「やまなし」評論文


 Uさんからのメールリクエストにより(Uさんありがとうございます!)「やまなし」評論文から紹介していきます。
 この評論文は,今から約10年前(1990年度)に22名の6年生のクラスを担任したときのものです。
 22名分の評論文がありますがここでは,出席番号1番君の文と,文集の最初に書いた教師の一言を紹介します。


1990年度  「やまなし」評論文集より
                                    (教師)
 これは,物語「やまなし」についての評論文集です。
 子どもたちは「やまなし」の授業を受けた後,全員が四百字詰め原稿にして10枚以上の評論文を書きました。
 そして,それを綴じたのがこの文集ですが,この文集には,表記上の間違いや,表現の不正確なもの,そして,読みとりが不十分で勘違いをしているものもあります。しかし,敢えてそのままを載せています。それは,この評論文の程度が,「授業」の程度を示すからです。つまり,この評論文がそのまま「やまなし」を学習した子どもたちの認識の側からみた授業記録になるわけです。
 この文集の中からは,私が反省しなければならないことがたくさん見えてきます。まだまだ,丁寧な学習を組み立てることができていないことが分かります。
 しかし,子どもたちも書いているように,この授業は,大変楽しくできました。時には,休憩になってもやめようとしないほど討論に熱中した時もありました。ある子は
「終わりのチャイムの音が聞こえなかった。」
と言っています。
 これほど熱心に学習に取り組めるクラスに出会えたことを,私は幸せに思っています。そして,このクラスのおかげで,今まで国語授業の中にもやもやとした胸のつっかえがあったものが少しとれてきたように思います。

 「やまなし」は教育の高みを目指す教師の戦いの場である。
と言われています。
 その「戦い」への第一歩を踏み出させてくれたのが,このクラスです。
 6年生のみんなへ感謝を込めて
                                                   
                             
           
「やまなし」評論文
                                           男子
《序論》
 このやまなしの勉強を始めて2日目の事。こんな童話みたいな話,本当に6年生の勉強か,クラムボンだって,バカバカしいと思って始めた,やまなし。しかし,このやまなしをばかにしていたぼくが,今はもう楽しくて楽しくてたまらない。
 こんなやまなしを勉強して,これから,評論文を始めようと考えている。

《本論》
1.会話について
 ぼくの,ばかにするような心を変えたのが,この兄か弟かの,会話争いであった。この兄か弟の会話争いで,ぼくはこんな楽しい会話争いは,初めてだとおもい,ムキになってしまった。兄だ,弟だ,兄だ,弟だと考えた。ぼくは兄の会話だと,ある会話について話をした。それは,その会話は,順序からすると,兄の会話に当てはまるのだ。その前には,弟らしき言葉があったからだ。
 一生懸命考えたが,相手の意見は強まるばかり。ああ,どうしようと考えたが,負けてしまった。この負けをきっかけに,ぼくはくやしさを覚え,こんどは負けないぞという考えを強めたのであった。

2.造語について
 (1) クラムボン
 クラムボンは何かと,問題が出た。ぼくは,クラムボンとは,微生物ではと思った。それは,文中に,魚が通った後,クラムボンが殺されたと書いてある所から,魚が通った後死んだとあるなら,魚の食べ物と考えればいい。そして,クラムボンは,魚の食べ物と考える。その中から,微生物という考えがうかんだのだ。そしてその中でも,微生物は,意見が認められると思うぼくは,胸をはって,大きな声で,
「ぼくは,微生物だと思います。理由は,魚が通った後,クラムボンが死んだんでしょ。魚が食べる物といえば,微生物と考えられるでしょ。だから,魚の食料の微生物ではないかと思います。」
と言った。そんなに大きな「そうだなぁ。」と言う声は聞こえなかったが,まぁまぁの考えだと思った。これをきっかけに,微生物という人も増えてきた。
 自分の考えに賛成してもらえるというのは,とてもうれしい事だ。こうして微生物という言葉はのこった。
 (2) イサド
 このイサドというのは,ぼくは,楽しい所と思った。理由は,お父さんが,
「明日イサドへ連れて行かんぞ。」
とおどす所からである。これがぼくの一つ目の考えである。
 二つ目の考えは,遠い所だろうと考えられる。それは,「早くねろねろ」この文から分かる。つまり,この文からは,早くねろというので,早くねないと,明日は早く起きられないと考えられる。だから,朝早く起きないと,遠い所へは行けないと思うことが出来るのである。だから,これは,遠い所だと考えられる。そして,楽しい楽園だと思える。
 この意見を出した。自分でも良い意見だと思う。しかし,まだまだであった。なぜかは,みんな,とてもすばらしい意見を出していたからだ。みんな,あわや,光など,完全にあるしょうこをつかみ,ぼくの意見に対こうしてきたからだ。この二つの事だけで,ぼくの意見はぬかれてしまった。みんなすごいと思った。

