8
A&Kカンパニー 秘書課秘書室 午後―。
コーヒーの粉は計量スプーンで最初が10g。擦り切れ一杯。
二杯目から8gずつ。無理に多くとらない。四人分くらいが妥当。
お湯は低い位置から少しずつ。コーヒーの粉が膨らんだらそこでいったん止める。
少し蒸らして、再度お湯を足す。ゆっくりとの≠フ字を書くように。満遍なく注ぐ。
「ソーサー4枚、取って」
「・・・ソーサー?」
「コーヒーカップの受け皿だよ!」
吉川が太い眉をしかめながら、やや乱暴に遼二に言った。
秘書課には専用のミニキッチンがある。
ミニキッチンと言ってもひと通りの設備は整っていて、軽食くらいの料理など充分に作れる仕様になっていた。
お客様が二名。受付に立っていた吉川が来客室に案内して、橋本が入室と同時にお客様にお出しするお茶(コーヒー)を入れに来たのだった。
吉川の傍で遼二がコーヒーの淹れ方を習う。
コーヒーくらい淹れられるのに・・・と、内心遼二は思っていた。
吉川はドリップ式コーヒーの淹れ方を遼二に説明しながら、三杯をカップに注ぎソーサーに置いた。
スプーン、ミルク、砂糖を用意したところで別のカップにもう一杯を注ぎ、それにもソーサーをつけて遼二に差し出した。
「君の分だよ、どうそ」
「えっ!俺の?いいですよ!そんな・・・みなさん仕事してるのに」
遼二はとまどった。
散々楯突いた相手から差し出されたコーヒーなど、飲めるわけがない。
カチャカチャカチャ・・・・・・、
小刻みにカップとソーサーが触れ合う音がする。
見ると、遼二を睨みながらコーヒーを乗せたトレイを持つ吉川の両手が震えている。
「全く君ってやつは・・・・・」
「吉川君!早くお出しして!ほらっ、冷めちゃうでしょう」
様子を見に来た高田が、遼二に何か言おうとした吉川の言葉を切った。
「・・・はい!」
僅かばかり間があったものの、吉川はきびきびとした返事を高田に返して来客室に向かった。
「もう、ほんとに君ってば・・・。さっさと飲んじゃいなよ」
吉川にも高田にも似たような言い方をされながら、しかしコーヒーは飲めという。
遼二にはその真意がわからなかった。
「・・・・・・飲んじゃっていいんですか?」
「飲んでごらん」
尚も遠慮がちに聞く遼二に、高田はさっきの溜息交じりのような言い方ではなく、柔らかな命令口調で勧めた。
コクッ・・・―
「美味しい・・・」
遼二は驚いた。
今まで遼二にとってコーヒーの基準は、よほど不味いか甘すぎるかくらいでしかなかった。
ひと口含むと豆の香りがスゥッと口から鼻に抜けた。
続けて飲むと、口に広がるコーヒーは豆の香ばしさと苦味、そして酸味の順に遼二の味覚を刺激した。
「わかった?」
今度は高田が念を押すように遼二に聞いた。
「・・・はい。俺コーヒー好きですけどこんなに美味しいのなんて、喫茶店でも飲んだことないです。
吉川さんすごく上手に淹れるんですね」
まるで他人事のように感心する遼二だった。
「ばか者」
高田が珍しく長い睫毛の目を細めて遼二を睨んだ。
「はぃ?」
「にぶちん。誰がコーヒーの淹れ方に感心しろって言ってるの。
お客様にお出しするコーヒーの味を覚えておけってことでしょう」
そこまで言われて、はじめて遼二は理解出来た。
たかがコーヒーを淹れるくらい・・・と思って聞いていた吉川の説明が、今になって大事なマニュアルだと気付いた。
「・・・すいません。俺、全然気がつかなくて。でもそれならそうと・・・」
ひと言くらい言ってくれてもと遼二は思う。
「お金を払ってるんじゃないでしょう、お金を貰ってるんでしょう。会社は学校じゃないんだよ。
教えてもらって当然なんて考えていたら、大きな間違いだよ」
高田は遼二の不満を切って捨てるように言った。
「高田君の口からそんなセリフが出るなんて、進藤が聞いていたら涙流して喜ぶんじゃないの。ところで吉川君は?」
「長尾さん・・・。吉川君は今お客様にお茶を出しに行ってます、もう帰ってくるはずです」
高田は長尾の言葉など全く気にするふうもなく、いつもの柔和な表情に戻ってさらに遼二に言った。
「杉野君、君まだ吉川君でほんと良かったんだよ。僕の時なんか、長尾さんに進藤さんだよ。
まともに教えてもらうなんて、有り得なかったんだから」
確かに!
