26
11月初旬、都心近郊―。
あと数週間もすれば、銀杏並木が大都会を黄金色に染め上げる。
湯木はそんな風景を想像しつつ、本社ビルの窓から眺めていた。
フェリス・ドゥ・カミヤ、エグゼクティブマネージャー湯木の部屋は、十階建最上階社長室の真下にあった。
ここ数年ほとんど空き状態で掃除の時くらいしか人の出入りのなかった部屋は、一夜にしてその状況を変えていた。
昨日から社内外を問わず、ひっきりなしに訪れて来る人々と贈られてくる花束の数々。
「失礼します。湯木さん、また花束が届いていますよ。ええっと・・・どこに置きます?」
今もまた大きな花かごを抱えて男性社員が入って来た。
「ああ、床でいい。外は秋が一層深まっているというのに、この部屋は春だな」
湯木は花に添えられたカードを抜き取ると、再び窓の方に背を向けた。
大事なのは花よりも贈り主なのだ。
早速カードに目を落として名前とメッセージの確認をしていた湯木だったが、ふと気が付いたように頭を上げた。
「・・・・・・どうした?」
すぐ退室すると思っていた男性社員の姿が、まだ窓ガラスに映っていた。
「すみません、湯木さん。僕も、お祝いの言葉を言わせて下さい」
「三上(みかみ)、何を改まって・・・」
三上と呼ばれた男性社員は、我が事のように誇らしげに目を細めて湯木を見つめた。
そして恭しく頭を下げた。
「湯木さん、復帰おめでとうございます」
湯木がフェリスの御曹司神矢三都史の家庭教師から、本来の職責であるエグゼクティブマネージャーに復帰したのは一週間前の本社役員会でのことだった。
上半期決算の大幅な赤字と過去に遡る累積を踏まえ、今後の立て直しに向けた組織変更に伴う役員人事の異動が行われた。
フェリス・ドゥ・カミヤはフランスレストランを主軸とする会社で、同じ業界のA&Kカンパニーとはライバルの関係にある。
しかし近年の業績は芳しくなく、売り上げも常にA&Kの後塵を拝しているといった状況だった。
湯木は入社当時から、どの部署においても常に一歩抜きん出た非凡さを際立たせていた。
取り分けまだ業界トップにありながらにして、速いスピードで追ってくる新興勢力への注意喚起を呼び掛けていた。
いち早く業績の危機を感じていた社長は、湯木の先見に三十代の若さでありながら全体を統括するという現在の地位に抜擢した。
こうして湯木VS新興勢力(A&K)の台頭にも危機すら感じない幹部たちの構図が打ち出された。
しかしいくら湯木に社長がついているとはいえ、幹部たちとの確執は熾烈だった。
幹部たちは其々に派閥を擁していた。
派閥の大きさ(人数)は、権力の大きさに比例する。
幹部たちの湯木潰しを危惧した社長は、一旦湯木をフェリスの本陣から外した。
社長が抱えるもうひとつの問題。
フェリス後継者。
その息子はまだ小さく、将来の後継者として浸透するには至っていなかった。
社長は、湯木を社の表から裏へ移した。
外された
湯木は最初の頃こそ憤りを覚えたが、社長の意向を知るに至ると、以降二度と社長に対する信頼が覆ることはなかった。
社長の意向、つまり後継者育成という名の下で体制の立て直しを図ろうとするものであった。
内紛に勝利した幹部たちの勢力はさらに増したが、社長には思惑があった。
権力を持ち過ぎた派閥の長を排除するには、それなりの時間と手段を講じなければならない。
社長は内紛に関わらなかった幹部と共に、社内の人脈から固めていった。
そして徹底した内部調査で怠慢な業務実態(業績低下)のあぶり出しを行い、派閥幹部たちの引責の証拠資料とする。
裏に移った湯木も交えての計画は、水面下で静かに進んで行った。
一年が過ぎ、手元の調査資料も整い、次の決算後の幹部会議で提訴する準備に入った矢先、社長が病に倒れた。
一命は取り留めたものの、右半身に大きな後遺症を負うことになってしまった。
入退院を繰り返し、リハビリは長期に渡った。
湯木は計画を延期し、そのまま神矢三都史の傍に付いて社長の回復を待った。
中止≠ナはなく延期≠ネのだ。
社長の完全復帰が果たされたのは、それから二年後のことだった。
車椅子の使用は余儀なくされたものの、その職責において何ら支障を来すことはない。
準備は万端を期していた。
幹部会議において、業績に関する綿密な調査資料を基に、先の組織変更に伴う役員人事の異動が行われたのである。
これで派閥は解消となり、湯木の本社復帰により実質稼働していなかったエグゼクティブマネージャーの役職も復活となった。
「・・・三年の間に、すっかり一人前になったな。ありがとう、三上。
新しい船に帆を張るには、君たちのような若い力が必要だ。頼むぞ」
「は・・ぃっ!」
差し出された湯木の右手を、三上は感激に声を掠れさせながら両手で握り締めた。
互いの意思がガッチリと噛み合えば、次の行動への切り替えは早い。
「ではさっそく、頼まれてくれるか?私の復帰初仕事だ」
さっと身を翻し戸口に向かう湯木の後ろを、
「何なりと!」
信服の声で、三上が追った。
社の廊下では、すれ違う社員が口々に湯木の名前を呼びながら走り寄ってくる。
「湯木さん!復帰おめでとうございます!食材部です!ブローニュの新メニューに、是非とも推しの食材があるんです!」
「湯木さん!推進部を忘れないで下さいよ!俺たちずっと待っていたんですからね!
こっちの方が凄いっすよ!ブローニュと浮世絵のマッチングです」
「老舗の誇りを更に高め、しかも斬新で美しい!絶対インテリアとして融合すると思うんです!」
「おい、湯木!先に企画開発部だ!交渉次第ではブローニュの両脇の建物を買い取れるかも知れないぞ!」
人数で言えば半数ほど役員人事を変更しただけなのに、組織のカラーが変わると社内の雰囲気もガラリと変わった。
どちらかというと古い体質を守る傾向から抜け出せないでいた閉塞感が、改革推進派の湯木が復帰したことで一気に弾けた。
「わかった、近日中にプレゼンを開く!各部は連携して日程の調整をしてくれ」
湯木は彼らに言い置いて、三上とエレベーターに乗り込んだ。
「今度のプレゼンは白熱しますよ!楽しみだなぁ・・・ん?地下駐車場ですか?
