「THE BOY FROM OZ」 虹の向こうで見つけたものは



公演情報
2005.6.10〜2005.6.27/青山劇場

キャスト:
ピーター・アレン/坂本昌行
ライザ・ミネリ/紫吹淳
グレッグ・コンネル/IZAMU
ディー・アンソニー、ディック・ウールノー/団時朗
マリオン・ウールノー/今陽子
ジュディー・ガーランド/鳳蘭

アンサンブル/
後藤ひろゆき・青山航士・紀元由有・松原剛志・佐々木誠・横山敬
・赤羽根沙苗・齋田綾・柳田ようこ・中村元紀・井波知子・安倍康律
・安中淳也・島村江美・上野聖太・鈴木祥高・林久美子・谷合香子
・本田育代・菅原さおり・河野悠里


ヤング・ピーター/西川大貴
リトル・ピーター/篠原悠伸・松谷嵐
スタッフ:
演出/フィリップ・マッキンリー
振付/ジョーイ・マクリーニ
翻訳/丹野郁弓
訳詞/忠の仁
音楽監督・指揮/上柴はじめ
プロデューサー/松野博文(フジテレビジョン)

企画制作/フジテレビジョン
特別協賛/ジャックス
協力/エイベックス
後援/産経新聞社・ニッポン放送・オーストラリア大使館
主催/フジテレビジョン

卯多の観劇日:6/13昼・夜、6/18夜、6/20昼・夜
お断り
以下の文章は、あくまで観劇当時の卯多野亮の個人的見解及び作品の考察であり、制作者・出演者に、何ら関係も意図するものでもございません。
また、ストーリー説明や観劇レポはあまりなくなく、舞台をご覧になったことのない方には解りにく内容になっておりますので、その点ご了解のうえお読みください。


男と女 〜夢を欲しがった2人 (2005.7.1 ブログ「卯多の日々の戯言」再録)

自分の発表会が終わって一息ついたら、頭の中に「OZ」の音が戻ってきた。
音楽を繰り返し思い出し、それに付随してくるそのシーンで自分が感じたイメージを反芻していると、演じた役者ではなく、登場人物そのものの感情・生き様の中に取り込まれていく。 私は本当にこの舞台が好きだ。
登場人物の人生を何度もたどり、いつまでもその世界に浸っていたいほど好きだ。

5回観た舞台の中で最終的に一番強く心に残ったのは、ライザが死期を悟ったピーターを訪れるシーンだ。

この「THE BOY FROM OZ」には5人の主要人物が登場するが、その中で変化・成長を遂げるのはピーターとライザだけ。
その2人が最後にたどり着くこのシーンは、ある意味この舞台のゴールのように思える。
その後に続く場面は感動的であるけれど、このシーンで提示された変化を検証するためのものではなかったろうか。

かつて男と女としては寄り添えなかった2人が、時を経て人間と人間として寄り添っている。
その姿は、静かで穏やかで、哀しい。

シーンの最初、真面目に話そうとするライザと冗談ではぐらかすピーター。
そんなピーターに苛立ちつつ、諦めたように関係のない話をするライザ。
二人の会話はてんでかみ合っていないようで、お互いの言いたいことは解っている。
通じていないのに通じている会話。
そんな自分達の姿が可笑しくて、やがてふたりは笑い出し、しっかりとハグしあう。
長い道のりを経て、ようやくお互いにたどり着いた、そんな風に感じた。
それなのに、別れの日はすぐそこに近づいてきている。

このシーンで歌われる「YOU AND ME」は、私の頭に最もこびりついて離れないナンバーだ。
「すべて欲しがった私たち…」そう始まるこの曲は、歌詞の主語がすべて複数形になっている。
それぞれのパートで語られる内容は、自分自身だけでなく常に相手のことも含んでいる。
結局、この2人は似たもの同士なのだ。

