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A&Kカンパニー社員専用レストラン。
社員は自社の味を知ること≠第一に、系列のレストランよりシェフを招き同等のメニュー内容を提供している。
しかも価格は社員割引で、会社が3分の2を負担。
つまり1500円のパスタでは、会社が1000円、社員500円という内訳で清算される。
内装は白を基調に緑の観葉植物で癒し効果を促し、昼休憩は併設の喫茶コーナーも余裕で楽しめる1時間半。
社員に対する福利厚生(待遇)は抜群だった。
「・・・真紀、グリーンピースくらい食べろよ」
「苦手なのよ。知ってるでしょ」
遼二は社員レストランで、真紀と昼食を共にしていた。
真紀がせっせと自分の皿からグリーンピースを選(よ)っては、遼二の皿へ移している。
社員の間ではお残し厳禁が浸透しているので、どの皿にも食べ残しはほとんどない。
待遇に見合う躾も、抜群に厳しかった。
「だけど、遼ちゃんとこうしてお昼を食べるのは本当に久し振りね」
「うん、そうだな。これからは俺も出来るだけ時間を合わすように努力するよ」
「・・・ふうん、聞いたわよ。その努力を怠ったら、今度は私がお仕置きするんだから」
「ああ、どうぞ。真紀は手加減しなさそうだからな。気を付けるよ」
グリーンピースのなくなったパスタを、クルクルとフォークに絡めながら顔を綻ばせる真紀に、遼二も笑顔で返した。
実はこのところ、遼二は会社では真紀を避けることが多かった。
真紀が彼女であることを隠すことはしなかったが、身内感覚に近い存在ゆえに気恥ずかしさが先に立ってしまうのだ。
昼休憩の食事にしても、真紀が誘うのを時間が合わないとか忙しいとか理由をつけては断っていた。
それでいて、真紀が他の男性社員と食事をするのは許せなかった。
。
高田や吉川と時々昼食を一緒にしているのを知ると、なおさら腹が立った。
しかし今は、楽しそうに社員レストランでランチをする遼二と真紀。
そんな二人の話は数日前に遡る。
明日も休みの土曜日の夜、真紀は泊まりで遼二のマンションに来ていた。
どちらの家にも一応挨拶には行っているので公認ではあるが、それでも真紀の外泊はそんなにしょっちゅうとはいかない。
たまの外泊が許されるのは、真紀の母親が父親との間に立っていてくれるからだった。
「'soleil'(ソレイユ)のディナー!?本当にぃ!?遼ちゃん!!」
「ああ、俺も驚いたよ。まさかそこまで喜んでもらえていたなんてな。
だけどそれも真紀のおかげだよ、ありがとう」
いつ見ても真紀の喜ぶ顔が一番だ。
何でもしてやりたくなる。
「やあねぇ、ありがとうだなんて、そんな他人行儀なお礼はいらないわ。
ねっ!ねっ!それよりも遼ちゃん、いつ行く!?」
「いつ行こうか。・・・でも、その前に真紀」
だから遼二は、よけいに腹が立つのだ。
「何?遼ちゃん♪・・・何よ」
浮かれ調子で返事をした真紀は、途中で最大級に喜ばしてくれた遼二が笑っていないことに気がついた。
「お前昼のランチ、高田さんたちとしているそうじゃないか」
「時々ね。それがどうしたのよ」
なんだそんなこと≠ニ言うように、真紀はまた表情を弛めた。
「どうしたって・・・普通しないだろ、そんなこと」
同じそんなこと≠ナも、遼二と真紀では全く意味合いが違った。
「くすっ、ヤキモチ?何言ってるのよ。グループで食事しているだけじゃない」
「わざわざ誘ってか?グループでも、俺は嫌だね。ましてや高田さんたちは、俺の課の先輩じゃないか」
「・・・さっきから何よ。'soleil'に行く話しをしているんでしょ、どうして会社のランチの話になるのよ。
それに、なぁに?遼二と同じ課の人だと何か具合の悪い話でもあるっていうの!?」
「そうじゃないだろ。普通に考えて、自分の彼女が他の男と食事しているのを喜ぶ奴がどこにいるんだ!」
「普通、普通って何よ!他の男って、会社の人じゃない!」
「じゃあ何で言わないんだ!隠すなよ!」
さすがに真紀も笑ってはいられなかった。
真紀にしてみれば別に隠すつもりはなかったが、しいて言うほどのことでもないと思っていた。
いや本当は、言えば遼二が気を悪くするだろうくらいはわかっていた。
だがわかってはいても、頭ごなしに言われると素直に認められなくなる。
「言うほどのことじゃないでしょ、たかが会社のランチくらい。
