やまなし3

U さん「やまなし」の感想メールありがとうございました!
評論文に対する評論から,U さんの感性の繊細さに学ばせていただきました。
ありがたい「3を」というご要望にお応えして,
またまた評論文の紹介をさせていただきます。
今回は,「分析」を頑張っている子の評論文を紹介します。

 
            「やまなし」評論文
                                           男子

《序論》
 やまなしを最初に読んだとき,すじがごちゃごちゃしてて分かりにくい物語だな〜と思った。それに,題のやまなしが最後にしか出なくて,あまり印象もなく,なんで「やまなし」っていう題をつけたのかと不思議にも思った。
 1回読んだぐらいじゃすじも読みとれず,とにかくむずかしかった。

《本論》
 1 視点
 やまなしの視点を考えてみた。でもこのやまなしはとてもむずかしい。意見は2つに分かれた。「一人称視点」と「三人称視点」,いったいどちらなのか。一人称視点は,16ページの10行目に「私のげん灯」と書いてある所の「私」という所で一人称視点だといい,三人称視点は,「兄さんのかには・・・コンパスのように・・・みました」から人の心が分かるから三人称だという。まさに,どちらか・・・。でもやまなしを大きく分けてみると,(1)前書き,(2)五月,(3)十二月,(4)後書き,となる。また,(2)と(3)は「二枚の青いげん灯です」という所で2つはげん灯の中にあり,(1)と(4)はげん灯より外で話している。ということは,(1)(4)と(2)(3)はべつべつであるという事が分かる。そして(1)(4)は一人称視点。(2)(3)は三人称視点と分かれたのだ。いわゆるやまなしは一人称視点,三人称視点の両方なのだ。
 三人称視点はさらに3つの視点に分かれている。やまなしは,三人称でもどの視点か考えてみる。三人称視点は(2)(3)だから,その中で考えればよい。その結果,全知視点だと分かった。その理由は,「かにの子どもらは,あんまり月が明るく水がきれいなので」という所で,これはカニの心の中の理由であり,外から見ただけでは分からない。また子どもらの「ら」から2人以上なので,これは三人称全知視点だと分かる。ほかにも意見はあったが,ほとんどだめである。視点はなかなかの苦戦であった。

 2 話者
 五月と十二月の話者は動いているか考えた。五月は,「動いていない」。十二月は,動いているということが分かった。
 五月が,動いていないという理由は,「流れていきます。」「過ぎていきました。」「降ってきました。」「もどってきました。」等から自分は動かずに相手が動いているということが分かる。また,「いきます。」「きました。」などは相手が遠ざかる書きかたや近くに寄ってくる書き方なので,五月は動いていないと分かる。
 十二月が動いているという理由は,「円いかげを追いました。」「後を追いました。」から動いていないなら「追っていきました。」と書く。ここでは,「追いました。」と書いてあるのでここで動いていると分かる。また,「お父さんのかにが出てきました。」からその時の話者はその場所にいて,最後に「穴に帰っていきます。」という所から動いていって,そこから見送っているようなので動いていると分かる。

 3 造語
 造語とは作者が作り出した言葉である。
 (1) クラムボン
 やまなしにはクラムボンという造語がある。このクラムボンはいったい何なのか。これはたくさんの考えがあるが,ごく代表なのがまずは,クラムボンは「あわ」であるという考えがある。理由は「あわは流れていきます。」と書いてあり,その間にクラムボンの話が出てくるのであわではないかということである。また,「魚が頭の上を過ぎていきました。」と書いてある,その後,「クラムボンは死んだよ。殺されたよ。」と書いてあるから,魚が通ったために,あわが消えて死んだと考えられるからである。ほかには,「かぷかぷ笑った」という所で水の中で笑う音なのでかぷかぷと表現したと思うし,かぷかぷという音は,水にとけこんだぶつぶつのあわの感じがするのであわではないかと考えられる。
 び生物という考えもある。これも,魚が通った後,「クラムボンは死んだよ。」とあるから魚が食べたと考えられる。つまりクラムボンは,魚が食べるものである。だからそれはび生物であると考えられる。ほかにも,「光」「あわのかげ」「水の中の生き物」「水すまし」「太陽の光が川に反射して光るもの」「水」「カニの仲間」「アメンボ」「水に関係する生物」「小さな生き物」などなどでている。
 (2) イサド
 イサドはどうであろう。「川の生き物がたくさんいる遠い所」という考えがある。これは「もうねろねろ」という所で明日は遠い所に行くのでつかれてはいけないから遠い所だと分かる。「川の生き物が集まっているにぎやかな所」という考えもある。理由は,かにの子どもらが住んでいる所は,さびしそうな感じがするのでかにの子ども達が喜ぶ所は,きっとにぎやかな所だと思うから。また,「イサドへ連れていかんぞ」から子ども達が行きたがる所だと分かる。もしそうでない所だったら,子ども達は「別に行かなくてもいいよ。」と言っているはずである。ほかには,「海に近いかにの知らないかにや貝がたくさんいる所」もある。理由は,「連れていかんぞ。」と言われてもまだねずに話しているから,子ども達はイサドをよく知らないと思われる。ほかにもユニークな考えがある。イサドの(サ)を抜いて「イド」だとか,アワふきコンテストとかも出ている。人それぞれイメージがちがうのでとても楽しい。