彼らは世界を欲していた。
出会ってすぐに魅かれ合い、恋に落ちる2人、そして結婚。
その恋に嘘はなかっただろうが、ピーターにはライザが自分を華やかな世界の頂点に連れて行ってくれる相手に見えたのではないか。
ジュディは確かに最初の手を引いてくれたけれど、彼女が生きている限り、彼女の支配からは逃れられなかっただろう。
そんなピーターに向って、ジュディは言う。「田舎者の色男」と。
そこには、女を足がかりにして上にあがろうとする者への揶揄が込められていたように感じた。

あながち、これは怒りに任せた中傷ではないと思う。
少なくとも、坂本が演じた日本版ピーターはそういう男のように見えた。
ジュディは警戒していたのだろう。
この男は自分の娘を利用し、踏み台にするのではないかと。
母親として娘を守ろうとする気持ちと、自分自身のプライド。
鳳ジュディは、繊細であるがゆえに「守る」気持ちが強く、過剰に攻撃的になるタイプの女性として受け取れた。
そういう女性の心の動きとして、自分が気に入って連れてきたピーターを、娘の側から排除しようとする行動は納得できる。

一方のライザ。
上のことだけなら、ライザはピーターに利用された被害者に見える。
しかし、ライザにも絶対君主である母ジュディに横柄な態度を取るピーターに、この人は自分を母親から解放してくれるのではという自分本位の期待がなかったと言い切れるだろうか。
母の世界の一部ではなく、自分自身の世界を手に入れるために。

2人とも意識的ではなかったかもしれない。
でも、無意識に計算込みで恋に落ちたのは、お互い様だったのだろう。

念願かない、ジュディから独立する2人。
先に世界への階段を上り始めたのは、ライザの方だった。
ライザは自分の世界を追い求めることの夢中になる。
そうなれば、ジュディを前にしていた頃の庇護者としてのピーターの役割は必要なくなる。
自分の足で歩き始めたライザ(紫吹ライザはこの変化の演じ分けが見事だった)。
だが、ピーターはそのライザの変化に付いて行けず、自分の居場所を見失う。
そして、破局。

男と女は難しい。
その両方が「自分」というものにこだわる場合は特に。

「THE BOY FROM OZ」の「OZ」はもちろんピーターの故郷オーストラリアを指しているが、同時に「オズの魔法使い」の世界も暗示しているように思う。
物語に登場するジュディ・ガーランドの出世作にかけただけではなく、自分の欲しいものを手に入れるために主人公達が旅するストーリーが、欲しいもの・大事なものを求めて人生を彷徨い続けたピーターとライザの姿と重なるのだ。

第2幕のシーンに戻ろう。
「YOU AND ME」のサビで「ねぇ、私たちの夢は全て叶ったけど、いつのまにか大事なものを失くしてしまった」という意の歌詞がある。
この部分でライザは「SHE LOVES TO HEAR THE MUSIC」の最高潮のポーズを、続いてピーターは「NOT THE BOY NEXT DOOR」の第1幕の幕が下りる瞬間のポーズを取る。
それぞれの夢が叶った象徴だが、同時にそれがもう過ぎてしまった日々だと思い知らされる。
ポージングのまま静止するピーターの手をそっと取るライザの仕草が、今まさに失おうとしているものをいとおしむかのようで切ない。

この後、2人は並んで腰掛け、静かに寄り添う。
「セックスなんてなければ、私たちは幸せになれたのに」と言うライザ。
「エゴも野心もなければ」と答えるピーター。

ピーターにとって自分からライザを遠ざけたのは自分達が追い求めた「夢」であり、ライザにとって自分とピーターの間に壁を作ったのは彼のゲイという性癖だと思っていたということだろうか。

この舞台で「本当に他人を愛する」という部分は、グレッグとの恋愛が担っている。
ゲイの恋愛がそのように扱われていることを指して、「OZ」は性別を超えた人間同士の愛の物語と言われることがある。
しかし、そうだろうか? 私はそうは思わない。

性別がセックスと切り離せないのであれば、愛し合うために超えなければならない性別の壁があったのは、ピーターとライザの方だ。
ピーターとグレッグとの間に超えるべき壁はない(世間の差別の壁はあったかもしれないが)。
ホモセクシャルの恋愛というだけで人間愛だというのは、それこそ性別にとらわれているのではないか。