外出されるのなら、社用車を玄関に回してきます」
「いや、これから三都史様のご自宅へ行って来る。
今日はこれで直帰になるだろうから、後のことは宜しく頼む」
「三都史様・・・あっ!失礼しました!承知致しました!」
湯木と神矢三都史の関係は、フェリスの社員なら誰でも知っている。
ただ慌てて三上が言葉を取り繕ったように、社員の間では神矢三都史が後継者であるという意識はさほど浸透していなかった。
「気が付いたなら、次からは忘れるな。
カミヤ≠フ名の下に、連綿と受け継がれている歴史を。それは私たち社員の誇りでもある」
エグゼクティブマネージャー湯木の復帰初仕事は、フェリス後継者神矢三都史を差し置いては始まらない。
「はい!三都史様がいつお越し下さってもご無礼がないように、意識を高めておきます」
三上の意識が変わる。
社員の意識改革はすでに始まっているのだ。
湯木は若い三上の向上心に溢れた瞳を眩しそうに見つめながら、もう一人の青年を思い出していた。
同じように向上心に溢れ清々しい瞳をしていた。
しかしその青年は、自分の会社とはライバル関係にある社員なのだ。
【A&Kカンパニー 秘書課 杉野遼二】
名刺に刻まれた名前が、湯木の記憶の中に刻まれる。
「そういった意識の高さが、仕事の気概にも表れてくる。
A&Kの杉野はお前の良い好敵手になると思っていたが、ぼやぼやしていたら追い抜かれるかも知れないぞ」
湯木の忠告に、三上はあからさまに口を曲げた。
「・・・ああ、新人ながら新店舗の前夜祭に抜擢されたっていう・・・。
お言葉ですが、湯木さんだったから通用したまでですよ。そんなポッと出の奴と一緒にしないで下さい」
「ははは、負けん気の強さは相変わらずだな。それでいい。では、行ってくる」
笑顔で車に乗り込んだ湯木は、憮然とした表情の三上の見送りを受けながら社の地下駐車場を後にした。
一方こちらは、三上を憮然とさせた杉野遼二が所属するA&Kカンパニー秘書課秘書室。
土曜日の午後ということもあって、午前中で学校を終えた明良が来ていた。
ピコピコピコ・・・ピッ!!
「うおっと!!危ねぇ・・・」
ピコピコ・・ピコピコピコピコピコ・・・
「よーし!よーし!行けー!」
執務室では和也が留守なのを良いことに、明良がどっぷりゲームに興じていた。
ピコピコ・・ピッ!!ドカーンッ!!〜パッパ♪・パラパラ♪・パラッパパパー♪♪
「あー、もう!!まただ!何だよ、これ!すぐクラッシュすんじゃん!
おっかしいなぁ・・・くそっ、佐伯のおっちゃんに文句言ってやる!」
クラッシュするのは腕前(コントロールテクニック)によると思うのだが・・・。
頭に血が上っている時は、とかく自分の腕前よりもゲームの性能の方を疑いたくなるようだ。
携帯を手に深く椅子に背もたれ、両足をデスクに投げ出して電話をかけ始めた。
「もしもしー!佐伯のおっちゃん!?オレ!あのゲームさぁ!欠陥品じゃねぇの!?」
[ もし・・・あ・あの・・明良坊ちゃん、いま仕事中・・・はぁ?あのゲームと言われても・・・。
新作が出る度に持って行かれるので・・あ、いえ!そんな勝手になんて!そんな・・・ ]
電話の相手佐伯はプレイジングワールドのゲームソフト担当者で、明良とは会社を通して懇意の仲なのだ。
プレイジングワールドはバイクや車のドライビングゲームのソフトを開発している会社で、ソフト制作の他にオートバイのレーシングチームも抱えている。
佐伯が明良を坊ちゃんと呼ぶのは、A&Kがそのレーシングチームに資金提供をしているスポンサーだからである。
ちなみに同じビルの最上階と四十五階なので、ゲーム好きの明良には恰好の遊び場にもなっている。
「そんな・・・何て?おっちゃん?もう、声が小せぇんだって!何なんだよ、オレのこと迷惑?」
[ め・め・め・迷惑だなんて!明良坊ちゃん!・・・もしもしっ?もしもしっ!あ・・・秋月さん!! ]
救世主現る。
電話越しに、心底ほっとしたような佐伯の声が響いた。
「仕事中に、大変ご迷惑をお掛けしました。いえ、こちらが悪いのですから、お気遣いのないように・・・。
はい、ありがとうございます。それではまた改めて。失礼します」
慌てたのは明良だった。
ゲーム中は常にドアの方に注意を払っていたのだが、クラッシュ続きで頭に血が上り製作者である佐伯へのクレーム電話に全神経が集中してしまっていた。
ガチャッとドアの開いた音でしまった!≠ニ顔を上げると、外出先から帰ってきた和也と目が合った。
ひと目で和也の本気モードを感じ取った明良は、携帯を取り上げられてもひと言も口を利くことが出来なかった。
最近の明良は、学校の帰りなど一人でも会社に来るようになった。
それ自体は何も言われることはなかったが、事前に連絡をするようにとの注意は受けていた。
が、ほとんど守られた試しがない。
リンロンリンロンリンロ〜ン〜♪♪
秘書課受付カウンターの呼び出し音が鳴った。
杉野遼二が応対に出ると、総務課受付嬢の二人に挟まれてご満悦の明良がいた。
「へへっ、暇だから来たぜ」
明良とは対照的に受付嬢の一人は腰に手を当て、声を押し殺しながら遼二に詰め寄った。
「明良坊ちゃまお一人でお見えになられたご様子でしたので、私たちがこちらまで同行させて頂きました。
ですが、お出迎えは秘書課のお仕事ではなくて?」
「すみません!ありがとうございます」
「ちょっとあなた、簡単に言ってくれるわね。今日だけの話じゃないでしょう。
秘書課は明良坊ちゃまをどう思っていらっしゃるのかしら!?」
更にもう一人の受付嬢も、ヒールのカカトをカツンと鳴らせてきつい口調で迫った。