進藤はまだ知らないけれど、長尾がもうひとりで充分頷けた。
首を縦に振りたい遼二だったが、その長尾を前にして防衛本能が働く。
「僕には、みなさん有り得ないんですけど」
吉川がお茶を出して帰って来た。
「吉川君、昼食べ損ねただろう。食事に行こう」
長尾が待ち構えていたように吉川の腕を引っ張った。
「僕はいいです。何だか中途半端な時間には食べる気がしないので」
吉川は引っ張られた腕を引き返して、即長尾の誘いを断った。
「何?まだ座るのきついの?」
長尾が大真面目に吉川の顔を覗き込んで聞いた。
「当たり前でしょう、長尾さん。たかだか受付で1時間くらい立ってただけで回復するもんですか。ねぇ、吉川君?」
高田は吉川を弁護しているつもりだった。
吉川はたまったものではない。
長尾も高田も、遼二とは違った意味でにぶかった。
「しっ・・失敬なことを言うなー!!」
有り得ない二人に真っ赤な顔で吉川が叫んだ。
遼二は狭いキッチンの奥で出るに出られず、三人のやり取りに身動きは取れないのに、赤くなったり青くなったりやたら忙しかった。
「会議室がだだっ広い?」
高田が不思議そうに首を傾げた。
昼休憩直後の秘書室は、橋本、高田と遼二の三人だった。
「長尾君と吉川君は?」
橋本が高田に聞いた。
「会議室です」
何のためらいもなく高田が答える。
「そう」
橋本はあっさりと納得したようだった。
遼二はあっさりと納得した橋本に納得出来なかった。
「たっ、高田さん!橋本さん知ってるんですか!?会議じゃないでしょ。
その・・・オシオキなんでしょ、あのだだっ広い会議室で!」
「会議室がだだっ広い?」
高田が不思議そうに首を傾げた。
「広くないよ、営業部の会議室は少し広いけど・・・。ああ、君勘違いしているんだ」
「勘違い?」
何がそんなに嬉しいのか、ぱぁぁと笑顔の広がる高田だった。
「辞令もらった会議室と思ってるんでしょ。あれは本会議室。あんなところ自由に使えないよ」
「会議室って言うからてっきり・・・」
しかし勘違いとは言え、場所を思い違いしていただけのことだ。
吉川が連れ込まれた事実は変わらない。
「各部・課にはそれぞれミーティング室があるんだよ。それが僕たちの言う会議室さ。
橋本さんが知らないわけないでしょ。あっ、もちろん防音壁だよ」
―もちろん防音壁だよ―
高田の最後の言葉がだめ押しとなった。
いつまでも不穏な言葉に怯えていてはいけない。はっきりと確かめる必要がある。
遼二は高田の席に身を乗り出す格好で聞いた。
「その防音壁の会議室でされるオシオキって・・・何なんですか!」
あまりの遼二の必死の形相に、高田は長い睫毛の瞼を見開きながら真顔で言った。
「何って、お尻ペンペンでしょ」
「い゛っ!!」
やっぱり!というか、まさか!というか、なんで!というか。しかも、
―お尻ペンペン―
そんなに可愛いものか?
少なくとも遼二の見たお尻ペンペンはペンペン≠ネどという代物ではなかった。
遼二にとってはカルチャーショック以外の何ものでもなかったが、高田にすれば日常の社内風景のひとコマに過ぎない。
「ほらほら早く前を向いて、しっ、しっ」
高田に手で払われながら、遼二はその後ろの橋本には全く気付く余裕などなかった。
秘書課・会議室。ドアを閉めて鍵をロックすると【会議中】の表示が点く。
現在【会議中】―。
「さて、吉川君。上着を脱いでそこのテーブルに手をついて」
長尾が吉川にてきぱきと指示を出す。
もっとも吉川には、はいわかりましたと従える指示ではない。
吉川は手をつけと言われたテーブルを背にして、上目遣いで長尾を睨んでいた。
「どうしたの、聞こえなかった?君らしくないな」
長尾も上着を脱いだ。椅子に掛けるのではなくバサリとテーブルの上に置いた。
上着を脱いだ長尾は腕組みをしながら吉川の動作を待った。
だがいつまでも吉川は長尾を睨んだままだった。
「仕方ないな・・・」
ひと言つぶやいて、長尾は吉川の方へ歩み寄った。
「やっ・・・!不当だ!!こんなの・・・」
目の前に来られて吉川は思わず叫んだ。
「こんなのが何?」
長尾は吉川の言い分を聞いてやりながらも、ぐいっとその腕を掴んだ。
「横暴だ!僕は間違ったことは言ってない!あいつの方がよっぽど間違ってるでしょう!
