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ホテル森之宮光を浴びる≠フキャッチフレーズそのままに、滝のように流れる巨大シャンデリアの光。
その光を背景にホテル内フランスレストラン'lumiere(リュミエール)'では、オープン記念前夜祭が催されていた。
今回は堅苦しさを取り除き純粋に食事を楽しむことを主眼としているので、主催者の挨拶以降各テーブルは自由進行の形となっていた。
料理も、コース、アラカルト、デザート、ワインなど、オープンに向けてのメニューと全く同じものが用意されている。
挨拶が済むのを待ちかねていた明良が、早速メニューとにらめっこをしていた。
「腹減った、何しようかな。・・・やっぱ肉だよな、杉野さんも肉にするだろ?」
「いえ、私は別のものを」
遼二も肉が好きなのだが、肉料理はこの間'soleil'(ソレイユ)で真紀とコースを食べたばかりだった。
滅多に食べられない高級レストランのコース料理。
以前の遼二なら、迷いなく明良と同じメニューを選んでいただろう。
だがいまは仕事の糧として食す。
滅多に食べられないものだからこそ違うものを経験しておきたい、またひとつ仕事に対する自覚が芽生えていた。
招待客の神矢少年は、湯木が頃合いを見て声を掛けていた。
「三都史様は、決まりましたか」
「湯木と同じものでいい」
神矢少年は明良とは対照的に、メニューを少し見ただけで閉じていた。
即決というには早すぎる、湯木の言葉を待っていたようだった。
「はい。承知いたしました」
湯木も特別表情を変えるでもなく、いつのものことのように返事をした。
「せっかく好きなもんが食えんのに。お前、人に決めてもらうの?」
メニューに埋もれていた頭がひょいと上がった。
明良には神矢少年と湯木のやり取りが不思議に映ったようだった。
「・・・湯木は、僕のことは何でも知っていますので、いつも任せています」
神矢少年にとってレセプションやパーティの食事会は、明良のように何しようかな≠ニ食事を楽しむものではなかった。
メニューはいつでも湯木に任せていた。
選んでいる暇があれば、少しでも周囲を観察しておきたかった。
食べることを第一とする明良と、全体の中のひとつに食べることを置く神矢少年。
後継者それも同じ業界という極めて近い背景を持つ十五歳の少年同士が、初めてお互いの意見でぶつかり合った瞬間だった。
ふっと、神矢少年の口元が弛んだ。
同じ年、似た環境と聞いていたのに、明良は全く自分とは違っていた。
緊張感もなく口も悪い。
話に聞いていたライバル社の御曹司は、とても上昇企業の後継者という器にはない。
心に広がる安堵の気持ちが、優越感に変わる。
神矢少年は作り笑顔に慇懃すぎるほどのお世辞を添えて言葉を続けた。
「それに・・・どれを選んでも、一谷君のところの料理は美味しいと評判を聞いていますから」
ところが明良は、そのお世辞を当たり前のように肯定した。
「そりゃまっ、そうだけどさ。でも好物ってあんじゃん」
明良の自社に対する自負は、日頃の社員の仕事に対する気概から成るものだった。
教えて伝わるのではなく、自然に伝わるものなのだ。
それはA&Kカンパニー全社員の、気持ちの象徴に他ならない。
お世辞をお世辞とも思わない明良の余裕の表情が、次第に神矢少年から安堵の気持ちを消して行く。
加えて両端の大人たち。
一見して良識な雰囲気を漂わせる和也と遼二。
何故か安堵の気持ちは、説明し難いモヤモヤに変わっていった。
神矢少年は感情の糸口が掴めないまま、じっと明良を見つめた。
「明良君は特別肉料理が好きなんです。あまり気にしないで下さい」
場を読みつつ、遼二がさり気なく話の中に入って来た。
明良の傍に半年近くもいれば、それなりフォローも心得たものだった。
それだけで、空気の流れはガラリと変わった。
「杉野さんだって、肉大好きじゃん。何で肉にしねぇの?」
「私はこの間ソレイユで肉料理をいただきましたから」
「えぇっ!何でオレも誘ってくれなかったんだよ!姉ちゃんと二人で行ったんだろ!?」
「それは・・・ソレイユも招待いただいたもので・・・」
空気の流れを変えたまでは良かったが、招待客を前に話題がどんどん内輪の話になってしまっている。
