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信号が青から黄色に変わる。

待ち合わせの時間までには充分余裕がある。急ぐ必要はない。

秋月和也(あきつき かずや)はゆっくり車のブレーキを踏んだ。

信号待ちの間に、きっちり締めたネクタイの胸元に人差し指をかけぐいっと引き下ろす。

和也のゆるんだ胸元が、これから過す時がプライベートな時間である事を証明する。





和也の勤める会社は明良(あきら)の父親、一谷秀行(いちたに ひでゆき)が一代で起した会社である。

レストラン経営とその資材を賄ういわゆる外食産業のひとつだ。

ここ数年で急成長したとはいえ、まだまだベンチャー企業というイメージが抜けない。

それを払拭するにはこれから企業として安定した実績を積まなくてはならない。

それは二代目明良の仕事になるのだが、さすがの秀行も野放図な明良に先行きの不安を感じ、秘書の和也を教育係りとしてつけた。

明良の父は和也にとってもまた父である。腹違いの兄弟。だが明良はそれを知らない。

知るのは会社の幹部数人のみのことであった。





和也は車をロイヤルホテルの地下パーキングに止める。今日はここで一晩を過ごす。

土曜午後のホテルのフロアは、けっこうな人の出入りで混雑している。

中にあるカフェテリアのいつもの席で和也は待っていた。


「待った?」

「いや・・時間通りだね」

彼女北島麻理子(きたじま まりこ)は、必ず約束時間の5分前に来る。

肩にかかる髪を少し揺らしながら、麻理子は和也と向かい合わせの席に座った。


和也が同じ年の麻理子とつき合い始めて二年になる。

はじめて結婚を意識した女性であるし、実際今年の秋頃に結婚を考えていた

。だが矢先に明良のことが持ち上がり、もうしばらくは今のままでいようと結婚の話は自分の胸の内にしまった。



「ええ、時間には正確よ。私は」

「君のそんなところが好きだよ」

ストレートに和也は言う。

しかし麻理子はそれにはさして嬉しそうな素振りも見せず、あなたの方はどうなのと聞いて来た。

「僕の?」

「そうよ。いいの?明良君をひとりにして」

「何故君がそんな心配をするの?」

「・・・私がしてはいけない?」

反対に問い返された和也の表情が少し変わった。

 ―またか・・・―

最近麻理子は何かと明良のことを聞いてくる。

最初のうちは次期社長の教育係りなんてあなたらしいわね、などと言っていたが。

麻理子は明良とのことは知らない。別に隠すつもりはないが、ただ話すのもわずらわしい。

今でさえこうなのにと和也は思っていた。


「たぶん・・・解放感で羽を伸ばしているさ。それは僕も同じかな。
麻理子、せっかくこうして二人で過ごすのに」

 ―だからもう明良のことは言うな―

和也の眼はそこまで言っている。


麻理子の会社は和也の会社と同じビルの中にある。

インテリア関連の会社で和也の会社が最上階の50階、麻理子の会社は47階にあった。

たまたま和也が仕事で47階にある会社を訪れた帰り、階段の踊り場でじっと掲示板を見つめる麻理子がいた。

特別目を引くタイプではないが長い睫毛の横顔が印象的だった。



各階段の踊り場には掲示板があって、企業の宣伝や社内報、時に人事や処罰に至るまであらゆるビラが貼り出してある。

麻理子とつき合うようになってから、和也は週に一度の割合で朝は47階でエレベーターを降り、踊り場の掲示板を見てから階段を使って50階まで行く。

麻理子も和也の会社の掲示板を見に来ているようであった。

お互いの会社の様子がわかり、なお話がはずんだ。



ロイヤルホテルを出て二人はランチを食べた後、小劇場だが人気劇団の公演を見た。

夕食は再びロイヤルホテルへ戻る。

それまでにまだ少し時間があるので、ショッピングモールでショッピングを楽しんだ。麻理子に香水を買う。

21時過ぎにチェックインして部屋に入った。

和也は夕食を摂ったレストランで締め直したネクタイを今度は解いてはずした。

22時半からラウンジでジャズの生演奏があるので席の予約をしている、その間。 


麻理子はドレッサーの前で今日買ったばかりの香水を開けて振っていた。

「用意するのはまだ早いよ・・・麻理子」

麻理子の真後ろで声がして、振り返るとそのまま抱きしめられた。

和也は麻理子を抱きしめながら口づけをする。

最初は軽く唇を重ね、やがて少しずつ高まる気持ちを楽しむかのように和也の唇が麻理子を求める。

麻理子の首すじから、今振ったばかりの香水の匂いがした。

甘すぎず優しい香りのベビードール・・・。


「・・・香水代えたんだね」

和也が麻理子の耳元で囁くように言った。

香水を買った時、和也がいつものを取ったら、麻理子が軽く微笑みながら違うわと言った。

「いつから・・・。・・・気が付かなかった」

言いながら香水の後を追うように和也の唇が麻理子の首すじを這う。

和也は麻理子の白い指がビクンと動くのを背中に感じた。

