25
澄み渡る青空。
空が高い。
ついこの間までの空は、流れる雲を掴めそうなほど近く感じたのに。
オフィス街のビル群を眼下に見下ろす高層ビルの最上階、A&Kカンパニー。
秘書課、執務室。
「厳しいな・・・」
橋本は脇に抱えていたノートパソコンをテーブルの上に置き、書類の束は和也のデスクに返してソファに腰をおろした。
書類の束は先頃行われたホテル森之宮'lumiere(リュミエール)'オープン記念前夜祭の報告をまとめたもので、今しがたその社内会議が終ったところだった。
「・・・申し訳ない。もう少しで'soleil(ソレイユ)'の二の舞になるところだった」
ひと足先に戻っていた和也は、無造作に返された報告書をファイルに仕舞うと橋本の向かいに座った。
「お前だけの責任じゃないさ。あの四人を外して、杉野を強く起用することを勧めたのは俺だからな」
「彼はよく頑張ったよ」
「個人としてはね。だが全体の評価としては、大きなマイナスになってしまったのは事実だ」
話は会議での'lumiere(リュミエール)'オープン記念前夜祭、総括に関する内容だった。
会議の席上では、明良と神矢少年の摩擦そのものよりも、その後の収め方が争点となった。
特に終盤、和也が明良を追って席を空けたことに強く批判が浴びせられた。
その間席に残っていたのは、まだ何の実績も無い新人社員なのだ。
仮に長尾たちの誰か一人でもテーブルに着いていれば、例え和也が席を空けても新人一人に場を持たすような見栄えの悪いことは無かったはずだ。
見栄えが悪いということは、招待客にも失礼にあたるということなのだ。
和也だけでなく、四人を外してセッティングをした橋本にも批判は集中した。
「湯木さんに助けられたな」
「他のフェリスの幹部ならクレームになっていただろうね。
・・・湯木さんだったから、四人を外したんじゃないのかい」
意を酌むような和也の返答に、橋本はフッと口の端を上げた。
役職を伏せているとはいえ、本来なら新人の遼二が単独で相手の出来る人物ではないのだ。
表立ったトラブルとならなかったのは、湯木が黙って遼二の相手をしてくれていたからだ。
「上司が馬鹿だと、部下がいくら頑張っても帳消しになるという見本だな」
会議は例によって社長の辛辣な言葉で終了したが、和也も橋本もそれなりに成果は感じていた。
明良の後継者としての自覚を引き出せたこと、杉野遼二が社長の印象に仕事外でなく仕事上で残ったこと。
ただ彼らの成果は結果(評価)として出なければ意味がない。
ここが我慢のしどころなのだ。
あくまで和也と橋本の照準は、グランメゾン'Etoile(エトワール)'グランドオープンにある。
来年完成のパークビル"university 21"の中に構える新店舗は、A&Kカンパニー初の都心出店となる。
「'Etoile(エトワール)'が成功したら、名実共にフェリスと肩を並べられる」
「・・・その前に、湯木さんが動く。手の内を読まれたからね」
「読まれたところで、あの人に小細工は効かないからな。
正面から堂々と行くさ・・・心積もりは、とっくに出来ているんだろう」
相手の意を酌むのは和也だけではない。
橋本は問いつつも答えは聞くに及ばずと、話題を変えた。
「ところで杉野だけど、合格でいいな」
「もちろん。湯木さんも彼を褒めていたよ」
―杉野さん、あなたは清々しい方だ―
湯木の遼二に対する評価は、ちゃんと上司である和也にも届いていた。
「配属されて来た時は、落ち着きも無くて印象も薄かったんだけどな」
「今でも時々、明良や四人に振り回されているみたいだけどね・・・」
遼二の話になると、二人の険しい表情が一変して穏やかになった。
今年の秘書課の新人配属枠は、一人分が割り当てられていた。
それまでは即戦力を期待して選考した者たちばかりだった。
故に皆、仕事は出来るが一様に個性が強い。
そのバランスから鑑みて、今年の新人は即戦力よりも個性の強い先輩たちから吸収できる素直さ≠、選考基準とした。
緊張の面持ちを隠せない若者に、面接官が定番の質問をした時だった。
「当社を選んだ理由を聞かせて下さい」
「はいっ!とても綺麗な会社で業績も良いし、こんなところで働いてみたいと思ったからです!」