「誰に?」
遼二のことになると、明良はしつこい。
「あの・・・」
「それ以上個人のプライバシーを勘ぐらないの。
君こそ決まったの、ウェイターの方が待っていらっしゃるでしょう」
和也の助け舟に、遼二は胸をなで下ろしつつどっと汗が出た。
もしここに吉川がいれば、
―ばかか君は、明良君の話に巻き込まれてどうするんだ。だから余分な汗をかく羽目になるんだ、暑苦しい―
ばっさり言い捨てられたに違いない。
空気を読むのもの仕事なら、上手に転換するのも仕事なのだ。
失敗を反省に変えて、遼二は汗を拭ったハンカチをポケットにしまった。
一方の明良はというと、急いでもう一度メニューを見直しながら、コース料理の注文箇所を指で差してウエィターに発注していた。
明良の選んだコース料理は和牛ロース肉のロースト。
以下、招待客神矢少年と湯木は仔羊のラメル。
和也、オマール海老のロースト。遼二、的鯛のポワレ。
バラエティに富んだコース料理が、次々と運ばれて来た。
コースの前菜は、トリュフやキャビアを贅沢に使ったムース、数種のキノコと野菜のテリーヌ、ソラマメのポタージュなど。
上品な彩りの前菜を、味覚と視覚で味わう。
明良は運ばれてくる料理を片端から平らげた。
食べ方はガサツだが、食べっぷりは満点だった。
神矢少年はゆっくりフォークを運びながら、なお時々手を止めてはシャンデリアの光を見つめていた。
「シャンデリアが豪華で派手なのに、店内はとても落ち着いていますね。
ウインドウ一枚隔てているだけなのに。インテリアとしてお考えになった方のアイデアを、賞賛します」
「・・・オレに言ってんの?」
必死でソラマメのポタージュスープを掬っていた明良は、全く興味なさげに顔を上げた。
「そうだよ。・・・ソレイユにも行ったけど、一谷君のところのレストランは、どれもインテリアが抜きんでて良いね」
これはお世辞ではなく、神矢少年が一番に関心を示したところだった。
「ふ〜ん、そっかなぁ・・・オレよくわかんねぇ。あっ、ソラマメまだあった」
明良にはインテリアの話より、スープの底に沈んだソラマメの方が気になるらしい。
「神矢君は、実によく観察されていますね。
私は今年入社ですが、神矢君の話を聞いていると自分の甘さを再認識するばかりです」
再び遼二がフォローに入る。
神矢少年は、一旦は料理に移した視線を遼二に向けた。
「杉野さん、今年入社された方ですか。・・・ひとつ尋ねてもよろしいでしょうか」
「はい。何でしょう」
「どうして御社を選ばれたのですか」
自分が選んだ会社なのだ、ここで謙遜しても答えにならない。
遼二は正直に答えた。
「会社見学で綺麗な会社だと思ったことと、業績に勢いを感じたからです」
「そうですか」
と神矢少年は頷いて、それは終るかと思った。
「僕のところの会社は、あなたの範疇にはありませんでしたか」
選んだ理由はいくらでも言えるが、選ばなかった理由は甚だ言い難いものだ。
これだけストレートに聞いてくるのは子供だからなのか、それとも・・・。
よほどの覚悟を抱えているかのどちらかだ。
はっきりと答えを伝えた。
「ありませんでした」
神矢少年の瞳が、僅かに揺れ動いた。遼二は間を置かず続けた。
「神矢君の会社は、確か自社ビルでしたね。
格式ある建物と社員皆様の行き届いた応対に圧倒されて、会社見学で足が竦んでしまったからです」
「・・・それが理由ですか」
拍子抜けしたような神矢少年に、遼二は真剣な面持ちで返事をした。
「はい」
クスクスと湯木が笑った。
和也も穏やかに笑みを浮かべながら、遼二の後を補った。
「杉野は弊社には、足は竦まなかったようです。
いかに格式と品を身につけるかが、我が社の課題とも言えるところです。神矢君なら、もうお認めでしょう」
最後のもうお認めでしょう≠ヘ、言わずとも明良のことを指している。
外食産業は人気商売だ。
歴史ある老舗のレストランと、新興企業のA&Kのレストラン。
その人気がいま逆転している立場にあることを、神矢少年は知っている。
十五歳の少年に課せられた再建の道。
「・・・何だか上手く誤魔化された気がしますが、気分は悪くありません」
神矢少年はそう言って微笑んだ。
作り笑顔では見受けられなかった左頬の小さな笑窪が、少年らしい幼さを引き出していた。
