幕府と長州藩が敵対関係になるまで
かつては長井雅楽の唱える「航海遠略策」の建白を行い、幕府と朝廷の間を取り持とうとしたなど決して幕府との関係が悪くなかった幕末の長州藩ですが、いつしか反幕思想の過激派藩士が中枢を握る事になり、長州藩は幕府への反抗姿勢を強める事になります。こうして幕府への反抗姿勢を強めた長州藩が取った策が朝廷への接近であり、京都へ侵入した若手藩士達の工作により朝廷の掌握に成功した長州藩は、朝廷を通して幕府に圧力を掛ける事になります。
こうして幕府に対して優勢を保っていた長州藩ですが、文久三年(1863年)八月十八日に会津藩と薩摩藩によるクーデターが決行されると、朝廷工作に用いていた七人の公卿と共に京都から追い出されます。かくして京都から追い出された長州藩ですが、それでも復権を目指して京都での政治工作を続けていましたが、翌元治元年(1864年)六月五日に起きた有名な池田屋事変によってその工作も失敗した事により、遂に軍事力を用いて政敵である会津藩(長州藩兵は政治的意図もあり、敵を会津藩のみと周囲に宣言していました)を排除しようと京都出兵を決意し、六月下旬には出兵を開始します。
こうして出兵した長州藩兵に対し会津藩は即討伐を主張しますが、禁裏御守衛総督である一橋慶喜は軍事力の発動には慎重な態度を見せ、平和的に長州軍を退去させようと水面下の交渉を行ないますが、長州軍がこれを聞かなかったのと、孝明天皇より長州軍討伐の勅命が慶喜に下された事により遂に慶喜も開戦を決意し、七月十九日に慶喜率いる在京の諸藩兵と長州藩兵が京都の地で激突します(禁門の変)。
開戦前は武力討伐を躊躇った慶喜でしたが、天皇から勅命が下ると俄然張り切りテキパキと会津・薩摩・桑名・福井・彦根・大垣等の諸藩兵に指令を下し、時には前線に出て苦戦する部署を見つけると予備戦力を投入し、また時には御所に戻り戦闘を受け弱気になる公家達を宥めすかして戦闘を続行するように説得(戦闘を恐れて和議を言い出す公家達が多かった為)する等の縦横無尽の活躍を見せた為、御所付近まで攻め寄せた長州藩兵も奮戦しましたが、いかんせん多勢に無勢だったので遂に長州藩兵も敗れ去り、二十二日の天王山の戦いで未だ健在だった長州藩兵も掃討され、長州藩の京都攻撃軍は完全に駆逐されたのです。
余談ながらこの禁門の変後の会津藩による長州藩兵の残党狩は凄惨を極め、京都にはこの会津藩の残虐行為の証言が数多く残っています。この会津藩による同胞への残虐行為は長く長州藩士達に憎しみとして残り、これが戊辰戦争の際に会津藩への報復行為に繋がる事になるのです。
更に長州藩にとって痛手だったのが、この禁門の変の際に長州藩兵の放った弾丸が御所に飛び込んだ事により朝廷が怒り、長州藩征討の勅令を七月二十四日に発令しますす。そしてこれを受けた幕府はこれを機に政敵である長州藩を叩き潰そうと翌八月四日幕府は長州征伐を決定します。そしてこれにより第一次長州征伐が行なわれる事になるのです。
左:禁門の変が起きる原因となった池田屋事変が起きた池田屋跡
中:禁門の変の際、薩摩藩兵が布陣した蛤御門
右:蛤御門に今も残る、禁門の変の際の長州藩兵による弾痕
第一次長州征伐の成功と誤算
こうして発令された長州征伐ですが、この第一次長州征伐の時点では幕府の権威もまだまだ健在でしたし、また朝廷からの長州征討令が発せられた事もあり、多くの諸藩がこの長州征伐に参加する事を表明します。こうして編成された長州征伐軍(以下征長軍と呼称)の総督として御三家の尾張藩前藩主徳川慶勝が任命され、参謀の薩摩藩士西郷隆盛等の人事も決定し、凡そ15万もの大軍が長州藩を目指す事になります。
この征長軍に対する長州藩の対応ですが、実の所長州藩にとってはそれどころではないというのが実情だったでしょう。禁門の変で敗れてようやく長州藩に帰還出来たと思っていたら、英仏蘭米の四国艦隊が関門海峡に現れ、下関に攻撃を開始し始めたので、長州藩としてはその対応に大あらわの状況でした。文久三年に幕府の攘夷命令に従って長州藩は馬関海峡を進む諸外国の艦艇に砲撃を加え馬関攘夷戦争を戦ったのですが、よりにもよって長州征伐が間近に迫ったこの時期に馬関攘夷戦争の報復と、長州藩が未だ封鎖を続ける馬関海峡解放の為に再び四国連合艦隊が馬関海峡に現れたのです。