かすかに麻理子の指先に力が入って

「和也さん、もうひとつ・・・あなたが気付いていないことがあるわ」

そして麻理子の指先から力が抜けていく。

「・・・麻理子?」

麻理子の体がゆっくり和也から離れた。



時計の針は22時をとうに過ぎて23時を指そうかとしている。

ラウンジの予約席はキャンセルした。


麻理子がアメリカへ行くという。

会社の海外研修生の試験に受かったのだ。受かれば掲示板に名前が出る。

はじめて麻理子を見たとき、麻理子がじっと見ていたものは海外研修生応募と合格者発表のビラだった。

海外でも通用するインテリアのセッティングを学びたいと言うのが麻理子の夢だった。


「掲示板に名前が出ていたの、知らなかったでしょう」

けして和也を攻めるような麻理子の口振りではない。むしろ自嘲気味な笑みで言葉をつないだ。

「私だって同じだわ。以前のように頻繁にあなたの階まで行かないもの」


「やはり二年?」

和也は麻理子の言葉を無視して研修期間を聞く。

「最短で二年」

麻理子はきっぱりと言い切った。

「帰ろう」

肘掛け椅子に深く座っていた和也は立ち上がった。珍しく憮然とした表情だった。

麻理子を送る車の中で、和也ははじめて結婚のことを話した。

麻理子にどうするのと聞くと、麻理子は少し間をあけて待っていてとは言えないじゃないと答えた。

続けて別れるのと和也が聞くと、麻理子は二年だもの・・・と小さな声でつぶやいた。


「行くなと言えば君は辞めるかい・・・」

麻理子を降ろす間際に和也は言った。

「・・・そう言ってもらいたかったのかも知れないわ」

麻理子の潤んだ瞳がフフッといたずらっぽく笑った。





和也がマンションに着いたのは夜中の1時半だった。

とりあえず和也は明良の様子を見に行った。ぐっすり寝ている。

何時に帰って来たのかはわからないが、居ることにほっとした。


翌朝、和也はいつも通りに起きて朝食の支度をする。

どんなに前日が遅くても翌日は決めた時間に起きる。

明良は和也がいないと思っているので、当然決められた時間には起きてこない。

ルーズなことについて和也は仕方がないとは思わない。そう思うと許すことになるからだ。

6時10分を過ぎても起きてこないので明良の部屋に行く。

案の定目覚ましを掛ける事すらせず寝ている。

横向きで掛け布団を足に挟み込んで、どうぞ叩いて下さいと言わんばかりに放り出している明良のお尻を思いっきり和也は叩いた。



最初のうちはあれっ?と言うような明良だったが、和也から予定が早く上がったからと聞かされると納得した様子だった。

明良は和也の用事は会社の仕事と思い込んでいるようだった。

和也もあえてそれは否定しない。


朝食が終わってひと通り家の掃除を明良と一緒に済ませると、和也はダイニングにノートパソコンを持ち込んで企画書やスケジュール表など書類の整理をする。

明良と暮らし始めてからここで仕事をすることが多くなった。明良の様子がわかるからである。

昨日結論がでないままに別れた麻理子とのことが、時折フラッシュバックのように浮かんでは消えた。

それでも、黙々とノートパソコンのキーボードを打ち込んでいると、いつの間にか仕事に集中していた。


ある程度書類をまとめ上げると、和也は明良の様子が気になった。

いつまでもリビングで退屈そうにゴロゴロとしている。

退屈するほど暇なはずはないのに、明良がしなければならないことは山ほどある。

勉強することについてもそうだ。漫画の本を読む姿はしょっちゅう見るが、教科書を広げる姿など見たことがない。

前に一度明良の勉強机の椅子に座ったことがあったが、机の上はとても勉強の出来る環境ではなかった。

何度か注意はした。今も机の整理はと聞くと、すると言いながらもう携帯のメールのやりとりに夢中だ。

最初に明良が家に来たとき携帯電話を取り上げた。

少し落ち着かせるために、せめてメールくらいは控えさそうと思ったら、友達どころか家の電話番号すら覚えていなかった。

いい加減和也は、明良のルーズさをたしなめなければいけないと思った。



片付けないのなら片付けるようにさせればいい。

和也は明良の勉強机の引き出しを全部抜いて中の物を床に空けた。

物音に驚いて明良が飛んで来たが、和也は意に介さず片付けなさいと言う。

明良が呆然としながらも和也に激しく抗議しても、和也は一切受け付けない。逆に明良に問い正す。

さらに和也は部屋の隅に無造作に投げ出されている明良の通学カバンを手に取り、これはと聞いた。

振り返った明良の表情で全てがわかる。

明良の言葉の終わらないうちにカバンを逆さまにして、中身を床に落とした。


ルーズな上にさぼることまでが体に染みついている。

カバンの中には学校の授業を抜け出して遊びまわっていたことの警告書が入っていた。

新学期早々でこれなら先が思いやられる。


和也は立ちすくむ明良に近づいて、ベッドに手をつかせた。

明良はすでに泣いている。

叩く前から泣く明良を見るのは、はじめてだった。