コース中盤、メイン料理が運ばれて来る。
明良は待ってましたと身を乗り出した。明良からすれば、料理と料理の間が長い。
「遅せぇんだよ。これは改善点だと思うな」
神矢少年に影響されたのか、明良もそれらしいことを言ってみる。
言った後で何となく気持ちが高揚した。オレも後継者・・・
「君が早すぎるんです。食べこぼしも相変わらずだし、改善すべきは君の食べ方でしょう」
明良の後継者気分はものの1分も続かなかった。
テングになると、すぐその鼻を和也にへし折られる。
―いっつも関係ねぇところで出しゃばってきやがって!―
さっきの遼二と話していた時もそうだ。明良は心の中で毒づきながら、フンッ!!と顔を反対に向けて和也を無視した。
メイン料理は、まず神矢少年と湯木の前に置かれた。
「あっ、それ!神矢と湯木さんの仔羊のラメル、ソレイユで一番人気なんだぜ。なあ、杉野さん!」
明良は和也を徹底無視の構えのようだった。
もっとも和也がその程度のことなど痛くも痒くもないことは遼二も承知しているので、明良が自分にばかり話しかけて来ても気兼ねすることはなかった。
「はい、おっしゃる通りです。よく覚えていらっしゃいましたね」
明良に相槌を打ちながら、遼二もひと言補足した。
「こちらでも取り扱う料理となります。どうぞご賞味下さい」
「そうですか。人気の味をしっかり覚えて帰りたいと思います。三都史様、よう御座いましたね」
神矢少年は湯木の言葉には応じることなく、黙ってフォークを口に運んだ。
一口、二口・・・味を吟味するような食べ方だった。
「とても美味しいです」
月並みな感想だが、余計な講釈がない分最高の褒め言葉と言える。
「ありがとうございます。光栄です」
ここは遼二が代表して、礼を述べた。
明良は相変わらず食べるのが早かったが、食べ残しも一切なかった。
「明良様の食べているお姿を見ていると、料理がさらに美味しく感じます」
明良の食べっぷりに、湯木は目を細めた。
「オレ、明良様だって」
坊ちゃまと呼ばれても様≠ニ呼ばれたことはない。
デヘヘッと、明良は照れ笑いで遼二を見た。
遼二は湯木のように「よう御座いましたね」とは言えないが、その笑顔には明良を思いやる気持ちが表れていた。
コース後半、メイン料理も早々と食べ終えた明良を筆頭に、大人たち三人も次のデザートに入っていた。
「これも引いて下さい。・・・ええ、もういいです」
ひとり遅れるのを気にしてのことなのか、神矢少年はまだ料理の残る皿をウェイターに引かせた。
引き上げられていく皿に料理が残っているのを見て、残さないことが当たり前の明良が黙っているわけがなかった。
「何だ、残ってんのに?別に時間制限なんてないぜ」
「うん・・・でも、もう充分いただいたから」
「腹、いっぱい?」
「・・・ほどほどには」
「じゃ、食えんじゃん」
「・・・・・・・・・」
明良が意地悪で言っているのではないことは、わかっていた。
メニューの時もそうだ、食べることになるとこだわりを見せる。
神矢少年の胸に、またさっきと同じモヤモヤした感情が湧き上がる。
いままでそんなふうに言われたことなどなかった。
モヤモヤは胸苦しさを伴って、無性に腹立たしくなった。
「不愉快だ。こちらは出された料理を、全部食べきらないといけない規則でもあるのですか」
神矢少年は明良を無視して、和也に苦情を申し立てた。
「申し訳ございません。私の監督不行き届きです」
和也が席を立つのと同時に遼二も席を立つと、二人は即座に頭を下げた。
周囲のテーブルからは、何事かと窺うようなざわめきが起こった。
「重ねて申し訳ございません。少し席を外します」
遼二はもう一度頭を下げると、ざわめきを収めるべく各テーブルを謝罪して回った。
当の明良は相手が神矢少年なので、接客というよりほとんど同級生感覚に近かった。
「何だよ、腹立つんならオレに言やいいだろ。規則なんかあるわけねぇじゃん。
食べれんなら時間なんて気にせずに食べたらいいと思っただけだ。・・・そんな怒んなよ」
しかし明良が思うほど、事態は楽観的なものではなかった。
とにかくその言い草が気に入らないし、態度も気に入らない。
神矢少年は明良を一瞥すると、さらに不快感を示すように顔を歪ませた。