八月五日から八日までに行なわれた四国連合艦隊の攻撃に対し、諸隊を中心とした長州藩兵(余談ですが禁門の変には士族部隊が主に参加し、諸隊は下関防衛の為長州藩内に残留していました)も決死に防戦しますが、旧式装備の長州藩兵は完膚無く叩き潰され、八月十四日には諸外国と下関協定に調印し事実上の降伏をする事になります。しかし実情としては長州藩は賠償の責任を幕府に押し付け、以降は諸外国と接近する事になります。
尚、この四国艦隊との敗戦は長州藩に西洋軍事の強さを嫌というほど思い知らせる事となり、後に大村益次郎の指導の元長州藩は西洋軍事への軍制改革を行なう事になります。
こうして四国艦隊来襲の危機は何とか切り抜けた長州藩ですが、長州征伐をどう切り抜けるかはまだ定まっていませんでした。そしてこの長州征伐軍に対する対応中の最中、ここまで長州藩を追い込んだ過激派(反幕派)に非難が集中し、遂に保守派(和平派)が政権を奪回し、椋梨藤太を首班とする保守派による親幕政権が発足し、征長軍に対し講和を申し込む一方で、ここまで長州藩を窮地に追い込んだ過激派藩士達に対する粛清を開始します。これを受け多くの過激派藩士は野山獄で斬られ、また過激派の重鎮高杉晋作は粛清を避けるため九州に脱出します。
かくして藩政を完全に掌握した保守派政権は征長軍に降伏を表明します、これを受けた征長軍総督の徳川慶勝は禁門の変首謀者の益田右衛門介・国司信濃・福原越後の三家老の自刃と四参謀の処刑を要求し、保守派政権はこれを受け入れます。その後征長軍から「藩主親子の謝罪文の提出」「山口城の破却」「禁門の変により長州に亡命した5人の公卿を他藩に引き渡す」等の追加処分を命令し、長州藩保守派政権もこれを受け入れた為慶勝は十二月二十七日に征長軍の解散を発令します。
かくして一兵も損なう事も無く長州征伐は終了したのですが、この結果に驚いたのは在江戸の幕府首脳部達でした、彼等としてはこれを機に政敵である長州藩に大打撃を与え、二度と幕府に逆らえないようにする腹づもりだったのに、征長軍総督の徳川慶勝が出した処分は余りにも寛大なものでした。幕府としては最低でも領土を10万石も削り、藩主親子を幽閉ないし蟄居される腹づもりだったのに、慶勝が出した処分は領土削減にも藩主親子の処遇にも一切手をつけない幕府首脳部達からすれば受け入れ難い寛大な処置でした。
もっとも慶勝からすれば下手に思い処分を要求すれば長州藩が態度を硬化させ、それと戦うとなれば征長軍もそれなりの損害が出るので、征長軍に参加してる諸藩の要望を取り入れた為に江戸から見れば寛大な処分と見えてしまったのでしょう。
かくして幕府からすれば不満の残る処分となってしまいましたが、とにかく第一次長州征伐は幕府の勝利として幕を閉じました。しかし結果的に見ればこの時に長州を徹底的に叩かなかった事こそが後に幕府の命取りに繋がっていくのです、征長軍が解散した後、長州藩内では今度は高杉晋作がクーデターを決行し、再び長州藩は過激派による倒幕路線に転向していくのです・・・。
長州藩内の権力争い象徴である萩市内に残る野山獄跡、保守派政権成立時はここで多くの過激派藩士たちが斬られ、高杉晋作のクーデターが成功すると、今度は保守派政権の首領である椋梨がこの野山獄で斬られる事になります。
長州藩の変貌〜高杉晋作のクーデターと、大村益次郎の軍制改革〜
高杉晋作のクーデター
こうして第一次長州征伐の危機を乗り切った長州藩保守政権ですが、未だ藩内に不安材料を残していました。話は遡りますが保守政権は十月に反幕の動きがある諸隊に解散命令を出していたのですが、一向に諸隊は解散する気配は無く、また各個撃破を恐れ長府に集結しており、保守派政権はこの諸隊の扱いに苦慮していました。