「いや・・あの・・明良君には、来社する時にはちゃんと連絡をするようにと・・・。
明良君!今日来られることを誰かに連絡しましたか!?」
明良が普段から連絡を寄越さないことを、遼二は百も承知している。
それを手っ取り早く受付嬢たちにわかってもらうには、説明するより明良の口から言わせるのがベストなのだ。
「面倒くせぇって、言ってんじゃん。杉野さんまでそんなこといちいち聞くなよ」
さっきまでご満悦だった明良の口元が、ぷっと不貞腐れた。
「明良坊ちゃま、面倒臭いなんて仰ってはいけませんよ。来社される際は、必ずご連絡なさって下さい」
さすが会社の玄関口を預かる受付嬢は、明良の一言で全てを理解した様子だった。
遼二はほっと胸をなで下ろした。
「え〜、秘書課の奴らってごちゃごちゃうるせぇんだもん。
出迎えに来ても鬱陶しいんだよね。あ、杉野さんは別だぜ」
のも、束の間・・・
「まあ!そんな嫌な思いを!ご連絡出来ないのも無理ありませんわ。申し訳ありません、明良坊ちゃま!」
「あなた杉野さんと言ったわね、明良坊ちゃまに特別扱いされているようだけど。
その割には、坊ちゃまの繊細なメンタル面に気が付かないのね」
「はっ?」
またしても形勢が変わった。
ベストだったのは、最初の一言だけのようだった。
「これは由々しき問題だわ」
「明良坊ちゃまの教育係は、秋月さんでしたわね。いらっしゃるかしら」
今度は遼二が二人に挟まれる状態となったが、ご満悦とは程遠い。
「あ・・秋月さんは、外出中です!あの・・・何か若干誤解を・・・」
遼二の言い終わらないうちに、明良が声を上げた。
「やった!帰ってくんな!」
続いて受付嬢の二人も、不在のところだけ大きく反応した。
「ああ、ついてないわ!」
「残念ですわね・・・」
和也不在に勢いが逸れてしまったようだった。
遼二は途切れた言葉を繋ぐタイミングも見つからず苦笑いを浮かべるばかりだったが、明良は肝心要のポイントを抑えつつ最大級の笑顔で受付嬢たちを労った。
「姉ちゃんたち、和也さんに余計なこと言っちゃダメだぜ。
たまにこうして綺麗な姉ちゃんたちについてもらうのが、オレの楽しみなんだからさ!」
「まあっ!!まあぁぁぁっ!!明良坊ちゃま!この上ないお言葉、感無量です!
ええ、ええ、そうですとも、綺麗な!お姉さん!は、余計なことは言わないものです」
「明良坊ちゃま!何よりも、綺麗な!お姉さん!は、坊ちゃまの楽しみを奪うなんて出来ません。
杉野さん?あなたも、秋月さんがお戻りになられてもお口チャックですよ」
「はぁ・・・」
あっさり明良に丸め込まれた受付嬢二人は、きっちり遼二にまで念押しをしてご機嫌で帰って行った。
遼二は明良を執務室に通しつつ、やはり注意すべきことは言っておかねばならない。
「明良君、何度も言われているはずですよ。一人で来られるときは必ず連絡をして下さい」
「わかったー。隣、橋本さん居んの?」
明良には遼二の注意よりも、もう一人のウザオニの方がよほど注意が必要で気になるのだ。
「いえ、皆さん外出です。高田さんがいらっしゃいます」
「ふ〜ん」
と、どうでも良さそうな振りで頷く明良の心の中は、よっしゃあ!とガッツポーズが決まっていた。
後は楽勝だ。
「親父は?」
「社長室です。ご挨拶なさいますか」
「あー、しない、しない。ここんとこ電話だけでも家の愚痴ばっか聞かされんのに、顔合わせたら尚更じゃん」
一見素気無く断っているようだが、明良のその言動からは微笑ましい親子交流の姿が窺い見てとれた。
自然に遼二の頬も緩んだ。
「そうですか。それでは何かあれば呼んで下さい。秘書室には高田さん、俺は受付にいます」
そして暫く―。
和也が外出先から戻って来た。
「秋月さん。お帰りなさい、お疲れ様でした」
「ただいま」
「明良君が来ています。執務室でお待ちです」
「そう」
いつもの短い返事で、和也は執務室に入って行った。
それから数分後、執務室の中からガターンッ!と椅子が倒れるような大きな音がした。
何事かと遼二が振り向くと、いきなり執務室の扉が開き学生鞄とゲーム機が、次いで明良が投げ出された。
「あ・・・!」
明良君!≠ニ驚きの声もままならず駆け寄った遼二の足元に、おそらく明良のものであろう携帯が追加で放り投げられて執務室のドアが閉まった。
「・・・ってぇな!何でぇ・・・こんちくしょぅ・・・」
床に座り込んでいる明良は、投げ出されたというより叩き出されたという方が近い。
「明良君・・・何をしたんですか」
「別に・・・佐伯のおっちゃんに電話してただけだ!」
不満気に吐き捨てる明良だったが、遼二にはそれだけが理由とは思えなかった。
その証拠に、明良は遼二と目を合わそうとしなかった。
明良自身本当の理由に気付いているからこそ、ややもすれば後ろめたさにいつもほどの暴言も潜まってしまっているのだろう。
「大丈夫ですか。さあ立って、カッターシャツがはみ出てます。
携帯と、学生鞄・・・ゲーム機は鞄の中に入れておきますね。はい、どうぞ」
「ん・・・サンキュ」
服装を整え遼二から渡された荷物一式を受け取ると、明良はそのまま社長室の方へ向かった。
社長室は明良にとって、治外法権のような場所なのだ。
遼二も度々社長室に逃げ込む明良を知っているが、しかしさすがに目の前でその行動をされては黙って見逃すわけにはいかない。
「明良君、入る部屋が違います」
「・・・ほとぼりが冷めるまで、オレこっちの部屋にいるから」
「それではいつまで経っても、冷めないと思いますよ。きちんと話をして謝れば、秋月さんは許してくれます。
明良君が一番良くご存じじゃないですか」
「何でオレが、和也さんに謝んなきゃなんないんだよ!
