スカイダイビング記-1

第1話 「さすらいの大空」



今、自分が横になってるのは、病院のベッド・・・
全身が固く凝り固まって動かせない・・・ 
痛みは全くなく、意識も半分どこかに行ってしまった・・...

「¥@●$&■・・・・」
医師の言葉も聞き取れない。

横に立っている医師は、どうやら足首を撮ったらしいレントゲンン写真をかざして、何か言っているようだ。
「#&%▼@  broken ・・・」

broken?」
医師の説明が解らないのも当たり前。
ここはカリフォルニアの、ローダイ飛行場の近くにある病院。

唯一聞き取れた英語は「BROKEN」だけ。

「ちくしょう・・こんな所で骨折かよ・・・」

なんでこんな事になったのか・・・・


    ・・・・・・・



スカイダイビングを始めて1年。
夢にまで見たアメリカでのジャンプにやって来ました。

しかもこれが、初めての海外旅行です。
信じられないくらい広大な大地と、とてつもなく青い空。
片側4車線のハイウエイ。分厚いステーキ。安いビール。

当然ですが、周りは英語だらけ。
昔見たアメリカ映画に入り込んだ気分です。

昔見た映画とは 小学生の時に見た「さすらいの大空」
地方巡業のスカイダイビングチームを描いた映画で、派手なジャンプあり、ロマンスもあり。

それを見た小学生の自分はすっかり舞い上がり、ランドセルを背負って机から飛び降りて
5点着地の練習をしたのもです。


特に憧れたのが、巡業先で飲み屋に入り、そこの女性にチラシを渡して、
「明日、俺たちの飛び降り見に来ないか?」と口説くシーン。

「なんて格好良いんだ・・・」
ビデオも無い時代、1回しか見ていないはずなのに、なぜかそのシーンが頭に焼きつき、

「大人になったら スカイダイビングやって 女の子を口説くぞ!」
そう、子供心に誓いました。



そして十数年後、24歳の時。
スカイダイビングやるぞと誓ったのは良いけれど、いざ始めようとしても、一体どこに行けば良いのか。

今のようにネットも無い時代、どうやって探す?


当時住んでいたのは、吉祥寺の風呂なしアパート。
「俺たちの旅」に憧れていたんですね。
身分も「俺旅」に憧れてフリーター。


近所の本屋で飛行機関係の雑誌(今は無き「翼」)を手に取り、ぱらぱらとめくります。
すると、後ろのページに、連絡先が小さく載っていました。

とりあえず、手当たり次第に電話をかけると・・・

「民間の方は募集してませんよ」と言われた、自衛隊OBのクラブ。
「基本的に学生が対象なんですが」 と言われた、学生パラシュート連盟。
「ええっ? うちのクラブが載ってた? うちは経験者のみです」と言われたクラブ。

「おかけになった電話番号は 現在使われておりません」も数件。


やっと入会させてもらえそうなのは、調布飛行場内に事務所が有った「ジャパン」
ここは元々は自衛隊OBのようで、雰囲気も体育会系。
「よし、吉祥寺からも近いし、ココにしよう」 と考えていた時。

