない。
長尾はおっとりした美花に合わせて、優しい声色でやんわりと話した。
「はいぃ、園田さんは居ますけどぉ。でもぉ・・・美花が間違えたのにぃ・・・」
「長尾さんも言ってくれているでしょう。気にしなくていいよ、美花ちゃん。それじゃ僕と一緒に行こうか」
高田はこれ幸いとばかりに美花の背中に手を回したが、高田の一存(いちぞん=ひとりだけの考え)が秘書課で通用したことはない。
「杉野君、取りに行って」
長尾は遼二に営業部行きを指示した。
「・・・俺?・・・ですか!」
まさか自分が、しかも長尾から営業部行きを命じられるとは思ってもいなかった。
「君しかいないだろ。僕はこの状態だし、高田君は進藤に置いといてやらないといけないし・・・」
長尾は自分の膝を指差しながら、視線は後方の進藤に向けた。
進藤は完全に不貞腐れて、顔も上げずPC画面を見続けていた。
「はいっ!」
遼二の返事とは裏腹に、人身御供のような高田はもう反論する気力もない。ヨロヨロと自分の席に戻った。
営業部美花。小柄で、童顔。アイシャドウもほとんどしていないのに、つぶらな瞳が印象的だった。
艶やかな黒髪を後ろリボンでひとつに束ねている。25歳。
営業部では、真紀の二年先輩、高田と同期生だった。
営業部まで美花と連れ立って歩く。遼二は顔だけは知っていたが、直接話したことはなかった。
先輩の余裕か、美花が先に遼二に話しかけた。
「杉野君ですよね。真紀ちゃんから、聞いてますぅ。いいなぁ真紀ちゃん、素敵な彼氏がいて。
羨ましいなぁ・・・」
「・・・素敵かどうかはわかりませんが、ありがとうございます。み・・・」
遼二はニコッと微笑んで礼を述べたあと、美花さんと言おうとして詰まってしまった。
実年齢よりずっと幼く見えても、美花は遼二の先輩なのだ。
馴れ馴れしく名前で呼んで良いものか。
ちらっと胸のネームプレートを見たら『美花』としか書いていない。
苗字が無い・・・・美花が苗字??
「美花ですぅ」
美花は遼二が自分の名前を知らないと思ったようだった。
その名の通り花が美しく開花するように、ふわりと柔らかな笑みを浮かべて名乗るのだが、やはり美花は美花としか言わなかった。
不思議に感じるものの、子供のように可愛い笑顔で美花が美花と言うのだから、苗字でも名前でもどちらでもいいように思えてくる。
―まあ、いいか・・・―
美花を見ていると、何をしても、何を言っても、全て許したくなるような優しい気持ちになれる。
「あ・・はい、すみません。美花さん」
遼二も笑顔で返す。
A&Kカンパニーの花形部署、営業部は実に層が厚かった。
※ コメント
今回のポイントは、半分壊れてしまった吉川君と営業部美花ちゃんです^^
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