そのままの本音に、居並ぶ面接官から笑い声が起きた。
たぶん概ね、他の皆も本音は若者とたいして変わらないだろう。
ただその多くは、様々な修飾(展望を含んだ言葉とか自身のアピール)を付けて選んだ理由を述べていた。
それが悪いとは言わないし、また本音そのものが良いとは限らない。
ケースバイケース。企業によって、受け取り方はまちまちなのだ。
だから面接試験は、筆記試験よりもある意味難しい。
いずれにしても面接官の笑い声に失言したと思ったのか、誤魔化すような照れ笑いも無いままに真っ赤な顔で汗を噴き出させていた若者が遼二だった。
スマートとは言い難いが、繕うことのない誠実さが前面に出ていた。
面接官の一人だった和也の印象の中に、遼二は残った。
「さてと、ちょっと営業部に行って来る。その前にこれを・・・」
橋本はテーブルの端に置いていたノートパソコンを引き寄せた。
「杉野君のだね。彼もこれで一人前だ」
「今昼休憩みたいだな。いない間にデスクに置いといてやるさ、帰って来たら驚くだろうな」
「そんな・・・子供のプレゼントじゃないんだよ。きちんと説明して手渡すのが・・・」
「わかっている人間に、いちいち説明はいらないだろ。だからお前は明良君に煩さがられるんだ」
明良に煩がられているのは和也だけではないのだが、橋本は自分のことは棚に上げてドアハンドルに手を掛けたところで立ち止まった。
「園田も結婚するし、お前も早くしろ。明良君は逃げないけど、麻理ちゃんは逃げるぞ」
振り返って忠告した顔は、友人の顔だった。
橋本が退室した後、和也もソファから自分のデスクに移った。
椅子を回転させて、ブラインドを開けた。
ジャッ!
一瞬の音と共に、空が広がる。眼下にはビル群。
和也の視線の先、流れ行く雲は麻理子のいる空に繋がっている。
その雲を追って見つめていると、麻理子の言葉を思い出す。
―あなたには、しなければいけないことがあるでしょう。だから私もするのよ。私がしなければいけないこと・・・―
麻理子は既にその時、和也が結婚よりも優先すべき仕事に就いていたことを感じていたのだ。
愛している人だからこそ、すべきことを優先させてあげたい。
だから私もするの。あなたの負担にならないように、そして私自身の為に。
それが私のしなければいけないこと。
離れていると、麻理子の思いが伝わって来る。
( 麻理子は、どこか母に似ている・・・ )
和也は心の中で呟いて、ブラインドを閉めた。
ブラインドを閉めると空が消える。
しかし空が消えても、眼下に広がるビル群の残像は消えない。
この世界はひとつ間違えば、転がり落ちる。
今は高く聳えるA&Kのロゴも、一瞬の内にビルの谷間に呑まれてしまうのだ。
感傷に浸るのは、僅か。
クルッと椅子が回転すると、和也の目はデスクの書類を追った。
書類は新店舗'Etoile(エトワール)'の概要。
来年度、都心に完成するパークビル"university 21"国内外の一流店が揃う。
―ビルの谷間に呑まれてはいけない―
強い決意で、和也は反芻するのだった。
一方その同時刻、A&K社員専用レストラン。
こちらは全景が展望のレストラン内で、社員達は食事や喫茶を楽しみながら一般企業より幾分長い昼休憩を有効に過ごす。
遼二も今日は電話当番で居残りの真紀と、昼食を共にしていた。
話題は今秋の営業部と秘書課合同社内旅行のことなのだが、主導権は営業部側にあるようだった。
「・・・園田さんの結婚式と社内旅行が同時!?」
「新婚旅行もね。前にサプライズって言ってたでしょ。
場所は信州、観光バス貸切りで移動するから、結婚式に着る服は持って行っても式場のレンタルでも、どちらでもOKよ」
驚く遼二を尻目に当たり前のように笑顔で話す真紀は、すっかり松本女史率いる営業部の一員となっていた。
「園田さんは、何にも言ってないのか」
「さあ・・別に?園田さんたちのことは、女史が全部引き受けていらっしゃるみたいよ。
そんなことより美花先輩の花嫁姿!絶対素敵だって、皆楽しみにしているのよ!」
真紀の話の様子から、相変わらずポツネンと取り残されているであろう園田の姿が思い浮かんだ。
もっとも、園田が周囲から如何に慕われている存在であるかは遼二も知るところなので、言葉ほど心配をしているわけでもなかった。