東京なら新しく『キッズ』というクラブが出来たから、そこに電話してみたら」と、
以前断られたクラブの方から、わざわざ電話をいただきました。

「有難うございます!」

早速「キッズ」に電話をしたら、体育会系とは程遠く、なんともチャライ雰囲気。

「ウチのクラブは、ファーストジャンプからスクエアだから」

「スクエア?」

「そう、四角いパラシュート」

「あの~ パラシュートって丸いんじゃ無いんですか?」



パラシュートは丸い物だとばかり思い込んでいた、29年前の話です。


第2話 「ファーストジャンプ-1」



「最新式の、四角いパラシュートが使える!」
この売り文句に誘われて、「キッズ」に入会し、早速グランドトレーニングに入りました。


とある土曜日。場所はバブル真っただ中の原宿。
床はフローリング、壁面は全面鏡張りの、おしゃれなダンススタジオでした。

イントラ氏は一通り教えた後、3人の生徒にこう言いました。
「じゃあ 明日、天気が良ければファーストジャンプだから」

「へっ? 明日?」
いやいや驚きました。

トレーニングは、最初の半年は腕立てや腹筋ばかりで教官にしごかれるぞと、昔から聞いていたからです。
予想外に早いファーストジャンプにビックリです。

その晩。急いでボロアパートの6帖を掃除し、「やばいもの」を全て処分しました。
万一の為に備えたのです。



翌朝 新しいパンツにはきかえて 緊張のまま愛車で桶川へ向かいました。
当時の愛車は HONDAの750ccのバイクでした。

そこにはイントラの F氏・O氏・そしてあの 「都築直子」さんがいました。

「あのって どの?」とおっしゃられる方のために念のため。
彼女は小説家としても有名で ジャンプ小説で中央公論新人賞をとった方です。



イントラと言っても 当時はジャンプ回数300~500回。
それも低高度からなのでフリーフォールタイムは、今の200回分ぐらいのレベルでしょうか。

それでも当時は500回なんて神様に見えたので、そのことを都築直子さんに話したところ
「あの人は1000回飛んでいるのよ、あれが神様よ」と、そばにいる、恐ろしい顔をした真っ黒に焼けた男を指さしました。
その男が、日本で一番飛んでいるジャンパーでした。

「1000回・・・・・」
ドロップゾーン第一印象は  「怖い人が多い」でした。



さて、午後になりようやく私の順番が回って来ました。
飛行機は 「セスナ172型」 ジャンパーは3人しか乗れません。

まず 地上でEXITの練習。「UP」 「DOWN」 「GO」 ではありません。
ただ 「GO」 だけです。

この頃はまだAFFは無く、最初は3,500ftからのスタティックラインでした。
飛行機にラインをつないで飛び出せば 自動的にメインが引っぱり出される方式です。

セスナも120馬力のC-172ですから遅いのなんの。
3,500ftまで15分。 7,500ftまで30分 9,000tまで45分。

これが限界でした。ちなみに今のキャラバンは600馬力です。



さあ。3,500ftに達しました。

「じゃんぷらん君 構えてぇー」

イントラが呼んでいます。
機内にはイントラ1人と もう一人のファーストが1人。

私は狭い機内で痺れた足をさすりながら 翼の支柱をつかんで外に出て、足はタイヤの上に。

風圧がすごい!
下を見ると・・・下を見ないように機内のイントラから目を離しません。



「OK!」  自分に気合いを入れます。
「GO!」  と言うイントラの声で手を離して大空へ。

「アーチ!」 「ワンサウザンド、ツーサウザンド、スリー・・・・」言い終わらないうちに
 ドーン とショックがありキャノピーは開いていました。

頭の中は真っ白。
「えーと・・・ チェックキャノピー・・・廻り見て トグルもってシェイク・シェイク・・・」

下を見ました。足の下は当然空気だけです。

「ショエ~~~~~」
この瞬間、自分がいったいどこにいて、何をしているのか分からなくなりました。


第3話 「ジャンプ > 生活」



ファーストは 1986年5月17日 C-172から


「ハイ、じゃんぷらん君。ファーストジャンプおめでとう。ちゃんと傘は開いてますよ。」
胸の無線から聞こえてきたのは、都築イントラの声でした。

「そうだ 降りなきゃ・・・」
無線の声で我に返ってトグルを握り直します。

「右 90度  ハイ そのまま まっすぐ・・・」



今と違ってジャンプルの時は高度計を付けていないので、下を見ても、あとどれくらいか見当もつきません。
今考えると南風だったのでしょう。

駐車場でターンして南に向かってアプローチします。
ランウェイと平行に。

「そのまま そのまま」
都築イントラはそう言うのですが、何となくランウェイから右にそれ、道路に向かっているようです。

グランドトレーニングで 「低高度のターンは厳禁」と聞かされていたので微調整もできず、 
「フレアー!」とイントラが叫んだときは、既に道路脇の木に引っかかっていました。

当時は道路と「Hマーク」の間に木が生えていました。
その後の苦いスカイダイビング人生を予感させる、なんとも悲惨なファーストでした。



スチューデントの場合、グランドトレーニングが5万円。スタティック降下1回が1万円でした。
(ギアレンタル込み)
ちなみに、ファンジャンパーになれば、C172の場合「フィートと同じ」で、3,000ftで3,000円 上昇限度の9,000ftだと9,000円もしました。
但し貴重品の当時最新鋭C-206が使えるときは 10,500ftで5,500円だったでしょか。

