映像界の巨人との一期一会(志賀信夫)      映像新聞2001年6月4日号より
 佐々木作品には多くのファンがいる。昭和46年のの処女作「マザー」、第2作「さすらい」以来、佐々木作品は常にその時代の若者たちによって語り継がれている。テレピでは希有なことだ。それ以前の彼のラジオドラマ「都会の二つの顔」(福田善之、林光)、「コメット・イケヤ」(寺山修司、湯浅譲二)も伝説的作品でファンが多い。

 去る5月5日(※12日の誤記)放送の「NHKアーカイブス」では、佐々木作品「夢の島少女」(1974年)が実に27年ぶりに再放送され、たちまち若者の間にすさまじい反響のメーやネットが全国的規模で飛び交った。佐々木ファンの大半は20〜30代の若者だ。

 この「夢の島少女」というフィルム作品は、初放映当時も爆発的人気が若者の間に広がった。手書きのミニコミ誌が出て全国にリレーされた。今のインターネットだ。
 当時筆者が主宰する「放送批評」はそのミニコミ誌「日躍日にはTVを消せ」の発行者の熱気を紙面を割いて大きく紹介した。北大生の池田博明君と、愛知学院大の藤田真男君がその発刊者だ。彼らは同作品をその後何年も語り継いで行く。5日夜、初めて佐々木作作品を見た若者たちは、70年代にこんな斬新な作品があったことに驚き、全国的規模のネットとメールが広がるに至ったのだ。

 筆者が佐々木昭一郎を取材したのは、この伝説的名作の再放映前のある晴れた午後だった。帯状疱疹という重病を筋肉トレーニングと水泳で3年がかりで克服したばかりという佐々木は、以前より顔色が良く若々しい姿で現れた。早速その話題作「夢の島少女」の思い出から聞き出した。
「私の作品のすべて私が実際に見た夢から生まれる。27年も前だが、「夢の島少女」の場合、真っ赤なワンピースの少女が夢の島15号地から花束をかかえ歩いて来る夢を見た。夢の続編は翌日の昼に見た。少女が私の視界から離れない。それから私は物語をノートに書き、誰にも見せなかった。そしてまた夢の続編を見た。私は夢を見るのが好きだ。それも白昼夢をね」

 ラジオドラマ処女演出作は有馬頼義原作「終点です」(62年、福田善之脚色)は、20分だ。「バスに乗り夢を見る男が、終点ですという声で夢の続編が見られなくなる話だ。
 まったく同じ夢を私も見たので、『オール読物』で有馬さんのその原作を読んだ時は興奮した」。その演出の出来映えは悪かったそうだ。ラジオ時代は吉永小百台、星由里子主演作なども創った、
 劇作家・宮本研のラジオ処女作「手は手、足は足」も佐々木が実際に見た夢を宮本研が書き下ろした。踏み込んだ演出ができず宮本の脚本を台無しにしてしまったそうだ。そこで発奮したのが福田善之との「都会の二つの顔」だ。
「福田さんは私に脚本も書ける”監督”になれと言い、台詞の大半を私にまかせ、私は即興的に創った。すべて音ロケだった」
 同作品で佐々木は1963年度ラジオテレビ記者会年間最優秀作品賞を受賞、再放送で翌年の芸術祭奨励賞第一席。佐々木が竹芝桟橋の海岸で昼見た夢をドラマにしたのだ。
 1964年、やがて親友となる寺山修司と出会い、「おはよう、インディア」(同じくラジオテレビ記者会賞、芸術祭大賞)、「二十歳」「コメット・イケヤ」(イタリア賞グランプリ)を創り、ラジオの内外のすべての賞を受賞することになる。佐々木も寺山も30歳だ。
「私の母は私が夢を見る癖をよく知っていて、母の呼びかけに対する私の返事はいつも『えっ? 今何か言った?』。それも忘れた頃に言う。『コメツト・イケヤ』の冒頭で主人公(私)の台詞『えっ? 今何か言った?』は私と母との台詞を寺山に書いてもらったのだ。寺山はこの場面を劇の中半でリフレインさせた。私が最も好きな場面だ」

 30歳の著さでラジオ界で獲る賞がなくなった佐々木はテレビに歩み出し、吉田直哉のドキュメンタリー「明治百年」の助手や、遠藤利男のミュージカルの助手などを3年つとめ、1969年10月、テレピ処女作「マザー」を自作脚本で監督。33歳だ。神戸でオールロケ、カメラマンは日本のテレビ、映画界で三本の指に入る名手・葛城哲郎。当時二十代の若さだ。
「劇映画のロケは無惨だ。現場をセットと化し厚化粧する。生き生きとしたもののすべてを撮り逃がす。私は若い葛城と生きた現場に主人公たちを無化粧で立たせ、素早く演出した」。同作品で1971年、日本のドラマでは初めてのモンテカルロ国際テレビ祭金賞を受賞。同年11月「さすらい」で芸術祭大賞。35歳だ。この2つの大賞受賞により、1971年度芸術選奨新人賞、ギャラクシー個人賞などを受賞するが、再び3年間の助監督生活を経て1974年、先の話題作「夢の島少女」を発表する。佐々木38歳。「主人公選びにはとことんねばった。諦めていた頃、中尾幸世さんが現れた。17歳の美大受験生だ。『彼女の目は放射能を放っている!』名手・葛城が感動して言った。テスト撮影などせず、一気に撮影に入ったのだ。この作品で私はイリュージョンを主張しながら主題となる相対する観念=“死、生、少年の殺意、川、性、ことば、音楽、音、空間、世界、静、動、老などを描ききった。少年と少女が死を再ぴ死ぬことにより生き抜くという主題の展開だ。葛城と観念を徹底的に話し合った。処女作『マザー』は60分の短編。第二作『さすらい』は90分の長編。『夢の島』は75分の中間。これら初期三部作に私のその後の作品の中の相対する主題の芽のすべてを徹底的に刷り込んだ」
この作品でカメラマン葛城哲郎がギャラクシー個人賞を受賞した。同作品は若者の大反響があったにもかかわらず芸術祭などでは理解されなかった。佐々木は1990年に放送ライブラリーのカードの索引を見た。相変わらず放送当時のまま「放送要注意」と赤印が押してあったという。現在はデータベース化され、そのような注意書きはない。27年間の「黙殺」の後、時代も変わり、今では人気作品として堂々の最放映だ。

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