5
遼二の両肩をぐっと掴んで、真後ろに長尾がへばりついている。
いつもここでパニックになるから、つけ込まれる。
考えるより先に行動が出るということはそういうことだ。
冷静に毅然とした態度でいれば、相手もそれなりの節度をもって接してくるはずだ。
「・・・杉野君?・・・どうしちゃったのかな?」
長尾が遼二の左横後ろから肩越しに、ぐいっと顔を突き出した。
覗き込む距離前方5cm。
しかし、遼二は動じなかった。
左横前方5cmの長尾の顔を見据えながら、毅然と言い放った。
「長尾さん、いい加減にしてください。仕事中です」
遼二の両肩からスッと長尾の手が引いた。ついでに覗き込んでいた顔も引っ込んだ。
―やった!―
すんなりと長尾が引き下がって、遼二は冷静さを装いつつも心の中では目一杯ガッツポーズを決めた。
だが、ここで油断してはいけない。思わずこぼれそうになる笑みをこらえて、無表情に続けた。
「明良君のお出迎えも済んだことですし、いつまでもこんなところにいても仕方ないでしょう。長尾さん・・・なが・・・?」
長尾が離れたのはいいがあまりにも気配がないので、遼二はあれっ?とばかりに振り返った。
「ひっ!」
真後ろにいた。
長尾が自分の気配をコントロール出来ても、遼二に咄嗟の感情のコントロールなど、どだい無理な話だ。
ヘビに睨まれたカエル・・・遼二はひとたまりもなかった。
「新人教育も仕事の内だから。そうだね、こんなところにいても仕方がない。さっ、行こうか、会・議・室」
遼二が突き飛ばそうとするよりも先に、長尾がぐいっと遼二の腰に手を回して引き寄せた。
「うぁぁぁっ!!」
素っ頓狂な声が遼二から上がった。
女性を抱き寄せることはあっても、男性に抱き寄せられたのは初めてだった。
「何て声上げるの。いい加減にしないと、仕事中だよ」
―いや違うだろ!しかもそれはさっき俺が言った言葉だ!―
叫ぼうとした遼二だったが、ぐぐっ。長尾の、遼二の腰に回した手に力が入る。
覆いかぶさるような長尾とブリッジのように仰け反る遼二。
「あっ・・・うっ・・・」
息が詰まって声すら出ない。
―絶体絶命―
そんな四文字の熟語が遼二の頭に浮かんだその時―。
「オレもー!オレも混ぜてー!!」
どうやら先程の遼二の悲鳴に近い声が明良に聞こえたらしい。
いったん会社の受付を通って中へ入っていった明良が、また逆戻りで遼二たちの方へ走って来た。
明良には、遠目から長尾と遼二がふざけているように見えた。
それも荒っぽいふざけ方は退屈な明良の格好の遊びとなった。
「兄ちゃん、劣勢だな!オレが助っ人してやるぜ!!」
さらにタイミングの悪いことに、明良はこの間見た格闘技の世界戦の余韻が残るのか、妙に興奮していた。
さすがの長尾も明良の声に、遼二から顔が離れた。
力がゆるんで、遼二も体勢を立て直して明良の方を見た。
目が合った。
一目散に走ってくる明良のそのずっと後ろ、橋本と目が合った。
―また君か―
ありありと橋本の目は遼二に言っている。
―ち・・・違うのに!!長尾さんが・・・―
遼二も目で橋本に訴えたが、果たして訴えが通じたかは大いに疑問だった。
「真空の竜巻!ハリケーンアッパー!!」
興奮した明良が遼二を救出すべく長尾に向かって走りながら腕を振り回した時、
「危ない!明良君、横を見なさい!」
反対に長尾が遼二を突き飛ばして、明良の方に駆け寄った。
「きゃっ!痛いわねぇ・・・何なのこの子!!」
会社の入り口付近ですれ違いざま、明良の振り回す腕が女性に当った。
当ったのは明良の腕だったのだが、その反動で跳ね飛ばされたのも明良だった。
「すげ・・・風船ガムみたいなババアだな」
「マダム!!お怪我はございませんか!!」
明良の声にすかさず長尾の声がかぶる。
フロアに尻もちをついた明良は無視して、長尾は大声で女性のフォローに回った。
長尾でさえも明良のババア発言には肝を冷やした。
遊びの腰を折られた明良は、興奮も冷めて尻もちをついたフロアから立ち上がろうとした。
ツカツカツカと無言で和也が明良に近づいて来る。
「あっ・・・やばっ!」
明良は逃げようと体を反転して立ち上がったが、そこでぐっとズボンのベルト付近を和也に掴まれてしまった。
そのままぐいーっと引き上げられた。
当然尻が突き上がって頭が下がる。
明良はもがくものの、体の中心を掴まれているので体を起こすことも出来ない。
「何すんだよ!離せ・・・」
バシーン!!