さて、結果はどうであれ、この日を境に人生が変わり、私は毎週末DZに通うことになるのです。



当時の仕事は、アルバイトのガードマンでした。
週4日の24時間勤務。そして週2日のジャンプ。

週4日の仕事では 8,500円×4×4週。
月に約14万円の収入にしかなりません。

このうち半分の7万円がジャンプ関連代。
 残り7万円が生活費。
風呂無し6帖の家賃は3万円なので、雑費を除いて食費は1万5千円。

たとえば仕事の日

朝・・食パン(だけ)
昼・・ホカ弁 コロッケ弁当 220円 (のり弁より安かった)
夕・・無し
夜・・社員食堂残り物。

ガードマンと社員食堂のおばちゃんは仲良しで、当直の人数分の食事を残して置いてくれたのでした。
夜の巡回の後0時頃、これを食べに行きます。


休みの日

朝・・食パン (だけ)
昼・・スパゲッティ― (ケチャップかけただけ)
夕・・貧乏丼 (タマネギを切って 醤油で煮て御飯にかける)
   その他貧乏カレー (ルーをお湯で溶かしただけ)
   マヨネーズ御飯 (そのまんま)
   酢メシ (御飯にお酢をかけて『寿司』と称して食べた)
   うなだれ御飯  (ウナギのタレだけを御飯にかけた物)


そしてジャンプの日。

朝・・納豆御飯 (貧乏人の味方です)
昼・・おにぎり (朝飯の残りを塩むすびにしてDZに持っていきます)
夕・・ハンバーグ定食 900円 (和風レストランそうま)

おっと! 夕食の900円はほとんど2日分の食費に匹敵します。
先輩達に連れていかれた「そうま」のメニューはほとんど4桁。

4桁が払える訳もなく、裏メニューから泣く泣く探した900円でした。
自分の経済状態を考えると、1日に3回も4回も飛んで「そうま」で豪遊する先輩達が異次元の人々に見えました。

ある時100回か200回の記念ジャンプをした大先輩が「そうま」で皆にビールを10本おごってくれました。
500円×10本=5,000円 

「ごっ ごせんえん・・・・」信じられませんでした。
10日分の食費です。私にはその大先輩がとんでもないブルジョアに見えました。




第4話 「早速の恐怖」



当時のスクールは スタティック降下を5回行います。
その間に右胸のダミーリップを引く訓練をして、安定して引けるようになれば、6回目で初めて自分でプルします。

その6回目。「じゃんぷらん君 ちゃんとダミー引けてるから 今日『ひもきり』やるからな」
初めての自由降下を「ひもきり」と言います。

緊張です。もし引けなければ・・・安定しなければ・・・・不安は広がります。「構えて!」 
イントラの声です「GO!」「アーチ・ ルック・ リーチ・ プル」のつもりだったのですが、よっぽど緊張していたのでしょう。

実際は「アー プル」 位だったようで イントラが「パイロットシュートが飛行機の尾翼にからまるかと思った」と言った具合でした。

それでも「ひもきり」は嬉しいもので、ログブックには大きな文字で「ひもきり」と書きました。
そして初めて、フリーフォールタイムに「3秒」と記入。
たった3秒でしたが、これで本当のスカイダイバーになりました。



しかし、これからこの後、恐怖とスランプで、ジャンプをやめようと真剣に思う事になります・・・・。


8回目のジャンプ。ログブックには 「ジャンプル ラインに足がからまる」と書いてあります。
「足がからまる?」どういう事でしょうか。

いつもの様に「構えてー」と言われ 翼の支柱を伝って外へ出て、タイヤに足を乗せたとたん
「うわあっ~~」パイロットがブレーキを踏んでいなかったので、タイヤが転がり、そのままあおむけで、落ちてしまったのです。

「ひ~~~ 死ぬ~~~」高度は3,500ft。
今の私なら平気でバックループしたり、10秒位は降下する高度ですが、当時はそんな余裕などある訳ありません。

高度を確認しようにも、高度計のレンタル料500円をケチったため、付けてはいません。
亀のように、あおむけのまま降下。

地面が背中に近づいてくる気がします。
「ダメだー!」あおむけのまま、高度も解らず、胸のリップコードを「プル」

使っていたスチューデントギアは、リップコードを引くと、スプリングの力で、パイロットシュートが出る仕掛けでした。
背中のスプリングで出たパイロットシュートは、あおむけの股の間を通って上へ。
そしてそのまま片足を引っかけ、片側が半開きに。

