21



「・・・ぅ・・んっ??・・・あれっ?」

「あっ、目が覚めた?吉川君!」

「高田さん、僕・・・っ!!」

吉川は後ろからの高田の声に体を捩じって振り向こうとした途端、尻に痛みが走った。





その十分前―――。

すやすやと寝ている吉川を膝に置いて、長尾は営業部に内線を掛けていた。

「・・・・・・・・・・一応は覚えていたのかな。書類引取りに何時間掛かっているんだ!」

他人(ひと)の不在時間は非常に気になるらしい。

「全く・・・長尾も甘くみられたものだね。ねぇ、高田君」

さっきまで不貞腐れていた進藤だったが、長尾から高田を貰ってすっかり立ち直っていた。

「僕は進藤さんを甘く見たことなんてありませんよ。
なのに面倒くさい書類の作成は、いつも僕
に回してくるんですから・・・」

「僕にって、君しかいないじゃないか。ほら、手が止まってるだろ、前を向いて。
甘くみてない?
そうかな、これで二回目だ」

進藤の席は高田の斜め後ろだった。

「ねぇ、高田君」と呼びつけられて高田が後ろを向くと、進
藤は細い眉を吊り上げて「仏の顔は三度までだよ」と鬼の顔でカウントを取る。

振り返らなけれ
ば振り返らないで「高田君、知らん顔して僕のこと舐めてるの」とかなんとか、また別バーションで責められるのだ。

100%八つ当たり対象(人身御供)の高田は、たまったものではない。


「進藤、俺は会議室に行っているから、杉野君が帰って来たら書類を秋月さんに渡しておいてく
れ」

「了解。それじゃ俺は受付で杉野君を待つとしようか」


長尾と進藤の会話に、ぱあぁと高田の表情が広がった。

―やった!再び地獄に杉野君!―

緩んだ口元を隠すべく頭を低くして顔を伏せた高田だったが、次に上げた瞬間覗き込む進藤
の大アップが目の前に現れた。

「きゃあぁっ!!し・・進藤さん!!僕は・・ふり、ふり、振り向いていませんよ!!」

「何の話?そんなことにいちいちこだわっているから、君は仕事が進まないんだ。
人のことは気
にしなくていいから、さっさとその書類仕上げておいてよ。中途半端なら会議室順番待ちだな」

最後は独り言のように呟いて受付に向かった進藤だが、もちろん高田には進藤の独り言は脅
かしにしか聞こえない。

―吉川君!!―

高田は心の中で吉川の目覚めを、必死で待つばかりだった。



「さて、俺も行くか」

長尾は膝で仰向けに寝ている吉川の体をくるりと反転させると、さっと右手を振り上げた。

ぱんっ! ぱん! ぱん! ばしっ!