「お式は、白樺に囲まれた教会だそうよ。園田さんのご実家が信州なんですって」
「凱旋帰国だな」
志を持って故郷を後にした青年が、一企業の一部署とはいえ、まがりなりにもNo.1になり可愛い嫁を娶ることになった。
経緯はどうあれ、それはとても素晴らしくかつ立派なことだ。
遼二にも故郷がある。
高い志とまでは言えないまでも、一生をかけて働く場所を見つけるために上京し都会の大学へ進んだ。
そこで真紀と知り合い、恋人となり、就職も同じ会社に入社して今に至っている。
「遼ちゃんの凱旋帰国は、いつかしらね」
遼二の言葉が受けたのか、真紀が冗談交じりに返した。
「俺?俺なんてまだ半人前だからな。まず一人前に認めて貰わないと、話しにもならない」
「遼ちゃん、ちょっと謙遜してない?聞いたわよ、この間の'lumiere(リュミエール)'の前夜祭。
長尾さんたちを抑えての出席だったんでしょ。それって充分一人前ってことじゃない?」
前夜祭出席のことは真紀も知っていたので、それ以上四人の出欠のことや詳しい内容までは話してはいなかった。
秘書課の職責では、余計なことを話さないというのは基本中の基本なのだ。
真紀も営業部にいて、その辺りのことはある程度理解をしてくれている。
ただ耳に入ってくる噂は防ぎようがない。
遼二は改めて噂の威力に感心したが、所詮真意までは伝わらない。
噂はあくまで、噂に過ぎないのだ。
「そんな話になってるのか!?俺が長尾さんたちを抑えて出席するわけがないだろ」
「でも、長尾さんたち出席してなかったんでしょう」
「出席する、しないの問題じゃない。経験しなきゃ、仕事が覚えられないからさ。
どこを探しても今の俺には、長尾さんたちを抑えるなんて要素は出て来ない」
「そうなの・・・」
ガッガリする表情も、真紀はわかり易い。
噂といえども、好きな人の良い噂は信じたいのが当然の気持ちなのだ。
「あはは。ガッカリさせて、ごめん」
あまりにも爽やかに笑い飛ばされて、真紀も毒気を抜かれてしまった。
すぐいつもの真紀に戻る。
「私は女史に、アシスタントが上手だって褒められたわよ。
営業部では、アシスタントをこなせたら一人前なのよ」
「へえ、女史に褒められるって凄いな。俺はまだ専用のパソコンも貰えてないからなぁ・・・仕事では半人前だよ。
俺も早く一人前に認められて、真紀に追いつかなくちゃな」
遼二に他意はない。
本当にそう思っているのだ。
真紀は社交的だし、もともと営業部に向いていると配属が決まったときから思っていた。
大学時代からいつも一緒に肩を並べて来た彼女をライバル視するつもりはないが、男としてあまり差をつけられるようでは不甲斐無い。
ましてや結婚を考えている相手なのだ。このままでは、プロポーズも出来ない。
―頑張らなければ・・・!―
付け合せのビーンズサラダを美味しそうに食べる真紀を見つめながら、遼二はそっと膝の上で握り拳を作った。
「さてと・・・食事も済んだし、喫茶に行く?」
「もちろん。秋の新作は、マーブルシフォンケーキなんですって」
「俺は真紀の分をひと口貰えればいいから」
そう言って遼二はレシートを掴んで、支払いに向かった。
その時、周囲のテーブルから小声が聞えた。
「あっ、秘書課の杉野さんよ」
「この間の新店舗で活躍した人ね!」
「長尾さん達を抑えての抜擢だもの。一年目なのに、やるじゃない」
「彼女いるみたいだけど・・・どうなの?立候補しちゃおっかな」
真紀が聞こえているのだから、遼二にも間違いなく聞こえているはずだった。
しかし遼二に、反応する素振りは全くなかった。
それがよけい真紀の気持ちを複雑にした。
真紀はここ最近、ずっと感じていた。
会社内での遼二と自分の位置が、どんどん離れて行っている。
さっきの遼二の言葉にしても、
―俺も早く一人前に認められて、真紀に追いつかなくちゃな―
本人はそう思っているかもしれないが、周りはすでに遼二を認めている。
追いつくどころか、追い越されていることを真紀は知っていた。
自分の彼氏なのだから嬉しいはずなのに、素直に喜べない自分がいる。
真紀は遼二の背中を見つめながら、いつか・・・それはたぶん近い将来、はっきり示される時が来るだろうと予感していた。