だいたい遼二がいつ誘っても断るからじゃない!」
「そうか、それじゃ俺もランチくらい、他の女性としたっていいんだよな」
「・・・帰る。勝手にすればいいでしょ。遼二、最低だわ」
売り言葉に買い言葉は、ろくな結果を生まない。
'しまった'と、思ったときはもう遅かった。
つい真紀ばかりを責めたが、遼二は自分にも非があるのは充分感じていた。
真紀に隠すなと言いながら、自分も適当な理由をつけては真紀の誘いを断っていたのだ。
―いつ誘っても断るからじゃない!―
断ったからと言って、今まで一度として責められたことはなかった。
たぶんずっと我慢していたひと言を、言わせてしまったのだ。
自分勝手な男のエゴで、真紀を縛る権利はない。
最低のひと言は、遼二の胸を突いた。
「真紀!待てよ!帰るなよ・・・」
玄関へ向かう真紀を、回り込んで止めた。
「ごめん・・・。言い過ぎた、ごめん。真紀の言うとおりだ、俺は最低だな」
そのまま引き寄せ、柔らかな真紀の髪に顔をつけ謝った。
真紀は黙ったままだったが、遼二の腕の中で急速に力が抜けていった。
抱きしめ、抱きしめられて、お互いの気持ちが交錯する。
好きだから腹が立つ。
好きだから許せない。
それでもこうして二人が抱き合っているのは、それ以上に愛しているからだ。
遼二は真紀を抱き続けながら、珍しく自分の課のことを話し始めた。
「秘書課ってさ、いろんな部署の女子たちからランチタイムの指名が入るだろ・・・」
「言ったじゃない、グループだって。私ひとりで指名なんてしていない・・・」
「わかってる。・・・いいから、聞けよ」
遼二の低い穏やかな声が、甘く深く真紀の耳朶を刺激する。
「陰じゃホストクラブなんて言われているんだってな」
「・・・・・・・」
「俺にはそんな指名なんてないだろうけど、もし指名を受けるとしたら真紀、お前だけだ」
普段なら絶対言えそうにないことも、こんなときは言えてしまうから不思議だ。
「遼二・・・」
微かに動く真紀の唇に、遼二はそっと唇を重ねた。
諍いの後の甘い時間が、二人を包む。
リビングから流れるTVの声も、玄関先では気持ちを高ぶらせるBGMのように。
「くすっ、ふふふっ・・・」
「・・・ん、何?何、笑ってんだよ・・・」
遼二は場所をリビングに移して、機嫌の直った真紀とTVを見ていた。
「だって・・・くす、くす。遼ちゃんが、あんなこと言うなんて。
やっぱり遼ちゃんも、秘書課なんだって思っちゃった」
「あんなこと・・・ああ・・・」
ホストクラブの例え話のことを言っているのだ。
真紀はよほど嬉しかったのだろう。
TVはシリアスな内容なのに、やたらニマニマと頬が弛んでしまう。
愛されていると実感すれば、気持ちも高揚するものなのだ。
・・・つい調子に乗ってしまうのも仕方のないことなのか。
「ねぇ、遼ちゃん?」
真紀の含みを持たせたような呼び方が引っ掛かる。遼二はわざと無表情に返事した。
「ん?」
「これからは遼ちゃんの専属でいるけど、秋月さんが残っているのよねぇ・・・」
「秋月さん?」
にわかに遼二の眉が吊り上がるが、真紀は気がつがない。
「秘書課の人達の中で、秋月さんだけまだなのよ。
もし秋月さんが私たちのグループの指名を受けたら、その時だけいい?」
「・・・橋本さんは?」
「やだ、遼ちゃん。橋本さんは既婚者じゃない、関係ないわよ」
全く悪びれた風もなく笑っている真紀に、遼二も微笑を返す。但し、眉は吊り上ったままで。
「そうか。橋本さんは関係ないか・・・」
「えっ・・きゃ・・何!?・・・ちょっと!遼ちゃん!?」
「前に言ったよな。あんまりハメ外したことばかりしているとお仕置きするぞ、って」
「お仕置きって、何よ!?ハメ外すって・・・だからちゃんと遼二に聞いているじゃない!!」
「まだ俺の気持ちがわからないようだから、しっかり伝えておかないとな」
ベッタリ二人仲良く横並びに座っていたはずが、一瞬にして真紀の位置が変わってしまった。
遼二は真紀が暴れるのを見越して早い動作で膝に引き倒すと、真紀のウエストをガッチリ押さえながら両足を挟み込んだ。
まさか遼二にお仕置きされるなど思いもしなかった真紀は、ほとんど頭の中が真っ白の状態だった。
「これが俺の返事だ。'うん'なんて、言うわけないだろ!」
躊躇いなく振り上げられた遼二の右手が、真紀のお尻で弾けた。
ばちぃ〜んっ!!