この諸隊について簡単に説明させて頂くと、馬関攘夷戦争の際に士族による正規軍が惨敗し醜態を晒したのを見た高杉晋作が補助戦力として建白して生まれたのが志願兵による奇兵隊を始めとした諸隊です。諸隊は志願兵により構成されていたので士族だけではなく農民や商人、また他藩の浪人等も参加しているのが特徴でした(最も全てが志願兵という訳ではなく、中には農村から徴発された兵士もいたようです)。
ただ注意して頂きたいのは確かに諸隊は士族と庶民による混成部隊でしたが、だからと言って身分による差別が無かったというのは幻想に過ぎず、諸隊の中でも士族と庶民の身分差別は厳然と存在していました。何より諸隊の生みの親である高杉自身が身分差別主義者だったので、高杉自身は諸隊はあくまで補助兵力で主力部隊は士族による正規軍と考えていました。
話は脱線しましたが、保守派政権が諸隊を解散させようと交渉してる最中、九州に亡命していた高杉が帰還し奇兵隊の隊士達に決起に参加するよう説得します。しかしこの説得の際に当時奇兵隊総督だった赤根武人の事を「君等は農民の赤根に騙されている、自分は譜代の家臣だから自分こそが長州藩を救える」と差別主義丸出しの発言をした為、隊士達の信頼を失い、また同隊軍監だった山県有朋が慎重な性格だった為高杉の挙兵の成功を疑い態度を保留した為、高杉は奇兵隊の協力を得る事が出来ませんでした。
このように奇兵隊の協力を得れなかった高杉でしたが、決起を諦めず遊撃隊と力士隊の協力を取り付け元治元年(1864年)十二月十六日に長府功山寺で保守派政権への反乱を決起します。
この高杉の功山寺決起は後年高杉の英雄伝と長く語られていますが、正直この高杉の決起は暴挙としか言えないと思います。実際この決起には慎重な山県だけでなく、常識人で高杉とも親しい福田侠平でさえ反対した程なのですから、この決起が危ういものだったのを表していると思います。しかし事実は小説より奇なりとは言ったもので、遊撃隊・力士隊併せて僅か80名余で始まった高杉の反乱は、あれよあれよという間に要所を占拠し各地の豪農の援助を受け、次第に勢力を増していきます。この高杉の反乱の思わぬ好調を見た諸隊は次第に高杉の元に馳せ参じ始め、年末には高杉は保守派政権に対する一大反乱軍の首領になっていたのです。
この高杉の反乱に対して保守派政権も遂に討伐軍の派遣を決意し、総奉行毛利宣次郎以下栗屋帯刀・児玉若狭等が率いる藩正規軍凡そ1千を十二月二十八日に萩から出撃させます。この藩正規軍の動きに対し山県は諸隊を率いて、翌慶応元年(1865年)一月七日に山口と萩を繋ぐ交通の要所である絵堂に集結していた藩正規軍に奇襲をし掛け見事初戦を勝利します。その後山県は諸隊を後退させ太田に布陣させ、十日に渡り諸隊と藩正規軍は大田・絵堂の地で戦いを繰り広げますが、十六日の戦いにより藩正規軍は敗走し志願兵による諸隊が士族による藩正規軍に対し勝利を収めたのです。
高杉自身はこのまま萩への進軍を望んでいたみたいですが、慎重な山県がこれを止めたので諸隊は一旦山口に退きます。こうして諸隊による萩侵攻の危機から逃れた保守派政権ですが、諸隊の軍事的侵攻を受けずとも瓦解を始めます。諸隊の大田・絵堂の勝利を聞いた保守派藩士の一部が、「中立」を表明して高杉と保守派政権の調停を宣言したのです。これは一見するとこれ以上の藩の混乱を避ける為の有志の調停に思えますが、用は諸隊の優勢を見た保守派の一部が椋梨一党を見限って高杉一派に寝返ったに過ぎませんでした。実際保守派の裏切りに危機を覚えた椋梨一党は二月十四日に萩からの脱出を図りますが海上で捕らわれ、後に萩で処刑される事になります。また高杉と山県はこの保守派藩士への粛清のどさくさに紛れて、自分達に反した行動を取った「農民」出身の赤根武人をも処刑したのです、椋梨一党は自分達の政敵なのですから粛清もやむを得ないと思いますが、赤根の処刑は高杉と山県の私怨以外の何物でもなかったでしょう。