「助けて~~~」身体が逆立ちのまま キャノピーはそのまま、スパイラルに入ります。
足を抜こうと引っ張ると、ラインが引っ張られスパイラルが余計にひどくなります。

「カットするか? いや違う。足をはずさなきゃ!」逆立ちして、自分の足で数本のラインを引いたままなので、キャノピーはスパイラルしたまま、どんどん降下してきます。

3,500ftでひっくり返ってプルしてるので、すでに3,000は割り、スパイラルしているうちに、2,000近くまで落ちているはず。

「・・・・・・・・・」もう声もでません。



第5話 「カレーライス」 



あの時もし あわててカットしていたら・・・・
足に絡まったままのメインは飛ばず。逆立ち状態で出たリザーブと、足に残ったメインが絡まり、おそらくこの日記の先は有りませんでした。



「足をはずせー」何回かのトライに失敗し、腹筋もいいかげん疲れてきました。
頭に血も上ってきました。

ラインを引っ張ってスパイラルが強くなるのを怖がっては、足をはずすことはできません。
覚悟を決めて、ラインの束を引くしかありません。

これが最後だと気合を入れて・・・・・「1・2・の3っ!」「抜けた!」

ラインの隙間から、足を引っ張り、なんとか足を無事にはずすことに成功。
そして急いでトグルを引いてシェイクシェイク。

空気をはらんだキャノピーはここで完全開傘。「助かった・・・・」

スパイラルでかなり高度を失いましたが、無事にランディングエリアに帰還することが出来ました。



「スチューデントのくせに あんなにスパイラルするな」と 地上のイントラに怒られましたが 正直に話すともっと怒られそうなのでこの事は、しばらく秘密にしていました。



この後 初めて10秒降下が許され 500円払って高度計をつけ4,500ftに上がりました。
しかし、実はこの頃からジャンプが怖くなり 上昇中のセスナの中で「これで 最後にしよう」 と何度か考える事になります。


10秒降下は「ワンサウザンド・ツウ・・・・テンサウザンド」でプルします。
が、これが出来なかった。何度やっても 恐ろしくなって3秒ぐらいでプルしてしまうのです。

原因は高度計を見ていない事。いや正確に言えば見ても針を読んでいないのです。
当時ジャンプルでは高度計を着けませんでした。

着けたい人はオプション料金500円を払ってクラブから借りていたので、貧乏な私はこれが高度計初体験です。

そのため、降下中に針を読む力量はありません。
地面が怖くてすぐに引いてしまい、オープンしてから高度計を見て4,000ft以上あることに気付くのです。

そんな私のスランプを救ったのは「カレーライス」でした。



その日。雲は3,000ftあたりにベッタリでした。
今と違ってGPSなんて物は無いので 5/8以上の雲で飛べなくなってしまいます。

この時は10秒降下を予定していたので 最低4,500ftは欲しいところ。

「じゃんぷらん君 今日はダメだよ」
そう言われて、タワー下の売店でカレーライスを食べることにしました。
(当時はタワーの横に、トレーラーが置いてあり、簡単な食事ができた)

緊張でジャンプ中は食事がのどを通らなかったので、「ダメ」と言われて急に空腹を感じ、その日は飛ばずに帰るつもりでカレーを食べたのです。

しかし。カレーを食べて外に出ると雲の切れ間に青空が。
「じゃんぷらん君 すぐ上がるぞ」
「えっ? でも 心の準備がまだ・・・・」

訳が分からない内に4,500ftまで上がった私は、カレーを食べたことを後悔しました。
緊張-空腹-満腹-緊張 という変化に、私の脳と胃袋はついていけなかったのでした。

「・・ウウウ・・・・気持ち悪い~・・・」小さい飛行機は雲の下で大きく揺れます。

もう緊張どころではありません とにかくこみ上げる物を我慢するのが先決です。ドアから顔を出して・・・、とも思ったのですが3人乗りのC-172では、身動きできません。