「いやああっ!!痛ったぁい!!」
遼二のヤキモチをダイレクトで受け取った真紀。こっちの方は、喜ぶに喜べないようだった。
結局遼二のお仕置きはその一発だけで、後は顔を真っ赤にして怒る真紀のそこかしこに「好きだよ」と囁きながらキスの雨を降らした。
「そうだ、遼ちゃん。秋の社内旅行だけど、うちの部と秘書課合同で行くそうよ」
「へえ・・・俺はまだ何も聞いていないけど」
「当たり前よ。さっき午前中に決まったんだもの、松本女史から。
三ヶ所くらい候補地があって、それはまだこれからだけど」
「松本女史なら間違いないな。一緒に行けて、嬉しいよ。楽しみだな」
展望の良い社員専用レストラン。
社員旅行の話に花を咲かせながら、ゆったりとした雰囲気の中で遼二と真紀の食事は続いていた。
「それに付随したサプライズもあるそうよ」
「サプライズ?」
「ふふっ・・・・・・あっ!」
意味ありげな笑いを浮かべていた真紀の表情が驚きに変るのと同時に、大きなざわめきが起こった。
こんなざわめきは、まず明良にしか起きない。
「あっ!いた、杉野さん!」
やはり明良だった。後ろに和也がいた。
明良と和也が通る両サイドは、ざわめきというより歓声に近い。
「姉ちゃんも一緒じゃん!オレ、ここで昼メシ食べる!」
明良はドカッと遼二の横に座った。
「明良君・・・いいんですか?」
遼二は明良にではなく、和也に訊いた。
「君たちの邪魔にならなければ。彼女?可愛い方だね」
社交辞令とわかっていても、周囲の女性社員から嬌声が上がる。
その横で「けっ!」と毒づく男性社員も多いのだが、彼女たちのパワーには到底敵わない。
和也と真紀の直接の面識はこれがはじめてだった。
尤も真紀の方は、社内知識として和也のことは充分承知している。
「俺たちは歓迎です。真紀・・・」
遼二に促されて、真紀は頬を紅潮させて和也に挨拶をした。
「営業部の高野です」
「秋月です。この間は、ありがとう。明良君の面倒を押し付けてしまって、さぞ大変だったでしょう」
「そんな、大変だなんて!明良坊ちゃまはとてもお行儀よく、杉野も私もとても楽しい時間をいただきました。
どうぞ、こちらへお掛け下さい」
和也に自分の隣の席を勧めながら、真紀は思い掛けない明良効果と周囲の羨望(主に女性社員)に興奮の絶頂だった。
「座んな」
「明良君!」
「明良坊ちゃま!!」
遼二と真紀、内容は違うが咎めるのは同じだった。
が、明良にそんな柔な咎め方が通用するはずがなかった。
「和也さんは、どっか他の席へ行けよ」
周辺の席から、今度は期待混じりの嬌声が起こる。
「てか、昼メシ用意してるのにって、ぶつぶつ言ってたじゃん。
それ食べろよ、オレは杉野さんと帰るから」
すかさず、うおおっ!と野太い歓声が。
「さすが!坊ちゃん!!」
「そうだぞ!文句言うなら、お前がそれ食っとけ!」
「秘書課は奥にすっ込んでろ!!」
まってましたとばかりに、明良をバックに男性社員の野次が飛ぶ。
だんだん騒々しくなる周囲に、遼二は慌てて明良に注意した。
「明良君!秋月さんとはいつも一緒に食事しているじゃないですか!」
「だから、たまには別々でもいいだろ。毎日顔つき合わせてんだぜ、ごちゃごちゃうるせぇしさ」
ここで真紀を含む多くの女性社員から、一斉にため息のような声が漏れた。
「私はいいから、杉野君。それよりもせっかくの休憩中に悪いね。
高野さん、明良君をよろしくお願いします」
「はいっ!あの、でも秋月さんは・・・」
願ってもない同席のチャンスが・・・それも遼二公認だったのに。
真紀は返事をしつつも、名残惜しそうに尋ねた。
「部屋に戻ります、煙たそうだからね。それじゃ、明良君・・・」
笑顔の和也は、明良の言葉も野次もあまり・・・というか、全く気にしていないようだった。