魂の近似性ということだけなら、ピーターとライザは他の誰よりも近い魂を持っていた。
魂だけで愛し合えるなら、別れる必要などなかったかもしれない。
だが、人間にはセックスという欲望がある。それは心以上にどうしようもない。
もちろん、それを超えて愛し合える人たちもいるだろう。
しかし、多くの人はそれを超えられない。
そして、ここにもセックスを超えられなかった哀しい2人がいる。
ライザの台詞が、それをもの語っているではないか。

だからこそ、このシーンが印象に残るのだ。
最後の最後、ピーターの死によって互いを失ってしまうという直前になって、やっと2人はセックスを超え、人間と人間として寄り添うことができたのだろう。

ここでの坂本ピーターと紫吹ライザは、とても良かった。
紫吹ライザの慈しみとそれでも失うことを諦めきれない思いの込められた動き、坂本ピーターの全てを受け入れたような静かで穏やかな微笑。
派手で解りやすい演技ではない。
でも静かに心に染みてくる、優しい空気に満ちたシーンだった。
私がこの舞台の中で、人間愛というものを最も感じたシーンだった。


男と男 〜大切なものはその心の中に (2005.7.3 ブログ「卯多の日々の戯言」再録)
「THE BOY FROM OZ」のナンバーの中で、私の頭に一番こびりついて離れないのは「YOU AND ME」だと先のブログに書いた。
けれども、舞台を観ているときに一番泣き、感動したのは「ONCE BEFOR I GO」だ。
坂本ファンとして彼の歌唱が素晴らしかったからだけではない。
この世を満足して旅立とうとするピーターの笑顔が、まぶしく、またうらやましかったからだ。

「OZ」は、あるエンタテーナーの栄光と挫折の物語であると同時に、ひとりの男が失くしたものを取り戻していく話ではなかったろうか。
ピーターがなくしたもの、故郷とライザとグレッグ。
ライザとのことは既に書いたので、今回はグレッグとの関係について書きたいと思う。

第1幕と第2幕では、坂本ピーターの雰囲気はずい分違う。
年齢的には若いはずの第1幕の方が大人っぽく、ちょっと小ずるいしたたかな男に見える。
第2幕の方は、どちらかというと無邪気で素直に感情が外に出ている感じがした。
特に前半のグレッグとディーに支えられて成功していくあたりは、甘ったれたやんちゃな表情をしている。

ピーター・アレンは、少年がそのまま大人になったような人だったという。
そのキャラクターは第2幕の方がイメージに近いのかもしれないが、ベースに流れるものは第1幕も同じではないか。

第1幕のズルさも、自分の欲しいものに夢中になって周りが見えていないが故だと思う。
うまくいかなくて苛立っているときも、そこのところは変わらないわけで。
要は、遊びに夢中になっている子どもなのだ。
楽しいときは他の全てを忘れ、欲しいものがあればなりふりかまわない。
案外子どもというのは、欲しいもののためなら周りの大人につけこむようなズルい手も使う。
ピーターの行動は、よくも悪くもそういうものだったのだろう。

全ては自分の欲しいもののために。
それは愛という部分にも現れているように思う。
ピーターの愛し方には、自分に何かを与えてくれる人が自分を愛してくれるからそれに応えるという構図がある。
そして愛され続けるために、相手の望む自分を無意識のうちに演出する。
思い返してみると、冒頭の「ALL THE LIVES OF ME」の中に、「あなたが俺を見ている、その姿に変わってみせよう」というような意味の歌詞がある。
これこそが、ピーターの人間関係の根底にあるものではないか。

自分が愛するより相手に愛されることの方が、彼には重要だったのではないだろうか。
これには、ありのままの自分を父親が愛してくれなかったことが、トラウマとしてあるのかもしれない。
(子ども時代の酒場のシーンで、坂本ピーターが自分のピアノに合わせて父親がリズムをとっているのを見て驚き、嬉しそうにする場面があるが、ナビゲーターのときのピーターは死の直前の彼だと思われるので、それまでは父親に愛されていないと思っていたとする方が妥当だろう。)

