「通信をとじる物は配らないんですか。」 これは,参観日に学級懇談が終わった後,ザワザワッとした中で聞かれた言葉です。 私は, 「はい。」 と答えました。 そして,続けて, 「それほど大したものではないですから。」 とも言いました。 以前の学校で,放課後,教室の床を見ると,その日出した通信が1枚落ちていたことがありました。 だれか一人,カバンに入れ忘れたのでしょう。 しかも,拾って見ると,シューズの足跡がくっきり。 その時,はっきり気づいたのは,教師の側がどれだけ思いを込め,大切に思っていようと,それが受け取る子どもにとって,価値を感じるものでなければ,通信はただの紙切れにしかすぎない,ということです。 シューズで踏みつけていっても何ともないような通信しか書けない,自分(教師)が悪いのです。 たとえ,子どもが家に持って帰ったとしても,その通信が親にとって,または,自分の子どもにとって意味があると思われる時は,自然に保存されていくでしょうが,そうでない場合は,読まれもせず,ただの紙クズとなっていくはずです。 一人ひとりを本当に大切にした通信でない証拠が紙クズになる量だと思っています。 どれだけの家庭で通信が保存されているか,それがその通信の質のバロメータとなります。 と,いうわけで,私は教師になった年から,あえて「通信をとじる物」は配らないようにしています。 それに,読みたいとか,とっておこうとか思えないような通信は,本当に大したものではないのです。 |
(通信枠外の一言) 「連絡帳は見られないのですか。」という質問もありました。毎日見ています。質問,意見等がありましたら,お書き下さい。お待ちしております。 |