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神奈川と国産ウイスキー

 2007年現在、神奈川県にはウイスキーの蒸留所は一軒もありません。 そのため、ウイスキーと聞いて神奈川県を思い浮かべる人はあまりいないでしょう。 ですが、意外にも神奈川県は国産ウイスキーとの関わりが深いのです。

東京醸造とトミーウイスキー

 1929年、(株)寿屋(現在のサントリー(株))が サントリーウイスキー(通称白札)を発売しました。 それが初の本格的な国産ウイスキーであるとされています。 白札より前に発売されていた国産ウイスキーは、モルトを使わずに ニュートラルスピリッツに色や香りをつけただけのものや、 それに輸入したウイスキーを少し混ぜただけのものでした。 (いわゆるイミテーションウイスキー)
 1937年に二番目の本格的な国産ウイスキーとなる 「トミーウイスキー(トミーモルトウイスキー)」を発売したのが 東京醸造(株)です。 東京醸造は、県知事などを歴任した後、実業家となった武井守正らによって 1924年に設立された会社で、 今の藤沢市南藤沢(現在のOKストアー藤沢店)に工場がありました。 工場は、敷地800坪、建物227坪、従業員が1936年の時点で25人、 1951年の時点では64人とあまり大きなものではなかったようです。 ウイスキーの他には現在の甘味果実酒やブランデー、リキュールなどを造っていました。 後に社長となる中村豊雄が台湾の酒精会社などに勤めた経験から 醸造技術に通じており、実務を担当していました。
 元々、東京醸造はイミテーションウイスキーを製造していたのですが、 中村はモルトを使わないイミテーションウイスキーに限界を感じ、 自らモルト原酒を造ることを思い立ちました。 そして、フラスコを使った発酵や蒸留、小樽を使った貯蔵などの実験を重ねた後、 工場にポットスティルを設置してモルト原酒の製造を開始しました。 初めの内は、原酒をイミテーションウイスキーのエッセンスとして使用しましたが、 1937年には本格的なウイスキーであるトミーウイスキーを発売しました。 トミーウイスキーは、1940年に行われた公定価格の制定の際に サントリーウイスキーやニッカウヰスキーらとともに本格ウイスキー (後のウイスキー甲類)とされました。 1943年(昭和18年)には「特選トミーモルトウイスキー」と 「トミーモルトウイスキー」の二銘柄が本格ウイスキーとして指定されていました。
 東京醸造は寿屋、大日本果汁(株)(現在のニッカウヰスキー(株))に次ぐ ウイスキーメーカーとして戦後を迎えました。 朝鮮特需をきっかけに三級ウイスキーを中心としたウイスキーブームがおこると、 1951年(昭和26年)に「トミーモルトウイスキー白ラベル」を発売しました。 しかし、「トリス」(寿屋)、「スペシャルブレンド」(大日本果汁)、 「アイデアル」(宝酒造)、「アルプ」、 「シルバーフォックス」(シルバーウイスキー(株))、「45」(東洋醸造)などの 同業他社との競争が激化して、経営状態が悪化してしまいました。 そのため、1954年(昭和29年)には酒税を滞納したために 東京国税局の差し押さえをうけてしまいます。 そして翌1955年(昭和30年)、工場が競売に付されて倒産してしまいました。

※本格ウイスキー = 三年以上貯蔵したモルトウイスキー、 もしくはそれを三割以上混和したブレンデッドウイスキー。

サントリー 多摩川工場

 競売された東京醸造の藤沢工場を落札したのが寿屋でした。 寿屋は藤沢工場を改修し洋酒のボトリングなどをしましたが、 1958年には川崎市に多摩川工場を竣工させ工場の機能を移転しました。 それ以降、山崎蒸留所などで造られ貯蔵されたウイスキー原酒は、 多摩川工場でブレンドされ瓶に詰められた後、各地に出荷されていたのです。 (ニッカの同様の工場は、現在の六本木ヒルズにあった東京工場→柏工場) その多摩川工場も2002年に栃木県の梓の森工場にラインを統合して閉鎖されました。 現在、跡地にはサントリー商品開発センターがあります。

三楽酒造(現メルシャン) 川崎工場

 1947年に「サンラックウイスキー」を発売した三楽酒造(株)は 自社でのモルト原酒の製造を目指し、 1958年に川崎工場で試験的にモルト原酒の蒸留を始めました。 1961年には山梨市の工場で本格的に蒸留を開始しましたが、 翌年にオーシャン(株)を吸収合併したため、 山梨での蒸留も中断を挟んで1969年までの短期間で終わりました。
 また、合併後は川崎工場でグレーンウイスキーが蒸留されて、 軽井沢及び山梨で貯蔵されることとなりました。

メルシャン(旧三楽オーシャン) 藤沢工場

 1946年、大黒葡萄酒(株)は、ニッカから購入したモルト原酒を使い 「オーシャンホワイト」を発売しました。 その後、1952年には塩尻で自社の手によるモルト原酒製産に乗り出し、 1956年からは新たに完成した軽井沢蒸留所での製産を開始しました。 1961年に社名をウイスキーの銘柄であるオーシャン(株)に改めましたが、 翌1962年には三楽酒造に吸収合併され三楽オーシャン(株)となりました。 合併当初は従来通り東京都新宿区にあった旧オーシャンの東京工場で 製品をボトリングしていました。 その後、工場の再編で藤沢工場が洋酒専門の工場となったので、 オーシャンウイスキーは 藤沢でブレンドとボトリングをされてから販売されることになりました。
 長らく国産ウイスキーのシェア三位であった三楽オーシャンでしたが、 現在はシェアを減らし、社名もワインのブランドであるメルシャンに変わっています。 しかし、軽井沢シリーズやオーシャンラッキーなどのウイスキーが 今でも藤沢工場でブレンドやボトリングをされています。 (販売は麒麟麦酒(株))

サントリーの新蒸留所計画

 1973年、ウイスキーの需要が増え続ける中、 サントリーは山梨県北巨摩郡白州町(現山梨県北杜市)に蒸留所を新設しました。 そのことは広く知られていることですが、 元々の蒸留所建設予定地が 神奈川県津久井郡藤野町だったことはあまり知られていません。
 神奈川新聞1971年8月14日付朝刊によると、サントリーは1967年3月に 藤野町の相模湖インターチェンジ付近に9万平方メートルの土地を 原酒工場建設用地として取得し水質検査のための試験所をつくりました。 水質検査により、ウイスキー造りに申し分ないとの結果が出たものの、 神奈川県民の水がめである相模湖に浄化したものとはいえ廃水を流すことはできないと 藤野町を諦め白州町に原酒工場を建設することを決めたとあります。 公害が問題になり環境保護意識が高まった時代を反映した出来事と言えるでしょう。
 もし当初の計画通り藤野町に蒸留所がつくられていたら、 今頃、藤野や津久井の名を冠したウイスキーが販売されていたかもしれません。


参考文献
大日本洋酒缶詰沿革史(1974) 編者:日本和洋酒新聞社
酒類産業30年 戦後発展の軌跡 編者:醸造産業新聞社編集局
藤沢市史 第六巻 通史編 著者:藤沢市史編さん委員会
新版 世界の酒事典 著者:稲保幸
三楽50年史 編者:三楽株式会社
サントリーの70年 1やってみなはれ 2みとくんなはれ 編者:サン・アド サントリー株式会社
神奈川新聞1971年8月14日朝刊


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最終更新日2008年1月13日