グレッグに対しても、この構図は変わらない。
確かに告白したのは自分からだが、グレッグの生き方を無視して半ば強引に自分サイドに引き入れている。
自らの夢もキャリアもあったのに、なぜグレッグはそれを捨ててピーターを愛したのか。
グレッグには解っていたはずだ。
ピーターの愛は自分自身のためであり、他人のことなど本気で考えない人間であると。

グレッグの性格を示すキーワードとして「男らしい」という言葉があちこちで見られた。
「男らしさ」とはどういうことか。
IZAMUの演じるグレッグは、ワイルドでもないし、常にピーターに振り回されている。
私は、「愛する人を自分を捨ててでも守ろうとする」部分ではないかと思う。
言ってみれば、グレッグは「与える愛」であり、ピーターは「与えられる愛」なのだ。

中盤以降のIZAMUグレッグと坂本ピーターは、細かい芝居でこの守り守られる関係を表現していた。
目に付きにくいところで、グレッグは実にこまめにピーターの世話をやいている。
服の乱れを直したり、脱ぎ散らかしたものを片付けたり。
また、戸惑ったり疑問に思ったりしたとき、ピーターは「?」という顔でグレッグを見上げ、グレッグは表情でそれに返す。
ピーターは事あるごとにグレッグを頼り、グレッグはさりげなく彼をカバーしている雰囲気が伝わってきた。
これはこれで、バランスのとれた関係だったのだろう。

だからこそ、エイズに侵されたグレッグは「自分を捨てろ」とも取れることを、ピーターを怒らせるような言葉で投げつける。
グレッグの中では、守り守られる関係以外は考えられなかったのだろう。
このバランスが崩れればピーターの自分への愛は終わり、自分はただのお荷物になる。
そんな状態は自立した男として生きてきた自分のプライドを傷つけ、また彼が愛したありのまま子どものままのピーターには耐えられないと判断した。
だから言ったのだ。「逃げるなら、今のうちだ」と。

それを超えてみせたのは、意外にもピーターの方だった。
「逃げない」とピーターは言った。
「側にいるだけでいい、ただ一緒にいたいだけ。その為ならどんなことも耐えてみせる」と。
そして言葉どおり、ピーターは病に倒れたグレッグの世話をし、その最期を看取る。
この時初めて、ピーターは自分のためではなく、純粋にその人が大切だから何かをする。
だが時既に遅く、グレッグはピーターを残して死んでゆく。

自分のキャリアを捨ててピーターを選んだグレッグにも、葛藤はあったのだろう。
ところどころにそれを示す台詞がある。
「つまらない歌手(?)のために、自分のキャリアを捨てたと思いたくない」とか、「ピアノ弾きなんかに引っかかって、人生を台無しにした」とか。
どちらもピーターに何かをさせるために言われていたが、このような表現が使われるということは、グレッグの中に思い切れない何かがあったからではないか。

自分自身の夢も果たせず、それを捨ててまで守ろうとしたピーターも残して逝かねばならない。
何もかも中途半端なまま、自分は死んでいく。
悔しかったろう。自分の運命を呪い、怒りさえ感じていただろう。
グレッグの死は、人生に満足して旅立つというにはほど遠いものだっただろう。

そのやりきれなさが、死の直前のスープを投げるという行為にうかがえる。
自分はまだ何かできる、死にたくない、そう伝えたかったのではないか。
その無様ともみえる最後の足掻きをピーターにぶつけたのは、グレッグが見せたピーターへの最初で最後の甘えだったように思える。
それまでのグレッグなら、ピーターの悲しみを後々まで重くするようなことは決してしなかっただろう。
だが、意識の途切れる瞬間、自分に残っている感情の全てをピーターに解ってほしかった。
その力を振り絞った爆発が、ピーターの顔にスープをぶつけると言う形をとったのではないだろうか。