こうして保守派政権は瓦解し、三月には桂小五郎・広沢真臣・山田宇右衛門等による過激派政権が確立され、長州藩の方針を表面では幕府に恭順を装いつつも幕府との戦いに備える「武備恭順」路線を取る事とします。四国艦隊との戦いで西洋軍事の強さを実感した長州藩は、もう攘夷などとは言っておれず、いずれ訪れる幕府との戦いにそなえ長州藩の軍制を西洋流に転換すべきと思っていました。こうした西洋軍事改革を武備恭順の骨子とし、その武備恭順の為に長州藩が軍制改革を任せたのが軍略の天才大村益次郎です。
左:高杉晋作が保守派政権に対して決起した功山寺
中:功山寺内に建つ高杉晋作決起の像
右:下関市吉田町の奇兵隊陣屋跡と奇兵隊隊士の像
大村益次郎の軍制改革
大村は周防の鋳銭司村に村医者の子として生まれましたが、大阪の適塾(適々斎塾)で学ぶ内に軍事テクノクラートとしての才能に目覚め、その後幕府・宇和島藩に仕えその才能を縦横無尽に発揮し、その実績を買われこの長州藩存亡の危機に軍制改革を一任されたのです。この軍制改革を一任された大村の才能を一言で表せば「理論を具現化出来る」と言う事でしょうか、この当時諸外国からたくさんの軍事関係の書物が輸入され、それを翻訳する才能を持った人間は幾人か居ました、しかし大村がこれらの人間と違ったのは翻訳しつつその軍事理論を理解し、そしてその軍事理論を実現可能な計画にして具現化していった事でしょう。余談ながら大村はかのクラウゼヴィッツの「戦争論」すらも読んでいました。
若き日の大村が学んだ大阪の適塾、この適塾は大村だけではなく同じく戊辰戦争で活躍した若き日の大鳥圭介もまたこの適塾で学んでいました。
大村の軍制改革の特徴は諸隊を含めた長州藩兵の整理統合・全兵を西洋小銃を装備した小銃隊(歩兵)化する・西洋軍事を学んだ士官の養成の三つです。
まず「諸隊を含めた長州軍の整理統合」につきましては、大村は諸隊の整理統合に着手します。諸隊は前述の通り基本的に志願兵によって編成されていましたが、経費を藩から受け取らず自分達で調達していたので藩からの統制が届きにくく、半ば藩から独立した政治集団化している節がありました。大村はこの諸隊に給料を支払う代わりに諸隊を藩の正規軍に編入し、また多数存在していた諸隊を整理統合し10隊に纏め(奇兵隊・第二奇兵隊・遊撃隊・御楯隊・鴻城隊・南園隊・鷹懲隊・八幡隊・集義隊・荻野隊)、ある程度各隊の隊員数を均一化させます。そして整理統合した各隊の組織改革にも着手し、総督−軍監−小隊長−兵士という完全な縦割りの組織とします。これにより半ば政治集団だった諸隊は、指揮官の命令下で一斉に行動する近代軍隊として生まれ変わり、高杉からは補助兵力と思われていた諸隊を大村は長州藩の主力部隊としたのです。
また大村の軍制改革は諸隊だけに留まらず、中間や足軽を譜代の大身の藩士から切り離し、足軽や中間の者だけで部隊を編成します。譜代の家臣の指揮下に中間や足軽が入る、異なる身分が混在する戦国以来の編成では意思統一や命令伝達に難があり近代戦に不向きな編成でしたので、大村は足軽は足軽、中間は中間、そして譜代の家臣は譜代の家臣と身分別に部隊を編成したのです。
こうした大村の軍制改革により長州藩兵は整理統合された諸隊、足軽・中間による施条銃大隊、そして譜代の家臣により編成された千城隊・浩武隊といった大まかに分けると三種類の部隊に編成されたのです。
こうして近代編成された長州藩兵ですが、大村はこの近代歩兵化された兵士全員に西洋小銃を持たせ「全兵を小銃を装備した歩兵化」を試みました。この全兵に西洋小銃を持たせるには西洋小銃を輸入しなくてはいけないのですが、第一次長州征伐により幕府に輸入を制限されている長州藩には西洋小銃を入手する事が出来ません。このように自らでは西洋小銃を入手出来ない長州藩を救ったのが薩摩藩の意向を受けた坂本竜馬で、薩摩藩名義で購入した西洋小銃を長州藩に引き渡したのです。この竜馬の斡旋で西洋小銃を入手した事により、諸隊を始めとした長州藩正規軍はミニエー銃を装備した大村の望んだ全兵小銃隊化が可能になったのです。
