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この写真の著作権については下記参照※1 |
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ツタンカーメンの経歴 | |||||||||||||||
第18王朝、11代目の王(即位BC1336〜BC1327)。父はアマルナに遷都し、アテン神信仰を推し進めたアクエンアテン、母は第二夫人キヤではないかといわれている。 アクエンアテンの死後、9歳で王に即位、アメン神信仰に戻し、名前もトゥタンクアテンからトゥタンクアメン(ツタンカーメン・アメン神の生きる姿)に変える。首都もメンフィスに戻す。 若い王を宰相アイと軍司令官ホルエムヘブが補佐。父親の代で弱体化したエジプトの立て直しを図る。
アンケセナーメンは2回妊娠したが、流産。二人とも棺に納められ同じ墓に埋葬されていた。 17歳で亡くなったことから暗殺の噂がある。犯人は様々な説が。 次の王が宰相アイ、アイの次はホルエムヘブが王となっているので、この二人が怪しいとする説が有力。 死後、アテン神信仰を異端とみなし、アクエンアテンからツタンカーメン、アイまでの名前が王名表から削除された。そのため、長い間この王の存在が忘れられ、結果的に盗掘を免れることとなった。 |
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墓の発見 | |||||||||||||||
当時全く名前が知られていなかったツタンカーメンの存在を信じたイギリス人、ハワード・カーターがカーナボン卿の出資で発掘調査を開始。しかし、当初5年間は全く発見がなかった。 事業に失敗し、資金が不足してきたカーナボン卿は出資をやめることを申し出るが、カーターの熱意に折れ1シーズンだけ契約を延長することとなった。 最後のチャンスとなった発掘で、カーターは今まで掘られた事がなかったラムセス6世の墓の人夫小屋の跡を発掘を開始。 1922年、11月4日、発掘地点に地下へ続く階段が発見された。 この時点で発掘を中断、カーナボン卿を呼び寄せる。そして到着後、再発掘。ツタンカーメンの名前がある封鎖扉を発見した。 その扉を壊し、中へ進むと、ほぼ未盗掘の素晴らしい宝物が現れた。 狭い墓にびっしりと収められた宝物は、ツタンカーメンが使った身の回りの物ほぼ全てが収められたと思われ、黄金の棺から、下着まである。 これら2000点にも及ぶ遺物は整理・分類に10年を要することになった。ほぼ全ての宝物は現在カイロ考古学博物館の2Fのほとんどのスペースを使って展示されている。 |
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墓の内容 | |||||||||||||||
現在は壁はなく、手すりで仕切られ、手すり越しに一段低くなった玄室の壁画と棺を見ることができる。 Dの壁にはアヌビスの姿が描かれている。Eの壁には天の12時を現すヒヒの姿が12体描かれている。 Fの壁がこのページ上部に掲載された壁画写真のある壁。右側にオシリスの形をしたツタンカーメンに後継者アイが口開けの儀式をしている図(上の写真では見えない)、左側にツタンカーメンが天空の神ヌゥト女神に迎えられ、再生のためにオシリス神と抱擁している姿が描かれている。 Dの壁には王の棺を引く貴族たちの列が描かれている。 玄室の奥には小さな宝物室(H)がある。この部屋に素晴らしい宝物が納められていた。しかしこの部分は入場できる前室からは見ることができない。
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感想 | |||||||||||||||
「思いの外小さいのでがっかりする」と聞いていたのだけど、そんなことはなかった。確かに他の王墓と比べると規模は相当小さいが、盗掘されていない壁画はとても美しい。写真で見るとそれほど大きく見えない壁画だが、実際に見ると壁面一面に描かれとても立派な大きさだ。 それにやはり、子供のころ読んだカーターの発掘した王墓に入るという感動はひとしお。 考古学博物館で見た美しい遺物がここにあったと思うと、ロマンを感じる。エジプト旅行の醍醐味だなぁと思う。 入場料が高いのは痛いが、それでもやはり、せっかくエジプトに来たなら絶対に外せない墓。まあ、そんな事言われなくても皆さんきっと入られることとは思いますが(*^_^*) そうそう、すごく不思議だったのが考古学博物館にあった厨子。それは大きな物で、ちょっとした小屋程度ある。玄室いっぱいに納められていたらしい。でも墓の入口はすごく小さいのにどうやって玄室まで入れたのだろう。分解して中で組み立てたのかな?でもあの厨子、そんなに小さく分解できるように見えないけど…。謎だ〜。知っている方は教えてくださいm(__)m |
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