グレッグを失くしたピーターは、自分の世界を見失う。
子どもじみた意地を張ってディーと袂を分かつ羽目になり、仕事もうまくいかない。
そして、彼からグレッグを奪った病気が、彼自身をも侵し始めていることに気がつく。

他人を拒絶し、自分の殻に閉じこもるピーター。
今まで事あるごとに報告していた母マリオンにさえ、連絡すらしていない。
彼がひたすら求めていたのは、グレッグだけ。
なのに、心配したグレッグの幻影が現れても、彼はその姿を見つけることができない。
「愛しているよ」「今も見守っているから」と囁くグレッグの言葉もピーターには届かない。
彼がもう一度聞きたいと願っていた言葉のはずなのに。

このシーンは、本当に切ない。
何より切なかったのは、グレッグの気配を感じたピーターが見えない姿を捜し求め、思わず伸べた手がちょうどグレッグの首に抱きつく高さだったのに気がついたとき。
「あぁ、グレッグに抱きしめて欲しいんだ…。」そう思ったら、無性にピーターがいじらしくなった。
もう一度グレッグの首にすがりつき、身体ごとしっかりと抱きしめられて、その体温に包まれたい。
さびしくて心細くて、不安で不安でたまらなかったのだろう。
だが、伸ばした手は空を切り、ピーターは絶望の中で顔を覆ってすすり泣く。
その姿はまるで、置き去りにされた幼な子のようだった。

このシーンのピーターはまだ、愛され守られることを望む子どものままだ。
受身の存在だから、グレッグが生きているうちは頑張れても、その姿が目の前から消えたとき、愛も失くしたと感じてしまったのだろう。

そのピーターの気持ちに転機が訪れるのが、続くライザとのシーンだ。
このシーンの最後にライザはピーターに問う。
「こんなとき、グレッグなら何ていうかしら?」
とまどったように目を見開いた後、泣き笑いのような表情でピーターは答える。
「アロハ着なよ、っていうだろうね」

この瞬間、ピーターは、2人が過ごした時間は自分の心の中にあり、グレッグの愛も彼を愛する気持ちも、今でも消えていないことに気付いたのだと思う。

ピーターは悟る。自分はグレッグを失くしてなどいなかったのだと。
子どもの頃に母に言われた言葉。「大切なものは全てここ(胸の中)にしまっておきなさい。そうすれば、それは決して失くならない。あんただけのものだよ」
ピーターがグレッグを忘れず愛し続けている限り、グレッグは彼の心の中にあり、ずっと一緒にいてくれる。
そういう人にめぐり合えた。そして愛した。それが自分の人生の中で最も価値のあることだと。

「だから聞いておくれよ、今一度。別れていようと心に君がいる、それだけで幸せなんだ」
「ONCE BEFOR I GO」のこのフレーズを歌っているときの、坂本ピーターの満ち足りた幸せそうな表情が忘れられない。
まだやりたいことはあるけれど、一番大切なものはもうこの胸の中にあるから、満足して笑って死んでいける。
そう思えるピーターは、なんと幸せなのだろう。
いつかその時が来たら、私もあんな風に笑いながら死にたい。そう思う。


故郷 〜船が港に戻る頃 (初出)
「眠らない街にいた、ニューヨーク、リオ、ロンドンにも。落ち着くことのない暮らし。でも故郷はオーストラリアだけ」
第2部の後半「I Still Call Australia Home」の冒頭で、ピーターはこう歌いだす。
母マリオンの顔を見ながら、一つひとつの都市の名前を確認し、そこで過ごした日々をいとおしむかのように。
そしてオーストラリアを故郷と呼ぶとき、その表情は穏やかで満ち足りており、声には誇りすら感じた。
幼い頃出て行きたくてたまらなかった故郷、華やかな世界に触れて戻った後は退屈で死んでしまうと言った故郷。
決して穏やかだったとは言えない彼の人生、その旅路の果てで故郷への思いはどう変わったというのだろうか。