第6話 「ステューデント オフ」 



「じゃんぷらん君 構えて」
カレーがこみ上げ気持ち悪い・・・とにかく早く地上に降りたい。

そう思っていつもより早くポジションに着きます。
「GO!」「アーチ・ワンサウザン・ツーサウザン・スリー・・・・・」

何故でしょう。緊張している場合では無かったせいでしょうか。
高度計もちゃんと見え。姿勢も安定しています。

「・・・テンサウザン・ルック・リーチ・プル」
10秒我慢できて、3,500ftでオープンです。

「じゃんぷらん君 ちゃんと出来るじゃないか 次からはもっと高度上げるからな」
イントラに言われて、初めてこのジャンプが成功だったことに気付きました。
嬉しいことですが、この時はのど元が酸っぱ辛く、それどころでは無かったんです。



10秒降下が成功したので、徐々に高度を上げ、左右ターン・バックループの練習に入りました。
 地上でターンの基本を教わり、7,500ftへ。25秒降下です。

「GO!」安定したら 左ターン。「よし よし 高度は6,000 まだまだ」今回は余裕があります。
次は右ターン。「おっとー」どうやらここでバランスを崩した様です。

右ターンがもの凄い勢いでスピンになりました。ブオーーーーー という風の音が キイーーーンに変わります。
「止めなきゃ!」もがけばもがくほど、地上は渦になり身体の制御が効きません。

4,000ft「ダメだーーー」怖くなってスピンのままプルしました。
ボボボボボボボーーーーーーとりあえず傘は開いたもの、スピン状態で引いたので、半端じゃないツイストになり、スライダーも途中で止まっています。

「カットか?」と思ったものの当時のリザーブは丸。
運が悪ければランディングは川の中か骨折。

迷ったものの高度に余裕があったので、「よいしょっ よいしょっ 」と、ライザーを持って身体をひねり頑張ります。



回復したのは2,000ft。

ランディング後、イントラに聞きました。
「ターンで身体が止まらないんですけど」
「ん。遠くを見なさい」
「・・・・・・・・・」

どうやらこれだけで説明は終わったようです。
今のAFFとはえらい違いです。



私がジャンプを始めて3ヶ月後。アメリカでAFFイントラの資格を取った、イントラ達が帰ってきました。
日本で初めてのAFFスクールの誕生です。

(AFF:イントラが両脇について、1回目から高高度でジャンプする、画期的な方法。
その名のとおり加速度的に上達します)

私も興味があったのですが 1回4万円と言われ意識を失いかけました。
「よんまんえん・・・5日分の給料じゃないか」



しばらくして、18回目のジャンプで初めて10,500ftに上がりました。
50秒降下。課題は左右ターン。ログブックには 「初10,500 とにかく長い」とあります。

19回目も10,500ftログブックには 「初バックループ 溺れた気分」とありました。



20回目で 不完全ながらもターンとバックループが一通りでき、ランディング後イントラに、
「全部出来ました」と言ったところ、

「じゃんぷらん君 何回? 20回? じゃあステューデントオフでいいや」
「・・・でいいやって・・・」
「ほら 自分でマニフェストのマイクで言って」

何ともあっけないオフでした。
当時はRW(卒業後の追加練習)なんてありませんので、これでファンジャンパーの仲間入りです。

20回でもフリーフォールタイムは250秒程度。
今AFFなら レベル5くらいです。(AFF方式は7回で卒業)



第7話 「川越寮の不思議な面々」 




当時は現在のようなクラブのチームハウスは無く、有志が集まって1人月3,000円で、川越に木造平屋2DKの住宅を借りていました。

隙間風の入る古い住宅。冬場は風呂を沸かすのに1時間。トイレは汲み取りでした。

そこに定住していたのが、数名のイントラ達。
私はそこに毎週末通っていました。

この住宅を「川越寮」と称し、当時一番下っ端の私が会計や管理を行います。
その名残でしょうか、いまだに古い人たちの中には、私の事を「寮長」と呼ぶ人がいます。



この寮に酒だけ飲みに来るのが、初めて会った時、恐ろしいと感じた跳んだジャンプの神様。
ドスの利いた高知弁が怖いです。

「どっち向いとんのやー こっちやー こっち来んかーい」
と、神様が無線誘導したのは有名な話。(無線でこっちと言われても・・・)