その時、自分はどうしているだろう。
幾多の女子社員の注目を浴びるようになっても、遼二は自分を愛してくれているだろうか。
今までは考えたことなどなかった不安や寂しさに、真紀の心は揺らいでいた。
A&K喫茶ルーム。
レストランの横に設けられたティールームは、各種飲み物と季節毎のデザートを取り揃えた社員憩いの場となっている。
「食事した後で、よくまだケーキ食べれるよな」
「当然でしょ、デザートまでが食事だもの。遼ちゃんだって、ひと口は食べたいんじゃない」
「うん、そうだな。美味そうだ」
「じゃ、はい。あ〜ん・・・」
フォークで器用に切り分けたマーブルシフォンを、一切れ遼二の口元に運んだ。
「こらっ、真紀!やめろって!恥ずかしいだろ・・・」
「ふ〜ん・・・じゃあ、あげない」
遼二の口元からUターンしたマーブルシフォンは、そのまま真紀の口へ入った。
「・・・美味し〜い!」
額に汗を浮かべ照れ隠しに怒る遼二を、真紀はふざける笑顔の下で見つめ続けた。
「ただいま戻りました」
遼二が昼休憩から戻ると、秘書室には午後から居ないはずの進藤がいた。
「・・・進藤さん、社長とご一緒じゃないんですか」
本日の社長付き進藤の予定ボードには、午後ロアール社訪問とあった。
「途中で先方のご予定が変わられて、先ほど社長と帰って参りました。何か私にご用事でも?」
進藤の仰々しい言葉遣いに、遼二は瞬間で状況を推し量る。
素早く他の三人を見た。
全員の視線が自分に向いている。
目は口ほどに物を言い・・・俺!?
「あのっ!何かあ・・・・!!!」
合計8個の目玉に向かって何かありましたかと訊ねようとした矢先、遼二は自分のデスクにそれを見つけた。
飛びつくようにして確認した。
表面は光沢のある黒色で、鏡のように自分の顔が映っている。
どこをどう見ても、新品だ。
尚もよく見ると、表面カバー部分の左隅にテープラベルで所属課名と名前が貼り付けてあった。
【秘書課:杉野遼二】
「俺の!!」
ついさっき話していたばかりの、ノートパソコンだった。
遼二が秘書課に配属になったばかりの頃、橋本から支給されたのはモバイルだった。
使いこなせなければ、いつまで経っても専用のノートパソコンは貰えない。
とにかく使うことを心掛けた。
吉川の指示に従って仕事をする時、必ず傍にモバイルを置いて自分の記憶の保管庫とした。
自社に関する備忘録、資料の揃え方、データーからの引き出し方など。
専用のパソコンを持たない遼二は資料室のパソコンを利用していたが、一度教えてもらったことについては確認はしても再度聞くことは殆んどなかった。
最初のうちこそ機能的に役不足と不満に感じていたが、いつしかモバイルは遼二にとって単なる記憶の保管庫から大事な仕事の手引書になった。
遼二は橋本の言葉を思い出していた。
―使いこなせたら君も専用PCになります―
使いこなすというのは、活用することにある。
不足と感じるか必要と感じるかは、本人の活用次第なのだ。
そしてそれが仕事のセンス(微妙な感じや機微を感じとる能力・判断力。感覚)になる。
「杉野君、聞いてる?」
「はい?」
嬉しくて興奮冷めやらない遼二は、進藤の呼びかけについ生返事をしてしまった。
目は口ほどに物を言い・・・8個の目玉のうち4個は険しく、2個はぱぁぁと長い睫毛に隠れて、2個は視線を外された。
「あ・・!はいっ!」
慌てて返事をし直すも遅きに逸するとはこのこと、進藤がまともに聞き入れるわけがない。
「二度、返事が聞こえるなんて・・・空耳かな」
「すみません!進藤さん!」
「遅い!最初にその言葉だろ。せっかくおめでとう≠、言おうと思っていたのに」
遼二の嬉しさは、皆経験してきたことなのだ。誰よりもわかっている。
四人の先輩たちは、待ってくれていたのだ。
「進藤さん!皆さん・・・俺・・・ありがとうございます!」
深々と下げた頭を、遼二はすぐあげることが出来なかった。目頭が熱くなった。
「全くだ。おめでとう≠ヘ、会議室で言う羽目になってしまったじゃないか」
「かっ・・会議室!?長尾さん!!」
途端に遼二の頭が跳ね上がった。出掛かった涙も引っ込むというものだ。
「当たり前でしょう、二度返事だよ?それも一度目は君、生返事だったでしょう?