第1幕冒頭のナレーションで故郷テンタフィールドを紹介する坂本ピーターの口調には、懐かしさと共に自嘲じみた響きがあった。
どこにでもある小さな田舎町、そこに埋もれて生活している両親や祖父、その小さな世界で周りの人々におだてられ夢見ることだけは一人前の小さな自分。
それだけをとってみれば、本当にどこにでもある幼い日の思い出だったろう。
しかし、それは決して優しく楽しいばかりの場所ではなかったのではないか。

仕事もせず酒びたりで息子に興味を示そうとしない父親。
夫に見切りをつけている分、息子に期待し溺愛しているしっかり者の母親。
自分の居場所に満足し、そこに閉じこもっている祖父。
それが、ピーターを取り巻いていた世界。
大好きなピアノと歌とダンスもあったけれど、父親は自分を認めてくれず、初めて人々から賞賛され手にしたお金さえ、否定の言葉と共に酒代のために取り上げてしまう。
そして拒絶されたままの父の自殺。

そんな中で、幼いピーターは有名になることを強烈に欲する。
「When I Get My Name in Light」で歌われる「光を当ててくれよ、俺の名前に」という歌詞。
ピーターが望んだのは、自分の音楽世界を作ることではなく、世間から注目されることだった。
もしかしたらピーターは、最後まで自分を認めてくれなかった父親の代わりを、自分の歌に熱狂する人々の声に求めたのではないか。
だが代用はあくまで代用、愛してほしい人に愛されなかった喪失感は埋まるはずもなく、ピーターは無意識により多くの人の賞賛を求める。もっと、もっとと。

人々の賞賛を求めて、ピーターは彷徨う。
故郷の田舎町テンタフィールドを出てゴールドコーストへ、そして香港、ニューヨークへと。
オーストラリアを出て行くときの坂本ピーターの、まるで近所に遊びに出かける子どものような無邪気な表情が忘れられない。
そこには故郷を出て行く不安や寂しさは、微塵も感じられなかった。
「1年で帰ってくるよ」と母マリオンには言ったけれど、マリオンは感じていただろう。この子はもう戻ってこないと。

香港でも彼には故郷に帰る気などさらさらありそうには見えなかった。
あるのは栄光への野心。チャンスが欲しくてたまらない。それを隠そうともしない。
このシーンを含む第一部の坂本の演技を下品だと評する感想を何ヶ所かで読んだ。
私もそう感じた。だが、私はそれを肯定的に捉えている。

坂本自身の話になるが、デビュー前の彼の目を「飢えた野良犬のようだった」と表現した人がいた。
私自身は数少ないビデオ映像で窺い知ることしかできないが、確かに今よりもずっとキツい目をしている。
また彼自身、なにかのインタビューでチャンスの見えない日々にイラつき、引きこもりに近い生活をしていた時期があったことを告白している。
強烈にチャンスを欲する気持ち、それはピーターを演じた坂本自身も経験してきたことなのだろう。

私は、上品さとはある種の「引き算」であると常々考えている。
持っているからこそ引けるし、持つことを誇示しなくても自我が揺らぐことはない。
しかし何も持たず、欲することが全ての若者にその余裕があるだろうか。
また、その隠すことない剥き出しの野心があったからこそ、ジュディの心を捉えることが出来たのではないか。

ある意味、ピーターという男の本質を最も理解していたのは、ジュディかもしれない。
愛情の飢えを栄光で満たそうとしたピーター。
そしてジュディは、ピーターに母親的愛情と栄光の両方を与えようとした。
結果的には彼女のスター気質から、娘のライザにしたように自分の掌から出そうとはしなかったけれど。
ピーターの野心が生むパワーをジュディは愛し、同時にそれに巻き込まれて自分とライザとの今の関係が壊されることを怖れた。
実際、ライザはジュディの世界の一部であることをやめ、自分自身の成功を手に入れる。
そして、ジュディの死。