杉野さんその場にいなかったくせに、理由わかってんのかよ!どうせ頭っから、オレが悪いって決めつけてんだろ」
はじめて明良が遼二に噛みついた。
「あのっ!いえ、俺は・・・」
予想だにしなかった明良の反論に、遼二は言葉が詰まった。
「もういいって。仮にオレが悪かったとしてもさ・・・。
杉野さんは理由もわからずに、頭から決めつけるような人じゃないって思ってたのにさ。他の奴らと同じじゃん」
完全に怒らせてしまった。
そんなことはありませんと言ってみたところで、指摘されたことは事実だ。
明良の気持ちを汲み取ることを忘れていた。
杉野さん、杉野さんと笑顔で寄って来られることに、安心しきっていたのだろう。
慣れ≠るいは慣れ合い
それはあってはならない、肝に銘じておくことなのだ。
遼二は思わぬところで、自分の迂闊さを知ることとなった。
「あれ・・・?開かねぇ、おかしいな・・・」
ぷいっと遼二に顔を背けた明良は、社長室に入ろうとして取っ手を引いたが扉が開かない。
ガチャガチャと何度か繰り返したが、どうも鍵が掛かっている様子だった。
「おーい、親父ー?オレ!」
ドン!ドン!と、扉を叩いても応答がない。
秘書室から入って内扉もあるのだが、執務室を追い出された身としては当然秘書室も入り辛い。
明良は携帯を手に取った。
「もしもしー!オ・・・・・・?」
[ はい ]
「・・・何で親父の携帯に、進藤さんが出るんだよ」
[ 社長はただいま新店舗の案件について精査中ですので、私が携帯をお預かりし対応を任されております ]
「親父居るんだろ?オレからだって言ってくれたら、出るから」
[ いらっしゃいますが、お伝え出来ません ]
「何でだよ!!」
[ それが私の仕事だからです ]
どいつもこいつも・・・ムカついて仕方がない。
しかもその上に、父までが居留守を使う。
どうせ進藤の横で、聞き耳を立てているに違いない。
明良は猛然と腹が立った。
「ああ、そうかよ。それなら伝えなくていいから、携帯はまだ切んなよ」
一呼吸おいて、
「親父ー!!もう一生口きいてやんねぇからなっ!!」
大声で怒鳴り倒して、ブチッと携帯を切った。
微かにあ!≠ニかしゃ!≠ニか声が漏れ聞こえた気がしたが、いまさらどうでも良い。
明良は学生鞄を抱えて、社長室の前で項垂れた。
これからどうしようかと考えたら、知らず知らずにため息まで出る始末だ。
居場所がない、行くところがない、誰も・・・いない?
「明良君」
呼ぶ声に横を向くと、遼二が笑顔で傍に立っていた。
いつもなら頼るべき相手なのだが、そこは幾ら何でもたった今噛み付いた相手にシッポを振るような真似は出来ない。
黙ったままの明良に、遼二は笑顔から表情を引き締めて頭を下げた。
「先ほどはすみませんでした」
自分よりずっと背の高い遼二の頭が、目線の下の方に見える。
本当はほとんど八つ当たりなのは、明良自身わかっている。
謝ってもらうことなどないのだ。
せめて一言、オレもごめんと言いたかったが、意地が邪魔をして声が出なかった。
頭を起こした遼二は、また笑顔に戻って言葉を続けた。
「時間があるのでしたら、たまには各部課を見て回りましょう。
高田さんに許可をもらって来ますので、少し待っていて下さい」
明良のことは本来和也なのだが、その明良は和也に部屋を追い出されてしまっている。
この状況で遼二が許可をもらうというのは、自分が席(仕事の持ち場)を外れることなのだ。
それからほんの数分、言葉通りすぐ戻って来た遼二に、明良はもう意地と呼べるものは何もなかった。
「杉野さん、オレも・・・ごめん!」
照れた笑顔を見せたのは、遼二の方だった。
「さて、どこの部課に行きますか」
最上階全フロアを占める長い廊下を、明良とその半身後ろに付いて歩く遼二がいた。
「姉ちゃんのいる営業部!賑やかで面白れぇもん!」
即座に明良は答えた。姉ちゃんとは、真紀のことを指す。
「そうですね。営業部は各部課も認める花形部署ですからね、活気があります。
でも営業部はこの間行きませんでしたか?」
遼二は頷きながらも、楽しいことを基準に決めようとする明良をけん制した。
もちろん楽しくても良いのだが、遊びではないことを認識させなければならない。
「あ、そういや松本のおばちゃんに、園田さんの結婚おめでとーって言いに行ったんだったよな。
んー・・・他はあんまり、オレ行ったことないもんなぁ・・・」
「だから行くんですよ。
俺は秘書課ですからこうして明良君に付かせてもらっていますが、他の部課の社員はそうそうお目に掛かる機会もありません」
「そこまで言ったらオーバーだぜ、杉野さん。営業部ほど顔見知りいないしさ、案外邪魔に思われるんじゃね?」
苦笑いを浮かべながらも軽く笑い飛ばす明良に、遼二は真面目な表情を崩すことなく答えた。
「行ってみればわかります」
「そっかなぁ・・・んじゃ、ここ!」
明良が指差した部課は、扉のプレートに資材部と表示されていた。
秘書課の隣の部署だがひとつひとつのエリアが広いので、どの部課もあまり隣同志という感覚はない。
A&Kカンパニー 資材部。
「ぼ!ぼぼぼ坊ちゃん!!!」
どよめきの上がる中から、仕入担当部門トップが飛んで来た。
「こんちわー、オレ!え〜・・今日は社内各部課の、し・・えっと、視察?に・・・」
明良が言い掛けている途中で、そっと遼二から文言の指摘が入った。
「見学です」
「じゃなくて、見学!!社内各部課を見学させてもらってんだけど、今いいかな?」
瞬間、どよめきが歓声に変わった。
「もちろんですっ!!まさか!まーさーかー!こんな地味な部署に来て下るなんて!