「坊ちゃんっ!!!」
引き上げようとする和也の後ろから、大声がした。
「シェフ」
社内におけるシェフの地位は高い。
和也はスッと横に退いて、道を開けた。
「坊ちゃん!いらっしゃいませ。久々ですね、今日は何を召し上がりますか」
明良の料理はシェフが作る。
「オレ、肉!」
「そうでした、坊ちゃんは肉料理がお好きでしたね。しかし肉料理といってもいろいろ・・・・・・ぬっ!?」
それまでニコニコと話していたシェフの表情が、一変した。
「あの・・・何か・・・」
遼二はどっと汗が出た。視線が自分の方に向いている。
正確には、シェフは遼二と真紀の皿を見ていたのだが、その眉間が峡谷のように深かった。
「ごるらぁっ!!調理方ぁ!!」
ゆったりも、和やかもあったものではない。
レストラン内はシェフのいきなりの怒声に、ピーンと緊張の糸が張ったように静まり返った。
「シェフ、舌が巻いています。それでなくてもシェフの声は威厳があるのに、舌まで巻いたら皆怖がってしまうでしょう。
どうかしましたか、杉野君の料理が何か?」
「う・・むっ、・・・ゴホン!」
傍にいた和也に注意されて、シェフはややきまり悪そうに咳払いをした。
どうもエキサイトすると舌が巻くらしい。多少の自覚はあるようだった。
それにしても、調理方は早かった。
「はいいっ!!シェフ!!何か!!」
「あ〜・・・来たか」
シェフは飛んで来た調理方責任者に、遼二の皿と真紀の皿を指差し、料理名を尋ねた。
遼二も真紀も、皿の中をおかまいなしに覗き込まれる。調理方責任者も必死なのだ。
「はい!これは・・・男性社員(遼二)の方がボンゴレロッソハーブ風味パスタ!
女性社員(真紀)の方は秋野菜のクリームパスタです!」
すでに半分以上食べているのにもかかわらず、調理方責任者は的確に料理名を言い当てた。
「だな。よく見てみろ!」
「・・・あああっ!!グリーンピースがっ!!す・・すみません・・・ボンゴレと秋野菜、食材が逆に入っています。何という失態を・・・」
価値観は人それぞれだ。
グリーンピースくらいと遼二たちは思っても、シェフたち食を生業とする職人の世界では、その一品のために厳選された食材なのだ。
食材を入れ間違ったと項垂れる調理方責任者に、真紀は大慌てでシェフに訴えた。
自分が原因の調理方責任者の冤罪に、怖いなどと言っていられない。
「ち・・違うんです!ちゃんとグリーンピースは私の方に入っていました!」
「・・・どういうことだ」
ギロリと眼光鋭く睨まれて、やっぱり怖い。
「あの、ええっと・・・その・・グリーンピースが・・・」
「俺が!グリーンピースが好きで!つい彼女のグリーンピースを全部!取ってしまって・・・俺の皿に移したんです!」
咄嗟に真紀を庇う遼二。
途中からレストランに入って来る社員たちは、ただならぬ雰囲気に何事かと息を凝らして窺いつつも、聞こえてくる内容に首を傾げていた。
「シェフッ!!」
「はいっ!!坊ちゃん!!」
途端にシェフの意識が明良に戻った。
「グリーンピースなんか、どうでもいいじゃんか!オレ、腹減ってんだって!!」
「失礼いたしました、すぐに!ところで・・・つけ合わせですが、苦手な食材は有りますか?」
「苦手な食材?」
「お嫌いな食材です。おっしゃっていただければ、私が食べ易いように調理いたします。
好き嫌いはここでは許されませんよ」
「そんなもんねぇってば!!そんなことより早く・・・」
「ないっ!?なんと!!」
遼二たちがホッとしたのも束の間、またしてもシェフの鋭い眼光が、今度はぐるりとレストラン中の皆に向けられた。
「聞いたか!!お前ら゛ぁっ・・・!!」
「シェフ、舌」
エキサイトすると巻き舌になるシェフに、後ろから和也の注意が入る。
「あ・・コホンッ・・・お前たち、坊ちゃんのお言葉を!!