生返事は二度返事、三大ご法度より重罪だよ」
何故かウキウキと高田の言葉が弾む。
「PCに気を取られているからだ。モバイルの時にも(14参照)注意しただろう」
吉川は自業自得とバッサリ言い捨てた。
遼二の額から汗が流れた。
「暑苦しい♪」
さらにワクワク楽しそうな高田の声。
「俺っ・・・」
「言い訳は聞き苦しいね」
当然のようにひと言さえも言い訳と見なされて、進藤の細い柳眉が吊り上がる。
「逃げるなよ、見苦しいから」
長尾の警告で、無理から三大ご法度まで被ってしまった。
秘書課三大ご法度、禁断のトライアングルに出口なし!・・・・・・ガタンッ!!
ガタッ!!ガタッ!!ガタンッ!!
いきなり長尾たち四人が立ち上がった。
「ひぇっ・・・」
思わずたじろいだ遼二の後ろから、声がした。
「おう、杉野。いたのか」
横扉が開いて、社長だった。
「・・・社長!!はいっ!!」
それも後になって気付いたのだが、初めて名前を呼ばれた。
そして、社長は待たない。
遼二がはいっ!!≠ニ言った時には、もう目の前だった。
内ポケットから白封筒を取り出すと、緊張して固まっている遼二の手を引っ掴んで握らせた。
「社長賞だ。この間は明良の補佐を、よく務めてくれたな」
「はっ!?・・いえ!そんな、俺・・あっ!いえ・・わ・わ・わたし!なんてまだ・・・」
社長賞!?確かにその件については橋本からも褒められたが(小ネタ集:秘書課・始業前の風景参照)、遼二にしてみればそれだけで充分満足だった。
それ以上の、ましてや社長直々の褒美など、とてもじゃないが受け取って良いのかどうかの判断も出来なかった。
遼二は覚悟を会議室に決めて、助けを求めるように四人の先輩を見た。
「杉野君、返事はありがとうございます≠セ」
「社長がお決めになられたことだ。君に拒否権はないよ」
「ほら、前を向きなさい。失礼でしょう」
「前にも言っただろ。余計な遠慮を覚えるより、仕事をひとつでも早く覚えろ」
長尾、進藤、高田、吉川、順に発する言葉に、遼二の表情があきらかに変わっていく。
先輩とは何とありがたい存在なのだろう。
落ち着きを取り戻して、社長に向き直った。
「ありがとうございます」
礼を述べ深々とお辞儀をした後の、遼二の目が少し赤い。
「'lumiere(リュミエール)'の招待券だ。彼女を連れて行ってやると良い。明良にバレないようにな」
社長はポンポンと遼二の腕を叩きながら、片目を瞑って見せた。
お茶目な社長の言動に、思わず周囲の緊張も解れて和やかな笑みが零れた。
「社長・・・賑やかですね。何かよいことでも」
秘書室のドアが開いて、営業部に行っていた橋本が戻って来た。
「お前や秋月には縁のない話だ。それより、アポイントメントは取れたか」
「はい。営業部の園田が帯同します」
「よし」
ひと言で踵が返る。
進藤が携帯を手に、社長を追った。
「北山さん(社長付運転手)!すぐ車を回して下さい!」
社長はとにかく待たない。
見送りも長尾たちは心得たものだが、遼二はまだワンテンポ遅れてしまう。
専用のパソコンが貰えたら一人前などと、そんな甘い考えは一発で吹っ飛んだ。
社長について行けなければ、いつまでも半人前なのだ。
秘書室の出口で社長を見送った橋本が席に着くと、即座に遼二はその前に立った。
「橋本さん!社長から賞をいただきました!」
社長賞の報告を受けて、橋本は温和な笑顔で言葉を贈った。
「よく務めた褒美だね。仕事で成果を得るということは、そういうことです。
最終的に自分に返って来る、忘れないように」
「はいっ!あの、それから専用のパソコンも・・・俺、もっともっと頑張ります!!ありがとうございます!」
「それじゃあ、さっそく頑張ってもらおうか」