神様が帰った後は、寮の畳に一升瓶が複数転がったままになっていました。

毎週末、このボロ家で飲みながら、先輩たちの話を聞くのが楽しみでした。
リザーブを500ftで引いて、オープンショックと着地のショックが同じだった話。

ロープル・チキンレースの話。 
雲が低く、2,000ftからジャンプルの話。

特にアメリカでのジャンプ合宿の話は、夢の世界でした。



1日に5回も6回も飛ぶらしく、飛行機も大型のDC-3。
大型のスーパーで買い物して、毎晩バーベキュー。

雨は降らず、飛べない日は無い。
たまにはハイウェーイを、アメ車でドライブ。


「よーし、俺もアメリカへ行くぞ!」

その頃、私より少し早く始めた、同期生がが、アメリカに行き、抜群に上手くなって帰ってきたのにも刺激され、ついに決心しました。



ちょうどその頃、注文から半年経って、自分のパラシュートが届きました。

気分はもうベテランのファンジャンパーですが、ジャンプ回数は、まだまだ50回。
フリーフォールタイムで考えれば、現在の25回分程度です。

今考えれば無謀ですが アメリカ行きを本気で考え、ついに実行するときがやってきました。

「いきなり行って大丈夫かなあ」
ジャンプどころか、海外旅行自体が初めてです。

「とりあえず行けば、だれか日本人がいるかも」と、いい加減な考えで、決まったのはカリフォルニアの
「ローダイ」

期間は3週間。宿泊はドロップゾーンに泊まれるらしいとの事。



サンフランシスコまでの航空券は、当時最安値の「中国民航」
そこからレンタカーで、ローダイまで2時間程度と聞いて、紀伊国屋書店で地図を探します。

なにしろ初めての海外旅行。
① パスポート申請に、国際免許取得。
② トラベラーズチェックの購入。
③ 英会話のハンドブック購入。

ネットも無い時代なので、地球の歩き方を立ち読みして情報収集です。

本当にアメリカで飛ぶことができるのか?
無事に帰国することができるのか?


第8話 「ついにアメリカへ」
 

サンフランシスコまでは 一番安い「中国民航」
安いと言っても、当時往復16万。有名他社は18~20万。

CAさんは、グリーンの作業服ズボンはいてるし、
機内食は中華丼だし、コーヒーはインスタントだし・・・



成田から10時間、そこは映画の中のような空港ロビー。
初めての海外での入国審査。何を聞かれ、どう答えれば良いのか・・・

少し前に、時任三郎の「ライスカレー」と言うドラマが有り、入国審査で苦労するシーンを思い出します。

ドラマではカバンの中の正露丸が見つかり、「メディソン」と言えばいいのに「ドラッグ」と言ってしまい、個室に連行されるシーンです。

(日本では薬屋が「ドラッグストア」なのがいけないんです)



とりあえずポケット英会話の本を取出し、「サイトシーイング」「3ウイークス」などと予習しますが、聞かれたのは・・・

「どこに泊まる?ホテルは?」

「ローダイホテルです」(決めていないので、もちろん嘘)

「10万ドルも持ってるのか?」
カードに記入するときに、点の位置を間違って書いたようで・・・

「いや1、000ドルです」
汗だくで回答し、ついにドアの向こうのアメリカへ!



日本で予約していた、エイビスレンタカーのカウンターに行きたいのですが、なかなか見当たりません。
入国早々汗だくです。

エイビスカラーのシャトルバスに乗って、飛行場の外にある事務所に行くんだと気が付くまで、かなりの時間を要しました。



サンフランシスコからDZの「ローダイ」までレンタカーで2時間程。

20歳の頃 北海道を初めてバイクで走った時の感動を100倍にした位の驚き。
丘の上に並ぶ数百基の風力発電の大型プロペラを見ていると、映画で見た近未来の地球を思い出します。