3.象徴性について
 (1) 魚
 ぼくの考えは,人々という事だった。そう思った理由を書くとこうなる。
 かわせみというやく病神が突然飛びこんできて,死んでしまうのが魚である。その魚を人々と表すのは,かわせみとの,突発事故からである。この突発事故を交通事故と考えると,人々と考えられる。
 つまり,魚の世界の突発事故は,人間の世界の交通事故などに表せる。
 だから,クラムボンを,人間の世界の魚や肉,食料と考えられる。
 と,こうなるわけだ。だが,他の人の意見を聞くと,悲劇の悪魔とか,魚を悪者に例えている。でもこれは,クラムボンに対しても,弱肉強食の世界と考えられるからしかたがない。
 人間の世界には,強い人が弱い人を食うということがない。だから,人間の世界は,あんまり恐ろしい事は考えられない。自分が食べられるということも考えられない。だからぼくは,この魚たちの世界は,とてつもなく恐ろしいと思う。食うか食われるかの生き残りデスマッチだ。こういう悲しい魚。がんばって生きてもらいたい。
 (2) かわせみ
 このかわせみについての考えは,こうだ。このかわせみは,魚を殺す。つまりこの殺すということで,死の世界へ引きずりこむ,悪の使い,地ごくの案内人死神と考えられる。
 この文章のように,かわせみは魚にとって,死神ではないかと考える。でも,よくよく考えると,死神というイメージもつよいけれど,天使,神様と考えられるかも,と思って来た。やはり最初は,死神かと検討していたけれど,クラムボンにとっては神様ではないだろうか。その理由は,クラムボンにとって,魚は,大の敵であるからだ。人間の世界でいう魚は,クラムボンにとって,敵が減るということになる。
 (3) かばの花
 かばの花は,桜の一種であり,とてもきれいだ。だから,そのきれいというのを取って,ぼくの考えにいれるとこうだ。
 魚やクラムボンの次々の死でこわがっている時に流れてくるのがかばの花である。きれいな花が,サラサラと流れて来て,その子の不安をなくすように流れてくるように思ってしまうのが,この文からである。この文のふんいきからして,しとしとと落ちてくるというのでいかにもぼたん雪という感じがする。この様子からして想像すると,流れて来るかばの花ほど美しい物はないというような気がする。かばの花が流れてくると気持ちが落ち着くような気がする。
 ぼくでも,悲しんでいる時,雪が降って来ると,心がすごく落ち着く。これぐらい雪は,いいイメージを持っている。しかし,父は,雪がきらいだ。それは,雪がふると,仕事中にすべってしまうからだ。きれいでいいイメージがあるから,ぼくは雪が大好きだ。雪を見ていると,気分が良くなるからだ。
 (4) やまなし
 この物語の題名はやまなしだ。そのやまなしがついに出て来た。ぼくのやまなしについての考えはこうだ。
 やまなしは,死んで落ちてもまた再生する能力を持つ永遠の命を持つ自然の植物なのだ。そして,永遠の命といえば,不老不死という言葉が思いつく。でも,不老はないから不死だ。不死のような生き物を作者は探して見つけた物がこの自然の植物やまなしだと思う。
 この授業をしている時,ふと思い出したのが,作者の妹の死である。作者の妹さんが亡くなってそれでこの不死と考えられるやまなしを表したのだと思った。ぼくは,そうだったのかと思い返した。でも,そのそんな事が作者にとっても,一番の悲しみではないだろうか。その感じがやまなしを通して,よく分かる。