「んぁっ・・あっ・・??・・・ぃだっ・・・??」

ばち〜ん! 「痛たぁっ!!」

ビクンと吉川の背中が条件反射的に仰け反った。

長尾はすぐさま、まだ朦朧とする吉川を抱え
起こすと元通りに椅子に座らせた。

その間僅か三十秒。

「これでよし・・・と。それじゃ後は頼んだよ、高田君」

寝かすのも起こすのも、お座りまで長尾の自由自在。まるで人形扱いの吉川だった。


それからさらに三十秒後。

―・・・ぅ・・んっ??・・・あれっ?―

吉川がはっきり目覚めた時には、長尾も進藤に続いて秘書室を出て行った後だった。





「吉川君、大丈夫?いっつも!僕たちだけ、酷いよね」

尻の痛みに顔を歪める吉川を気遣いつつ、待ってましたとばかりに後ろの席から高田が駆け
寄った。

「・・・僕と高田さんだけ?みんなどこに・・・」

「杉野君は営業部で油を売りに、長尾さんと進藤さんはその杉野君を成敗しに行ったよ」

「・・・・・・??」

吉川は高田の説明に首を傾げた。

眠らされていたので記憶は'lumiere(リュミエール)'前夜祭に
出席出来なくなったところで途切れている。

前後の話が繋がらない。しかし高田はそんなことは
お構いなしに話を続けた。

高田にとっては、次こそが問題なのだ。

「でね、僕なんてまた進藤さんから面倒な書類押し付けられて、それも帰って来るまでに仕上げ
て・・・」

「知りませんよ」

「よっ・・吉川君!どうしたの?・・・ほらっ、僕たちだけ!いっつも酷い目に!
君だって、たった
いままで長尾さんに眠らされて・・・」

ここで冷たく突き放されては困るのだ。

高田は必死に'僕たちだけ'と被害者連帯意識を強調
して吉川に訴えた。

「僕たちだけって'たち'は余分です。僕だけです、いぃ〜っつも!酷い目にあっているのは」

人形扱いされた部分の記憶はスッポリ抜けている。

もちろん尻を叩かれたことも覚えていな
い。

吉川が腹を立てているのはその前、長尾たちのせいで橋本に睨まれたことを言っているの
だ。

だが、もう喚き散らすようなことはなかった。何故か尻は痛いが頭は妙にスッキリしている。

一旦は壊れかけたものの、ひと寝入り後はいつもの冷静な吉川に戻っていた。


「吉川君っ!!」

「知りませんっ!!」


秘書室では元に戻った(心身共に)吉川と、先輩の意地もなく泣きつく高田。受付に進藤。

そし
て長尾が会議室で遼二を待っていた。










「真紀ちゃんはいいなぁ!秘書課に彼氏がいて。長尾さんとも、すごく親しそうじゃない!?」

「えーっ、そんなことないですよぉ!」

受話器を握り締めたままの遼二は、得意げに弾む真紀の声で我に返った。

不幸中の幸いは真紀の全意識が、彼氏である遼二を放って同僚たちの冷やかしに傾いている
ことだった。

まがりなりにも彼女の前では男のプライドがある。

身の危険が冷や汗を通り越して顔面蒼白という形で出ている遼二だったが、真紀に悟られるこ
とはなかった。

急いで受話器を置いて、園田の席に駆け戻った。

「園田さん!!書類!!」

刻一刻の争いは敬語をも省いた。

美花の件が一段落して次の仕事の準備に取り掛かっていた園田は、遼二の剣幕に推されな
がらデスクの右側をあごで指し示した。

「あ・・その右側のだが・・・」


―ずっと目の前にあったんじゃないか!!―


遼二は叫びたい気持ちをどうにか抑えて書類袋を引っ掴むと、とにもかくにも営業部を猛ダッ
シュで飛び出た。







秘書課と営業部の位置関係は、会社の受付を挟んで端と端にある。社内とはいえ、五十階建
て最上階全フロアを有するので広い。

遼二が切れ切れの息で秘書課受付に着くと、そこは黒山の人だかりになっていた。

きゃあきゃあと黄色い声が飛び交って、その中心に進藤がいた。

「珍しいですね!進藤さんが受付にいらっしゃるなんて!」

「ああ・・・何て今日は最高の日なのかしら」

「私が最初に見つけたのよ!残念ながら皆さん、今日の進藤さんは私のものよ」

「あら、勝手なことを。あなたは見つけただけでしょう、私は目が合ったわ。
アイコンタクトで、お互
いの気持ちは確認出来ているの。そうでしょう、進藤さん?」

社長付きの進藤が受付に立つことは滅多にない。

どこから聞きつけて来るのか、その辺りの
女子社員たちの情報網は異常に優れている。

ついでにバチバチと火花も派手だった。

書類は進藤に渡すように言われていたが、進藤は女子社員たちに囲まれご満悦の様子で、進
藤さんと呼んでも返事がない。

遼二にとっては好都合だった。

このまま受付を通過して直接和也に書類を届け、遅くなった事情を話して長尾を説得してもら
おうと考えた。

「ちょっとすみません・・・通して下さい」

進藤に群がる女子社員の間を割って受付を通過!と思った瞬間腹部に違和感が走り、体が
行き止った。

「どこに行くのかな?」

進藤の片方の腕が遼二の腹部に巻き付いていた。

「進藤さん・・・書類を秋月さんに・・・」

「書類は僕にと、言われてなかったっけ?言われたことは守らなきゃ・・・ね?」

ギャラリーがいるせいか、物腰柔らかく注意する口調も優しい。

ここはひょっとしたら強硬突破
出来るかも知れない。

「進藤さんは忙しそうですから、俺が渡して来ます」

笑顔を向けつつ、遼二はさりげなく進藤の腕を外そうとした。

「それイヤミ?その笑顔も生意気だね。でも僕は生意気な子は好きだよ」

思いっきり腹部に力を入れられた遼二は、磁石のように進藤に抱きついた。

途端にギャラリーから声が上がる。

「反則よ!反則!抱きつく以前に、男!反則!!」

「今年の新人ボーイはやるわね!」

「進藤さ〜ん!私も生意気なんだけど!!」


「書類は僕が渡します。長尾が待ってる。・・・君、よく見ると可愛いね。次は僕が躾てあげる
よ」


至近距離からそっと耳打ちされた言葉に遼二は顔を引き攣らせ、ギャラリーからはさらなる悲
鳴が上がったのは言うまでもなかった。







秘書課・会議室。ドアを閉めて鍵をロックすると【会議中】の表示が点く。

現在【会議中】の表示は点いていない。

遼二はドアの前に立っていた。

―・・・本当はちょっと脅かされただけで、実はこの前のときのように皆揃っていたりして・・・―

淡い期待を胸にドアを開けたが、やはり淡かった。

ガランとした部屋の中央で、長尾が待っていた。

「やあ、早かったじゃないか。叱られたら早く帰って来るって、子供の使いと同じだね」

すでにスーツの上着を脱ぎ、腕まくりまでしている。

「ドアを閉めなくていいのかい?ついでにロックすることを勧めるけど。
まっ、僕はどっちでもい
いけどね」

逃げ道を封鎖するか、誰かに見られる危険に晒されるか・・・。

どちらも選べないような二者択一
に遼二が迫られている時、二、三人の女子社員の話し声が聞こえて来た。

秘書課・会議室。ドアを閉めて鍵をロックすると【会議中】の表示が点く。

現在【会議中】―!!!

