SCAPEGOAT SHEEPDOG                        <<小説置き場へ


 僕は自分の犬を殺しました。それも二度です。
 一度目は僕が小学校六年生の頃です。僕が育ったホームで飼っていた犬でした。そいつは僕がこのホームにやってきたのと同じ頃、僕が四つかそこらの時に僕より年上の誰かが拾ってきて、名前もみんなでつけた犬でした。大きさは秋田犬より少し小さいくらいで、毛は真っ黒、鼻のまわりの毛だけが白かったので、誰かがハナジロと名づけました。拾った時すでに大きかったハナジロを僕と同い年の子たちは恐がってあんまり触ろうとしませんでしたが、僕は全然平気で、そのうち僕が少し大きくなってからは、あいつにやる餌もフンの始末も先生たちにせがんで僕がやっていたものでした。確かにハナジロは後ろ足で立てば子供よりずっと大きかったし、怒ったこいつに噛まれれば痛いし、吼えられたり追いかけられたりすれば子供ならおっかながって近づかなくなるものでしょうけれど、僕には年長の黒んぼのお兄さんたちの方がよっぽど恐かったです。お兄さんたちは僕ら白人の子供を白んぼと呼んで机や椅子を蹴ってきたり、おやつを取り上げてきたり、セミやザリガニを面白半分にばらばらにしたりします。ハナジロはそんなことはしないし、僕にやれとも言いません。

 乱暴なお兄さんたち以外にも嫌なことはいろいろありましたが、でもだからと言って僕は自分を不幸だとは思いませんでした。僕みたいな子たちが暮らしている孤児院でもっとひどい所の噂をいろいろ聞いていたからです。それに比べれば僕のいるこのホームはどんなにかいい所でした。特に僕が小さかった頃、あんなに物のなかった時代でも僕らは一度もひもじい思いをしたことがなかったのですから。もっとも、僕らにその毎日のミルクやご飯、何よりハナジロに狂犬病の注射をさせてくれたアメリカ人の兵隊さんたちは、あとで軍隊に無断でやっていたことがばれて朝鮮戦争の最前線にとばされてしまいましたが。それでもなんでも僕らもハナジロもここへ拾われて本当によかったのです。餌は残りご飯にイワシ一匹が一日二回ちゃんと食べられるし、三時にはおやつに牛乳が飲めます。ご飯を食べているハナジロを見ながらふと、もしハナジロが誰にも拾われずにいたら、と考えたことがありました。保健所に捕まって殺されるハナジロという、もしもの最期を想像して僕はひとりでに涙が鼻から出て止まりませんでした。そのとき僕は心底、ああこいつはここへ拾われてきて本当に良かった、と思ったものでした。ただそれでも一つだけハナジロがふびんだったのは、外へ散歩に連れて行ってもらえないことです。先生たちも院長のママも僕らのことで一日中忙しくて、とてもあいつを散歩に連れていく暇はありません。僕らは僕らで子供だけでホームの外に出ることはママから厳しく禁止されていました。まあまあ広いホームの庭で放し飼いにしているのだからそれでとりあえずは良かったのでしょうが、いずれはここから出て行く僕らはともかく、大きなハナジロがホームの庭と林だけしか知らないまま一生を送るのは少しかわいそうでした。僕なんかは先生たちの目を盗んでたまに近くの海へ行ったりもしていましたが、あいつに僕みたいな真似はできないに決まっているし、僕にしても出かける時に一緒に連れていくことは無理でした。

 そんなハナジロが死んだのは、いえ、僕が殺してしまったのは六年生の冬のことです。あの日はクリスマスイブでした。ホームでは毎年決まって夕食に「大きな肉」が出される日です。僕は自分の分をいつも半分はハナジロにやっていました。その年はハンバーグでした。生まれて初めて食べたハンバーグを半分だけ残して、あとのものを食べ終わると、ハナジロ用のお皿に白いご飯を入れて半分のそれを上に載せてやり、ハナジロの所へ持っていきました。あいつはすっかり年をとって小屋からもめったに出なくなっていたのですが、僕がご飯を持っていってやると小屋からゆっくりと出てきてぱたぱたと尻尾を振りながら坐りました。
「ほら、クリスマスおめでとう。これめっちゃくちゃおいしいんだぞ」
 そう言って僕は皿を置いてやりました。おいしそうに食べる様子を見たかったのですが、僕はすぐに立ち去りました。ハナジロは野良犬の頃が長かったせいか人前では決して物を食べないからです。