好き嫌いのない、何とご立派な食生活!!見習うように!!」
明良にとっては食べ物の好き嫌いなど問題外なのだが、真紀をはじめ問題な人間の方がずっと多いのだ。
耳の痛い言葉を残して、ようやくシェフは厨房に帰って行った。
「何だかちっとも食事が進まないね。高野さん、お騒がせしました。ゆっくりどうぞ」
和也も最後に声を掛けてレストランを出た。
明良が残っているものの、入店して来た時のようなざわめきも収まり、レストラン内はいつもの和やかな雰囲気を取り戻していた。
「お騒がせもいいとこだぜ。だいたいシェフはオーバーなんだよ」
お腹の空いている明良には、褒め言葉でさえ鬱陶しい。
「そんなことありませんよ!苦手な食べ物がないなんて、本当にご立派です。
大抵ひとつやふたつくらいはありそうなのに」
「俺も感心しました。そう言えば鍋のときも、見事な食べっぷりでしたね」
「あーっ!しまった!!」
突如、明良が大声を上げた。
「どうしたんですか!」
「鍋だよ。あん時の材料、電話が来たらすぐ作りに行くつもりで送ったらしいって親父が言ってた」
・・・99%聞かずともわかるが、残りの1%に賭けてみたい気持ちが口に出た。
「あの、らしいって・・・誰がですが・・・」
「シェフじゃん」
―そうだ!親父に電話して、シェフに料理作りに来てもらえばいいんじゃん―
あの時の明良の言葉は、あながちどころかいたって本気だったのだ。
それだけに明良の'しまった'は、不気味だ。遼二は恐る恐る尋ねた。
「・・・それが、どうしてしまったことになるんです?」
「親父にさー、言われてたんだよね。そん時の鍋のレシピ、シェフが聞きたがってたって。
オレがあんまり美味(うま)かったって言うもんだからさ。姉ちゃんがいるのに聞くの忘れてた」
「レシピッ!?・・遼ちゃん!!」
さすがの真紀も焦った。
どう転んでも食材の調理を極めたシェフの前で、あの鍋のレシピは言えない。
というよりも、ベースが水≠セけの鍋にレシピなどあるわけがない。
あれだけの豪華食材を、いやあれだけの豪華食材だからこそ水だけでも充分ダシが出て美味(びみ)だったのだが・・・。
その説明に到るまでに、ただでは済まないような気がする。
この後明良の料理が運ばれて来るのと一緒に、またシェフが姿を見せる。
一難去ってまた一難。
どうしようと焦る真紀に、遼二はとりあえず大丈夫と目配せをして、自らの気持ちを仕切り直すように冷静な対応で明良に話した。
「明良君、シェフは電話が掛かって来なくて、少し寂しかっただけです。
料理のプロが、一介の素人の作った鍋のレシピうんぬんなんて・・・シェフのちょっとしたジョークです」
「そっかな?」
「そうです。シェフもそんな鍋のことなど、すっかり忘れてますよ。
それにプロの前であまり言わないで下さい。俺たちが恥ずかしいですから」
「でも、マジ美味かったぜ」
「また冬になったらしましょう、鍋の時期ですしね。ただし材料は俺たちが用意します。
豪華な食材はご用意出来ませんが、それでも良いですか」
「うん!!もう差し入れも頼まねぇ!オレ、楽しみにしてるから!」
だんだん遼二の話術は巧みになっている。最初の頃から比べると、格段の進歩だ。
明良最高の笑顔と真紀の安心した笑顔が揃ったところで、シェフを先頭に待ちに待った料理が運ばれて来た。
明良のリクエストにこたえた、シェフ直々のVIP料理は―――。
・牛肉の赤ワイン煮 つけ合わせ:人参、きぬさや、プティオニオン、マッシュルーム
・枝豆サラダのハーブドレッシング和え
・秋野菜たっぷりスープ
・三種(苺、オレンジ、ブルベリー)のフルーツムース
「坊ちゃん!いかかですか。まず!こちらの牛肉ですが・・・」
「美味いっ!!わかった!もういいぜ」
料理の説明もそこそこに、シェフは明良に追い返されてしまった。
シェフの姿が完全に見えなくなると、明良に喝采が起こった。