長尾さんだって間違ってる!!僕は正しいぃ!!」
長尾にぐっと腕を掴まれて、吉川はほとんどパニック状態だった。
「間違ってるなんて言ってないだろ」
長尾はもう一方の吉川の腕をとり、両腕を掴んで引き寄せた。
「だっ、だったら離して下さい!離して!」
吉川は腕を振りほどこうとするものの、ビクともしない。
身長差もあったが、力の差もあった。
「何度も言ったはずだよ。自分の言葉に酔うな。酔うのは自己満足に過ぎない。相手と対話していないだろ。
相手の言うことが聞こえるかい、聞こえないだろ。いくら良いことをいっても一方通行じゃだめだろ」
長尾は吉川の言っていることを問題にしているのではなく、吉川自身のことを注意しているのだった。
「わかったら、手をつけるね」
何度もそれで長尾から注意されている吉川は、当然もう気がついていた。
いつもならここで観念して手をつく吉川だった。
しかし、今回の吉川は強情だった。
「・・・つかない。酔ってなんかないし!どうして僕がお仕置きされるんですか!
あいつの方が・・・えっ?・・あぅ?・・・やぁぁぁっっっ!!」
「新入社員の頃の吉川君に戻っちゃってるね。下が入って来たから何?赤ちゃん返りじゃなくて新入社員返り?
じゃ、お仕置きも久々新入社員バージョンにしょうか」
長尾がテーブルの椅子を引いて座り、膝の上に吉川を引き倒した。
吉川からさらに上がる派手な悲鳴。
長尾が吉川の上着を剥ぎ取り、ズボンのベルトに手を掛けたのだった。
「君が手をつくお仕置きをいやがったんじゃないか」
手をついて尻を突き出すお仕置きは概ねズボンの上からで許してもらえるのだが、膝の上は容赦なかった。
「誰が!!どっちもいやだぁー!やめろー!!」
吉川の叫び喚く声が防音壁の部屋に木霊した。
「これから先輩は大変だよ、吉川君。・・・少し泣くかい?」
長尾の声は、振り下ろされた手とは比例することなく優しく響いた。
「君、そんなに興味があるなら私が連れて行ってあげようか」
「橋本さん・・・」
高田の後ろからずっと様子を見られていたようだった。
「君のデスクはどっちだ。前か!後ろか!」
橋本にしては珍しく語気が荒かった。
「すみません!」
遼二は慌てて前を向いた。
部屋の入り口が開いて長尾だけが帰って来た。
長尾は何事もなかったように自分の席について仕事を始めた。
遼二はドキドキしながらも、吉川がいないのが気に掛かった。
しばらく経っても帰って来ない。
もはや遼二の頭の中は仕事どころではなかった。
ちらちらと隣を見るのをまたもや目ざとく橋本に見咎められた。
「杉野君、どうも仕事にならないようだね。行くか」
橋本が業を煮やしたように立ち上がった。
「やっ!ちっ、違います!違います!俺、吉川さんが・・・」
遼二は思わず吉川のデスクを指さした。
「人のデスクを指さすなよ。まるで自分に指さされてるみたいだ」
「吉川さん!」
吉川が部屋のドアを開けて入って来ていた。
そのまま橋本のところへ報告に行った。
「お客様が二名、お越しです。来客室にお通ししていますのでお願いします」
吉川はそのまま受付にいたのだった。
「杉野君、お客様にお茶をお出しするから一緒に来て。これからは君の仕事だよ」
「あっ、はい!」
来客に救われた遼二だった。
高田がこそっと遼二に言った。
「君って悪運強いよね。何だか・・・」
*コメント
―お尻ぺんぺん― A&Kカンバニー、日常の社内風景のひとコマに過ぎません。
NEXT