番外ー3



夏の日



チリン、チリンと軒先の風鈴が鳴る。

簾を掛けている隙間から吹き込む夜風は、涼しい。

夏の一夜、父と母と和也と、三人で囲む夕餉の食卓。

たまにしか会わない父との関係も、六年生の和也にはちゃんと認識が出来ていた。

それでも不思議に父を嫌いにならなかったのは、母が変わらなかったからだ。

父が来るからといって、特別よそ行きの服を着るわけでもないしご馳走を作るでもない。

せいぜい変わるのは、食事時三人では手狭なダイニングから座敷に移る程度だった。


座敷での食卓位置は上座に父、向かい合わせに和也、その横に母。

普段母と二人の和也にとって自分から父に話しかけるのは、気恥ずかしさが手伝ってなかなか慣れることはなかった。

もっぱら父の方から、話しかけることが多かった。

「和也は来年中学生だな。どうだ、私学の中学は嫌か?」

父に問われて、和也は困ったように母を見た。

だが母の由紀子はどれだけ和也が縋るように見ても、代わりに答えるようなことはしなかった。

「お父さんは、あなたに聞いていらっしゃるのよ」

父親にきちんと向き合えるようにならなければいけない。

それが、そんな環境を作ってしまった自分の責任だと由紀子は思っている。


「・・・行きたくない」

和也は父に向き直ったものの、伏目勝ちに答えた。

「どうしてだ?お前の成績なら問題ないぞ」

俯く目の端で母を追う和也に、父は自分への遠慮があるのかと思ったが、次の瞬間その思いはため息に変わった。

「だって私学は遠いし、それに友達もいないから・・・嫌だ」

息子のあまりにも消極的な言葉に、父親はがっくりと頭を垂れたのだった。



チリン、チリン、風鈴が鳴る。

夕餉も終わり、母は後片付けに座敷と台所を行き交う。

縁側の廊下に置いてある蚊取り線香の煙が、風に流されて座敷の中を漂っていた。


「ここは、涼しいな」

誰に言うでもない父の言葉は、羨ましいようにもただそれだけのようにも和也には聞こえた。


「ええ。都会で暮らしていたときは、ビルやアスファルトから排出される放射熱すら、夏の暑さと勘違いしていましたけれど」

由紀子はここの暮らしに満足していることを殊更強調するように、あえて言葉を返した。

僅かに父の眉間が寄る。

「お前はそれでいいかも知れないが・・・・・・和也!」

いきなり名前を呼ばれてドキッとした。

「はいっ」

「母さんを守るのはお前しかいないんだぞ。それを学校が遠いだの友達がいないだの、そんな情けないことを言っていてどうする」


『どうして?お母さんには、お父さんがいるでしょう』


当たり前に思っていることが、言えなかった。

認識しているからこそ、口に出すと親子三人いまの関係が崩れてしまいそうな気がして・・・。

父が二度とこの家に来なくなりそうで、怖かった。

「はい・・・」

和也は口答えすることなく、父の前で畏まった。


「心配はご無用です。和也君も、胸を張ってお父さんに仰いなさい」

由紀子は問答無用で二人に告げると、まだ後片付けが途中なのか、忙しなく台所へ姿を消した。

父と二人きりになった和也は、ますます居心地が悪い。

正座している足がもぞもぞと動く。

ちらっと上目遣いに父を見ると、ぐぐーっとその顔が近づいて来た。

叱られる!?怒ってる!?

緊張して固まる和也に、父は小声で囁いた。

「・・・お前の母さんは、きついな」


いつも自信に溢れた父が、あたりを憚るように背を屈めて母の愚痴を零す。

それも自分に向けて・・・和也は緊張が解れると同時に、何だかとても嬉しくなった。

お母さんはきつくなんかないのに、とても優しいのに。

そう思いながらも、父と睨めっこをしているみたいに笑いが洩れた。


和也が「くすくす・・・」笑うと、父は「はははっ・・・」と笑った。


この時の和也の思い出は、最後に交じる母の声で終る。


―あらあら、楽しそうね。お母さんには内緒なの?―


蒸し蒸しとした梅雨が明け、暑い夏が始まろうとする7月初旬の頃だった。







※コメント

小学校六年生の和也君です。

この年に明良が生まれています。

こちらでは平和な一谷さんですが、向こうでは妻の美耶子に詐欺師と罵られ、

修羅場の真っ只中にいらっしゃるようです(笑)


この後、美耶子は明良を一谷に触らせず(口出しをさせず)育てるので、

父と過ごした思い出については、明良よりも和也の方があるように思います。







コスモス揺れて



週に一度のハウスクリーニングとレンタル生花。

まだ厳しい日差しの残るこの時期に、一番に届いた秋の花。

リビングを飾る花台の秋桜(コスモス)は、母を思い起こさせる。

母と暮らした少年時代。

和也が小学生の夏休み、ちょうど今と重なる八月残暑の頃。



銀行に勤めていた母の由紀子は、毎年お盆以降二週間の夏季休暇を取っていた。


休暇中は遠出をすることもなく、好きな庭いじりをしながら、家で過ごすのが常だった。


和也も特別どこへ連れて行ってもらわずとも、さして不満はなかった。

むしろ家に居る方が、嬉しくて楽しかった。


友達と学校のプールで遊んで、お昼に帰って来ても、鍵の掛かっていない玄関。


スリッパの音が廊下の奥から小さく響いて「おかえりなさい」と、母の声。

いつもならきちんと揃える運動靴も、ついまどろっこしくて、脱ぎ散らかしたままで叱られた。


午後三時、勝手に冷蔵庫から取り出して食べるおやつの時間も「和也くーん」と呼ばれて、テーブルに着く。

母手作りのアイスケーキは、ひんやり口の中に甘さが広がって、でも何故か体は熱かった。

夜は庭で花火をして、スイカを食べた。


「和也、よく勉強しているな」

夏休み最後の週には父が来て、通知表を見ながら成績を褒めてくれる。


夏が終ればまた次の夏。


和也には、そのどれもが待ち遠しかった。


だがやがて、叶わぬ日の到来により、その待ち遠しさは遠い夏の名残となって心に刻まれた。

そして秋が巡り、


秋桜(コスモス) 風に揺れて

家の曲がり角 空き地の一角・・・


何度、唇を噛締めたことだろう。


それでも前を向いて歩いて来れたのは、

「和也」

と呼ぶ、変わらぬ父の声があったからだ。

成人になり父の保護下から独立した時、少年の頃の思い出はもう苦痛を伴うことはなかった。


花台の秋桜(コスモス)を眺める和也。

茹だる暑さの中でも、秋は確実にすぐ傍まで来ていた。







※コメント

小学校四年生くらいの和也君です。

お母さんは銀行にお勤めしているので、平日はお留守番です。

母の二週間の休暇は、和也君にとっても休暇なのです。

良い子のお留守番からの^^



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