遼二は女子社員たちの声に思わずドアを閉めて鍵をロックした。

それを合図とばかりに、長尾は真直ぐに体を起こした。


「さあ、それじゃ始めようか」

遼二、万事休す。

「あの・・・・・・」

しかし「はい、お願いします」とは、口が裂けても言えない。

「そこのテーブルに手をついて、あ・・・上着は脱いだ方がいいな」

親切心からか長尾の助言が入る。

「あの・・・・・・」

だが「はい、わかりました」とも、言える道理がない。

「何?さっさとして」

まだ長尾は穏やかだった。

「あの・・・・・・」

遼二の三度目の'あの・・・'で、長尾の顔から穏やかさが消えた。


「そういうのを往生際が悪いって言うんだ!」

「うわあぁぁっ!!」

猛然と長尾に掴みかかられて、遼二は咄嗟にテーブルに手をついた。


「・・・いい度胸だ。前々から思っていたけど、君ってけっこう反抗的だよね」

言われた通りにテーブルに手をついたまでは良かったが、遼二の防衛本能がそのまま身を翻
しテーブルを飛び越え長尾を避けてしまった。

「でも僕は反抗的な子は好きだよ。躾がいがあるからね」

遼二は一瞬錯覚しそうになった。ついさっきも同じようなセリフを聞いている。

長尾と進藤、遼二にとってまさしく前門の虎、後門の狼のような二人だった。


「ちょっと・・・待って下さい!俺は反抗しようなんて気は全くありま・・・!!」

言葉の終らないうちに、長尾もテーブルに片手をつきヒラリと飛び越えて来た。

「へえ〜、その気もないのにテーブルまで飛び越すのか?体は口ほどに物を言うよね」

もう逃げられない、後ずさりしたところで後ろは壁だ。

いやそれよりも、いちはやく長尾に腕を掴
まれて上半身をテーブルに引き倒された。

「痛っ!何するんですか!!」

「ん?お仕置き」

「いや!そういう意味じゃなく・・・腕が・・・」

「そういう意味だ!」

長尾の手が遼二の背中をぐっと押さえ込んだ。

その力の入りように長尾の叩く気満々が窺い
知れる。

「ちょっ!・・まっ!・・お、お、お仕置きって!!あの!えと!その!・・・お尻ペンペン!?」

「お尻ペンペン?そんな可愛いものか、尻叩きだ。サボっていた罰は重いぞ」

―お尻ペンペン?そんな可愛いものか―

自分が常日頃思っていた言葉を、そっくりそのまま返されてしまった。

身動きも取れず普通ならここで諦めるところだが、遼二は長尾の最後の言葉で思い出したよう
に大声を張り上げた。


「そっ・・そうだ!!長尾さん!!ちょっと待って!!理由!!
理由を聞いてくれるって、言った
じゃないですか!!」

「・・・とてつもない往生際の悪さだな。まあだけど確かに言ったね、男に二言は無い。
このまま
の体勢で10秒間猶予をあげるから。さあどうぞ」


10秒間!?遼二が驚くうちに1秒が経過した。

「あ・・園田さんの結婚が決まって!」 7秒。

「美花さんと!」 6秒。

「けど、園田さんがいまひとつ
理解出来ていなくて!」 3秒。

「それで横にいた俺が!!」 2秒。

「説明していました!!」 1秒。


ひぃっ!―――あぁぁっ!?・・・長尾さん??」

残りの1秒で遼二の体が引き起こされた。

長尾は裏向きの遼二の体を表向きにすると、両肩を掴みガクガク揺すりながら驚きの声を上
げた。

「何だって!!先輩が結婚!?それも美花ちゃんと!?本当か!!杉野君!!」

「あわわ・・・長尾さんっ!やめ・・頭が!!本当です!!松本女史の段取りで!!」

無抵抗の遼二は、されるままだった。



「う〜ん・・・女史相手に、よく先輩が仕事以外の事を理解出来たな」

ようやく長尾の手が遼二の体から離れた。

長尾は腕組をする片方の手を顎に当て、半ば信じ
られない表情で呟いた。

「ですから!園田さんが、俺に聞いて来るんですっ!
それで説明というかアドバイスを・・・いろいろして