和也は手加減なしで明良の尻を叩いた。

しかも今回は徹底的に明良が甘えることを許さなかった。

一旦ベッドについた手を離して不安そうに振り返る明良に、次に手が離れたら拘束するよと言うと、明良の大きく見開いた目から次々と涙がこぼれ落ちた。

いつもと違う和也の厳しさが、明良は怖かった。

和也に叩かれている間中明良は涙が止まらなかった。

右側を叩かれてあまりに痛くて右側を庇うように体をよじると、姿勢をちゃんとしなさいと言われているようにさらに右側を叩かれた。

明良は痛いもごめんなさいも言えなかった。

ただ涙と一緒に嗚咽が出るだけだった。



和也は自分の部屋にいた。一人掛けのソファに座りながら赤く腫れた手の平を見ていた。


 ―僕の手が明良を叱る。僕の手が明良のお尻を叩く。あと何回・・・―


和也の手は明良を甘やかさない。

今も床にうずくまって泣く明良をそのままにしてきた。

片付けが終わったらご飯を食べにきなさいと言ったが、たぶん昼には間に合わない。

いやそれどころか、あの散乱状態では明良なら何時間掛かるかわからない。

それとも、もう家に帰ると本気で電話しているかも知れない。

たぶん父は明良の泣き声を聞けば帰っておいでと言うだろう。

和也は社長室で嬉しそうに何度も言う父を思い出した。


「和也、明良は可愛いぞ。お前と違って何倍も可愛い」


親ばかな言葉だと気にもとめていなかったけれど、一緒に暮らし始めて実感出来た。



陽が傾き始めている。明良はあれから全く部屋から出てこようとしない。

すぐ食べられるようにと用意しているエビグラタンとマッシュポテトもそのままだ。

台所に立った時やリビングに行った時に、わずかに明良の部屋から物音が聞こえた。

まだ片付けているのだろうか。和也は物音が止むのを待とうと思った。


和也は自分の部屋に戻り、携帯から電話した。1コールで出た。


 ―待っていたのか・・・―



「・・・麻理子」

和也は目を伏せて麻理子の声を聞いた。

そして次にゆっくり目を開けた時、和也の目にはもう迷いはなかった。


「行っておいで。麻理子」

電話の向こうで麻理子が言った。

「ありがとう・・・和也さん」





明良の部屋から物音がほとんどしなくなった。

和也は明良の部屋へ行った。

ノックしてドアを開けた瞬間、机に座る明良がいた。ちょっと照れくさそうに下を向いた。

和也が机に近づくと椅子から立ち上がって横に退いた。

和也はひとつひとつ引き出しを開けて見た。

開けるたび、和也は明良に対して愛しさが込み上げてきた。

けしてきれいでも機能的でもない片付け方だが、出来ないなりに一生懸命片付けたあとが窺えた。半端じゃない痛いお尻を抱えて。

明良を見ると無意識に手がお尻を擦っている。それでも和也は、明良に一日一回は机に座ることを言った。

そうしたらもっときちんと整理が出来ると教えた。

黙ってうなずく明良が、和也には愛しくてたまらなかった。



和也は明良を会社に連れて行った。陽はすっかり落ちている。

50階建ての最上階。

社長室の椅子に明良を座らせて、闇の中眼下に広がる光の海の中でルーズさやさぼるという行ないがどうなるのかを教える。


―溺れてはいけない―


特に明良が継ごうとする社会では、ルーズさやさぼることは致命的なことだ。

明良の後ろに立って一緒に夜景を見る。


さっきの電話で麻理子が言った。


「あなたには、しなければいけないことがあるでしょう。だから私もするのよ。私がしなければいけないこと・・・」


 ―僕たちはまだ、お互いにしなければいけないことがある。麻理子も僕も―



「お腹空いたね。どこかで食べて帰ろうか?」

明良の後ろから和也が聞いた。

正面を向いたまま明良が答える。

「・・・家で食べる」

「承知致しました」

会社と同じように和也が言う。


椅子から降りて振り向いた明良の顔は、涙と埃にまみれてはいたが、いつもの笑顔が戻っていた。



家に帰って、明良が食べたいと言ったのはオムライスだった。

和也は一瞬考え込んだがすぐ調理に取り掛かった。

明良は顔と手を洗って和也のオムライスを待った。

15分ほどで運ばれてきたオムライスはきれいにチキンライスを包んでいた。


「今度のは?」

明良が和也に聞いた。

「・・・大丈夫だと思うけど」


前に一度オムライスを作った時は失敗した。

ライスを包めはしたものの卵の焼き方が硬すぎたのだった。

それでも明良は美味しいと言って食べたが。


明良がスプーンでオムライスの真ん中をサクリと割った。

中から半熟卵の黄身がふわりと流れてチキンライスに絡まった。


明良が言った。


「よろしい」







*コメント

どうしても明良との対比になるので、クールで真面目な和也のイメージですが、多少ストイックな部分はあるにせよ和也は普通です。

彼女とのデートでは、弟のことなど放ったらかしでした。



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