このように部隊の整理統合と全兵小銃隊化を進めてた上で、大村は生まれ変わった長州藩兵に徹底的な近代軍事訓練を行い、小隊を基本戦闘単位とした散兵戦術を行う近代軍隊化させていったのです。こうして長州藩兵の近代化は着実に進んでいましたが、幾ら兵士が近代歩兵化されていても、それを率いる士官が近代軍事を学んでいなければ近代戦を行なう事は不可能でした。この為大村は現代で言う士官学校と言うべき兵学寮を設立させて、自らが教師となって士官教育を行なったのです。
こうして諸隊を始めとした正規軍の整理統合と部隊編成、部隊編成を終えた兵士たちの訓練と士官の教育、そして来るべき幕府との戦争の作戦立案をも行なう等、正に大村の八面六臂の大活躍で長州軍の戦争準備は着々と進んでいったのです。
ただし幕長戦争の際は大村の軍制改革がまだ完了していなく、大村の軍制改革が終了したのは戊辰戦争の直前でした。そういう意味では幕長戦争時の長州藩兵はまだ近代化の途中でしたが、大村の手腕によって生まれ代わりつつあった長州藩兵は幕長戦争で幕府軍と戦う事になるのです。
左:山口市鋳銭司村に建つ大村益次郎誕生の地の碑
中:同じく鋳銭寺村に在る大村益次郎を祭った大村神社
右:大村神社近くの山内に建つ大村益次郎の墓
京都政局の混迷と一橋慶喜の辣腕
幕府と一会桑の対立
話は遡りまして第一次長州征伐の戦果に不満が残る幕府でしたが、諸藩が幕府の命令に従い征長軍に参加した事と、とにかく政敵である長州藩を屈服させた事により、幕府の上層部は今こそ幕府の権威が回復させる機会と判断します。その先駆けとしてまだ第一次長州征伐の最中の元治元年(1864年)九月に、文久二年(1862年)に当時の将軍後見職だった一橋慶喜と政治総裁松平春嶽の主導で行なわれた参勤交代の緩和(参勤の間隔を三年に1回にする、藩主の妻子の帰国を自由にする、幕府上層部への賄賂の廃止)の撤回を発表します。これにより参勤交代の制度を昔に戻し、幕府の権威の回復を目論んだのですが、予想に反して征長軍には賛成した諸大名が参勤交代制度の強化には態度を保留します。
このように参勤交代制度強化が思うように進まなかった幕府は、幕府権威の復権をより目指して年が明けた慶応元年(1865年)正月には長州藩藩主父子に処分を言い渡す為に江戸に呼びつけ、また長州藩とは別の意味で幕府にとって目の上のタンコブだった朝廷と一会桑政権に対する工作の為、老中の本荘宗茂と阿部正外の両名に幕府歩兵隊4個大隊を率いさせ二月初旬に上洛させます。
ここで一会桑政権に簡単に説明させて頂くと、当時禁裏御守衛総督だった一橋慶喜と京都守護職だった会津藩、そして京都所司代だった桑名藩による京都における連合勢力でした。一見すると幕府の京都における出先機関に見えがちの一会桑ですが、孝明天皇から絶大な信頼を受けたことにより独自の判断で動くようになり、言わば朝廷と幕府の仲立ちを進んで行なうようになります。しかしこれは江戸の幕府から見れば、一会桑は江戸の意向より朝廷の意向を優先している様に映り、この頃の江戸からは一会桑の存在は半ば政敵となりつつありました。
かくして権威復権を目指す幕府としては、幕末になり急に自己主張を始めた朝廷と、幕府よりも朝廷の意向を優先しがちな一会桑を何とかしないと幕府の権威復権は難しいと判断した為、その政治工作の為に二老中を京都に送り込んだのです。京都に入った本荘・阿部の二老中は一方で幕府歩兵隊4個大隊による無言の恫喝と、三十万両にも及ぶ工作資金の飴と鞭の工作により朝廷を屈服させようとしたのですが、そんなニ老中に煮え湯を飲ましたのが薩摩藩の大久保利通でした。