資材部一同感激でございます!さささ、坊ちゃん!ご案内はこの私!部門長が・・・あ?」
思わぬ来訪者に興奮状態の部門長は、付き添いの遼二のことなど全く目に入っていなかった。
後ろから部下に、
「部門長!部門長ってば!秘書課が何か言ってますよ」
背中を突かれて、ようやく遼二に意識が向いた。
「秘書課杉野です。部門長、突然申し訳ございません。
本日は各部課皆さんの仕事を見学させていただきに参りました。どうか普段のままでお願いします」
「よし、わかった。皆、聞いたな!?お前たちはそのまま仕事継続!俺は坊ちゃんご見学の案内をする!!」
鼻息荒く改めて案内役を宣言した部門長だったが、すでに明良はご見学≠はじめていたようだった。
部員たちの声が、明良を取り巻く中から上がっていた。
「明良坊ちゃん!それはっ・・・!」
「新しいのを持って参ります!」
「手づかみで・・・!誰か!明良坊ちゃまにフォークを!」
どうやら資材部のこのグループは、食材の試食会をしていたようだった。
仕入れ部門としては、極めて重要な仕事のひとつなのだ。
そこへ明良が来て、食べ散らかした皿の中身も物ともせずパクパクッと食べた。
「オレはこっち、Aの皿のトマトの方が断然美味いと思うぜ。なあ、部門長!」
明良に呼びかけられて、ひとり蚊帳の外にいた部門長の顔がくちゃくちゃになった。
どけどけどけーっ!と、輪をかき分け大急ぎで明良の傍に駆け寄った。
空回りの意気込みもひとり蚊帳の外も、明良のなあ、部門長!≠ナ全てチャラだ。
「はい。こちらのトマトは'lumiere(リュミエール)'の新メニューに使う予定です。
さすが明良坊ちゃん、好き嫌いがないとお聞きしています。基本はそこなのでしょう」
部門長はトマトの味がどうこうという説明は一切せず、どこの店舗で使われるかということと明良の食材に対する味の確かさを褒めた。
「へへーっ、オレ、トマトはわかるぜ。ほとんど毎日食ってるもん。
てか、和也さんが料理にトマトばっか使うんだよね」
例によって女性社員たちから、艶めかしいため息を吐くような声が上がり、
「そういうのって、バカのひとつ覚えって言うんだよな!」
例によって男性社員たちから、うおおおっ!!と賛同の雄叫びが上がった。
「この間の'lumiere(リュミエール)'記念前夜祭で出された料理も、資材部の仕入れ部門で厳選された食材のものばかりです」
それまで黙って見ていた遼二が、軌道から外れそうになる明良をフォローした。
「そうそう!オレは牛肉のロースト食った。そいじゃ、あれもここで仕入れんの?」
「はい!精肉部門です!」
男性社員が手を上げた。
「へえ〜。ソラ豆のスープも美味かったぜ!それも?」
「はい!野菜部門です!」
今度は女性社員が手を上げた。
「まだ他に青果部門、生鮮部門など食材に合わせて細かく部門が分かれております」
部門長は他の社員の紹介も忘れない。
「ふ〜ん。食材ってレストランの一番大事なところだろ。ちっとも地味じゃねぇじゃん!
また試食会するときはオレも呼んでよね、部門長!」
「あ・・ありがとうございます!はいっ!是非!明良坊ちゃん!」
最後は部門長を先頭に、全員起立で明良を見送った。
次にその隣の広報課に行きここでも大歓迎を受けて、帰り際に課員たちと記念写真を撮った。
次いで企画部を訪問した。広報課に顔を出したのなら、企画部にも出さないわけにはいかない。
企画部と広報課がライバル関係にあるのは、周知の事実なのだ。
もっとも、明良がそういったことに頓着しないのは当然のことなので、その辺りは遼二の配慮が欠かせない。
企画部ではお茶とクッキーのおもてなしを受けた。
「この尻クッキー美味いね」
「桃クッキーです、明良坊ちゃま」
「ピンク色の食紅を使って、当部員の女子社員が焼きました。
美味しいですか、有難うございます。お持ち帰りの分もご用意してあります」
と、いずれの部課でも楽しい見学と社員交流を深め、明良たちは秘書課に戻った。
「明良君、お疲れ様でした」
遼二は明良を労いながら、受付台の下に置いていた学生鞄を手渡した。
「サンキュ。・・・オレ、皆の働いている姿見れて良かった。
デスクに両足乗せて、ふんぞり返ってる奴なんてサイテーだよな」
ああ、叩き出された理由はそれだったのかと、遼二は察知した。
「どの部課も最高の笑顔で出迎えてくれましたね。
サイテーの奴に、あれほど社員たちの士気が上がることはありません」
明良は叩き出された理由を気付いてはいたが、ただほんの少し心のどこかにそのくらい≠ニいう慢心があった。
それが完全に消えたのは、一生懸命働く社員の姿を目の当たりにしたからだ。
「杉野さんがいてくれて、良かった」
照れ隠しもない素直な言葉を残して、明良は執務室の扉を開けた。
遼二が明良を見学に連れ出したのは、明良がほとぼりを冷ますまでの居場所を作る為だった。
結果として明良に反省を促す非常に良い判断となった。
適切な判断は好結果をもたらす。
これが、仕事が出来るということなのだ。
締め出された明良と一緒になって右往左往したり、高田にどうしましょうかと判断を仰ぎに行ったりでは仕事は滞ってしまう。
それぞれの仕事位置で技量がきちんと発揮出来ていれば、仕事は前へ進む
A&Kはそういった個々の能力が高く評価される会社でもある。
明良が執務室に入って暫くしても静かなままなので、遼二も秘書室に戻った。
秘書室に戻ると長尾、吉川はまだ不在だったが、フェリス本社に出向いていた橋本が帰っていた。
遼二は高田に明良の件を簡潔に報告して、給湯室へ向かった。
数分後、挽きたての香りが室内に漂った。
「お疲れ様でした。どうぞ」
「ん・・ありがとう。ああ、杉野君ちょっと。ほら」
橋本は遼二の淹れたコーヒーを手元に寄せると、一枚の名刺を見せた。
見るからに真新しい名刺だった。
「・・・湯木さんのですね!今回のエグゼクティブ復帰で、ここ数年は役職から離れていたことを聞いて驚きました」
「'lumiere(リュミエール)'の記念前夜祭に出席頂いた時は、まだ復帰前だったからね。
この名刺は復帰後配る予定に新しく作り直した物だよ」
「え・・・?でも俺が湯木さんと名刺交換したのは前夜祭の・・・」
「そうだ、これと同じ物だ。君はまだ復帰前の湯木さんから、復帰後の名刺をもらったんだよ」
つまりその時、すでに湯木の復帰は決まっていたことになる。
「まあ、名刺は何か月か前から準備しておくからね。
それでもちょうど刷り上がったばかりで、君が最初の一枚を交換した相手だと言っておられたよ」
「俺の持っている名刺が最初の一枚・・・光栄と思うより、何だか怖いです」
「これでわかっただろう。たかが名刺、されど名刺だ。
君の交換した名刺には、名前と共にもうすぐ復帰しますというサインも刻まれていたんだ」
ごくりと、遼二の喉が鳴った。
フェリス・ドゥ・カミヤ エグゼクティブマネージャー 湯木。
表の顔を見た瞬間だった。
その湯木は、役職復帰後の初仕事をすべく神矢邸にいた。
時刻は夕餉、神矢少年と食卓を共にしていた。