「三都史様」
湯木が諌めるように、神矢少年の名を呼んだ。
「気分が悪い」
「明良君、謝りなさい」
さすがに明良も、ここで和也を無視することは出来なかった。
「・・・悪かったよ。オレが言い過ぎた」
ペコッと頭を下げた。
極めてぞんざいな謝り方だった。
しかし神矢少年は目の前の明良の姿に、すっと気持ちが晴れる気がした。
どんな形であれ、明良が頭を下げたことが大事なのだ。
むしろ謝り方はぞんざいであればあるほど、神矢少年には小気味よい。
所詮その程度の奴と結論がつく。
「やり直し」
「何でだよ!ちゃんと謝・・・」
「言い訳は聞きません。出来ないのなら退席しなさい。我が社は君を必要としません」
明良は呆然と和也を見た。
明良にだって、少しは神矢少年に対抗するオレも後継者≠ニいうプライドはあるのだ。
目の前で大恥をかかされたようなものだった。
しかも退席だけならまだしも、退席すれば必要ないとまで言いきられた。
つまり次はないということだ。
和也と暮らしていれば、それが本気か冗談かくらいは明良には充分わかっていた。
椅子を引く音が小さく響いて、明良が立ち上がった。
「神矢君、不快な思いをさせて申し訳ありませんでした。湯木さん、すみませんでした」
深々と頭を下げた。
そのままじっとして、動かない。
神矢少年は半ば驚きの面持ちで、黙ったままだった。
「三都史様」
湯木の声にようやく口を開いた。
「・・・一谷君、もういいです。僕も大人気なかったです」
そして最後に、やはりモヤモヤが残った。
「クスクス・・・」
「・・・湯木?」
「大人気ないというのはおかしいですね。三都史様はどう見ても、大人には見えません」
「それはっ・・・そうだけど・・・」
湯木の言葉は尤もすぎて、神矢少年も顔を真っ赤にして言葉を詰まらせた。
それがまた、尚更に子供らしかった。
和也も笑顔を見せる。
「神矢君はそれだけ大人としての思慮分別が、しっかりしているということです」
「普段から父には、子供だからは通用しないと言われていますので。・・・湯木、揚げ足を取るな」
「申し訳ございません」
頬を赤く染めて抗議する少年に、顔を綻ばせて応対する大人たち。
遼二も席に戻って来て、ようやく事態は収拾を見せる。
明良はあれからひと言も発することなく、無表情でデザートを食べていた。
和やかな雰囲気が戻りつつある中で、遼二はひとり浮いたままになっている明良の様子を気遣った。
取り留めのない話で明良の笑顔を引き出そうと試みるも、明良は黙々とデザートを食べているばかりだった。
遼二の気遣いをよそに、明良はデザートを食べ終えると、
「オレ、ちょっと席外す」
そう言い置いて、席を立った。
フランス料理の途中退席は原則マナー違反となる。
先の遼二の退席は、緊急の事とはいえマナー違反なのだ。
途中退席が認められるのは、デザート以降(お茶の時間から)となる。
明良は物の言い方や食べ方はがさつだが、マナーはきっちり守っていた。
トイレに行く振りをして、関係者控え室の方に向かった。
控え室はTV、ソファ、テーブルだけのシンプルな部屋だった。
前夜祭も大詰めのこの時間に、休憩しているスタッフはいない。
入るなり、ソファのクッションを壁に投げつけた。
拾い上げ床に叩きつけ、ソファの背を蹴りまくった。
ボスンッ!バフンッ!と、くぐもった鈍い音がした。
ある程度の衝撃や音はクッションが吸収するので、さほど部屋の外には響かない。
明良はそれを承知で暴れまくった。
ハァ・・ハァ・・・フウゥッ・・・肩で大きく息をしながらも、尚も握り締めた両拳をテーブルに打ちつける。
ダンッ!ダンッ! ダァンッ!!
「うおぉぉーっ!!こんちくしょうぅっ!!」
投げつけても蹴り倒しても、叫んでも憂さは晴れない。
悔しくて悔しくて、腸が煮えくり返る。
「ほどほどにしないと、クッションなんてすぐ傷んでしまうよ」
「・・・うっせぇな。何だよ・・・何だってんだよ!そんなにオレに、恥かかせたいのかよ!」
「頭を下げたことを恥と思うなら、もっと他に恥じるべきことがあるでしょう」
和也も明良の後を追って、控え室に来ていた。
「オレよか、あいつの方がよっぽど恥ずかしいことしてんじゃん!あいつの皿、みんな料理が残ってたんだぜ!