この頃それまでの公武合体路線から反幕路線(この頃にはまだ倒幕までには至っていません)に転向しつつあった薩摩藩ですが、その薩摩藩の京都での政治工作の表舞台に立っていたのが大久保でした。大久保は武力と金があれば朝廷は篭絡出来ると楽観的だったニ老中を出し抜いて精力的に公家に対する工作を行い、二月二十二日に朝廷にニ老中を呼びつけさせ今回の動向に対し叱責させ、逆に将軍に上洛させるよう言明しニ老中を追い返します。本来この手の京都での政治工作の適任者は一橋慶喜でしたが、今回のニ老中の目的は「一会桑を江戸に連れ帰る」というのもあったので、一会桑の協力を得る訳にもいかず、結局大久保の朝廷工作の前に敗北したのです。こうして事態を楽観視していたニ老中はこの朝廷の態度にすっかり驚き意気消沈し、すごすごと江戸に退散します。このように大久保の政治工作に敗北した幕府でしたが、これは今回の一件だけには終わらず、今後幕府には薩摩藩を代表する大久保利通という新たな政敵が立ちはだかる事になるのです。
こうして京都での政治工作で敗北した幕府ですが、悪い事ばかりでもありませんでした。この京都工作の失敗で幕府もようやく京都政局の実情が判り、またこれまで一会桑の動向に不満を持っていた幕府もようやく一会桑の動向に理解を示して、今後は京都工作を一会桑に一任する事を決定します。これにより今後の京都工作は慶喜と大久保の対決の様相を示す様になります。
第二次長州征伐の勅許と兵庫港開港問題
かくしてこの時期になって一会桑との連携が成立した幕府は一会桑からの上洛の勧めを受けたのと、藩主父子の出頭を命じたのに、いつまで経っても応じない長州藩の再征討の陣頭指揮をする為に、五月十六日将軍徳川家茂自らが幕府歩兵隊を主力とした幕府軍を率いて、征長軍本営となる大阪目指して進軍を開始します。
こうして江戸を出発した家茂一向は翌閏五月二十二日には征長軍本営と定めた大阪城に到着し、再度長州藩に対し重臣の出頭を命じますが、これまた長州藩がこの出頭命令を無視するに至って、遂に九月に慶喜を介して朝廷に対して長州藩への再討伐の勅許を得る為の交渉を開始します。これに対し薩摩藩の大久保は「長州藩への対処は雄藩による諸侯会議で話し合うべきだ」との、幕府への勅許が降りるのを阻止する為の政治工作を始めます。こうして長州問題への主導権を巡る慶喜と大久保の朝廷を舞台にした政治戦は公家達を手駒として行なわれ、両者の政治工作に公家達は態度を二転三転しましたが、遂に九月二十一日に幕府に対し長州藩に再討伐の勅許が降りた事により長州問題を巡る政治工作は慶喜の勝利で終わるのです。
こうして長州藩への再討伐への勅許を得た幕府ですが、新たな問題により折角勅許を得た長州再討伐は更に遅れる事になります。去る九月十六日に大阪湾に英仏米蘭の四国艦隊が突然現れ、安政五年(1858年)に結ばれた日米修好通商条約の勅許と、延期になっている兵庫港の即時開港等の要求を幕府に突きつけます。日米修好通商条約は幕府が日本政府として米国と結んだ条約なのですから、この条約に対しての朝廷の勅許を求められたというのは、幕府からすれば日本を代表する政府として疑われているという事になりますので、これに驚いた大阪在城の老中達は幕府独断で兵庫港を開港する事により諸外国に幕府の権威を示そうとします。
ところがこれに驚いたのが慶喜で、朝廷に無断で兵庫港を開港をしてしまったら幕府と朝廷の関係が悪化すると判断として、朝廷を介して兵庫開港を抗議して、独断開港を約束した老中達を罷免させます。慶喜としては今や幕府の屋台骨がぐらついてるこの時期に朝廷の支持を失ったら、雄藩による諸侯連合を唱える薩摩藩等の諸勢力に政権を奪われてしまうと判断した為、この老中の罷免を行なったのですが、この自分の存在を無視した行為に将軍である家茂が怒り、将軍を辞めると宣言し江戸に帰国を開始します。
この家茂の将軍辞任宣言に対し、言わばここまで家茂を追い込んだ慶喜も驚きますが、一方でこの問題を好機と見た大久保が「兵庫港開港問題は諸侯会議で決めるべきだ」と政治工作を開始したので、幕府に朝廷に大久保率いる薩摩藩、更にこれに加えて即時兵庫港開港を求める四国艦隊に囲まれた慶喜は政治的には正に四面楚歌の状況に陥りました。
