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「杉野君・・・杉野君?・・・杉野君てば・・・すぅぎぃのぉくぅーん」
吉川が丸めた書類をラッパのようにして遼二の耳元に向け、名前をしつこいくらいに呼んだ。
遼二はバサッとひと振りで払いのけた。
「なに怒ってんの・・・?」
吉川が不思議そうに聞いた。
「何って・・・吉川さん俺に言ってることと自分のしてること、全然違うじゃないですか」
遼二には吉川がとぼけているように見えた。それが我慢ならなかった。
「何それ、どういう意味?・・・聞き捨てならないな」
吉川の表情が変わった。むっとした顔で遼二を睨んだ。
長尾に続いて吉川にも同じ言葉を言われるということは、どうやら先に出るのは行動だけではないらしい。
遼二はすぐ感情的に言葉が出る自分の軽率さを一瞬悔やみもしたが、それでもすぐさま吉川を睨み返した。
さっきまで散々な目にあって、ようやく自分の席に着いたばかりなのだ。
その原因ともなった吉川にこうもしゃあしゃあと、とぼけられたのでは割が合わなさ過ぎる。
「聞き捨てならないのは俺の方です。明良くんの出迎えに俺は行く必要なんてなかったのに、よく行けっていいましたよね。
それもあんな脅しみたいな言葉使って・・・」
吉川は長尾ほどの凄みはない。
ムッとした顔も普通にしていれば凛々しい太い眉毛が、どちらかと言えば坊や顔に可愛らしく見えた。
「僕がいつ君を脅したのさ」
吉川はなおも心外そうに遼二に言った。
「脅したじゃないですか。迎えに行かなきゃ・・・その・・お仕置きされるとか・・・」
今、部屋には吉川と遼二の二人だけだった。
橋本は明良に付いて和也の部屋に行っている。
和也、長尾、高田は先ほどの風船ガムのマダムを来客室に案内したまま、まだ帰って来ていなかった。
「ああ、あれ。あれは忠告だよ。君、全然下調べしてないだろ」
「下調べ?」
吉川の思わぬ言葉に、遼二がオウム返しのように問い返していると部屋のドアが開いて高田が戻って来た。
「ふぅ・・・疲れた。・・・どうしたの?二人とも。仕事中だよ」
横並びのデスクなのに、二人の体は向き合っている。高田は交互に二人を見た。
「杉野君が脅かすだのなんだのって、僕に言いがかりをつけるんです」
吉川が太い眉をしかめて、生徒が先生に言いつけるように高田に訴えた。
遼二も吉川には負けていなかった。低レベルな言い合いとわかってはいても感情は止められない。
「言いがかりじゃないでしょ。本当のことじゃないですか。
だいたい吉川さん、明良君の出迎え行ったことないそうじゃないですか!」
「ないよ。それがどうした」
あっけらかんと言う吉川に遼二は拍子抜けしそうになったものの、その平然とした吉川の顔がまた勘に触るのだった。
「どうした・・・って、じゃあなんで俺には行けって言うんですか!」
「君が何にも知らないからだろ。だから、下調べはしたのかって聞いてるんだ」
遼二は吉川が何を言っているのかわからなかった。話が噛みあわない。
腹は立つものの言葉に詰まった。
「ほらほら、二人とも大人気ないよ。行ったの、行かないのって。
ちゃんと明良君の出迎えは済んだんだからいいじゃないの」
高田が二人の中に割って入った。
吉川は遼二と一緒くたに注意されたことが気に入らない様子だった。
頬が膨らんで不満いっぱいの吉川だったが、やはりそれでも遼二よりずっと冷静な物言いだった。
「全然そんな意識がないから、僕が何を言っているのかわからないんだ。
君、少しは秘書課のこと調べて来たの?辞令もらってからさ」
遼二が「あっ」と言う顔をした。
「そら、見てみろ。何のために午前中に辞令が配布されると思ってんの。
勤務は翌日からなんだから午後の半日の間に、自分の部署くらい調べておくのが当然だろ」
またもや形勢が不利になる遼二だった。
なおも吉川はまくし立てた。
「どうせ辞令の後はカラオケ行ったり飲みに行ったりドンチャン騒ぎだろ。君見てすぐわかったよ。
何も知りませんが当たり前みたいにさ、ぼ〜っと机に座ってそのうち仕事覚えますじゃ通用しないよ」
遼二は返す言葉がなかった。吉川の言う通りだった。
辞令配布後、明日からの勤務に備えるどころか仲間とドンチャン騒ぎの後、さらに真紀と二人で午前様デートにまでなった。
