AKJ NEWSLETTER #2
Interview:(アランのスタジオ、サン・マキシマにて 1999年12月〜2000年1月)
画家アラン・ディオさんに聞く
AKF(アクト・コウベ・フランス)の中心的メンバーであり、震災の翌年にジーベックホールで行われたオールナイトコンサート“Acte Kobe”でライブペインティングを披露してくださった画家のアラン・ディオ氏に、『芸術と社会のかかわり』についてうかがいました。
インタビュー、構成、英語翻訳/パスカル・プレー
英文監修/ジャン・ピエール・コメティ
日本語訳/下田展久
English
【何が僕らを繋いでいるのか】 パスカル・ブレ- PB:壊れやすさ、創造性、連帯、この三つの言葉は私たちの団体でよく話題にのぼっていますね。ま日本では、震災によって物質だけでなく心、感情、そして命が、あまりに壊れやすいものだったと気がついた。一方フランスでは地震に関連なく、常態としてこの壊れやすさを位置づけています。壊れやすさは世界のどこにでもありうるということですね。この壊れやすさは、あなたの作品にどう表われ、自分の活動とどのように結びつけていますか?さらには、もっと大きな視点で、芸術と壊れやすさの関係は? アラン・ディオ AD:神 戸の震災が起きる前から、生きるということがどれほど強く、同時に壊れやすくはかないものかということは意識していたんだ。生きることは常に壊れやすさとともにある。描くことと生きることの関係は、この壊れやすさを表現することなんだ。アクト・コウベ(AK)は、もちろん地震によって知性的芸術的にも、身体的にも、壊れやすさについて考え、行動することになった。社会的道義とも言えるだろうか。神戸では数千の人々がいまだ家を失っているということを考えたうえで、AKとしての創造はあるべきだと思う。僕らが小さなワークショップから始めたように、考える場所を共有し、続行し、強く意識しなくてはいけない。 なぜAKに参加したか、何が僕らを繋いでいるのかについて考え、発言しなくてはだめ。これは生きる根拠であり、また地震や社会によって生きる意義を失ってしまった人々のために創造することに繋がる。みんな違う意見を持っていると思うけど、僕はそう思ってる。 【ああ、僕は迷子だあ!】 PB:では、芸術家としてこの壊れやすさを表現するというのは、どうやって? それはまた、どんな意味ででしょう? AD:もちろん、それには強さも含まれるだろう。要は何を感じたかではなく、そこから何を行なうかだ。人間として、芸術家として、そこのところをやっていかないとだめ。人間に関することを見い出せる作品に僕はひかれるんだな。この世の始まりと終わり、何か限界のようなものがある、というような。『自然ほど我々を誤解に導くものはない』と言ったのは誰だっけ?まったくそのとおりだよ。いま現われている僕とは何なんだろう? 劇的なもの、あるいはほんの微かなものか?中心、それとも? 僕が読んだり聴いたり、知覚した様々なものとの関係は? 変化して消えていくようなものなのか? 描くことが記憶を呼び起こし、関連のなかったものが再び繋がる。描いていると突然何かが現われ、関係性が生まれることがあるんだ。これまでの体験に多くの相似点とエコーが生まれ、必然的に共鳴しあうもので構成されている空間があるんだけど。なんとか結びつけようとしてみても、あまりに複雑に現われるので、わけがわからなくなってしまうんだ。ああ、僕は迷子だあ! PB: あなたの芸術活動は、知ることだけではなく、欠乏や予測不可能なことにも立脚しているね。 そのようなこと自体が壊れやすさであり、またそのなかにこそ活動の源泉を見い出しているわけね。 AD:変 化するものに基づいて生きていくしかないんだ。つまり「旅」だ。読むことを覚え、言葉の意味を把握していく人生は旅なんだ。生きていくうちには、人生そのものが変わってしまうようなめちゃめちゃな状況、完璧に破滅してしまうような問題に直面するときがある。僕は「自分である」ことに基づき、最終地点を見ずに再構築しようと試みる。ジャコメッティは『描くことなしに自己の完成はない』と指摘しているけど、僕はしゃべったことではなく「すること」によってたつ。だけど自分のしていることを完全に把握することはない。これも生きることと壊れやすさの関係なんだ。 『視覚芸術』には見えないものがあるとよく言うけれど、それは生きることであり、盲の活動なんだ。つまりいま自分がやっていることの意味はわからないということ。重要なのは管理するのではなく、こういうことにつきあっていくこと。それが人生だ。 【視覚から逃れても、読み取れる絵】 PB: あなたは自分のしていることがわからない・・・ 。初期のあなたの絵も、そこに何が描いてあるのかわからなかった。 灰色と白の大きな作品では、灰色の空間に目を奪われて何か形を読み取っても、すぐに違うものに見えて、そしてこの灰色の空間によって白の存在が可能になっていることを理解する。まるでもう一度作品を構成しなおすみたいに、すべてが収まりなおしていく。でも実は作品の多様な可能性に直面しているわけですね。 AD:すべての読み取りの可能性に抵抗するための複雑性なんだ。あれとこれを読んでいる間に、それとこれを読み、そしてその間にこれもあれも・・・ 見ることに疑問を投げかける。見え方の可能性のなかで、「何が見えますか?」という質問は画家の仕事を困難にする。 自分の考えですら、困難に追い込む。どんな絵にも、初めて見るものが何かしらあるはずだよ。 感じるだけで見つけられないこともあるし、形がありそうでなさそうなものだったりする。ある意味、僕が見せようとしているのは視覚から逃れてしまうものなんだ。しかし読み取ることはできる。子供は葉っぱや樹皮、それから雲なんかを読むことができる。成長するとだんだんできなくなることだよね。この能力を維持すべきか否かは分からない。人は、日常生活のなかで心を空虚にすることが難しくなっていく。これはチャンスであり、また同時に危険なわけ。この矛盾と深い意味での同時性が難しいんだ。そこに物事の重さというものを見て取ることができるかもしれない。僕はすべてのことを知ることができないし、そんな人と出会ったこともない。でも、誰かが何かから解放してくれたら、ほんの少し何かを。そしたら絵は少し進むだろう。ジル・ドゥルーズは「過多の空間」から解放してくれた。この世界自体が「過多の空間」であり、この空間に言語は現われる。しかしこの言語は、深夜のパブで、あるいは詩人の言 葉、でなければとても精緻な思考からしか聴くことができない。 これは生きるという大仕事の一つであり、また死や破滅の場所、生と死を綴じるものの灯りのなかに見い出せるものなんだ。
■アラン・ディオ 1945年、プロヴァンス生まれ。1988年より絵画作品の発表をはじめる。マルセイユ、パリ、ニュー ヨークでの個展やグループ展をはじめ、音楽家とのワークショップも数多く行なう。執筆活動も盛ん。阪神大震災のあとバール・フィリップスとともに「アクト・コウベ I」をオーガナイズし、1996年の神戸での「アクト・コウベ」オールナイトコンサートに出演。
■パスカル・ブレー エックス・アン・プロヴァンス在住の女性社会学者。エックス・アン・プロヴァンスのMediterranee Universityで教鞭をとり、社会学と医学の関係における最新医学、技術、臨床、とくに遺伝学に関する研究を行っている。43歳。
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