明良は自分に向けられたその喝采の意味はわからなかったが、皆が喜んでいるのだからいいんだよなと、状況の判断は早かった。
とにかく食べるのに忙しい。
「明良坊ちゃま、ゆっくり食べて下さい。私たちもまだ済んでいませんから」
ようやく食事らしい食事時間が戻って、真紀はすっかり冷めてしまったパスタを、それでも美味しそうに口に運んだ。
「ところで明良君、学校は?試験ですか?」
明良が平日のこの時間に会社に来るとしたら、試験中しかない。
「うん、今日から金曜日まで中間考査。そいで土曜日が森之宮で前夜祭だろ。下見に行くからさ」
いよいよ次の日曜日、ホテル森之宮の新店舗'lumiere(リュミエール)'がオープンするのだが、その前夜祭が土曜日に行われる。
遼二はじめての、公式行事の出席だった。
「そうですか、それは楽しみですね。後で新店舗の話を聞かせて下さい」
「・・・何言ってんだよ、みんな行くって知らねぇの?
和也さんから聞いてるぜ、杉野さんも前夜祭出んだろ」
「えっ?・・・ええ。秋月さんたちが下見に行かれるのは知っていますが、俺には何も・・・」
「出席すんだから、杉野さんも行くに決まってんじゃんか」
この辺り歳は関係ない、経験の差と言った方がよい。
常に公式行事に出席している明良の方が、遼二に比べて数段察知が早かった。
「もう遼ちゃん、しっかりしてよ。明良坊ちゃま、申し訳ございません。杉野頼りにならなくて」
さっきまで散々遼二に頼っていた真紀なのだが、そんなことは全くきれいさっぱり忘れているようだった。
「まっ、長尾さんたちがいるからさ、遠慮してるんだろうけど。
いいぜ別に、オレわかってっから。それよか姉ちゃん、ムース半分食べる?」
明良は、察知は良かったが勘違いが甚だしかった。
どうしても自分の天敵は遼二にも天敵と映るようだった。
「わあっ、いいんですか!美味しそう!あっ、すみません・・・・・・美味しいぃ!」
楽しそうにデザートを分け合って食べている二人を見ながら、遼二は新店舗のことを思い浮かべていた。
明良に言われて改めて下見のことを考えていると、胸がどきどきした。
写真で幾度も見た巨大なシャンデリア。
その光の洪水を効果的に配した新店舗'lumiere(リュミエール)'その前夜祭に自分は立つ。
そっと背広の内ポケットから名刺を取り出した。
一枚手にしたその名刺は【A&Kカンパニー 秘書課 杉野遼二】自分の名刺だった。
100枚1ケース、昨日初めて橋本から渡された。
使うことなんてまだないのに、そう思いつつも嬉しくて一枚背広のポケットに入れておいた。
仕事の奥深さに身震いがする。必要があるから用意してくれたのだ。
前夜祭に出席するということは、それが必要となるステージに一歩上がるということなのだ。
誰も教えてはくれない。
「明良君、ありがとうございます」
遼二の礼の言葉に、へへっと笑う明良はたぶん勘違いしたままだ。
それでも遼二はいいと思う。
勘違いなら勘違いのままで、本当に大事なことさえわかっていれば、それでいい。
※コメント
遼二カーデビュー^^ とうとう遼二からお仕置きされてしまった真紀ちゃん。
お仕置きの一発は遼二のヤキモチです。ヤキモチも気持ちです。
行き過ぎはみっともなかったりエゴになったりしてしまいますが、
恋愛の上でのある程度のヤキモチはお互いの愛を深める大事な要素のひとつだと思います。
そしてヤキモチの後は、どんな時も真紀を守るどこまでも甘々で優しい遼二なのでした。
仕事では、また一歩前進です。名刺。たかが名刺、されど名刺。
ただの紙くずにもなるし大きな人脈の入り口にもなります。
使い方は誰も教えてくれません。
遼二は一枚の名刺の持つ重さの意味を、気付かせてくれた明良にお礼を言ったのです。
もちろん明良は、そんなことは全くわかっていませんが^^
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