京都冬紀行・その1

 

ウォー。のぞみ初体験。年末の疲れが取れぬまま、正月早々早起きして品川から乗車。うとうとしている内に、もう京都だ。やはり新幹線は早い。ダテに250キロは出していないですな。

**大仙院**

ホテルに荷物を預け、市内一日無料パスをもらって、出発。まずはバスで市内を北上。大徳寺で下車して、大仙院へ。

【大仙院の沿革】
1509年に開基かれた、大徳寺塔中の中でも由緒ある名刹。方丈は室町時代の建築で、最古の方丈建築として有名。それを囲むようにして、枯山水様式の庭園が広がる。

寺の人が庭園を案内してくれるのが親切なんだけど、現和尚の色紙の宣伝をし始めたので、少々雲行きが怪しくなってきた。説明の最後になって「和尚がやってきました!皆さん並んで並んで。パンフレットにサインしてもらってくださぁーい。」と言われたのには、ぶっ飛んでしまった。

まあ、歴代和尚を見ていくと、斬首された千利休の首を加茂の河原から拾ってきた人がいたり、宮本武蔵に剣術指南をした沢庵和尚がいたりして、何かと豪傑というか、和尚の枠に収まらない人が歴出していた経緯のある寺なんだよね。現和尚もワイドショーに出て説法したりしていたみたい。

お寺の印象はそれほど悪くはなかったですよ。どうぞ見て下さいという姿勢は潔さを感じるし、説明それ自体も興味深いものがあったわけで。

お寺の開基が応仁の乱直後だったので、建材が集まらず、他の寺に比べて柱や梁が細いとかは聞かないと分からない話だった。

**瑞峯院**
大仙院を後にしてバス停に戻ろうとして道を間違えてしまい、全く予定のなかった瑞峯院に入ってみることに。アバウトやな。でもこれが意外とグッドなお寺でした。

【瑞峯院の沿革】
キリシタン大名として有名な大友宗麟により、室町後期に創建される。
独坐庭と言われる庭園は、寺号の瑞峯をテーマとしている。蓬莱山の山岳から半島となり、大海に絶え間なく荒波にもまれながらも雄々と独坐していることを現している。

訪れる観光客もほとんど無く、静かに落ち着いて庭園鑑賞できたのね。庭園の造りも大仙院とは趣向が違って、面白かったし。白砂の模様のつけ方とかが違っていたり。
何気なく、井戸に鏡餅が備えてあったり。それも東京とは違って、なんとお餅の上に串刺しにされた干し柿?が乗せられている。なんでだろ。
**金閣寺**
そして外してならない金閣寺へ。いやぁ、桁違いに人が多かったです。まさに横綱格。

【金閣寺の沿革】
鎌倉時代、西園寺公経の別荘があったが、それを足利義満が気に入り、1397年に譲り受け、山荘北山殿を作った。極楽浄土をこの世に現した庭園と建築。

幸運なことに風がほとんどなく、鏡湖池の水面に逆さ金閣が映っていたのです。豪華。燦然。金ぴか。そんな形容詞のどれもが当てはまる。
好き嫌いはあるかもしれないけれど、やはり足利権勢絶頂期に作られただけのことはあって、王者の風格というかオーラを発しているよね。
**龍安寺**
その後、金閣寺のお隣さんの龍安寺へ。金閣から仁和寺へ向う道は「きぬかけの道」と言われているんだけれど、その由来はかつて宇多天皇が真夏に雪景色が見たいと言い出して、衣笠山に白い絹布をかけたという伝承にあるらしい。
白い布といえば、少し前のあのカルト集団を思い出しますねぇ。権力者のやることは常人にはわかりませんねぇ。怖いですねぇ。
さて、気を取り直して龍安寺。石庭が有名です。

【龍安寺の沿革】
徳大寺家の別荘だったものを、1450年に管領・細川勝元が譲り受けて社地とし、創建された。応仁の乱で焼失するも、勝元の子が再建する。
枯山水式の庭園は76坪の庭に15個の石を配置したもので、9割は白砂の空間。見る者の思想信条によって多岐に解釈されている、とのこと。
その他、徳川光圀寄進のつくばいや、藤原時代の名残をとどめる鏡容池が有名。

 

こちらがかの有名な龍安寺の石庭。

皆さん、神妙に見学中。京都のお寺は、庭園に面した廊下(と言うんだロウカ?)に座って眺められるので、ちょっと嬉しいかな。これぞじっくり腰を落ち着けて見られるわい。

石庭も良かったけれど、この右奥にある庭園の綺麗に手入れされた苔の緑色が目に鮮やかだったなあ。

これが徳川光圀寄進の「つくばい」、のレプリカ。吾唯足知(ワレタダタルヲシル)と読むのだそうです。
鏡容池です。石庭も良かったけれど、この池もなかなか良かったですね。おしどりが群れていたので、おしどり池との別名もあり。
藤原時代の名残がどの辺りにあるのか、分からなかったけどね。