《結論》
1.作者の妹
 さっき少し書いたが,作者の妹さんが亡くなられた時作ったのが,今,評論文の中心となる,やまなしの話だ。だからこのやまなしの中には,クラムボンの死が出てくる。魚の死も出てくる。そして何より,不死のやまなしが出ている。全部妹さんの死に関係あることだ。
 クラムボンや魚の死は,妹さんの死とかさなる。そして,やまなしの不死は,何よりも一番の願いごとだ。ぼくはこのやまなしを書いた時の作者の気持ちが痛いほどよく分かる。でもやはりめげてはいけないと分かる。めげたら終わり,そう思う。

2.さけられない悲しみ死
 死んでいく人を見るのは,とても恐ろしい事だ。人は死をよけられない。さけられない。だからかならず悲しみが心をおそって行く。
 人もやまなしの様に強くたくましく,そして不死の力が手に入れば,きっと悲しみを覚える事はない。そして永遠の命を持つことは,とてもすばらしいことだ。
 これは,ぼくの考えた主題の一部だ。たしかに永遠の命はとてもすばらしい事だ。しかし,不死になった所で,よけい多くの悲しみにくれるのではないだろうか。
 ぼくは今考えてこの主題の一部はまちがっていると思ってきた。不死の願いがかなうと,何百年,何千年と一人だけとり残されてしまうということだ。友達が死んでも,父母,兄弟が死んでも,自分は不死で死ねないと,なやんでしまうのではないだろうか。
 不死で一度は喜べても,後で必ず後かいする。そう思うのだ。やはり,不死は,喜べない事だと思う。よけいに悲しみを背負わなければいけないのだろうと思う。ぼくは不死にはなりたくない。

3.この勉強をして思った事
 (1) 勉強の中の話し合い
 ああだ。こうだ。いやちがう。そういう話し合いから,疑問,理解が生まれて来るのであった。その中に,このやまなしで勉強して行くことがどんどんみんなに分かって行った。そして,この話し合いが終わっても,この国語の話を,休憩中にするほどになった。
 こうまでなると,国語の時間におくれて来る人がいなくなり,そしてみんな発言を始めた。だから,今までふざけていた国語の時間もみんなど迫力でがんばって,がんばってがんばりすぎて口論になるほどだった。
 毎日ふざけてるより,こういうはげしい口論が出来るというのは,とてつもなくすばらしいことと思い始めた,このぼく達であった。
 (2) 楽しみな国語
 やまなしを始めて,もうだいぶたった。2学期最後にこんな迫力のある口論もできたし,そしてくやしさ,楽しさ,喜びも覚えられた。
 国語の勉強を今まで,たくさんの先ぱいがやってきたと思えるが,今回のど迫力は,そうめったに生まれてないと思う。でもそのめったに生まれない迫力を毎回毎回出せるぼくたちの学級は,自分でも超すごいと思う。1年の時から,国語はやってるが,こんな楽しい国語の思い出を6年の2学期になってやっとつくれたというのが,少し残念だ。3学期もこの調子でがんばりぬき,すばらしい6年といわれるようになりたい。

4.終わりに
 今まで国語をやったなかでも,石うすの歌ややまなしが,一番楽しく出来たと思う。もうあと一学期間しかないが,このやまなしや石うすの歌のように燃えきれるような生活にしたい。
 そして,最後の一学期間を,しっかりして,たよりがいのある六年生になってみせる。こう思いながら,やまなし評論文は,これでおわります。ありがとう国語。


この時の授業の殆どは
「分析批評による『やまなし』への道」
愛知せんの会
佐々木俊幸・西尾一共著
(明治図書)
を参考にさせてもらっています。
是非一度読んでみて下さい。




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