心配事
(1992年7月11日)

         ヤメ ません   「ほめ言葉」

                −−−− 個人懇談での落胆 −−−−

個人懇談の中で聞かれた言葉に,こういうものがありました。
(こんな話を聞いたと教えて下さったものです。)

子ども達が書いている日記は素晴らしいが,日常生活の中では大人の人の名を呼び捨てにしたりして,問題がある。
日記に書いていることは,ほめられたい一心で,つくりごとを書いているのではないか。
しかも,先生が変わって,ほめなくなれば,もうあんな文は書かなくなるのではないか。

この日は,随分落胆して,暗〜い気分で家に帰ったのを,覚えています。
なぜ,こうも人間は悪い所を中心に物事を考えるものなのでしょうか。
つまり,上の言葉は,「子ども達」を,

いいことを書いていても,本当は悪い所がある

と,とらえているのです。そして,

これでいいのだろうか?

と。
こういう話を聞く度に,いつも不思議に思うのは,なぜ「子ども達」にだけ聖人君子を求めるのかということです。
しかし,これは,子ども達の正常な発達を願う親心でもあり,元々「心配」自体が大切な感情なのかもしれません。

それにしても,なぜ「いいことを書いていても,悪い所が・・・」となるのでしょう。
なぜ,

悪い所もあるが,いいことも書くもんだ

と思えないのでしょう。

人間なんて,そんなに簡単に改良できるものではないのです。
どこか1つでも光る所が見つかれば,もうけもの。
それを大事にしていくぐらいのことしか,私達大人にはできないと思っています。

「ほめられたいだけで書いている」のではなく,「ほめられれば書いてくる」のです。
もし,日記の紹介もなかったら,この子達は,ただの「悪い所がある子」だけになってしまいます。


(通信枠外の一言)
個人懇談の後,もう日記のほめ言葉はヤメようかと考えました。しかし,やはり,今までの姿勢でこれからもいきます。私にはこれぐらいの力しかないのです。




戻る戻る