番外ー1
10月半ば昼間の爽やかな秋の風景も、陽が落ちると夜の帳が一気に冬の気配を呼び起こす。
午後9時、まだ明良は帰ってこない。
明良は一旦帰って来てまた出掛けて行った様子だった。
学生カバンと学生服があった。
和也は何度か明良の携帯に電話したが繋がらなかった。
午後7時前にこれから帰ると電話が入ってもう2時間近く経つ。こんなことは初めてだった。
明良は和也の腹違いの弟だった。
12歳年の離れた弟は、和也の勤める会社の後継者という立場にある。
和也も同じ父親の子として権利はあるものの、彼はその立場を拒否した。
父親の秀行はそれならばと、兄の和也を教育係として彼のもとに明良を預けた。
甘やかされて育った弟はまるで野放図だった。
その時、秀行が和也に明良の兄であることを周りに告げるかと聞くと、和也はお家騒動の種は少ない方がいいでしょうとあっさり断った。
もちろん明良にも知らされることはなかった。
明良は15歳、中学三年生で今日は中間考査の最終日だった。
和也と一緒に暮らし始めた一年前のテストはひどいものだった。
和也は明良にまず勉強をするということから身に付けさせた。
少しずつ勉強机に座る時間が増えると、最初の頃は学力の差がありすぎてあまり代わり映えしなかったテストの点数も、ある日を境にぐんと跳ね上がった。
あれほど苦手だった数学が今では得意科目に変わってきている。
和也は明良に数学は徹底して基礎からやり直しをさせた。
基礎ができ公式を活用するコツなどを覚えると、明良は案外スラスラと問題を解いていった。
和也はリビングの窓に掛かるブラインドを開けて外を見た。
閑静な住宅街のこの近辺は夜も深くなると人はまばらながら、等間隔に置かれた街灯がひときわ明るい白色の光で道路と歩道を照らしていた。
あるいは、帰って来る明良の姿を見つけることが出来るかもしれない。
外を見ながら携帯から明良の交友関係に電話する。
まず・・ヨシダナオト・・・。
「や・・やめろよ!引っ張るなよ!服がー・・、和也さん・・和也さんてば!」
明良は和也に襟首付近をわし掴みにされて、そのまま玄関に引き入れられた。
「灯台下暗しとはよく言ったものだね」
いつもの穏やかな言い方はさすがにない。
ばつが悪そうに突っ立っている明良の顔色は真っ青だった。
しかし和也は気遣う様子もなく、そればかりか普段はあまり使わないような命令口調で明良に言う。
「とりあえずシャワーを浴びて来て、今すぐ」
明良はジャケットを自分の部屋に置くとバスルームへ向かった。
シャワーを浴びながら、今度は先程の和也の言葉が明良の頭の中でグルグルと回転した。
―・・・とりあえず・・・とりあえず・・・―
「ってことは、次があるってことだよなぁ・・・」
とてつもなく憂鬱な気持ちが言葉となって、思わず口をついて出る。
シャワーなんて10分もあれば済んでしまう。
バスルームを出ると、たぶん・・・尻を叩かれる。・・・出たくない。
どこまでも往生際の悪い明良だった。
和也が明良の友達の吉田直人の携帯に電話を入れて、何度かのコールの後に出たのが直人の兄だった。
明良達はカラオケで盛り上がっていた。
以前はゲームセンターばかりだったが、今ではカラオケと半々くらいの割合になっている。
カラオケには毎回と言っていいほど女子も混じる。同級生やクラスメートが多いが、たまにナンパしたりもする。
今回はナンパされた方だった。相手は大学生で向うから高校生?と聞いてきたのであえて否定もしなかった。
中学生から大学生を見るととても大人で、クラスメートの女子とは比べ物にならないほど魅惑的だった。
彼女たちはタバコも吸うし酒も飲む。
明良はさすがにタバコには手を出さなかったが、フィズは飲んだ。
オレンジフィズは口当たりもよくジュース感覚で飲めた。
直人はおいしいおいしいと、ガパガパ飲んでいた。
午後1時頃から彼女たちとカラオケで盛り上がってもう6時過ぎだ。
彼女たちも場所変える?とか聞いて来たが直人が酔いつぶれていた。
明良は直人の兄に電話して迎えを頼んだ。
直人に付き添っていなければならないので、明良もそこで他のメンバー達とは別れた。
直人の兄を待っている間に、明良は和也にこれから帰ると電話を入れたのだった。
その時点までは明良は普通だった。
だがタンブラーの1杯は、初めて酒を飲んだ明良にとってそんなにいつまでも普通でいられるほど甘いものではなかった。
直人の兄が車で迎えに来て一緒にマンションまで送ってもらったのだが、車が走り出して少ししてから急に酔いが廻り始めた。
頭の中がグルグルと回転しだして、胸もムカムカしてくる。
直人の兄は明良がマンションの中に入るのを見届けてから帰った。
だが明良はそのまま和也の待つ部屋には帰らず、エントランスホールの待合椅子に座り込んだ。