紀伊國屋書店で買った、役に立たない地図を参考に走り、そしてついに・・・

「ああっ! キャノピーだあ~!!!」



まっすぐなフリーウェーの遠くの空に浮かぶ、数個のパラシュートを見つけました。

そして 「DC-3だあ~!!」
滑走路わきに見えるシルエットに感激。

時差ボケで超ハイになった頭で いきなりマニフェストへ
「ええ・・・ アイ・・アイム う・・・」

「やあ いらっしゃい」と、メキシコ人のように日焼けした男が答えてくれました。 

「え? 日本人ですか・・・」
有り難いことに 関西組が来てたんですね。



日本のDZは桶川だけではない事をようやく思い出し、英語が話せる彼らに、しばらくはお世話になることに。

飛行機は、セスナ182(3~4人)206(6~7人)ビーチ(尾輪式)(8~12人) DC-3(30人)
1日7回ジャンプ。

食事は自炊で肉・肉・ビール・肉・ビール。
「天国じゃー!!」 
「こんな日が3週間もあるのか!」しかし・・・・ 



しかし、天国はたったの4日間でした・・・・・。
4日目のサンセットジャンプ。
当日7回目。上昇中のセスナの中では、夕食のメニューとビールで頭がいっぱいです。

「カットー」 6WAY。
と言ってもみんな100回前後の初心者。

バラバラのままブレイク。
ちょっとスポットも遠い。



本日のラストジャンプ。全員色気を出してパックエリアに向かってアプローチ。

追い風だが、とどきそうもありません。

追い風。追い風。当然ファイナルには180度ターンが必要。
あのときなぜ 早めにあきらめターンしなかったのか。
なぜ 他のキャノピーの位置を把握しなかったのか。

左180度ターンをするつもりで 左下に意識が集中。
そのとき右前にいた1機のキャノピーをすっかり忘れていました。

経験78回の私には自分のことしか、ビールを早く飲むことしか頭になく・・・・・ 
「よしっ そろそろだ!」 左に180度ターンを始めた時、目の前に・・・

・・・・・・・・・・・・・

先にターンしたキャノピーが右から接近。
そのまま左トグルいっぱい。なんとか衝突は避けられたものの結果的にフックターンになり、そのまま身体が横になったまま畑の中に。

「いっ いかん! 受け身だ!」


・・・・・・・・・・・・・・


第9話 「天国から地獄へ」



「いっ いかん! 受け身だ!」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


その瞬間。意識を失ったようで、気が付いた時にはタンカを持って、走ってきたDZのオーナーと6WAYのメンバーが、まるで死体でも見るような顔つきで、私を見下ろしています。

「何でみんな集まってんだ? 何が起こったんだ?」

脳震盪でも起こしたのか、数十秒間、記憶が飛んでいます。
全身打撲で身体は動かず、右足はだんだん腫れてくるので、おそらく無事ではないでしょう。



そのままタンカに乗せられて、DZの車で救急病院へ

「クレジットカード持ってるか?」

「NO」

「治療費デポジットできるか?」

「NO」

そうです、アメリカは甘くはありません。



治療費は高額で、金がなけりゃ、重病人でも門前払いです。

DZのスタッフに頼んで、貴重品バックを持ってきてもらいました。
その中には、出国直前で入った、スカイダイビング用の保険の証書がありました。
掛け金は高いものの、スカイダイビングの事故でもちゃんと保険がききます。

面倒なので証書を渡し、そこに書いてあるアメリカ西海岸の連絡先に、病院から電話してもらいます。
「OK!」急に笑顔になった病院スタッフ。彼らもホットしたでしょう。

どうやら治療してもらえるようです。
そしてレントゲンを撮られ一言 


 「BROKEN」


「折れてたか・・・」

さっきまで天国だと思っていたのに。夢のような生活だったのに・・・
ここでの天国のような生活が夢ならば、これも夢であって欲しい。



しかしこれは現実でした。 
そして現実だとわかったとたん、右足が猛烈に痛み出しました。

時間はそろそろ20時。 手術は明日するとのことでそのままベッドへ。
それにしても痛い。


「ぺいん!!」と言っても、
「@$&%● ¥&■△・・・・」
(麻酔は打ちすぎると良くないと言っているようです)



翌朝 意識朦朧まま手術室へ。
麻酔医が全身麻酔か半身麻酔か聞いてきました。
全身麻酔だとそのまま死にそうな気がしたので、半身麻酔を希望。

しかし腰に麻酔を打たれ横になったら意識不明に。


・・・・・・・・・・・・・・・・・


いつの間にか手術は終わり 意識が戻ると 顔には酸素マスクがあり、ナースが手をさすっているではありませんか。
聞くところによると 「麻酔が効きすぎて呼吸が止まりかけた」とのこと。