何上品ぶってんのか知らねぇけど、食えんのに食わねぇって最低だろ!!」
「料理に問題がない以上それはあちらの都合であり、私たちの関知することではありません。
神矢君は友達じゃないんだよ」
「オレは、間違ったことは言ってねぇ!」
「間違っていなくても、それだけが正しいわけじゃない。
それぞれの立場で正論があるからこそ、相手に対するマナーが必要なんです」
和也は明良の言い分は否定しなかった。
むしろ認める発言で、日頃からの言葉遣いや態度を諭した。
「それだからって、あいつの前であそこまで言わなくてもいいだろ!!」
明良は和也のタキシードの胸元を、両手で鷲掴みにしながら激しく揺すった。
「誰の前であっても、私は君の襟を正します。君が前を向いて歩く限り」
和也は静かに、だが敢然と言い放ち、さらに尚も悔しさを滲ませる明良に我慢することの意味を説いた。
「私たちの生活がお客様で成り立っているのは、君にもわかるでしょう。
不本意だと思うことでも、頭を下げなければいけないこともある。ましてや君には、全社員とその家族の生活が掛かっているんだよ」
「全社員と・・・その家族の生活・・・・・・」
和也のそのひと言で明良の頭に上っていた血が一気に引き、タキシードを鷲掴みにしていた手が離れた。
「オレに・・・」
「そう、君は後継者でしょう」
いつ以来だろう・・・。はっきり会社での自分の存在を、和也から聞かされるのは。
自分で思っていても、いざ言われると嬉しいよりも不安で逃げ出したくなる。
だけど・・・その不安に振り返ると、和也がいた。
―君は前を向いて歩く。私は必ず君の後ろにいるから―
だから明良は前を向いて歩くのだ。
たとえ悪態をついても、恥をかいても、暴れても、必ず和也はその後ろにいる。
今日のように。
不意に和也が、明良の手を握った。ぎゅっと握り締める。
「・・・痛てぇよ」
「袖で拭かないの、服が汚れる。まだ接客は終っていないでしょう。顔を洗って来なさい」
その頃二人が席を外したテーブルでは、遼二が神矢少年と湯木を相手に孤軍奮闘で接客していた。
すぐに和也は戻って来たが、マナー違反ではないとはいえ招待側でありながら、それも主役級が二人も抜けたのは次の反省点として申し送りが付く失態だった。
しかし和也はあえてそれを承知で、明良の後を追った。
遼二はそんな和也の姿に、仕事を超えた明良への思いを感じるのだった。
食事はコース最後のお茶も終了し、早いテーブルでは順に席を立つ招待客の姿が目立ち始めていた。
'lumiere(リュミエール)'前夜祭の幕が静かに降りて行く。
明良のテーブルでも、神矢少年が帰りの挨拶を述べているところだった。
「今日はお招きいただき、ありがとうございました。
料理もインテリアもとても素晴らしく、全てが勉強になりました」
「至らぬ点多々ありましたにも関わらず、恐縮でございます。
途中ご不快な思いをお掛けいたしましたこと、改めて申し訳ございませんでした」
明良は黙ったままだった。和也が最後を締め括った。
「いえ、もう気にしていません。では湯木、行こう」
席を立った神矢少年と湯木を、和也たちはレストラン出口まで見送った。
見送りに際して、遼二が湯木に尋ねた。
「お帰りはどのようなご予定ですか」
「タクシーで帰ります」
「ご予約はお取りですか」
「・・・いえ」
「それでは至急手配してまいります」
遼二はすぐさま近くのスタッフに声を掛けようとした。
「杉野さん」
湯木は遼二の腕を軽く押さえて制し、申し出を断った。
「乗り場には常時待機しているようですから、ご心配には及びません。ありがとうございます」
それ以上のゴリ押しは必要ない。遼二はすっと引き下がった。
レストラン出入り口から数メートル先の、エレベーターの前まで明良たちは同行した。
エレベーターが開いて二人が乗り込んだ後、他のホテル客の話し声に混じって神矢少年の声が聞こえてきた。
「一谷君、今度は僕が君を招待します」
挑戦的な眼だった。
ニヤリと笑顔で、受けて立つ。
「おう、待ってんぜ」
いつもの明良だった。
「まあ、貴方いらしてたの!お顔が見えなくて寂しかったわよ、長尾さん」
「マダム、嬉しいお言葉痛み入ります。今宵はお楽しみいただけましたでしょうか」
「ええ、お料理も美味しくて、とても良い前夜祭でしたわ。貴方のお顔も見れたし、これで言うことなしね」
何やらレストラン出入り口付近が騒がしい。
ちょうど帰りの時間帯がピークになっているようだった。
続々と招待客が出てくるのを、レストランスタッフたちが見送っているのだが、その中に留守番をしているはずの秘書課四人組がいた。
「進藤君!居たのか!?社長の側に居なかったので、クビになったかと密かに期待しておったのに、残念だ。
我が社はいつでも君を歓迎するぞ、わははっ」
「その暁には、どうか宜しくお願いいたします。社長、今夜はご出席賜りまして、ありがとうございました」
「高田さん、どうしたのぉ〜?今日はやけに地味じゃない?」
「このような出で立ちで、お目汚しすみません」
「あらぁ、似合ってないわけじゃないのよぉ。たまには黒の上下でシンプルなのも素敵よ。
そうねぇ、でもちょっとじっとして・・・胸ポケットにバラの花を、これで完璧ね」
「居たわ!奥様!あれが、吉川君ですわよ!」
「えっ!?どこに・・・・・・きゃーっ!!携帯ストラップのマスコット人形そっくりぃっ!!