この状態で帰ればきっとまた和也にとんでもない目に合わされる。
明良は酔っぱらって思考の停止した頭でも、それだけは忘れていなかった。
酔いがピークになって来ている。もう時間の感覚などなかった。
這うようにして2度マンションの裏の植え込みに吐いた。
2回吐いて、ようやくひっくり返ったような胃袋も落ち着き少し胸のムカムカが収まったところに和也が現れたのだった。
和也が事の詳細を直人の兄から聞き、まさかの思いでマンションのエントランスホールに行くと案の定明良がいた。
それも待合椅子を三人分くっつけてその上に寝ていた。
「だらしない格好だね」
和也は驚いて飛び起きた明良のジャケットの襟首あたりをわし掴みにして、そのまま引き摺るようにして連れて帰った。
バスルームで大きな水の跳ねる音がした。
そう言えばシャワーにしては長すぎる。
和也は声もかけずにバスルームのドアを開けた。
明良がバスタブの中で仰向けに沈みかけていた。
出たくない・・・そう思うと少しだけ湯船につかろうと・・・明良は性懲りも無く時間稼ぎをする。
あと少し・・・もう少しとアルコールの抜けきっていない体はどんどん火照って、さすがにもう出ようとしたら、グラッとして目の前が真っ暗になった。
湯あたりを起こしてしまったのだ。
和也は自室の窓を少し開けて外の冷えた空気を入れる。
スゥッと風が流れて気持ち良さそうに和也のベッドで眠る明良の寝顔を撫でる。
叱られるのがいやで逃げ回ったあげく素っ裸でひっくり返ってしまった明良を、和也はバスタブから引っ張り上げそのまま抱きかかえて自室に運んだ。
身体に付いた酒とタバコの匂いがとれた15歳は、こんなにも幼いものかと思う。
和也はずっと母親の秋月由紀子と二人で暮らして来た。
父の一谷秀行は二ヶ月か三ヶ月に一度くらいの割合でやって来た。
二人の関係が夫婦ではないという認識は、ずいぶん早くから和也にはあった。
そのことについては、和也が中学生になった時に由紀子から伝えられた。
和也は母方の姓を名乗っているけれど、間違いなく秀行の子として認知していること。
秀行とは由紀子の方の意思で結婚にいたらなかったこと。
和也は最後だけ、なぜ?と聞いた。
「あなたのお父さんはとても忙しい方でしょう。母さんついていけなくなったの」
由紀子はそう言って微笑んだ。
和也はその時の由紀子の言葉が、父の傍で働くようになってわかった。
その頃、ちょうど秀行が会社を興し軌道に乗り始めた時だった。
それは東奔西走の勢力的に働く毎日だったが、反面女性にも精力的だった。
由紀子は銀行に勤めながら和也を育てて来た。
秀行は認知はもちろんのこと養育費も申し出たが、由紀子は認知のみで養育費については断った。
つつましい生活でも由紀子には和也がいることだけで充分だった。
穏やかで静かな時を二人人で過ごしながら、たまに秀行がその中に来る。
和也も嫌がっている感じはなかった。
三人にとってはそれが当たり前の生活スタイルとなっていた。
しかしそれは突然崩れる。
和也が中学三年生になった春、由紀子が病に倒れた。
―乳ガン―
病名は和也にも知らされた。
それがどんな病気なのかは15歳の和也でも充分理解出来た。
秀行は和也が少しでも長く母親と居られるように、由紀子を個室に入れた。
由紀子は秀行の配慮を素直に受けた。
三週間の入院生活が終わり明日の退院が決まった日、和也は母の荷物の整理をしていた。
由紀子は腕の上げ下ろしをしている。ずいぶん上がるようになった。
和也は元気にリハビリをする母を見て安心した。
「母さん、もう痛くないの?」
和也は由紀子から一度も痛いと言う言葉を聞いたことは無かったが、日にち毎に和らいで行く母の表情でそれは読み取れた。
由紀子は笑って大丈夫と、上げて見せた両手で後ろから和也を抱きしめた。
背中に当たった母の乳房の感触に和也は衝撃を受けた
。柔らかな乳房は片方しか感じることが出来なかった。
それでも和也はただ黙って母の乳房を背中に受け止めていた。
由紀子はまるで和也の衝撃を承知しているかのように言った。
「和也君、ありがとう・・・。いつかあなたにも好きな人が出来たら、今みたいに・・・母さんにしてくれているみたいに・・・優しくしてあげてね」
その年の冬を待たずに由紀子は逝った。
和也は通夜の席でも葬式の席でも涙は見せなかった。
ひとりになって母の写真の前ではじめて涙を見せた。
体を震わせるでもなく、嗚咽がもれるでもなく、ただただ涙がほほを伝って落ちていく。
こんな静かな泣き方もあるのかと秀行は和也を見て思う。
「和也・・・子供がそんな泣き方をするな」
秀行はやや乱暴に和也の頭に手を回し、自分の胸に抱きとめた。
和也はそれからずっとひとりで暮らして来た。