 翌朝起きてミサの前に朝ごはんをやろうと小屋へ行ってみると、ハナジロは血の混じった小便を漏らしながらぐったりとしていました。ミサが終わってからすぐに先生たちが病院へ連れていき、手当てをしてもらい薬も貰ったのですが、すでによぼよぼだったあいつは、苦しみ、衰えた挙句に呆気なく死んでしまいました。病院の先生が言ったあいつの病名はタマネギ中毒でした。

 みんな全員ではありませんが、僕を責める連中はいっぱいいました。昔ハナジロにしょっちゅうたちの悪いいたずらをしたことのある奴までハナジロの死にかこつけて僕を罵りに来たりしましたが、それだからと言って僕に何がやり返せるでしょうか。僕にできたことと言ったらホームの林にあいつを深く埋めてやることくらいでした。牧師の先生にお葬式をして欲しいと頼んだのですが、先生は辛そうに、
「動物にお葬式をやってあげちゃいけないんだ」
 と言いました。僕は怒って、じゃあ自分でやるよと言って先生の本棚からお祈りの本を無理矢理引っぱり出していきました。しかし借りてみて読んだものの、頭の悪い僕には字も意味もほとんど分かりません。どのお祈りをあいつにやればよいのか、それすら見当もつきませんでした。今にして思えば何にも難しく考える必要なんてないのだから、格式ばらなくてもよかったのですが、あの頃の僕は今以上にばかだったのです。泣きながら怒って本を叩き返しに来た僕を、先生はよほど哀れんだのでしょう、林の中へ一緒に行こうと言ってくれました。
「お前はね、ちっとも悪くないよ。ハナジロだってうまいもん食って死んだんだ。幸せじゃないか」
 歩きながら先生はそう言って僕を慰めてくれました。もうすでにいろんな人から何回となく言われた言葉でしたが、そう言われるたびに僕は取り返しのつかないことをしたのだと思い知るのでした。ですが正直こうも思いました。タマネギなんて誰でも食べるようなものなのにそれを食べたら病気になるなんて、神様、あなたはなんだってそんな風に犬を創ったのかと。

 先生はハナジロと僕のためにお墓の前でちゃんとしたお祈りをしてくれました。そう、それで、あの時も祈りましたが今もあなたにくれぐれもお願いします。どうか先生を罰しないで下さい。先生は教師としての勤めを果たされただけなのですから。

 そうしてそれから、二度と動物は飼うまいと僕は思いました。でもクビクロに会った時、僕のその決意のようなものはずるずるとどこかへ行ってしまいました。あんな思いをしたのに、結局懲りていなかったと言うことでしょうか。それともあの時のやるせなさを忘れてしまったのでしょうか。この場合どちらも当てはまるのです。この二匹の犬に出会ったそれぞれの日々と日々の間、僕の身の回りにはいろいろありすぎて、自分の犬を死なせてしまった記憶ですら懐かしいと思えるほど昔の僕が今の僕から遠のいていたのです。ですがあの秋の歩道でひとりぼっちで泣いていたクビクロを目にした時、うまくは言えませんが、そういったものがふと僕の所へ帰ってきてくれて、そしてもうずっと傍にいてくれるような、そんな気がしてしまったのです。

 クビクロは、そのかわいそうな生まれからして、例え僕が拾わなくても一人で生きて、そして自分を不幸にしたものたちにひたすら報いに報いて死んでいったに違いありません。あるいは他の誰かに飼われたとしても最後にはそういう所に辿り着いてしまうでしょう。あいつは賢いから。賢すぎるからまわりに流されて適当に一生を送ることなんてできない。ただただ、自分の思うようにしか生きられない、そういうばかな奴なのです。でも利口すぎるということがどういうことなのか分からなかった僕は、そそう一つせずその上何かと目端のきくあいつの利口さに呑気に感心するばかりでした。
「えらいなあ。こんなことができるのはおまえくらいなもんだよ」
 何かにつけそう言って、僕はだらしないくらいにあいつをかわいがったものです。今にして思えばクビクロは、一緒に遊んだり散歩をしたりした時の屈託のない仕草の裏で、たぎる恨みを復讐のための冷たい力へと必死に作り変えていたのです、恐らくそうに違いありません。

 クビクロを一刻も早く止めるために最も適した方法、それは僕の持っている力を使うことでした。自分にそんな資格があるのかとあえて考えたりはしませんでした。そんなものはいつだって当たり前にないからです。なくても僕らは力を使ってきた。僕たちの力はいつだって、かわいそうな僕らの同類を殺すためだけにあるのだと、僕らが勝手に決めたからです。なら今回はまさに、言葉は悪いですが使いごろというものでしょう。ですが今や夜となく昼となくどこでも警察が目を利かせていて、肝心のクビクロだって常に大勢の仲間を引き連れています。僕の身一つでは自分の思惑は全く通じません。

