日本海軍 戦艦 山城 1930 | |
「山城」は扶桑型戦艦の二番艦として1913年(大正2年)11月横須賀海軍工廠で起工され、2年後の1917年(大正6年)3月に就役した所謂「超弩級戦艦」で、排水量29,300屯、主砲35.6センチ砲十二門、副砲15センチ砲十六門、53センチ魚雷水中発射管六門は先に就役した「扶桑」と共に当時は世界最大級の戦艦でした。 しかし、設計当初より主砲配置や水平防御力の脆弱さなど大きな問題点を抱えており、その都度改装に次ぐ改装を重ねて太平洋戦争開戦時までには機関の換装や艦尾延長、防御装甲の強化が図られましたが、姉妹艦の「扶桑」同様、他の主力戦艦と比べ決して満足の行く状態ではなく、ミッドウェー海戦以降は第二線級で練習戦艦として内海に留まり何ら戦績に寄与する事なく、最後は姉妹艦「扶桑」と共に1944年10月レイテ沖海戦に参加、スリガオ海峡で待ち伏せしていたアメリカ戦艦群のレーダー射撃で集中砲火を浴び、27年の生涯を閉じました。 帝国海軍戦艦群の中では最も旧式であり戦歴もパッとしない「山城」ですが、コアな艦船ファンの間では金剛型戦艦と並び人気があります。 WLシリーズではアオシマが担当、初期の製品はかなり「痛い」キットでまともに見れる代物ではなく、1978年モデルアート誌に名人長谷川藤一氏による徹底工作記事が掲載され、「あの駄作キットが何でこうなるんだ!」と衝撃をうけた記憶があります。 月日は流れ2007年晴れてリニューアルとなったキットを手にした時、「これで労する事無くあの特異なパゴタ艦橋が手軽に再現できる。」と感慨ひとしおでした。 艦船模型スペシャルで「扶桑・山城」特集が組まれるにあたって、「是非大改装前の山城を。」と編集部よりの依頼があった際、旧キットをベースに戦前の山城を製作する事になりましたが、ほぼスクラッチの大工事と相成りました。製作詳細内容は艦船模型スペシャル№24に記載されていますのでそちらを参考の程。(…とは云ったものの絶版かな?) |
|
旧キットで使用したのは船体(それも一部のみ。)で舷側と艦尾下甲板は全てプラ材でスクラッチします。 | 艦首平面 右は旧キット 平面幅が広い上艦首の長さが短い為、実艦とは程遠いので幅を2ミリ縮小し艦首を4ミリ延長します。 |
艦尾形状 改装前は1/700では10ミリ程短くなります。舷側大型バルジ撤廃の際に下甲板を含めて全て切取って作り直します。主砲バーベットはエバーグリーンのプラパイプ、木甲板は同スジ彫りプラ板を使用します。 |
船体の平面形状比較 上から旧キット、修正版、ニューキット。 御覧の通り旧キットの艦首平面形状は明らかに幅が広すぎますね。 |
艦橋各階層部分 司令塔はニューキットのパーツを利用。ニューキットからは主砲も利用しています。 |
下部見張り所のアップ 竣工時はシンプルな三脚檣から改装を重ねていく内に複雑な形状の檣楼となっていきました。 |
後部煙突 変形六角形の板は探照灯楼の防熱板 金剛型の「榛名」の後部煙突にも同様なものが確認できます。 |
後部煙突の後方 探照灯楼は鮮明な写真がなく推定で製作しました。 探照灯楼は「山城」のみで姉妹艦の「扶桑」にはありませんでした。 |
前部煙突 煤煙逆流の影響を軽減する為の防煙キャップは木型を作ってプラ板をヒートプレス加工して製作します。 |
|
前檣楼を組み上げた状態 支檣に取り付いた見張り所が特徴的です。 |
|
前檣楼後部 このあたりもほとんど推定でデッチ上げました。 |
|
前檣楼直後に煙突を載せてみました。 防煙キャップの効果はどれほどでしょうか。 |
|
後方から 支檣見張り所の位置決めと取り付けには苦労しました。 |
|
船体に主要構造物と主砲を配置してみました。 |
|
副砲のケースメイトは主砲バーベット同様、エバーグリーンのプラパイプで製作しています。 | |
船体に主要構造物と主砲を配置 ここまで出来上がってくると俄然モチベーションが上がってきます。 |
|
だだっ広い最上甲板に揚貨機や載炭口― Coaling Rim― 等の細部ディティールを施します。 |
仕上げまでもう一歩。 |
製作第二部へ | |
製作 国親父座郎 | |