座席位置は向き合う形ではなく、長方形のテーブルの長い方に神矢少年、短い方に湯木、L字形が二人のいつもの定位置だった。
メニューは金目鯛のブイヤベース風、野菜のキッシュ。
ほうれん草ときのこのテリーヌ、スモークサーモンとパプリカノマリネなど。
料理は専属シェフが腕を振るうので、味は一流レストランのものと変わらない。
湯木が美味しそうに料理を口に運ぶのに反して、神矢少年は淡々と料理を口に運んでいた。
不味そうにとは言わないまでも、料理そのものに興味がないと言った感じだった。
「三都史様、今日のシェフの料理は、何だかいつもより豪華ですね」
「湯木の役職復帰祝いだ」
神矢少年は湯木の方を向くこともなく答えた。
「そうですか。私も三年間こうして三都史様とご一緒に、シェフの料理を頂いて参りました。
後でお礼を申し上げておきます」
「・・・湯木」
湯木の言葉に、寂しそうな表情を浮かべたのは神矢少年だった。今度は湯木の方を見た。
「何ですか?」
ああ、またこの顔だと、神矢少年はきゅっと唇を噛んだ。
わかっているくせに
湯木は、僕のことは何でも知っている・・・くせに。
しかし悔しくても、黙ったままでは答えてくれないことを、神矢少年もまた知っている。
「役職に復帰しても、夜は来れるじゃないか」
「そう言うわけには参りません。役職と三都史様との掛け持ちは出来ません」
「それじゃ、僕より会社の方が大事ってこと!?」
神矢少年は持っていたフォークを、ガチャンと音を立てて乱暴に置いた。
「会社が大事です」
湯木は愕然と見つめる眼差しを真っ向から受けながら続けた。
「会社は三都史様の会社です。私は三都史様の会社が大事です。必ず立て直して見せます」
「僕の・・・会社・・・」
「そうですよ。あの日、A&Kの新店舗に招待された帰りの駐車場で、約束したではありませんか」
―・・・負けたくない―
―私もです―
―再建の道は私たち幹部の意識改革からです。三都史様はいまのお気持ちを、お忘れにならないように―
「もう、お忘れになりましたか」
「忘れてなんかない!」
忘れようもない、駐車場に止まっていたリムジン。
そこに現れた集団の中から、僅かに見えた明良の姿。
迎えの車もなく湯木と二人、タクシーの到着を待っていた自分とは歴然の差だった。
「安心しました」
湯木は目を細めて、微笑した。
「でも・・・明日から僕は、この広い屋敷に一人ぼっちだ・・・」
それでも神矢少年は、まだ湯木が離れてしまう不安を口にした。
「社長がお戻りになられたでしょう。お話はなさっていますか?」
病に倒れた社長は入退院の繰り返しと長期のリハビリの後、ようやく自宅に戻ることが出来た。
介護は社長の妻が24時間付き添っていたが、その妻は後妻で神矢少年とは義母の関係だった。
「話したくても、あの女がいるから嫌だ」
「あの女ではありません、ご夫人です」
「・・・もういい。気分が悪い」
ナフキンを放り投げて、立ち上がった。
「ナフキンが料理に掛かってしまっていますよ、三都史様」
湯木も席を立って、無言で立ち去ろうとする神矢少年の腕を掴んだ。
そうしている間に、給仕がナフキンの掛かった料理を下げようとしていた。
「すみません、そのままにしておいて下さい」
「新しい料理と、取り替えて参りますが・・・」
「いえ、それは私が致します。それよりも、こちらが呼ぶまで席を外してもらえませんか」
「は・・離せ!!湯木!!ばかっ!!もうお前なんて帰れ!!」
突如、神矢少年が暴れ出した。
給仕は食事の世話だけでなく、その場の雰囲気を察知するのも仕事なのだ。
速やかに頭を下げて部屋の外に出て行った。
「どれだけ暴れられても、離しません。私は何があっても、三都史様から離れません」
「湯木・・・」
と、呟いた時には、もう膝の上だった。
「三都史様、いつ以来でしょうね。15にもなってこんなことでは、先が思いやられます」
「まっ・・・!」
待ってくれるはずなどないのは十二分に承知していても、ほとんど条件反射で声が出る。
そしてそれは、必ず言葉にして最後まで言えた試しがない。
神矢少年は、ぱぁんっ!と弾けた音に驚いた。
広い食堂は天井も高く、普通の部屋よりも音が数倍大きく響いた。
もちろん痛みもあるのだが、それよりも何よりも音だ。
音は紛れもなく尻を叩かれていることを意識させられる。
15にもなって
ぱんっ!ぱんっ!と、やたら音だけが耳に付き、カァッと顔が先に熱くなった。
「ああ、だけど、今日が私の最後の授業ですから、これだとしっかりお受けいただけますね」
「湯木っ!!・・・僕が悪かった。一人でもちゃんと我慢するから・・・」
虚勢を張ってみても、その先が続かない。湯木の壁は高い。神矢少年はすぐ折れた。
「本当に困りましたね・・・赤ちゃん返りですか?そんなことは五歳くらいの子供が言う言葉ですよ」
困りましたねと言う割にはちっとも困っていそうにない優しい声音で、湯木は神矢少年を抱えている左手に力を入れた。
以前の感覚のままに膝に乗せて、大きくなっていることに気付く。
子供の成長は早い。
親でもないのに、湯木はそれを実感するたび感慨深い気持ちに捉われるのだった。
膝の上の少年は、半ばパニック状態だった。
謝ってもダメ、我慢するといってもダメ、あげくに赤ちゃんだの五歳児だのと言われて、もう何をどう言えばいいかわからない。
こらえていた涙がポタリと一滴落ちたら、こらえていた意地も落ちた。
「今日の・・湯木は・・ぐすっ・・意地悪だ。わざ・と・・意地悪ばっかり言う・・んだ。
僕が・・うぅ・・寂しいって思ってるの・・知ってるくせに・・・知ってるくせにぃ!!」
「そうですね、今日の私は格別意地悪ですね。寂しいのは私も同じです。
ですが先ほども申し上げたように、私はそこに止まっているわけには参りません」
感傷の波紋は静かに息と共に吐き出して、
「それは三都史様、貴方もです。我慢などせず、意地悪な湯木を見返してやりなさい」
湯木は後継者たる神矢少年の、今後の姿勢を厳しく求めた。
そしてここからが、授業なのだ。
厳しく求めればこそ、その意味を神矢少年自身が理解し納得して明日からの一歩を踏み出せるように。
「今までご家族のことには介入を差し控えておりましたが、今日だけは苦言を呈させていただきます。
社長のご回復はご夫人の献身的な支えがあってこそと、私は感じております」
「・・・だけど!僕は母親とは認め無い!僕の母は一人だ!」
「母として認める、認めないが問題ではありません。縁あって三都史様の人生にも大きく関わる方です。
対話をなさい。対話を重ね、お人柄に触れる努力をしなさい」
「ずっと無視していたのに・・・今さら・・・」
「それが一番いけません。無視するということは相手の存在自体を否定することです。
そんな風に人を傷つける資格は、誰にも有りません」
「・・・・・・」
黙ると言うことは、たぶん何度かは嫌な思いをさせたという自覚があるのだ。
すなわちいけないことだと認識していることになる。
「10回です」
ビクッと神矢少年の身体に緊張が走るのを感じつつ、湯木は右手を振り下した。
ぱぁんっ!
