(1992年11月24日)
こんな便りをいただきました
以前,「ヤメません」という題でかがやけを発行されたと思いますが,あの時,何か複雑な気持ちがして,手紙を書いていましたが,子どもが渡すのを忘れて,そのままになっていました。
今のかがやけに出ているみんなの文は,自分のものになっているようにみえます。
あの頃があったからかもしれません。
でも,以前の文とは,私には違って見えます。
読んでいる人に気持ちが伝わるような文になっていると思います。 |
最近読んだ本の中に次のような文がありました。
1 子ども理解のむつかしさ
「子どもを理解しよう」というのはやさしい。しかし,教師が子どもを理解するのは基本的にむつかしいように思う。
子どもと教師との関係は,こどもとおとなの関係に加え,学ぶ者と教える者との関係である。そして,子どもたちは教師から評価されているので,教師から良い評価を得たいと思う。
皮肉なことに,そうした事情は良い教師ほど深刻になる。というのは,良い教師であればあるほど,子どもたちは教師になつき,教師から認められたいと願う。
その結果,教師は子どもたちの努力する顔,いわば,よそゆきの顔を見ていても,素顔を見ていない感じになる。
そうかといって,教師の前で子どもたちが素顔を安心して見せるようでは教師として頼りない。やはり,子どもたちが教師の前で,どの子も良い子になろうと努力する,それが教師としての理想の姿であろう。
それだけに,教師たちは,自分たちの見ているのは子どもの半面で,子どもたちは,もうひとつの素顔を持っていると思って子どもに接してはどうか。
もちろん,そう書いたからといって,子どもが二重人格だ,あるいは,陰ひなたがあって良くないなどというつもりはない。おとなにしたところで,恋人や尊敬する人の前では,良き人であろうとし,そうした努力を重ねる。そして,時間が経過する内に,努力が実って,理想の自分に近づいていく。
それが人間というものであり,見方によれば,成長とは,現実の自分を理想に近づけていく営みであろう。おとなでそうなのであるから,子どもはなおのこと,理想の顔と素顔とを持っていて当然である。 |
これは,静岡大学の深谷昌志教授が書かれた文の一部です。
「教師や親の前で,良い子でいようとする子」
は,確かにいるものです。
そして,
「教師や親から良い評価を得たいために日記をツクリ出す子」
もいます。
しかし,そのことが,少しでも
「現実の自分を理想に近づけていく営み」
になるとしたら,大人は長い目で,大きく包み込んで,辛抱強く見守っていきたいものです。 |