・・・あっ!動いたっ!!可愛いぃ〜!!」
長尾たちは贔屓の顧客や歓声の上がる間を丁重に通り抜け、明良の前に立った。
「明良君、お迎えに上がりました」
四人は黒の上下と黒のボータイ、お揃いのフォーマルスーツに身を包んでいた。
「時間通りだね。それでは明良君、お疲れ様でした。先に社に帰っていて下さい」
最初から迎えに来る手筈のようだった。
遼二は出掛ける前の和也と長尾のやり取りを思い浮かべていた。
―では、行って来ます。長尾君、後は任せたよ―
―はい。承知しております―
長尾の承知≠ニは、このことだったのだ。
仕事に対する信頼を得るには、まだまだ四人には到底敵わない。
「何で、いちいち来んだよ。オレは杉野さんと帰んだぜ」
しかし段取り良く整えた手筈も、明良には関係ない。甚だ鬱陶しいだけだ。
最後の最後でまた・・・と、心配した遼二だったが、とりあえず聞えない振りで先にエレベーターに乗り込み皆を待った。
長尾たちは慣れたものだった。この程度の悶着など、悶着の内にも入らない。
ムスッとして明良が乗り込み、その後に四人が続いた。
明良の背に手を添えつつ、長尾が尋ねる。
「きちんと行儀良く出来ましたか」
明良は答えた。
「オレは、オレだよ」
その眼は和也に向いていた。
エレベーターのドアが閉まり、和也はふっと息を洩らした。
ホテル森之宮駐車場、タクシー専用乗り場に神矢少年と湯木はいた。
通常なら待機車が何台か止まっているので待つこともないのだが、宴会終了時などに当たるとタクシーもフル稼働になるので若干待ち≠フ時間が出来てしまう。
「・・・まだかな。客を待たすなんて、森之宮も見た目ほどじゃないな」
「先ほどフロントに確認してまいりましたら、順次手配中とのことです。もう間も無くでしょう」
苛立ちを見せる神矢少年に対して、湯木はおっとりと構えていた。
ホテルの広い駐車場では、前もって予約していたタクシーや、迎えの車がひっきりなしに出入りしていた。
特に迎えの車は高級車が多く、神矢少年はタクシー乗り場と直線で反対側に止まっている車に目が行った。
「リムジンだ・・・」
そう呟いた後・・・声を失った。
駐車場のエレベーター方向から出て来た集団が、リムジンの前で止まった。総勢六名。
取り囲まれたその中心に、明良がいた。
モヤモヤはこれだったのだ。
そんなのはあまりにも惨めすぎる・・・。
「三都史様」
―湯木は僕のことは何でも知っていますから―
その言葉通りに、湯木は全てを承知しているように神矢少年の名を呼んだ。
「あっ、神矢君、湯木さん」
明良を取り囲む一番後ろにいた遼二が、二人に気付いて駆け寄って来た。
「まだタクシーが来ないのですか。申し訳ございません。
やはり先ほど手配しておけばよかったですね」
神矢少年は遼二を避けるように、柱の陰に隠れた。
「杉野さんの責任ではありません。明良様もお帰りですか、ご立派なお迎えの車ですね」
「社で所有しているものです。運転も我々社員の仕事です」
自慢でもなく謙遜でもなく、ありのままに話す遼二を、湯木は眩しそうに見つめた。
「杉野さん、あなたは清々しい方だ。私どもはあなたの会社とはライバルにありますが、
共に切磋琢磨の関係でありたいと思っています。お見知りおき下さい」
そして内ポケットの名刺入れから一枚を取り出し、遼二に差し出した。
「フェリス・ドゥ・カミヤ エグゼクティブマネージャー・・・湯木さん!」
エグゼクティブは役職の中でも、かなり格が高い。
家庭教師と名乗っていた湯木の本来の役職に、遼二は驚くと同時に緊張が走った。
「ほとんどいまは神矢三都史の家庭教師ですので、秋月さんも何もおっしゃらずに笑っておられました」
湯木の言葉から推し量ると、和也は知っていたようだった。
和也と遼二の差。これが与えられたポジションの違いなのだ。