いるうちに時間が・・・」

とりあえず10秒後も言い訳は聞いてもらっているが、認めてもらったわけではない。

すぐの危
機は脱したものの、まだ安心出来なかった。

「ふぅん・・・で、先輩はちゃんと理解したのか?
何せ美花ちゃんが先輩を好きなことを知らなかっ
たのは、先輩だけだったんだからな」

大学時代からの後輩長尾は、園田が恋に疎いのを他の誰よりも知っている。

それだけに信じ
難いようだった。

そんな半信半疑の長尾に、遼二ははっきり伝えた。

「はい、大丈夫です。相思相愛のとてもお似合いのカップルです」

長尾の目が瞬間パッと見開き、そして笑顔に変わった。


「恩赦!!」

「え゛っ!?」


「でかしたぞ!!杉野君!!」

破顔一笑。長尾は遼二の頭をぐちゃぐちゃに撫で回した。

―恩赦・・・はあぁぁ〜っ、園田さんのせいだけど、園田さんに救われた・・・―

まさかの言い訳が認められた遼二は、大喜びの長尾にもみくちゃにされながら安堵の息をつ
いた。


「僕はこれから営業部に行ってくるから、君は秘書室に帰っていいよ。
あっ・・進藤には園田さ
んの件は言ったの?」

「いえ、まだです。書類を渡してすぐ来ましたから」

正確には渡したのではなく取り上げられたのだか、遼二もその辺の繕い方はずいぶん上手く
なった。

「そう、じゃあ秋月さんたちもまだ知らないだろうね・・・」

「おそらく。部員以外の人たちでは、たぶん長尾さんが一番です」

喜びの大きい時は何でも無い言葉でも嬉しく聞こえるものだ。

「杉野君、言うじゃないか。・・・君、よく見ると可愛いね。今回だけだからね、次はこうはいかな
いよ。
秘書課のみんなには君から伝えておいて」


長尾が会議室を出ると、遼二もそのすぐ後に出た。

もたもたしていて碌な事がないのは、たっ
たいま学習したばかりだ。


秘書課・会議室。【会議中】の表示が消えた。







「またそれ?いつも僕ばっかりって、いつも吉川君ばっかりに頼っているから出来ないんじゃな
いの?
もういいよ、杉野君が帰って来たら、次は僕たちの番だね」

「そんな!進藤さん!!もう少しで出来上がりま・・・・・・!!」

「ただいま帰りました」

「杉野君!!」

高田にとって、いまは地獄に閻魔大王の遼二が帰って来た。


「あれ??杉野君やけに早いね。・・・髪がめちゃくちゃに乱れてるし、服装もヨレちゃってる・・・
逃げて来たのかな」

「ちっ!違います!!・・・恩赦って言われて・・・長尾さんに」

進藤は受付から秘書室に戻っていた。

元々遼二の持ち帰ってくる書類を待っていただけのこと
なので、それを取り上げるとすぐ受付から下がった。

それから延々と高田の後ろで、押し付けた仕事の催促をしていたのだった。


「恩赦?長尾が?・・・有り得ないな」

遼二自身も信じられなかったのだ。疑って掛かる進藤に、園田の件を間髪入れず話した。

「園田さんの結婚が決まったんです!
それでいまひとつ状況を飲み込めなかった園田さんに、
たまたま横にいた俺がいろいろと・・・」

「園田さんが結婚!!誰と!!」

進藤もやはり長尾と同じように驚きの声を上げた。

「美花さんです。松本女史の段取りなんですけど」

「美花ちゃんと女史か・・・。園田さんはちゃんと理解出来ているんだろうね?・・・それに無事
か?」

「はい、説明とアドバイスで。・・・少し被害に遭われましたが、ご無事です」

進藤の顔が一気に綻んだ。

「よくやった!!杉野君!!それなら恩赦も妥当だね。で、長尾は?園田さんのところ?」

「はい、営業部に行かれました」

「僕も行って来る。秋月さんたちもまだ知らないんだよね、君から伝えといて」

「はい」


進藤が出て行って遼二よりもホッとしたのは高田だろう。

大きくため息をついて、デスクの上に