しかし聡明な慶喜はこの四面楚歌の状況に屈せず、まず自らが帰国の途につく家茂一向に追いついて膝を突き合わせての説得を行い、将軍辞職を撤回させた上で大阪城に連れ帰ります。こうして将軍を連れ帰った後京都に乗り込み、大久保の政治工作に揺れる公家達を説得し、十月四日から五日まで夜通しで行なわれた御前会議では大久保派の公家達を「反対するなら命は無い」とも取れる恫喝まで行い、遂に条約勅許を勝ち取る事に成功します。かくして勅許を得た慶喜は大阪の四国艦隊代表達に、勅許を得た代わりに兵庫港開港を引き続き延期してほしいとの交渉を行い、これに四国艦隊代表も同意したので、兵庫港開港を嫌った孝明天皇に兵庫港開港の延期に成功したと報告し、これにより孝明天皇の慶喜に対する信頼感は更に高まりました。
この様に絶望的な状況に追い込まれながらも、その卓越した政治手腕で四面楚歌の状況を討ち破った慶喜を中心に当時の京都政局は回っていたと断言しても過言ではないと思います。特に後にその手腕を縦横無尽に振るった大久保利通との政治戦に勝利したのは慶喜の手腕の証明だと思います。
ただ慶喜にとって不幸だったのは、確かに当時の政治戦では完勝した慶喜でしたが、視点を軍事に転ずれば慶喜が縦横無尽の活躍をした数ヶ月という時間を使い長州藩は大村益次郎の軍制改革の元、日々着実に近代軍隊として精錬されていったのです。これに対しもはや慶喜が事実上指揮する幕府は政治的には勝利を勝ち取ったものの、その幕府軍は長州藩兵が日々訓練を過ごした期間をただ無為に過ごしていたのです・・・。
鹿児島市内に立つ大久保利通の像、上記の通り大久保は当時一橋慶喜と京都で凄烈な政治戦を行ないました。
第二次長州征伐の発令と薩長同盟の成立
第二次長州征伐の発令
こうして第二次長州征伐の勅許を得て、日米修好条約の勅許問題と兵庫港開港問題を切り抜けた幕府は十一月頃からようやく第二次長州征伐の本格的準備に取り掛かり始めましたが、予想以上に諸藩の第二次長州征伐への取り組みが悪い事に悩まされます。
この諸藩の第二次長州征伐の取り組みが悪かった理由は幾つが挙げられます、まず第一に建前の理由として長州藩の禁門の変についての罪は、首謀者である三家老の自刃により果たされたというのが諸藩の中では一般的な意見だったので、第二次長州征伐には大儀が無いという意見が多いというのがありました。
またこの建前に対し本音としてはまずは諸藩の幕府に対しての不信感が挙げられます、第一次長州征伐の成功を受けて幕府は参勤交代制度の強化や、慶応元年の天狗党に対する集団処刑など、諸藩からすれば幕府に対して反感を買う行動を続けた為、今回長州を滅ぼした後は次は自分の藩が討伐されるのではという疑いを多くの諸藩が抱き、この為その先駆けとなる第二次長州征伐に協力するのに二の足を踏む藩が多かったというのが挙げられます。
しかし何と言っても最大の理由は当時はどこの藩も財政難に苦しんでいたので、多大な出費を伴う軍事行動を嫌った事でしょう。幕末は一部の雄藩を除けばどこも財政難で苦しんでいましたが、それでも第一次長州征伐に参加したのに、まだその出費から立ち直っていないのに、また軍事行動を行なうと言われたら、その財政負担だけで自藩が滅びかねないという思いを諸藩が抱き、これが最大の理由となりなかなか諸藩の第二次長州征伐への準備は進みませんでした。
こうした諸藩の第二次長州征伐の準備が中々進まないのを見た幕府は、慶応二年(1866年)一月二十二日に「領土10万石の削減、藩主親子の蟄居」等の長州藩への最終処分案を朝廷を通して発表します。何が何でも今回こそは長州藩を屈服させたいと思う幕府としては、これまで時には反目してきた朝廷の力を借りてでも諸藩の戦力を動員するのを望み、一会桑の力を借りて朝廷を介して遂に第二次長州討伐を正式に発令したのです。しかしこの第二次長州征伐の発令の裏で、かの有名な薩長同盟が成立したのです。
薩長同盟の成立