 僕はない知恵を絞って、どこかに僕の手が使える隙はないものかと考えました。やがて一つの方法を思いついた僕は一人で警察に行き、自分がクビクロの飼い主であったことを告げ、そして僕が推測したクビクロの体のことも伝えました。最終的に立てられた計画の中で僕が果たす役割と言ったら大したことではなかったのですが、全部他人任せにするよりはいくぶんすっきりするものと思えます。自分からしゃしゃり出てきた理由なんてほとんどそれだけです。決して増え続ける犠牲者の数を食い止めるためではありません。あれが僕の犬だからです。

 その日、クビクロはたった一匹でやってきました。護送車の窓越しに久し振りに見たその姿はクビクロに間違いはなかったのですが、まるで僕の知らない犬でした。クビクロにしても僕のことをもう覚えていないように思えました。犬は三日飼ったら恩を忘れないと言います。三日どころか三ヶ月も一緒にいたのに、今のクビクロのありさまはどうだろう。もしかしたらこの計画は失敗するかもしれない。最悪の場合、人前で僕の力を使わなければならなくなる。一体クビクロは今でも僕が好きなのか? 今朝買ったばかりのコッペパンが入った紙袋は膝の上でもう冷たくなりかけていました。今からクビクロを殺さなければならないことこそ最も重い事実のはずなのに、本当の意味での最も重い事実はもっと別のどこかにあるようです。

 止まった護送車に向かってクビクロは猛スピードで突っ走ってきましたが、じきにスピードを緩め、車の何メートルか手前で止まりました。僕はてっきり発火のために体を止めたのかと思ったのですが、どうやらそうではないらしく、しきりに鼻をひくつかせて何かを窺おうとしています。てっきり車の中には復讐の相手がいるとばかり思っていたのに、そこから僕の匂いがしたためにクビクロは戸惑っているようでした。クビクロのことですから、この車の中に僕が乗っていたということが何のためであるのか、それに対する限りなく正解に近い答えを出したことでしょう。僕はうつむきながら両手を頬に当て、思った以上にこわばっている自分の顔を強引にほぐしました。そして運転席にいる警官に軽く合図をすると、無言のまま席を立ちました。外に出た時ちらりと確認した僕の顔はちゃんと笑っていました。

 僕はそのままクビクロの傍へ傍へと歩いていきました。
「よう、久し振りだなあ。元気にやってたかい? 急にいなくなっちゃって、すっごく心配してたんだぞ」
 クビクロは立ち去るでもなく、また僕に火をかけるでもなくじっと僕を見ていました。
「怒ってなんかないよ」
 我ながらよくこんなからっとした声が出せるものだと思うほど、奥になんにも詰まっていない声でした。それから僕は身をかがめて手にしていた紙袋からコッペパンを一つ取り出しました。
「ほら、おなかすいてるんじゃないか? お食べよ」
 そう言って僕はクビクロへパンを差し出しました。手元の紙袋は今より前にすでに一回封を開けたあとがありました。でも犬はもともと目のいい生き物ではありません。クビクロには分からなかったことでしょう。

 クビクロはおずおずとしながらも僕に向かって歩いてきました。そして黒光りする鼻を手の中のパンにつけ、しばらくの間さかんに匂いを嗅いでいました。やがてふっと鼻を離すと薄くて長いピンク色の舌を出してつるりとパンを飲み込みました。クビクロの生温かい舌が一瞬僕の手のひらを濡らしました。

 運命はクビクロにとても早かったのでした。クビクロは一つだけ鳴いてどさっと地面に倒れました。その鳴き声は火を向けようとして絞りだした挙句に漏れたものなのか、それとも単なる苦しみの声だったのか。大きなガラス瓶のホルマリンが恐らくあいつの墓ですが、どう腑分けしたところでその答えは永久にわからないでしょう。

 あの時最後の最後で僕は泣きました。嫌な殺し方をした後はいつもそうなります。ただしそういう場合だけにですが。だって自分より弱くて自分よりかわいそうなものの前でなしにどうして神妙な気持ちになれるでしょうか。


 それにしても、資格もなしに命を奪うこととあらかじめ不幸な命を生み出すことと、一体どちらがより罪深いのでしょうか、神様。