バッタリと上半身を投げ出した。

高田とは対照的にキリリと背筋を伸ばしている吉川は、何事にも余念がない。

「杉野君、お二人ともまだ執務室だから。きっとすごく喜ばれるよ、早くお伝えしてあげて」


遼二が執務室の和也と橋本に園田の件を伝えると、吉川の言葉通り二人とも大喜びだった。

しかも和也たちまで、営業部に出向く始末だった。



「みなさん、園田さんのところへ行かれましたね。喜び方も半端じゃないし、園田さんの人徳で
すね」

遼二は秘書室に残っている高田と吉川のどちらともになく話しかけたが、ともに応答はなかっ
た。

その代わりぶつぶつと涙混じりの声が聞こえてきた。

「僕だって、園田さんのところへ行きたいのに・・・。
杉野君は恩赦なのにさ、僕はこんな面倒くさ
い仕事を押し付けられて・・・」

「高田さん・・・」

あまりにも哀れな声と、自分だけが許されたことに多少の申し訳なさも感じて、遼二はつい縋
(すが)るように吉川を見た。

遼二の視線が届いたとは思えないが、吉川はデスクの上を片付けながら高田に声を掛けた。

「さっ、高田さん。僕たちも営業部に行きますよ」

「僕が行けないのわかって言ってるだろ!
本当はまだまとめなきゃいけないデーターが、いっぱ
いあるんだから・・・」

手伝ってもくれないくせに!と剥れる高田だが、吉川には本当のことを言えるようだった。

「必要なデーターは、表とグラフにして高田さんのPCに送信しておきました。
後はそれを体裁よ
くまとめるだけだから、高田さんならすぐでしょう」

さきほどからPCに向かっていた吉川は、ずっと高田の書類作成に必要なデーターを入力して
いたのだ。

「よっ・・よしかわ!くんっっ!!やっぱり、吉川君だね!!ありがとうぅ!!」

これが始めてというわけではないのに、毎回毎回新鮮なほど同じパターンを繰り返す高田と吉
川だった。



「それじゃ杉野君、誰もいなくなるから留守は頼んだよ」

吉川はひと言遼二に伝え置いて、ウキウキと浮かれる高田を連れて秘書室を出た。

どちらが
先輩かわからない。

ともあれ、秘書室には遼二だけが残った。

今朝のように全員揃うことも珍しいが一人だけという
のも滅多にないことで、一度に開放された気分になった。


遼二は窓際に行くと、普段閉めきっているブラインドを開けた。

前方をほぼ半径に見渡せる展望は、眼下に広がるビル群の中心に位置することを実感させ
た。

見上げると高い空が近くに見える。雲を手で掴めそうな位に。

雲を手で掴む・・・無意識に動いたそのしぐさに、くすっと自嘲の笑みが浮かんだ。

でも・・・と、遼二は再び眼下に広がる景色を見据えながら思う。


―仕事はそのくらいの気概(きがい=困難を乗り越えていこうとする強い気持ち)を持って取り
組まなくては、ここではついて行けない―


いまの遼二の頭の中にあるのは、執務室で和也から伝えられた 'lumiere(リュミエール)'前夜祭
のことだった。

先輩たちを差し置いての出席ではあるが、仕事に遠慮はいらない。

―負けるものか!―

遼二は大きく伸びをして、乱れた髪と服装を整えた。


時刻は夕刻を指し、西の空から薄く赤焼けて来ている。

ついこの間までは、照りつける日差し
に空はいつまでも青かった。

自然はいち早く秋の到来を告げていた。







「結婚式は秋だな」

「予定日を女史に聞いてみよう」

「こらっ!ちょっと待て!長尾!進藤!まだ何も・・・」

営業部。例によって、園田を挟んで長尾と進藤がいた。


「美花ちゃん、園田が気付くまで待っていてくれたそうだね。
ありがとう、私からもお礼を言って
おくよ」

「仕事以外のことは疎い奴とわかってはいたけど、結婚くらい自分で決めると思っていたんだけ
どね。
美花ちゃん、園田を宜しくサポートしてやって下さい」