それにしても、金閣寺にしても龍安寺にしても、当時の権力者というのは、気に入ったものは、他人のものでもお構いなしにゲットしちゃったんですな。

その後、一気に嵯峨野方面へ向います。
こちらが有名な渡月橋。
「くまなき月の渡るに似たり」という亀山上皇の言葉から命名されたとのこと。

中州にあるお茶屋で甘味を食べて一休み。川を渡った先の嵐山は人も車も大混雑。バスも時刻どおりに来てくれませーん。

**蚕の社**
30分遅れてきたバスは満員。京都のバスは運転が荒っぽくて、ストップ&ゴーが激し過ぎるぞ。踏ん張ったせいで足がパンパンだ。
蚕の社というバス停で下車。その名の通り、「蚕の社」に向います。

【蚕の社の沿革】
正式名称、木島坐天照御魂神社。『続日本紀』(701)に神社名が載っていることから、それ以前に存在したと思われる。
古来、嵯峨野は古墳時代に渡来した秦氏の勢力範囲で、当社も秦氏の建立とされる。秦氏は養蚕・製陶・機織などの技術を持っているが、神社東側には織物の祖神である蚕を祀る養蚕神社があり、名前の由来となっている。
本殿西側には、四季湧水する「元糺(モトタダス)の池」という神池があり、京都三鳥居の一つとされる石製三鳥居が立っている。

蚕の社なんて、普通の観光客はほとんど立ち寄らない場所だよね。じつは私の妻が高校の修学旅行で、珍しい鳥居があるからというので見に行っていたのだ。それで今回もう一度見てみようという訳だった。

バス停から神社までの道のりは普通の住宅街そのもので、ホントにこの先に神社なんてあるの?という感じ。
でも一歩神社の中に入ると、周囲を鬱蒼とした木立に囲まれ、厳かな雰囲気がヒシヒシ。日もかげり、暗くなった境内に薄ぼんやりと灯篭の灯りだけが点っているんだわ。
これが「三鳥居」。石製の柱3本で、3つの鳥居が作られている。上から見ると正三角形になっているわけだ。その中心に神座が置かれ、御幣が挿してある。

形状も不思議だけど、この鳥居があるのが、池の真ん中というのも変な話だ。この三角形に何かを封じ込めているのでは、と書かれている本もあったが、どうしてこのような鳥居がここに作られたかは、不明だという。

蚕の社・三鳥居の謎に迫る!★勝手な想像(創造)とも言う★

この神社の置かれた地理的状況、並びに神社創設に大きく関与した渡来人・秦氏の関係を見ると何か分かってくる事があるのでは。

太古、京都盆地は湖だったのはよく知られている。その後、土砂の流入等により盆地化し縄文期以前には人が住むようになっていたが、京都西側は湿地帯が多く、未開発地域が多く残されていた。
5世紀ごろ、渡来人の秦氏がこの地を訪れる。秦氏は大陸の高度な土木・灌漑技術で嵯峨野一帯を開墾することで、次第に勢力を伸ばしていく。元々土地自体の生産性は高かったのだが、河川の氾濫が唯一の弱点だった。それを治水し、田畑を広げて行ったことが秦氏台頭の原因と言われている。

京都西部の亀岡盆地に伝わる伝説に、神が湿地帯を蹴り裂いて、水を排し、農地が作られたという「蹴り裂き」伝説がある。一説に、この神は松尾大社の大山咋(オオヤマクイ)の神であるという。そして、松尾大社は701年に秦氏によって造営されたのである。

さて、この蚕の社であるが、これも秦氏の創設とされている。大陸渡来の技術である養蚕の神を祭っていることにその名の由来があるのだが、それ以外にも、古くより「祈雨」の信仰が厚く参詣者も多かったという。
治水によって勢力を伸ばした秦氏、秦氏に関わる伝説、秦氏建立による蚕の社、そこに伝わる雨乞いの信仰。そうした諸々の事実が境内の池の中に立つ三鳥居と結びつかないか・・・。

三鳥居が立つ「元糺の池」は四季湧水する神池だという。この池は、秦氏が入植当時、度々氾濫し猛威を振るっていた自然・異界の象徴ではないだろうか。秦氏は物理的に治水工事をするだけではなく、霊的宗教的にも異界を封じ込め、更に支配下に置くことで、自己の勢力の強化を図ったのではないか?
そして、その具体的な方法が蚕の社の三鳥居であり、蹴り裂きの伝説ではないだろうか?

秦氏は当時の政治的権力的な場面にはほとんど登場していない。しかし、当時の朝廷の巨大プロジェクトには常に経済的援助をしていたという。
そうした処世術というか、生き残りの方法も秦氏の「したたかさ」を暗示するものではないだろうか。

京都冬紀行・その2へ続くよ

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