日記の返事


    「日記で (その14)  3月5日   91号
             −コロンブスの卵− 
コロンブスが卵を立てて見せた時,人々は,それなら誰でもできると言ったという話があります。
しかし,それを見るまで,誰もそのことに気づいてはいませんでした。
私は,日記の返事について,もっともっと学ばなければならない点があると思っています。
ただし,それは,同じように,1年を単位とした取り組みの実践の中からでなければ,意味がありません。
ある日の日記をパッと開いて,その返事を批判することは,誰でもできます。
その日,その日の返事を見れば,もっと教育的,人間的,効果的なものが考えられるでしょう。
しかし,1年間続く日記の返事は,1年を通して,1つの形をつくりだすものです。
1回や2回は,密度の濃い,よりよいものが出せるかもしれません。
しかし,それが毎日,20〜40人を相手に,1年続くとは思えません。
1年続ける日記に対しては,1年続けられるレベルの返事になります。
1年間ですから,そのレベルは,うすいものになります。
しかし,うすいが,効果的で,新しい見方が含まれていて,何より,その子が読む気になるものでなければなりません。
そういう返事を学んでいきたいものだと思っています。
「1年続けられるレベル」これは,もう実際に,1年続けた返事からでなければ,学ぶことはできません。
「私は1年間,こういう返事を書いてきたが,お前のと比べて,ここが違う。」
と,言ってもらえるような教師や書物との出会いを望んでいます。
こういう「ここが違う」という言葉には,重みがあります。
上すべりな口先だけの知識による批判など,吹き飛んでしまいます。
コロンブスの卵を鼻先で笑うような教員体質に染まらないよう気をつけて,常に学び続けていきたいと思っています。




   「日記で (その15)   3月7日  93号
            −たいぎな日記− 
書き始めの頃は,(その3)か(その4)ぐらいで終わるつもりだった「返事の巻」が,いつの間にか(15)まできてしまいました。
書いていくうちに,今までの思いが次々に出てきたという感じです。
そこで,ここまでずっと引き延ばしてきた,「私の日記の返事」は,何タイプかということですが,もうこれは,毎日子どもの日記の返事を読まれているみなさんの方が気づかれていると思います。
私が意識しているのは,
  とにかく応援すること
つまり,「応援」タイプです。
もちろん,時には,「注文」や「説教」もしてしまうのですが,基本的には,その「文章の書き方」や「日記の向こうに見える生活」を応援していくことを気にしています。
それも,「とにかく」がつきます。
ここでいう「とにかく」とは,「善意に解釈して」という意味です。
「日記を書く」のはたいぎなことなのです。
宿題が終わって,やれやれと思っているところに出てくるのが日記です。
たいぎ,たいぎ書いてきた日記に「漢字がどうの,字がどうの,書き方がどうの」と注文をつけられて,それ以上本気で書く気になってくるわけがありません。
書かされる者の身になって考えれば,とても書けなくなる返事があるはずです。
「返事」には,次の日記もまた,たいぎいけど書こうと思ってもらう意欲づけの役割もあります。
こうして,とにかく日記を書いているうちに,ヒットも生まれます。
子どもが自分でヒットだと思えると,そのあたりから少し頭を使って書き始めるようになるものです。
ここまでの辛抱です。




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