8月7日(火)曇り お昼から親戚におみやげ配り。10数軒、クルマで町を一巡。やっぱり田舎はクルマがないと不便だ。 途中、道ですれ違うクルマの運転席につい目がいってしまう。幼なじみ、親戚、近所の人……見知った顔と出会い、会釈を交わす。すれ違うクルマが全部自分の知り合いのような錯覚に陥る。 気温は相変わらず低く、どんよりした天気。磯遊びもできない。下の子は親戚の子が持ってきたゲーム機で遊んでいる。田舎に来たのに、どこへも出かけられずかわいそう。 8月8日(水)曇り 午前10時に家を出て、レンタカーで田名部へ。11時、不動産会社をやってる高校時代の友人Tの事務所に寄る。あごひげなど生やして元気そうな顔。しかし、経済不況の影響をもろに受ける不動産業の低迷はかなり深刻だという。 次に、タクシー会社を経営する友人Yを訪ねて一緒に昼食。入った喫茶店は彼の家の裏手にあった古い土蔵を改装したもの。風情があっていい。 「とうとう駅前通りと本町に本屋と電気屋が一軒もなくなったよ」とY。松木屋、むつショッピングセンターという百貨店があり、「銀映」「ほらく」という邦画洋画館2軒、喫茶店も集中、いわばむつ市の目抜き通りだった駅前通り。それが、安売り店、電気店など大型店舗が郊外に次々と開店し、駅前通りはさびれる一方だった。大畑線の廃止がダメ押しになったようだ。電球一個買うのにもわざわざ遠くの電器店街に行かなくてはならないという。「ほらく」も閉館。一軒だけ残っていた書店「カネサン」も閉店したという。高校時代の思い出の町が変わっていく。なんだか淋しい。 午後1時、同窓会報の取材で高校時代の体育担当だったA先生を訪ねる。電話では、「もう半分ボケてるから来てくれても何も話すことありませんよ」と言っていたが、訪ねて行ったら歓迎してくれた。87歳ながら、元気そのもの。記憶はしっかりしているし、足腰も丈夫。こちらから、話を振ったわけではないのに、「このことは戦争が終わった後、家族にも黙っていたし、誰にも話したことがなかったんだけど」と問わず語りに、自分の戦争体験を話し始める。 中国戦線で、ある突撃作戦の要員に選ばれながら、直前になって突撃隊から外され、一番仲のよかった戦友がその戦闘で死んだという。「自分の身代わりに戦友が死んだようでね。今でも毎年、命日にはお墓参りに行って手を合わせるんです。もう87歳ですから、戦友よりはるかに生きてしまったね」とポツリ。 最後に庭で先生の奥さんとのツーショット写真を撮る。「いやぁ、二人で写真を撮るなんてずいぶん久しぶりですよ」とにこやかに微笑む先生と奥さん。 PM3、高校の同級生と後輩がやってる映像会社に寄り、数年前から復元を頼んでいたオープンリールテープのコピーをもらってくる。 その帰り、釜谷でネット仲間のたらこさんの家に寄るが不在。近くに熊出没注意の看板。ここ10年以上前から、開発が山奥まで進み、自然環境が激変。食糧を求めて熊が里に下りてくるようになったのだ。熊が出るなど、私が子供の頃は聞いた事がない。人間サマの都合で自然が破壊される。熊に責任はない。すべてはニンゲンの過剰な欲望が元凶だ。 4・30。大間に入り、某プロジェクトのために下手浜漁港周辺を下見。そして、ヤッコこと島康子さんの島木材工業の事務所に顔出し、30分ほど歓談。PM6帰宅。夜は復元テープを聴く。しかし、テープの中身は深夜放送の録音がほとんどで、もしやと期待をかけたテープではなかった。それは中学時代に録音した祖母2人の歌や会話のテープ。机の中に保存していたはずが、いつのまにか散逸してしまったのだ。今回の復元テープがそれかと淡い期待をかけたが、残念。当時は録音機など高嶺の花。中1の時、無理を言って父に小さなオープンリールの録音機を買ってもらった。その夜、録音機を枕もとに置いて寝たっけ。朝起きて夢じゃなかったとわかった時の嬉しさ。 最初はマイクで家族や親戚の人の声をとっていたが、そのうちテレビ番組を録音したり、深夜放送を録音。テープ代が高いので消してはとるの繰り返し。今になってみれば、レコードを録音したってしょうがないのに…。それよりも当時の家族親戚の声を残しておけばよかった。祖母が歌を歌うなど当時でも珍しいことだった。あのテープはどこに行ったのか。 |