やっぱり大きな音に、顔が熱くなった。
しかし、ぱぁん!ぱぁん!ぱぁん!と続けて降ってくる痛みに、すぐ顔より尻が熱くなった。
ぱんっ!! ぱんっ!! ぱんっ!! ぱんっ!!
「うっ・・・」
ぎゅっと奥歯を噛み締める。
後、2回・・・
ぱんっ!! ぱぁん!!
ホッと力が抜けて、神矢少年は知らず知らずのうちに数を数えていたことに気付く。
「さて、これからの食事はどうされますか?」
「・・っ・・食事?」
ジンジン痛む尻を擦ろうとしたら手を払われた。
「明日からお一人だと仰っていたので、心配しております」
「お父様とご一緒する・・・どうせあの女もいるから、そうすればいいんだろ」
「そうですね、食事をご一緒するのは良いことです。対話のきっかけも多くなります。
ですが、先ほども注意いたしましたね、人を蔑称して呼ぶことは許しません。2回です」
ばしっ!! ばしんっ!!
数は少ないが容赦なかった。
「ふえぇっ・・・」
思わす声が洩れた。
「食事に際して申しますと、三都史様はマナーの肝心なところが足りていません。何度かご注意したはずですが」
「僕は、マナーはちゃんと守っている。どこかの誰かみたいに、ガツガツ下品な食べ方はしない」
マナーの足りないところを指摘された神矢少年は、暗にマナーの悪い明良を引き合いに出して反論した。
「肝心なところが足りていないから、人のそういう表面しか見えないんです」
が、にべもなく返された。
しかも取り方によっては、明良を非常に高く評価している。
「その分では、すっかりお忘れになっているようですね」
「・・・・・・」
これ以上の反論はますます分が悪くなるだけだ。
神矢少年は口を噤むことで白旗を示した。
「ではヒントを差し上げます。食事のマナーは礼儀作法です。
作法だけではマナーを守っているとは言えません。肝心なところとは礼儀の部分です。思い出されましたか?」
―生命を頂くこと、料理を作って頂くこと。
享受していることを、お忘れにならないように―
「・・・感謝」
「そうです、感謝です。感謝が足りないから、適当に食べ残してしまわれるのです。
食べ物の上に投げ捨てたナフキンもそうです。シェフの気持ちを、お考え下さい」
返事がない代わりに、ぐす、ぐすと鼻を啜る音がした。
「宜しいですか、これも10回です」
湯木が回数を宣告するたび、神矢少年の身体に力が入る。
ぱんっ!ぱんっ!ぱんっ!
音は軽く聞こえるのに、痛い。
ぱんっ!ぱんっ!ぱんっ!ぱんっ!
しかも同じ間隔で湯木の手が降りて来るので、痛みが引かないうちにまた痛みがやって来る。
ぱんっ!ぱんっ!ぱんっ!
「うっ・・ふぅ・・うぅっ・・・」
もう完全に涙が溢れた。
泣いてしまったことが情けなくて、よけい泣いてしまった。
暫く乱れていた呼吸もようやく落ち着いた頃、神矢少年は膝から降ろされた。
そして立ったままで、椅子に座ったままの湯木と向き合った。
以前だと目線が同じくらいだったのに、今では見上げるくらいの位置にあった。
湯木は抱くように神矢少年の両腕を掴み、ぐっと握り締めた。
「三都史様、最後が一番大事です。何事にも誰に対しても、感謝を忘れず、明日からはご家族でお過ごし下さい。
一人ぼっちで我慢する必要はございません」
「・・・わかった」
また涙声になった。
「フェリス再建の暁には、私が三都史様をお迎えに上がります」
「湯木!」
叫ぶように名を呼んで、神矢少年は両腕を湯木の首に絡めて抱きついた。
「今日学んだことは、忘れない。待ってるから・・迎え・・に・来・・っ・い・・・必ず!」
「はい」
湯木は最後の授業を、自らの返事で締め括った。
それはまた、フェリス後継者神矢三都史に捧げる湯木の、役職復帰後の初仕事でもあった。
フェリスは変わる。
橋本から湯木の名刺に含まれた意味を教えられて、遼二は自分の名刺ファイルを繰った。
'lumiere(リュミエール)'の記念前夜祭で名刺交換をした湯木の名刺が収まっている。
同じ一枚でも、持つ重さは雲泥の差だ。
次、どこかで会った時、湯木は自分を覚えてくれているだろうか・・・。
そんな風に思ってしまうほど相手は大きい。
ふと、神矢少年が思い浮かんだ。
守るように湯木が仕えていた少年は、明良と同い年のフェリスの後継者。
負けられない。
相手がどれだけ大きくとも、呑まれてはいけない。
守るとまではいかないまでも、自分もA&K後継者のブレーンの一人だ。
遼二は身を引き締め、業務に戻った・・・・・・ところが!?