その差は果てしなく遠いが、確実に近づく一歩を遼二は歩み出している。
「何の肩書きもない若輩者ですが、お受け取りいただき恐縮です」
そう言って差し出した遼二の名刺を、湯木は大事そうに内ポケットに仕舞った。
初めての名刺交換。
遼二は名刺一枚の重さに、身の引き締まる思いだった。
「お引止め致しました。明良様がお待ちでしょう、どうぞお戻りになって下さい。私どもの方も、もう来る頃です」
神矢少年はずっと柱の陰に立っていて、背を向けていた。
遼二はちらっと神矢少年に目を遣ったが、声を掛けることはしなかった。
湯木に一礼すると、明良たちのところへ戻った。
「三都史様」
遼二が去ると、湯木はまたさきほどと同じ口調で神矢少年の名を呼んだ。
神矢少年は背を向けたまま、呼び掛けにこたえた。
「・・・湯木、どうして僕のところは迎えの車が来ない」
それどころかタクシーの予約すらしてくれていない。
会社を代表して招待されたのではないのか。
僕は誰だ?会社の何だ?こんな駐車場の片隅で待たされて・・・。
「あなたを取り巻く言葉が、どれだけ薄っぺらなものかおわかりになりましたか」
「湯木!」
下り坂の業績にも、老舗の看板の前に胡坐をかく幹部たち。
子供如きが・・・冷笑に気付いていても、プライドが気付かない振りをする。
名ばかりの後継者。
「目を背けずに、よくあちらをご覧なさい」
見られるのが恥ずかしくて思わず柱の陰に隠れた神矢少年だったが、隠れる必要もなかった。
明良たちの集団は全くこちらなど見る気配もない。
しかも明良は、大人たちに囲まれてその隙間からしか姿が見えなかった。
「いかがですか」
湯木が問う。
わかっているくせに。
でも・・・一番わかっていたのは自分自身。
悔しくて悔しくて、この身が引き千切れそうだ。
「・・・負けたくない」
「私もです」
「湯木・・・」
「再建の道は私たち幹部の意識改革からです。三都史様はいまのお気持ちを、お忘れにならないように。
さあ、顔をお拭きなさい。タクシーが参りましたよ」
遼二がリムジンに戻ると明良たちはまだ乗り込んでもおらず、座席位置で揉めに揉めていた。
「あーっ!長尾さん!何でシートを向かい合わせにすんだよ!」
「明良君には、前夜祭の報告を聞かせてもらわないとね」
「そんなもん、後から和也さんにでも聞きゃいいじゃん」
「何言ってるの。君が自分で感じたことを話さないと、意味がないでしょう」
「料理が美味かったぜ。そんでいいだろ、カッパ」
元々打たれ弱いところに、吉川の度重なる発言が(23話ちびちび吉川君v℃Q照)トラウマ状態にあるのか、進藤は益々打たれ弱くなっていた。
いまも明良の暴言に、目眩を起こしたようにフラ〜ッと倒れ掛かった。
「きゃあああっ!進藤さんっ!?」
「進藤!」
間一髪!地面に崩れ折れるスレスレを、高田が何とか支えた。
細身とはいえ184cmもある進藤を、174cmのか細い高田が支え続けるのは非常に困難を極めるのだが、地面に落としてしまっては命の保証がない。
高田は泣き叫びながら、支え続けた。
「重いぃ!!た、助けてえぇ!!吉川君!!杉野・・はうぅっ・・・くぅうんっ!!」
「こらっ!明良君!全く君は・・・そんな暴言は許さないよ。おいで!悪い子はお仕置きだ!」
長尾が明良の腕を掴んで、引き寄せようとした。
「ちょっと!待てよ・・・・・・オレは明良様だぞ!神矢も様≠チて呼ばれてんだから、オレも明良・様!だよな。
一緒に来てた家庭教師のことは呼び捨てだぜ!こ〜んな感じでさ、引っ張んなよ!!長尾!!」
長尾はまだ進藤よりも打たれ強かった。
意識は飛ばないが、もう少しで理性がスッ飛ぶところだった。
「・・・そうですか。では、明良・様!前夜祭の報告はもう結構です。
その代わり社に着くまで!ずうっと!た〜っぷり!お仕置きだ!!」