その後 肺の機能が麻痺したせいで肺炎になり40度の高熱が出る羽目に。
当時はアメリカ人との体格のせいか? 体重のキロと、ポンドの換算を間違ったのか、と思っていたのですが、後日渡辺淳一の「麻酔」と言う小説を読んで、ドキリとしました。

手術中の姿勢によって麻酔が延髄や脳まで行き、呼吸が止まる事故があるんだそうです。
生きててよかった。



熱と痛みがおさまると 病院生活は快適そのもの。
食事のメニューもチョイスでき、ステーキの焼き方も選べます。

デザートの選択肢の全て(アイス・フルーツ・ケーキ)にチェックしたら、なんと全部持ってきてくれました。

TVで「セサミストリート」を見ながら「英語の勉強にもなるし 良い経験だ」
「これもまた天国か」 と思っていた入院4日目。


「保険の限度いっぱいなので退院して下さい」
「・・・・・・・・・」

この足で、一体どこに行けと言うのだ?


第10話 「ギプスジャンプ」



出発直前で入ったスカイダイビング特約の旅行保険 限度額は100万円なのに・・・もう使い切ったか。いい気になって、ステーキの焼き方まで注文していたのですが、すべて追加料金だったようです。

しかし痛みも引かず、微熱も残っているのに、どこに行けと言うのか?

金が無いのはしょうがない。 微熱と痛みが続くなか、病院を追い出されDZの格納庫にビーチベッドを置いてもらい、ここで帰国までの2週間以上を過ごすことになりました。



自分が乗れない飛行機の爆音を聞き 他のジャンパーが腕を上げるのを見ているのはこんなに辛いものか。

せめてもの楽しみは ギプスの足で車に乗って、左足でアクセル踏んで、ドライブと買い物。
肉・肉・ビール・牛乳・チーズ (カルシュウム補給のため)



落ち込んでいたところに、DZのオーナーが持ってきたのは、なんと250スクエアくらいの大きさのギア。

「You jump?」
手術から1週間 まだ抜糸もしてないのにギプスのままで飛べってか?

オーナーは このまま帰国したら、こいつはジャンプをやめると思ったのでしょう。

「おっけえい」



廻りの日本人が止めるなか、ヤケクソでセスナに乗り込み、2度と見れないと思ったカリフォルニアの大空へ上がりました。

一瞬ですが、また天国に帰ってきました。
ソロで飛び360度ターン。眼下のブドウ畑と、まっすぐなフリーウェイを目に焼き付よう。

フリーフォールはギプスの影響でスピンに入りそうでしたが、なんとかこらえ、そして 3,500ft 
「プル!」

「痛てえーーーーー!!!!」



ショックでギプスがずれ 脳天まで激痛が走りました。

そしてこの痛みで、思考回路がヤケクソから現実に戻りました。
「どうやって降りよう・・・・」うかつでした。
片足でどうやってランディングすれば良いのでしょう。



とにかく降りないわけにはいきません。
空中でフレアーの練習。 さすがデカキャノピー 空中に止まっているようです。

今度は廻りに注意、無理をせず、オーナーが待っている場所に高めのフレアーで失速気味にお尻からランディング。100点満点。

尻もちで立てない私の廻りに みんなが集まって来ました。
まるで1週間前の事故の時のように。
しかし 私を見下ろすみんなの表情はあの時とは違います。

「OK、大丈夫」
手を借りて格納庫に戻り、ビーチベッドの上に。

医師からは、抜糸までアルコールは禁止と言われていましたが、まあ今日は良いか、みんなにケースビアです。



2週間後、あの「中国民航」で成田へ帰ります。
帰りの機内でふと、何の気無しに手のひらを見ました。

「手相の生命線が切れてる・・・・」

全体の1/3ぐらいの所でプッツリと切れ、その横から新しい線が延びてます。
そういえば、ここ数年手相は見ていませんが、以前は気が付きませんでした。

「んん~・・・こんな事って・・・」
ありがたいことに新しい線は 太く長く手首まで続いています。

「って事は、まだまだ俺は飛べるな」
「脚が治ったら、またアメリカに来てやるぞ」

その決心どおり、半年後にまたアメリカに渡ることになります。