もともと希望していた課でもなかったこともあって、秘書課のことはまるで何も知らずに今日に臨んだ。
「まぁ・・・ねぇ、吉川君の言うことはもっともなんだけど・・・」
言葉の出ない遼二に変わって高田が吉川に言ったのだが、なぜか歯切れが悪かった。
「僕、何か間違ってますか、高田さん」
自信満々に、しかし憮然として高田を見上げる吉川だった。
その時、デスクの内線が鳴った。
内線に出た吉川に、高田はほっとした顔を遼二に向けた。
「・・・いないから・・・僕でよければ・・・うん・・・ええっ、嬉しいなぁ・・・」
たとえ電話で相手に顔が見えなくとも、にこやかな顔で応対する。
コロッと表情を変えるところは吉川もやはり秘書課だった。
「もうお昼ですよね。それじゃ僕、約束があるので」
吉川は遼二の方を見ると、ツーンとオーバーに顔を背けて席を立った。
遼二はそんな吉川に腹を立てるどころではなかった。
ひと言も言い返せなかった自分の甘さに、自己嫌悪を感じるのだった。
「何て顔してるの」
脱力して座る遼二の顔を高田が覗き込んだ。
「・・・俺、前もって調べるなんて頭にもなくて・・・。吉川さんの言う通りです。
辞令もらった後、みんなで飲みに行って・・・」
がっくりと落ち込む遼二に、高田は苦笑いでのん気に言った。
「吉川君さぁ、言ってることはわかるんだけど、理屈屋さんなんだよね。時に屁理屈」
「・・・・・・・?」
「長尾さんなんて、彼の理屈が始まったら即、'さっ、行こうか会議室'だよ」
さっきの高田の歯切れの悪さは、長尾のいないところで吉川のいつ終わるとも知れない理屈がまた始まったと思ったからだった。
内線電話に救われてほっとした。
「理屈・・・屁理屈?・・・って言うか、なんで会議室なんですか?」
遼二は自分も引っ張り込まれそうになったのだが、その本来の意味がわからなかった。
「ん?なんでって、うちの会議室は防音壁だから」
コクッと首を傾げる高田を見ながら、防音壁の部屋に連れ込まれてされるオシオキ・・・オシオキ・・・遼二は明良の姿を思い出した。
・・・まさか。
「辞令もらって部署も決まったんだから、普通は遊び収めするでしょ。
僕なんて朝まで遊び倒して初日遅刻だよ。お陰で進藤さんに、秘書課より先に会議室に連れて行かれたよ」
屈託なく笑う高田だった。
和也と橋本は別格として、吉川と高田両極端な二人に強引な長尾・・・遼二は改めて自分の先輩になる面々にため息がでそうになった。
さらにそこに、まだ進藤がいた。
「進藤さんって・・・今、出張中の・・・」
「あさってには帰って来るけど・・・そうだねぇ、まっ長尾さんがもう一人増えたぐらいに思っていればいいよ」
「げっ!」
長尾が二人!?
一人でも充分持て余しているのに、×2となるとどう対処したものか。
遼二は一度に汗が噴き出た。
「ところで真紀ちゃんて、君の彼女?」
彼女?と聞くわりに、やけに親しげに呼ぶ高田に遼二は驚いた。
まさか秘書課の連中から、真紀の名前が出るとは思いもよらなかった。
「高野真紀はそうですけど・・・高田さん真紀のこと知ってるんですか」
しかも親しげに呼ばれていい気はしない。こんなに親しく呼ぶ仲だったなんて真紀にも聞いていなかった。
いや、親しければなおさら言える訳がない。とは思うものの、真紀を疑う気にはなれない。
遼二は高田のひと言で、今度は彼女の方にシフトが移ってしまった。
「知ってるって言うか、すれ違い?杉野さんいますかって来たんだけど。
ちょうど秋月さんと長尾さんの応援に行く時だったんで、後の対応は吉川君にまかせたんだけど。
可愛い子の名前は必ずフルネームで聞くことにしてるんだ」
―すれ違っただけで親しく呼ぶな!まぎらわしいじゃないか!―
言いたくなる言葉をぐっと飲み込んで、遼二は高田に聞いた。
「でも吉川さん、何も俺に言ってくれませんでしたけど・・・」
言いかけて、ふとさっきの吉川の内線電話が思い出された。
こんな時に限って外れたことのない、イヤな予感が湧き起こる。
「俺も昼に行って来ますから!」
言うが早いか、遼二は部屋を飛び出た。
行き先は社員専用レストラン。
社員専用とはいえ、そこはレストラン経営を母体としているA&Kカンパニー。