 4 会話
 「クラムボンは笑ったよ。」などのクラムボンについての会話を考えた。この会話は,かにの子どもらがの所で,かにの子ども,兄と弟の会話だと分かる。しかし,これ全部をはっきりさせるわけにもいかない。その結果,「それなら,なぜ殺された。」の次に「兄さんの・・・」の書きだしが,一段さがっていない。いわゆる,段落が「それなら,なぜ殺された」の会話と「兄さんのかには」の文がつながっているのだ。だから「なぜ殺された」の会話は兄が言っていることになる。となると前後の会話がはっきりしてくる。「なぜ殺された。」が兄なら,自分で自分の言っていることに質問しないから「殺されたよ。」と言っているのは弟だと分かる。また,兄が,「なぜ殺された。」と質問していて,それに答える「分からない」は弟となる。なら「死んだよ」と言うのは兄しかいないので兄だと分かる。

 5 色
 (1) 白対黒
 色の対比を調べて,その中で白対黒を考えてみる。白と黒はもともと反対の色であるが,このやまなしの中での白の意味,黒の意味で考える。自分では,「そのかげは,黒く静かに」という所で,ゆったりした黒と感じた。また白は「天じょうに白いあわが立って」の所で,ゆっくり水に入ってきたらあわはたたず,しゅっといきなり入ってきたからあわがたつ。このときは速くとびこんできたので,白は「あわただしい色」と感じた。つまり「ゆったり」(黒)対「あわただしい」(白)といえる。また「黒くとがって」の所で,とがっているのだから黒は,恐ろしい。白は「白い岩の上で美しく」の所で,美しいといえる。ここでは,「恐ろしい」(黒)対「美しい」(白)となる。
 (2) 金
 黄金はどうであろう。自分は「ぼやけた光」だと思う。それは,「日光の黄金は夢のように」の所で,その光は,夢のような感じがする。つまり,夢は,はっきりした色,形ではない。だから「ぼやけた光」だと思う。このやまなしの黄金は,光の色に例えてある。それは,「黄金の光を」の所でわかる。だから,この黄金のもつ意味は光が関係しているといえよう。
 (3) 五月と十二月の色の対比
 五月と十二月の色の対比を調べる。まずは「青対青白い」である。これは,五月に「上のほう・・・は青く暗く」の所で上は青色だった。しかし十二月は「天じょうでは青白い火を」の所で天じょうは青白いことが分かる。つまり,上の色は,五月は青だが十二月は青白いから「青対青白い」である。「青対黒」もある。五月は「青光りする・・・飛びこんできました。」の所で,五月に飛びこんできたのは青い物である。十二月は「黒い丸い物が・・・落ちて」から,黒い物が落ちてきたのが分かる。つまり五月に飛びこんだのは青。十二月は黒,となる。だから青対黒の対比がいえる。
 (4) 検討
 五月と十二月の色を検討する。五月は「黒くてとがっている」の所で,この黒が表しているのはとがっている危なさ,痛そうな感じがすることから,恐怖を表している。つまり,五月は「恐怖」である。ぎゃくに十二月はどうであろう。「辺りはしんとして」から,静かで何事もないことが分かる。そのことから事件が起きていない平和な事が分かる。つまり,十二月は「幸福」である。このことから恐怖対幸福という対比ができる。

 6 光
 五月と十二月の光を考える。
 まずは五月である。五月は最初の方は「にわかにぱっと明るくなり」や「黄金の光」などから,夢のような感じや美しい感じがする。が,後の方になってくると「ぎらぎらする」や「ぎらっと光って」からするどい感じや光が強くきつい感じがする。それに五月は「日光の」から太陽の光とわかる。
 十二月は「月が明るく」や「青白い火」「きらきらと・・・光りました。」などから「のどかな光」や「やさしい光」を表している。また十二月は「月光が」から月の光と分かる。月の光は,とても美しいのでここではきれいな光が表れている。つまり,五月は「強い光」十二月は「やさしい光」なのである。