秀行は和也の意向を聞いてひとり暮らしを許したが、20歳になるまで自分の腹心の部下を和也の傍に付けた。
そして高校生の時から自分の会社でアルバイトをさせた。
秀行は明良よりも和也と居る時間の方が長かった。
和也が明良の母の美耶子に初めて会ったのは、ひとり暮らしになって数週間が過ぎた頃だった。
まだ、中学生で母と過ごした家に居た。そこへ美耶子が訪ねて来たのだった。
小柄だが、目鼻立ちのはっきりした人だった。由紀子は切れ長の目が印象的だったが。
美耶子は和也に会うなりいきなり大粒の涙をこぼした。
これには和也の方が慌てた。
ひとしきり涙したあと、美耶子は一谷と明良はあなたの家族だからと言った。
だけど私も居ることを忘れないでねと和也の手を握った。
和也の心を包み込むような暖かな手の温もりだった。
その時和也は、自分はひとりではないと悟った。
少し開けていた自室の窓を閉める。湯あたりで火照っていた明良の顔も普通に戻っている。
和也はエアコンを自動温感に切り替えた。
「・・・ここどこ?」
明良の目が覚めたようだった。
「やっと気が付いたね。そのまま朝まで寝られたらどうしようかと思ったよ」
和也はそれまで座っていた一人掛けのソファから立ち上がりながら言った。
だんだんはっきりとする頭で、明良はスカスカする体の感触にギクリとなった。
「・・・オレの服・・は・・・」
素っ裸のままだった。
明良は大焦りでキョロキョロと左右をみまわしながら、ベッドサイドにきちんと揃えて置いてある服を見つけてホッとした。
上半身を起こし下半身はブランケットをしっかり巻きつけた。
急いで上着のTシャツを着て次にパンツを掴んだところで、その手を和也にベシッと叩かれてはたき落とされた。
「痛てっ!・パ・・パンツくらい、はいたっていいだろ!!」
明良は体を横にして手を伸ばし、床に落ちたパンツを拾おうとしたところで今度はブランケットを剥ぎ取られた。
「わぁぁっ!」
思わず悲鳴を上げて、明良は横にしていた体をうつ伏せにした。
「よろしい。それでは反省してください」
明良の悲鳴など無視した和也の言葉に続いて、バチ―ィンと尻を叩く音がした。
そして、
「いっ・・痛ぃぃ・・・」
搾り出すような明良の声がした。
ベッドにうつ伏せ状態なので力を入れて踏ん張ることが出来ない。
叩かれた痛みは分散されることなく全て尻に吸収されるような感覚だった。
バチィン!バチィン!バチィン!
連続して同じ強さで叩かれる。
明良はとにかく力を入れられるものを探した。・・・枕。
明良は頭の上の方に跳ね除けていた枕をギュ〜ッと抱き寄せた。が、すぐ和也に取り上げられた。
「汚れるからやめて」
そのあまりの理由に、明良は体をねじって和也を罵倒した。
「信じらんね!ケチー!!鬼ー!!人でなしー!!」
「自業自得でしょう。反省が足りない」
バシッ!!バシッ!!バシッ!!
バシッ!!バシッ!!バシッ!!
和也は明良の尻を叩くだけでよかった。
何故叩かれるのかは明良自身が一番良くわかっている。
わかっているから結局こんな姿で尻を叩かれる羽目になったのだ。
「あぅぅっ!!・・・ごめん・・なさい・・。いた・ぃ・・ごめんなさいぃ」
明良を自分の部屋に帰して、和也はパソコンのメールを開いていた。
アメリカにいる麻理子から受けたメールの返信を打つ。
自分の部屋に帰された明良は痛む尻をかばいながら、ベッドに寝っ転がって携帯のメールを見ていた。
麻理子のメールの最後に、弟君ってどんな?と書かれていた。
麻理子がアメリカへ行って、メールのやりとりをするようになったその間で、和也は明良が弟であることを伝えていた。
麻理子に返す。問われたことへの素直なその心のうちを。
[ 15歳にもなるけれど、まだまだ子供で手が掛かります。だけどとても可愛い存在です ]
明良の携帯にもメールが入っていた。直人からだった。
―吐きまくって死ぬかと思った。俺めちゃくちゃ怒られた、親父と兄貴から。
兄ちゃんが明良の教育係りって人、めちゃ優しそうな感じって言ってたけど・・・いいなぁ―
明良も即効で直人に返す。
・・・あまり反省はしていないようだった。
[ オレもめちゃくちゃ怒られた。死ぬかと思った・・・別の意味で。
・・・あいつが優しいのはしゃべり方だけだ!人でなしの鬼だ!!]
*コメント
どうしても書きたかったことに、和也の母がありました。
教育本篇の中では書ききれず番外という形になりました。
和也の母親から始まる一連の回想シーンは、和也にとって受難な時代ではありましたが、
父親の精一杯のサポートを受けそれなりに恵まれた環境でもあったわけです。
和也は明良とは対象的に育ってきましたが、やはり和也も社長の息子です。
自分の意向を許してもらえる程、経済的にも環境的にも恵まれていました。
NEXT