席に着いた途端、秘書室側に繋がっている執務室の扉が開いて明良が飛び出して来た。
「杉野さーんっ!!オレ、ちゃんと反省したよなあ!!」
さらに和也が続く。どうも明良に逃げられたようだ。
「全く・・・とても反省している姿とは思えないね」
「あ?・・・あの?」
さっきまで何事もなかったのに・・・。
目の前に和也、後ろに明良。
きりりと引き締めた顔は一分と持たず、困惑に変わった。
さらにその直後、反対側の社長室の扉が開いて社長が飛び出して来た。
「明良!?明良ー!!帰ってたのかー!!」
「ひっ!社長!!」
とにかく、三人に取り囲まれてしまった。
「反省文の用紙が、お菓子の油でベタベタでしょう」
「だからあれは企画部でもらったって言っただろ!どこの部課も、めっちゃオレのこと歓迎してくれてさ!
尻クッキーは、社員の皆の気持ちだぜ!何よりの反省なんだよ!!」
「明良っ!!偉いぞ!!よく言ったー!!」
遼二そっちのけで話は飛び交っているのだが、それぞれの内容は手に取るようにわかる。
執務室に戻った明良は、和也から反省文を書かされることになった。
素直に書き始めたのは良かったが、途中で企画部からお土産にもらっていた桃クッキーを食べ始めたのだ。
明良には明良の言い分があるのだが、到底和也からしてみれば反省中にお菓子は有り得ない。
社長は社長で、さすがに一生とは思わないまでも、明良が口を聞いてくれないのは寂しい。
見学から帰って来た明良を、待っていたようだった。
「さあ、最初から書き直し。部屋に戻りなさい」
素早く和也は明良を捕まえて、引き寄せた。
「あっ・・・!やめっ・・・!」
明良もすばしこいのだ。丁寧に腕を取って、などでは捕まえることは出来ない。
手の届く範囲であれば、どこであろうが服を鷲掴みにする。
その要領で掴まれたところが、肩甲骨辺りだった。
思いっきり引っ張られて、またカッターシャツがはみ出た。
「明良、さっきは進藤が間違えて鍵をかけていたみたいで・・・」
社長は引き摺られて行く明良より、自分の釈明に忙しかった。
「社長、早くお戻り下さい。電話が入っております」
親ばかに付き合わされる進藤も、たまったものではない。
「親父ー!!これっ・・・!!」
明良もたまったものではない。何故和也を止めてくれないのか。
「明良っ!!ああ、良かった!!」
「社長っ!!」
さすがに進藤も、語気が荒くなる。
「すまんな、明良。進藤がうるさいので、またな。いつでも社長室に来ていいぞ!」
社長は、明良が親父!!≠ニ口を聞いてくれたので、後はもうどうでも良い。
「ちょっ・・・行けねぇだろ!!見てんだったら助けろよ!!バカ親父ー!!」
「親に対して使う言葉じゃないでしょう。取り敢えずそれも含めて、君の食べていたクッキーの色くらい反省してもらいます。
反省文の書き直しは、それからだね」
「クソ親父ーーー!!」
と、叫ぶ明良の声を残して、執務室の扉が閉まった。
結局遼二は巻き込まれはしたが、台風の目にすっぽり嵌まった状態で難を逃れた。
「フン、フン、フン♪ 出来たーっと。見て、見て、杉野君」
こちらは身近のゴタゴタに巻き込まれないよう、ひたすらひっそりと仕事に勤しんでいたようだった。
高田は自分のパソコンを眺めながら、満足な出来栄えについ遼二に声を掛けてしまった。
「あ、はい」
遼二は席を立って、高田のパソコンを覗きこんだ。
「名刺・・・またデザイン変えるのですか?」
「うん。A&Kのロゴさえ入れれば、手作りでもOKだからね。
僕の名刺、けっこう評判いいんだよ。どう?今回の?」
高田は書類作成の構成に長けていて、社内からは(主に女子社員)
―高田行くところ花びらが舞い、花びらを手本の雛形に変える高田マジック―
と呼ばれているくらいなので、当然そういったデザイン制作も得意分野のひとつだった。
名刺も二ヶ月に一回くらいの割合で作っていた。
高田の名刺はすぐ変わるので数も少なく、特に何かを記念して作成した限定の名刺はプレミアムまで付くほどだ。
「ほう、上手いですね」
「はっ・・橋本さんっ!」
高田はぎくりと、心臓が飛び出すかと思った。
前の席がうるさかったので、後ろの席をすっかり忘れていた。
橋本が名刺作りを仕事と認めてくれるか・・・・・・でも、今までコロコロ名刺を変えても何も言われたことはなかったし。
僕の名刺は評判が良いし、それはイコール会社の評判だし・・・と、どんどんポジティブに思考が働くところが高田らしい。
「今度、私のも作ってくれませんか」
橋本に頼まれて、行きつくところまで行き着いた。有頂天。
「はいっ!任せて下さい。すぐにでも取り掛かりますよ!どんなデザインにします?」
「そうですね、取り敢えず会議室で相談しましょうか」
「かっ・・・!?はっ・・・!?僕は!僕は・・・助けてえぇ!!杉野っくーんっっ!!!」
一転地獄に落ちるのも、また高田らしい。
「え〜・・えと、橋本さん!俺は名刺作りも仕事の一環だと思います。
それに高田さんの名刺は社内外でも評判ですし・・・かなり貢献度は高いと思います!」
遼二は縋りついてくる高田を、多少もたつきながらも腕を上げつつある説明で何とか閻魔大王の魔の手から救った。
今までならここは吉川のポジションだったのだが、遼二もなかなかどうして立派に吉川の後を引き継いでいる。
※コメント
今回は、明良一推しの尻クッキー(正式名称は桃クッキー)^^
企画部女性社員の社風を生かした手作りです。
ちびちび吉川君v<Xトラップの実績を誇る、さすが企画部というところでしょうか(笑)
次に、湯木と神矢少年。
こちらは小ネタで別書きにするか迷ったのですが、本編に組み入れました。
元々26話は湯木/神矢少年の場面が一番先に思い浮かんだのですが。
Luckyは順番にしか書けない(飛ばし書きが出来ない)ので、そこに到達するのにものすごく時間が掛かりました^^;
今回は特に長くなりましたので、それぞれの場面を切り離しても、単独で楽しんで頂けるよう書いたつもりです。
そして杉野遼二。
これだけ詰め込んだ中にあっても、さらに存在感が増していれば嬉しく思います。
追記 : おまけ出来ました^^ 26話・その後の神谷少年と明良の明暗
novelsへ