「痛ぁーっ!!」
和也の平手が明良の尻を打った。
なおも和也は明良の尻を吊り上げるようにして、連続でその尻に平手を落とした。
パンッ!! パンッ!! パンッ!! パンッ!!
パンッ!! パンッ!! パンッ!! パンッ!!
「あぅ!・・痛ぃぃ・・・サ・・サンドバッグみたいに叩くなぁー!!」
真っ赤な顔で明良が和也に叫んだ。
どちらかというと恥ずかしいから真っ赤なのではなく、逆さまに吊り上げられて頭に血が上っての赤い顔のようだった。
しかもズボンの上からなので、まだ意地が張れるらしい。
バシィィーン!!バシィィーン!!
和也は再度明良の尻を高く吊り上げ、右と左に一発ずつ力いっぱい叩いてから掴んでいた手を離した。
「子供とはいえ不躾なことを。叱っておきましたのでどうか寛大なご処置を」
長尾に続いて、和也がうやうやしく女性のもとへ行き頭を下げた。
さらに秘書課の受付にいた高田もやって来た。
高田は長い睫毛を伏せながら丁重に頭を下げた。
「マダム、我が社へようこそ。ご不快な思いまことに申し訳ございません。ささっ、どうぞこちらへ」
三人に取り囲まれるようにして会社へ案内される風船ガムは・・・いや、のような女性は、巨体を揺すらせながらマダム、マダムと呼ばれてすっかり上機嫌だった。
一方長尾に突き飛ばされた遼二も、勢いで尻もちをついた。
手荒な形で長尾から解放されたが、結果として明良に助けられた。
起き上がって明良を見たら、とんでもない格好で和也から尻を叩かれていた。
見まいと思うどころか、釘付けになってしまった。
「いだっ・・・」
ドサッとその場に落とされた明良は、最後の二発がよほど効いたのかうずくまりながら必死で尻を擦っていた。
遼二は何と言って声をかけていいものか迷った。
不意に明良の顔が上がって遼二を見た。
明良は照れ笑いを浮かべながら、しかし悪びれるふうもなく言った。
「えへへっ・・・尻叩かれちった・・・」
そんな明良を見ていると、余計な言葉などいらないように思えた。
遼二は言葉の変わりに笑顔で明良に応えた。
「仲がよろしいですねぇ、お二方」
まだ橋本がいた。
「ここは会社の玄関口ですよ。こんなところで暴れて、全く。さぁ、早く部屋に戻りなさい」
あきらかに遼二と明良をセットにした言い方だった。
―違うのに!!―
やはりさっきの遼二のアイコンタクトは、橋本には全然通じていなかった。
「チェッ、オレん時はみんなねーちゃんにするんだ。男なんていらね」
橋本と遼二を後ろに従えて堂々と明良は言う。
―ホストクラブの次はキャバレーか・・・―
遼二は今さらもう遅いという気もしないではなかったが、なるだけ関わり合いのないように、聞こえない振りをした。
「あっ、でも兄ちゃんはいてもいいぜ」
明良が嬉しそうに振り返って遼二に言った。
「・・・あ・・ありがとうございます」
聞こえない振りは不可能だった。
「良かったですねぇ。私はクビですが君は大丈夫そうで」
面白そうに言う橋本だったが、遼二には冗談を返す余裕などなかった。
「子供の戯言です・・・」
「案外子供は鋭いものだよ。戯言かそうでないか・・・。杉野君、君はどうも落ち着きが足りない。
まず落ち着いて、そして人の言葉に惑わされない事が肝心です。
そうすれば多少の行き違いや誤解が生じても慌てることなく対処できます」
ゆっくりと語りかけるような橋本の口調は、けして説教じみたものではなかった。
そして遼二は、すぐ浮き足立つ自分の欠点を諭すように忠告してくれる橋本に、幾ばくかの安心を覚えるのだった。
「兄ちゃん、今度こそハリケーンアッパー見せるから。クロスアッパーもあんだぜ!」
橋本を完全無視して、振り返り振り返り明良が遼二にしゃべりかける。
遼二は格闘技のことは、あまりよく知らなかった。ほとんど意味がわからない。
「ほぅ、話の合うことですね。私にはなんのことかさっぱりわかりませんが。なるほど、仲がいいわけですね」
橋本がなかば感心したように、なかばあきれたように言った。
―違うのに!!―
誤解もはなはだしい。
安心は一瞬の産物か。
限りなく思い違いをしている橋本に、とても安心などしていられない遼二だった。
*コメント
'マダム'・・・これでよりホストクラブのイメージが。・・・秘書課です。
NEXT