「吉川さん!明良君たちは、何を揉めているんですか」
とりあえず遼二は高田の悲鳴は無視して、まず吉川に状況確認をした。
「何が?いつものことだろ。君までのろのろしていてどうするんだ、さっさと乗れ!」
「はいっ!あっ・・・帰りの運転は俺がします!」
「・・・いい。君は助手席に座れ」
長尾は明良に手を焼いて、進藤と高田のこの先の展開もわかりきっている。
トバッチリを避けるには運転しかない。
吉川は素早い判断で、遼二に助手席を勧めた。
「そういうわけにはいきません。吉川さん、詰めてください」
遼二は遼二で、後輩としての遠慮がある。
行きはともかく、帰りまで先輩の吉川に運転させるわけにはいかなかった。
半ば強引に運転席に乗り込んで来た遼二に、吉川は助手席に追いやられる格好となった。
「おいっ・・・左ハンドルは運転したことあるのか」
「いえ。ありませんが、大丈夫ですよ。俺は車好きなんで・・・」
「どけっ!!僕がする!!」
「わああっ!!ちょっと吉川さんっ!!」
遼二は運転席から蹴り落とされてしまった。
その吉川と遼二に助けを求めながらも無視された高田は、寸手のところで進藤が目を覚ましていた。
「・・・ん?高田君?」
「進藤さん!良かった!」
良かったかどうかは、微妙なところだった。
「その胸のバラの花、何?」
「えっ??」
目が覚めた進藤は、明良から高田にスイッチしていた。
「どうして君だけそういうスタンドプレーするのかな。
お迎えについては黒の上下で統一が決まりでしょう。飾りつけていいなんて言ってないけどね」
「こっ・・これは、お客様がつけて下さって・・・!!」
「それって、自慢?言い訳より聞き苦しいよね」
進藤御用達(八つ当たり)、高田の苦難は続く。
「皆さん!いい加減にしてください、騒々しい!だいたい皆さんのせいで、いつも僕までトバッチリを受けるんですから!
・・・宜しいですか!では、出発します!」
吉川に、自分も騒動の一端を担っているという自覚はない。
結局、運転席に吉川、助手席に遼二。
後列はボックス型に向かい合わせで、進行方向反対側の席に進藤と生贄の高田。
最後部に明良と長尾が座ったが、明良は長尾の膝の上にガッチリ固定されていた。
「腕がっ・・・痛てぇってば!!離せってんだよ!!馬鹿力!!」
「そうですよ!!その馬鹿力でっ!!私、長尾!!が、思いっきりお尻を叩いて差し上げます!!明良・様!!」
「君も、僕の膝の上に来る?」
「杉野君!!杉野君!!席代わってえぇぇっ!!」
「くっ・・苦しいっ!!高田さんっ!!首が絞まる!!息がっ・・・!!!」
「うるさい!!静かにしろ!!運転に集中できないだろ!!あ・・・しまった、左だ・・・」
吉川が急ハンドルを切った。
後ろボックス席の四人は、まだシートベルトを着用していなかった。
「うわあああああっ!!!!」
四人の悲鳴が車内に響き渡り、その後の惨劇は語るすべもない・・・。
「ゲホッ!!ゲホッ!!・・・・・・はあぁぁ〜っ!!」
秘書課杉野遼二初めての公式行事は、大騒ぎのリムジンの中で無事終った。
※コメント
相手の立場を知り、自分の立場を知る。
「願ってもない」のは、明良の方だけではなかったようです。
明良と神矢少年、悔しさも痛み分けというところでしょうか^^
そしてもうひとつ、
「オレは、オレだよ」
和也はどういう面持ちで、明良のこの言葉を受け止めたのでしょう。
その面持ち・・・和也の気持ちですが、それは今後の展開に沿って書き表せて行ければと思っています。
ああ!忘れてはいけない。遼二も頑張りました!無事終りました!
・・・無事?・・・死ぬ目に会ってますが(笑)
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