長尾も橋本の前に来た。
「長尾さん・・・!」
つまり真横に立たれて、遼二はその圧迫感に忘れていた会議室≠思い出した。
覚悟までしていたくせに、喉もとを過ぎればそんなものだ。
身構えるように後退さった視界の端に、ぱぁぁと笑顔を広がらせている高田の姿も見えた。
ごくりと生唾を飲み込んで、様子を窺った。
ところが―――
長尾は会議室≠フことなど全く忘れていた。
大体あのような雰囲気の時は、半分猛獣がじゃれているようなものなのだ。
本気の時以外は、案外どうでもいい。
「橋本さん、企画部の会議に呼ばれていますので行って来ます。吉川を連れて行きます」
長尾の言葉に驚いたのは、吉川だった。
「えっ!?僕ですか!」
「これからは君も他部署の会議に出て、僕の補佐もしてもらわないとね。
そういうことだから、杉野君は高田君の補佐だ。さっそく頑張ってもらおうか、吉川の後は厳しいぞ」
遼二も驚いた。そして安堵の代わりに、また胸が熱くなった。
「はい!頑張ります!長尾さん!・・・ありがとうございます!」
さっさと決めて行く長尾の采配に、橋本は何も言わない。
「私も隣の執務室にいますから、何かあれば呼んで下さい」
それぞれの仕事位置で技量がきちんと発揮出来ていれば、仕事は前へ進む。
「さあ、行くぞ、吉川君」
「はいっ!!宜しくお願いします!!」
吉川も負けてはいられない。
頑張ります≠フ言葉は遼二に譲って、吉川はお願いします≠ニ言う。
頑張るのは当たり前、そこからのスタートだ。
それが先輩の意地なのだ。
「吉川君っ・・・吉川君がいなきゃ、生きて行けない・・・」
あまり先輩の意地もないのが、ここにひとり。デスクで涙にくれていた。
「高田さん!そんなこと言わないで下さい・・・俺、頑張りますから!
一日も早く吉川さんのされていた仕事をこなせるように・・・」
「杉野君は、出来るさ。僕は仕事の心配なんかしていないよ」
「そう言っていただければ嬉しいですが・・・。じゃあ、何を心配しているんです?」
「吉川君とはねっ、どんな理不尽な目に遭っても、いっつも励まし合って来たんだよ・・・。
だけど君はさ!君はっ・・・!」
うううっと、ここで一旦感情がピークに達したようだ。高田はハンカチで顔を覆った。
「俺?・・・俺ですか?」
遼二に思い当たる節はなかったが、しかしこうまで取り乱すには、何かよほど気に入らないことでもしてしまったのかも知れない。
「あの・・高田さん、俺が何かしたのなら謝ります。でも何をしたのか・・・」
高田はハンカチから顔を上げると、濡れた長い睫毛を瞬かせながら叫んだ。
「したっていうか!・・・っていうか!君って、悪運強すぎ!!」
※ コメント
ことごとく会議室行き回避の遼二に、高田の期待は裏切られてばかりです(笑)
それが気に入らない高田なのでした^^
それと吉川君とのことも、高田の一方的な思い込みのようです。
吉川君は新しい仕事に向かって、嬉々として長尾の後について行っています^^
仕事面では遼二がようやく一人前として認められ、秘書課全体としてば'Etoile(エトワール)'に向けて照準が絞られてきたことでしょうか。
後、恋愛の部分に関してですが、和也と麻理子の場面はほんの少しながら自分の中では濃かったです。
そして今回一番の大きな動きは、真紀ちゃんです。
遼二を取り巻く環境の変化に気付いた時、真紀は初めて遼二との恋に不安を抱きます。
そしてそれは、自分をも見つめることになるのです。
でも意地っ張り真紀ちゃん、なかなか遼二に本心は見せないようです^^;
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