この頃までのピーターの愛情は常に栄光への野心と密接に結びついているように思う。
ジュディしかり、ライザしかり、クリスとの関係もそうだ。
成功へつながる相手と愛情でつながり、その道が閉ざされると離れていく。
望むと望まざるにかかわらず、グレッグに出会うまでのピーターは、この繰り返しだった。
いや、正確に言えば、グレッグが病に倒れるまで。

グレッグの死を乗り越えたとき、ピーターは初めて自身が本当に求めていた愛情の形に気づいたのではないか。
正しく求めた愛情が、正しく愛情で満たされた。
その人を失ってなお、その愛を支えに生きていけるほどに。
そのことに気づかせてくれたのは、ライザ。
だからこそ、その後オーストラリアに帰ったピーターは、故郷が自分への愛で満ちていることを知る。

そうなって初めて、父親との哀しい過去と向き合うことができた。
彼を支え続けた音楽は、父親の血を受け継いだもの。
父親は哀しい人だったけど、己を恥じて死を選ぶほどに自分を愛してくれていた。
ピーターは、ようやく本当の意味での帰郷を果たす。
自分が愛していることに気がつかなければ、愛されていることに気がつかないのは、人に対しても故郷に対しても同じなのだ。

「オズの魔法使い」の主人公も、最後には故郷に帰りつく。
彷徨い続けたピーターもまた、最後にたどり着いた場所は故郷だった。
「I STILL CALL AUSTRALIA HOME」の歌詞「若者たちは故郷を離れ、遠く旅に出る。でも何も得られずかなわず、旅路を終えるだけ」
そう、故郷とは、そうやって帰って行ける場所だ。
こうして、ピーターはライザに、グレッグに、父に母に、そして故郷に帰り着く。
何も持たず、すべてを欲したピーターの胸の中には、ずっと彼が欲しかった全てがちゃんと存在していたのだ。

聞くところによると、この「I Still Call Australia Home」は、オーストラリアの第2の国歌といわれることがあるそうだ。
そういわれて連想した歌が2曲ある。ひとつは、わが日本の「ふるさと」。もうひとつは、アイルランドの「Danny Boy」。
「ふるさと」については今さら説明の必要はないと思う。
「Danny Boy」は、ジャズやポップスで多くのミュージシャンがカバーしているが、元々はアイルランド民間歌謡だったそうだ。
戦地に向かう息子を見送り待ち続ける母親の心情を歌ったものだが、アイルランド系の人たちの間では「ふるさと」と同じような意味をもつ歌らしい。
そういえば映画「Family Business」の中でNYのアイルランド移民街の人たちが、主人公のひとりの遺灰が風に消えていくのをこの歌を歌いながら見送っていたシーンが強く印象に残っている。

この3つの歌に共通しているのは、故郷を出て行く若者がいて、その旅立ちの行方は必ずしも幸せや栄光に満ちたものではないけれど、今も故郷は変わらずそこにあり、いつか帰る若者を優しく受け止めてくれるだろうというストーリー。
おそらく古今東西変わらぬ、故郷というもののイメージなのだろう。
しかしそれは、故郷を離れ、心に傷を負って初めて気づくことなのかもしれない。

遠い昔から多くの若者が故郷を旅立ち、傷ついて、再び故郷に帰り着いた。
道の途中で倒れたものもいただろう。
しかし遠く離れていても、故郷はその魂を優しい腕に抱きとめてくれたに違いない。
その若者がその姿を胸の中に抱き続けてさえいれば。
ピーターもまた、間違いなくその一人だったのだと思う。

「THE BOY FROM OZ」を観終わった後、久しぶりにある詩の一節を思い出した。
十代の頃から私の一番好きな詩人である中原中也の「帰郷」、その最後の部分。


これが私の故里だ。
さやかに風も吹いてゐる
心置なく泣かれよと
年増女の低い声もする

あゝ、おまへはなにをして来たのだと…
吹き来る風が私に云ふ


中也もまた、故郷を恋いながら遠い鎌倉でその生を終えた。
今、彼の生地である湯田温泉には、この歌碑が建てられているという。



(最後までお読みくださり、ありがとうございます。「お疲れさまでした」かな?)