 7 音
 (1) 五月の音
 五月は,とても音が少ないのである。せいぜい2種類である。しかし五月は,音がするのに音を書いてない所が数多くある。特にかわせみがきて魚を連れていく所などは音がするのにちっとも書いてない。そのことから,あわただしくて音を聞いてなかったり,音がいっぱいなので聞きとれなかったと考えられる。このことからたいへんな感じやいきなりなどの様子を高めていると思う。つまり五月は音をかくすことによって死のイメージを表している。
 (2) 十二月の音
 十二月の音は「波の音がひびいてくる」や「辺りはしんとして」などから,静かな感じがする。思いうかべてみても,さわがしい感じではない。また,波の音や音がしないことは,人や物が加えた音ではないので,これは自然の音である。つまり,自然や静かな音から,十二月の音は「生きているイメージ」を表している。

 8 におい
 (1) 五月のにおいを検討する。五月はにおいも少ない。それににおいがあるのは事件が起こってない時なのだ。また,実際に文章ににおいのことは書いてはない。そのことから五月はにおいはないと言える。つまり五月は「においのない世界」なのだ。
 (2) 十二月のにおい
 十二月のにおいは,たくさんある。十二月はやまなしのにおいでもちっきりなので,いいにおいばかりなのだ。「やまなしのいいにおいで」から,さわやかでおいしそうな感じや自然のにおいの感じがする。十二月は五月とは全くちがうイメージである。つまり十二月は「においのある世界」なのだ。

 9 言葉の対比
 五月と十二月は色の対比があった。では言葉の対比はどうであろう。五月と十二月の言葉の対比はたくさんある。だからすべてをまとめた意見にする。自分では,五月は危険。十二月は平和だと思う。五月は,「いきなり,とつぜん」の言葉からいきなりバッと出てくる恐怖感や「とがっている」の言葉から危ない感じがする。そのことから危険だと思う。十二月は「おどるようにして」から,楽しい感じがする。又,「きらきら」からやさしく美しい感じがする。つまり十二月は「平和」なのだ。まとめると,五月と十二月の対比は,「危険」対「平和」なのである。

 10 死
 (1) 動物の死
 五月に死んだ物たちは,魚とクラムボンである。まとめて動物の死とする。魚を見てもほかの動物を見ても,食べ合い,食べられ合っているが,死んでからは何もない。死ねばそこでおしまいである。
 (2) 植物の死
 十二月に死んだのはやまなしである。まとめると植物の死なのだ。やまなし,またはほかの植物も動物とはちがって死んだ後,その実は種となり,また地面に新たなる命をあたえる。つまり植物は,永遠の命を持っているのである。そして,死ぬことによって次の命を作り出すのだ。このことから作者は,死んでも命の残る植物をうらやましかったのではないかと思う。

 11 象徴性
 (1) 魚
 魚の象徴しているものは「弱肉強食」だと思う。理由は,魚がクラムボンを殺し,その魚さえもかわせみにおそわれている。食べ,食べられ。そんな弱肉強食の世界の中間にいる魚はそれをよく象徴している。
 (2) かわせみ
 かわせみの象徴しているものは突然の恐怖だと思う。かわせみがおそってきたのは,当然のことである。「いきなり」からもよく分かる。その突然のことで魚は死んでいった。ましてや魚の方は,わけもわからず死んでいったであろう。危険なことは,突然起きることを作者は表しているのだと思う。
 (3) かばの花
 かばの花の象徴しているものは「恐怖の後のやすらぎ」だと思う。理由は,かわせみがきて,かにの子どもたちは怖がり,血生ぐさい川の中を,洗い流すように美しいかばの花が流れてくる。それを見ると心がなごむので,恐怖の後のやすらぎと思う。
 (4) やまなし
 やまなしの象徴するものは「すばらしい死」だと思う。理由は,やまなしも死んだわけであるが,それは,子孫を残す死であり,その死をかにたちは喜んでいる。まさにすばらしい死と言える。

《結論》
 1 主題
 主題を考える。ついに総まとめにさしかかった。やまなしの物語の中でのさまざまな死がある。その死にも役割があり,魚の死はかわせみの栄養としてその命のもととなり,やまなしは種,またはかにの食料となり命とかわる。つまり「生き物は死んでも,決して無だにはならない。だから悲しむばかりが死ではない。」と作者は伝えようとしていると思う。

 2 まとめ
 まとめに,このやまなしは,最初は楽しそうな物語と思っていたが,この物語を深く追求していくうちに,宮沢さんの妹さんのなくなった時に書かれたことがとてもよく分かる。表は楽しくても,裏は死に対しての心が表れていた。
 「やまなし」 とてもよい物語であった。


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