社員はまず自社の味を知ることと、系列のレストランからシェフを招き、さらに喫茶コーナーまで設けていた。
もともと50階なので展望は良い。白を基調とした内装に緑の観葉植物で癒しの効果を促す。
八人掛けテーブルを中心に席数も多く、昼休憩は1時間半とゆったり食事が出来るよう配慮されている。
社員に対する福利厚生(待遇)は抜群だった。
遼二は広いレストランをぐるりと見回した。
すぐ真紀を見つけることが出来た。
遼二がずかずかと真紀に向かって歩いて行く途中で、真紀も気がついたようだった。
ここ、ここと、真紀が手を振った。
遼二はそれには応える素振りは見せず、そのまま真紀の隣に座った。
真紀の向かいには吉川が座っていた。
「どこ行ってたの?初日から忙しいのね」
横に座った遼二に真紀がメニューを渡した。
「こっちが聞きたいね。何しに来たんだよ」
遼二は見もせずそのまま伏せた。
吉川はまるきり知らん顔で別メニューを見ている。
「挨拶よ。初日だし、挨拶がてら各部課見て回ったらって言われて。
だから秘書課に一番で行ったのに、みなさん出払ってるんだもの。損しちゃった気分ですよ」
遼二に言っているはずが、最後は吉川に言っていた真紀だった。
「僕は得した気分だったよ。君みたいな可愛い子を独り占めにできて」
端で聞いていると歯の浮きそうなセリフに、遼二の方が赤面しそうだった。
「吉川さんが、来たこと伝えておいて上げるって言って下さったよ。
さっきもお昼誘おうと思って内線したけど、いなかったじゃない。そしたら吉川さんがお昼付き合って下さるって」
またしても遼二に言っているはずが、最後は吉川に言っていた真紀だった。
ニコニコと微笑みあう真紀と吉川。ひとり憮然とする遼二。
当然と言えば当然だった。
「昼前は俺、居ましたよね、吉川さん」
吉川は遼二の横で、遼二に掛かってきた内線電話に居ないと言ったのだ。
「さぁてね、居たの?君。」
吉川がはじめて視線を遼二に向けた。
「・・・今度は本当にとぼける気ですか。何なら高田さんだって証人でいるんですよ」
遼二も睨み返す。
「僕が何?どうしたの、さっきからウェイトレスの子、後ろで待ってるよ。僕は何にしょうかな・・・」
高田も来て、遼二の横に座った。
「君、僕が呼んでも返事しなかっただろ。何度も何度も呼んだよね。
だけど僕は君から返事は聞いてないよ。居ないのと同じだ」
「いや、それは・・・、でもその後、あれだけ話したじゃないですか」
屁理屈だと遼二は思ったが、どうしても形勢は悪い。
真紀はいきなりの事態の変化に、二人を見るばかりだった。
「関係ないね。呼ばれたらまず返事だろ。僕はわざわざ君のために言伝まで聞いていたのに。
伝えてあげようと何度も何度も呼んだのに、返事もしてもらえなくて。それどころか・・・」
高田がうんざりとした顔で遼二に小声で言った。
「また始まったじゃない・・・」
遼二はこのまま席を立とうかと思ったが、真紀がいる。
真紀に席を代わろうと言っても、どうして?と聞いてくるのが落ちだ。
だからと言って真紀を置いて吉川と二人にするのはいやだ。さらに高田もいる。
仕方なく遼二があきらめて、吉川の屁理屈を聞きながらとりあえず食事をしようとウェイトレスを呼びかけた時、
「う〜っ、疲れた。ちょっと今は食欲がないな。誰かさんのお陰でいつもの三倍気を使ったよ」
ドサッと長尾が吉川の横に座った。
真紀はさっきの遼二と吉川の事態の変化に少し戸惑いの色を見せたものの、次々とやって来る秘書課の面々に気を奪われてしまっていた。
「やぁ・・・可愛い子がいる。目の保養だなぁ。
気疲れでかすんでいた視界がだんだんはっきり見えてきた。君、名前は?」
長尾がいっさいの周りの状況を無視して、真紀に話しかける。
気がつくと真紀、遼二、高田。それに向き合う形で吉川、長尾。
遼二はこのメンバーの中に改めて真紀がいるのが不思議だった。出来れば関わり合わせたくない。
しかし当の真紀はそんな遼二の気持ちなど及ぶべくもない、すっかり有頂天だった。
*コメント
高田マイペース。実はちゃらんぽらんを矯正させられた・・・らしい、進藤あたり。
吉川は理屈屋さん、時に屁理屈です。
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