「おいっ!そこっ!秋月!橋本!何を好き勝手なことを・・・」

長尾・進藤の二人でさえ持て余しているのに、さらに助けにもならない同僚二人に園田の血圧
は上がるばかりだった。



「ただいま帰りました・・・キャーッ!!秘書課の方々、揃い踏みー!!」

「帰社!うおっ!秘書課の皆さん、お揃いで・・・ええっ!!園田さんが結婚!!」

その上に夕刻時ということもあり、外回りから続々と部員が帰って来ていた。

「うっ!汗臭い!タバコ臭い!ちょっとみなさん、もう少し離れてもらえませんか。
それにしても
よくこんな環境で仕事が出来ますね。この物置はデスクですか?PC埃かぶってますよ。これは・・・」

「誰か、こいつの口をふさげ・・・。園田さん!何とかして下さいよっ!!」



「あらっ、高田さん。肩にバラの花びらがついているわ」

「あ・・・よくつくんだ。取ってくれたの?ありがとう」

「さすがね。高田さん行くところ花びらが舞い・・・うちの男子部員はがさつでゴミしかつけない
わ」

「そんなこと言うものじゃないよ。営業部は美女と野獣の集まりだってことは、わかっているんだ
から」

「・・・おいっ、誰かあいつをつまみ出せ!!園田さん!秘書課の奴ら、いったい何なんすか
っ!!」



当然のように男子部員の反感を買っている高田と吉川は、もはや何をしに来たのかわからな
い。

園田の吉報を聞いて駆け付けて来た秘書課面々に、喜んでいるのは女子部員だけで当の園
田にいたってはありがた迷惑もはなはだしかった。





「高野!」

「はい!」

真紀は園田に呼ばれて、必死で撮っていた携帯を慌てて制服のポケットにしまった。

仕事中の
私用携帯は原則禁止されている。

「高野の・・・何だ・・その・・杉野君だが。・・・彼氏だったな」

「はい。そうですが、何か・・・。・・・美花先輩とのことですか?
おしゃべりが過ぎたなら私から注
意を・・・」

ぎこちない園田の確認に、真紀は戸惑ってしまった。

この状況として、騒ぎの元が遼二にある
のはわかっている。

まだはっきり決まってもいないことを軽々しくしゃべった、それを問われると思ったようだった。


「いやそうじゃなくて・・・。いい彼氏を見つけたな。秘書課は大変だが、彼なら大丈夫だろう。
度仕事中に携帯を使ったら、言いつけるぞ」

園田は遼二の性格を含めた人柄を見抜き、その上で真紀の写メ撮りを注意したのだった。

「は・・はいっ!すみません!・・・杉野には内緒にしておいて下さい」

遼二を褒められたことは嬉しいが、真紀としては同じ歳で常に対等でいた意識があっただけ
に、言いつけるという言われ方は納得いかなかった。

だが言いつけられて困るのも事実だっ
た。後に出た言葉がそれを証明している。

真紀は会社での遼二との差を、初めて感じたような気がした。



園田の結婚に沸く営業部員たちと秘書課面々。

お祭り騒ぎの様相を呈していても、仕事に対す
る基本姿勢は会社の社風で叩き込まれている。

活気ある職場とは、そういったひとりひとりの
自覚のうえに成り立つものなのだ。





「あれっ?真紀、どうして携帯引き出しの中に仕舞っちゃうのよ。
持ってなきゃ意味ないじゃな
い」

「・・・いいのよ。どうせ仕事中は使えないんだから。
・・・っていうかさ、持ってたらどうしても被写
体の誘惑に負けちゃうのよね」



「はい、秘書課杉野です。・・・申し訳ございません、秋月はただいま席を外しております。
その件でございましたら・・・・・・・」



遼二と真紀、入社して半年。程度の差こそあれ、仕事に対する自覚が芽生え始めていた。

もう新入社員とは呼ばない。







※コメント

杉野遼二、少しずつ骨が付き肉が付き。

新入社員から一人前の社員になる頃には、明良や和
也に劣らぬほどの存在感が出せるようにと思っています。



NEXT