前述しましたが大村益次郎の指導の元軍制改革に励む長州軍にとって、薩摩藩から供与された西洋小銃及び弾丸等は、当時貿易を禁じられていた長州藩を救ってくれましたが、これを機にそれまで仇敵の間柄だった薩摩藩と長州藩は接近し始めます。実際西洋小銃供与の返礼として長州藩から薩摩藩に兵糧米が輸出されたのを受け、この関係改善の機運は益々高まり、遂に慶応二年一月二十一日、奇しくも幕府から第二次長州征伐の発令がされた前日に、薩摩藩の意向を受けた坂本竜馬と、長州藩の意向を受けた中岡慎太郎(坂本と中岡は共に土佐藩脱藩浪士)を仲立ちにして薩長同盟が結ばれます。この薩長同盟についての政治的目的は現在も議論が続き、私自身判断がつかないので割愛しますが、軍事的に見ればこの薩長同盟は西洋小銃・弾丸の供給先の強化と、後述しますが幕長戦争の際に幕府軍の萩口攻め手が消えた事による戦力の確保という大いなる恩恵をもたらす事になります。
まず大村益次郎の軍制改革により長州軍の小銃隊(歩兵)化は進みましたが、全長州軍に西洋小銃(特にミニエー銃)を装備させるには、先に薩摩藩の斡旋により供与されただけではまだ不足していました。また近代戦を行うには膨大な弾丸を消費すると考えていた大村にとっては、長州藩内で弾丸の生産工場を設けていたものの、まだその生産力には心もとないものを感じていた模様です。そんな大村にとってこの薩長同盟によりより多くのミニエー銃と、その弾丸・雷管の新たな入手先が生まれた事は、これから幕府軍と戦わう作戦を立案していた大村にとっては心強い事だったでしょう。
幕府軍の戦争準備と誤算
このような薩長同盟が成立したのに対し、あくまで幕府は長州藩の武力討伐の準備を進め、三月二十六日に改めて長州藩主父子・重臣に広島に出頭するよう命令します。これに対し長州藩は既に幕府軍との開戦を決意していたので時間稼ぎの交渉を続けます。これは開戦が一日延びれば一日分大村の軍制改革は進むので、長州藩は一日でも多く時間を稼ぐ為の時間稼ぎの交渉を続けます。
また四月十四日には薩摩藩が正式に第二次長州征伐の参加を拒否する事となり、これにより薩摩藩兵が担当する予定だった幕府軍の攻め口の一つである萩口は消滅する事になります。幕長戦争は四境戦争と呼ばれる通り芸州口・石州口・小倉口・大島口の4つの戦線で戦われる事になりますが、実は幕府は長州藩の本拠である萩を海路直接攻撃する萩口も考えていて、薩摩藩兵をその主力にするつもりだったのですが、薩摩藩の出兵拒否によりこの萩口への攻撃自体が無くなってしまったのです。
この薩摩藩の出兵拒否は第二次長州征伐に難色を示す諸藩にも影響を与え、薩摩藩と同じく出兵を拒否する諸藩が現れる要因となり、また出兵拒否とまではいかなくても、参戦はしたものの戦意が無い藩を多く生む背景の一つとなります。
一方長州藩からすれば薩摩藩の出兵拒否により萩口が消えたのは、萩口担当の戦力を他の戦線に回す事が可能になったという大いなる恩恵を長州藩に与える事になります。幾ら近代軍隊化されたとはいえ、長州軍は少ない戦力で強大な幕府軍を迎え撃たないといけないため、萩口の消滅は作戦を立案する大村にとっては多大なる恩恵を与えた事ででしょう。
このように幕府軍にとっては好ましくない状況になりましたが、西国の諸藩を中心とした17藩に出兵させた以上今更退く事も出来ず、遂に五月二十九日を最終期限として最後通告を長州藩に行います。そしてこの最後通告すらも長州藩が無視した為、遂に六月七日広島を出港した幕府海軍軍艦富士山丸による長州藩領上関に対する艦砲射撃を皮切りに、幕府軍は山陽道から長州に侵攻する芸州口、山陰道から長州へ侵攻する石州口、九州から関門海峡を渡って長州に侵攻する小倉口、四国から瀬戸内海を渡って長州へ侵攻する大島口の計四方面から長州藩への侵攻します(当初はこの四方面とは別に海路直接萩に侵攻する「萩口」が予定されていたのに、薩摩藩の出兵拒否によりこの「萩口」が消滅したのは前述の通りです)。
当サイトでは実際に幕府軍と長州軍が戦火を交えるまでは、この幕府軍の動きを「第二次長州征伐」と書いてきましたが、実際に戦火を交えた以上は第二次長州征伐(幕府側の呼称)も四境戦争(長州側の呼称)も軍事史的には不適当と考えて、以降当サイトではこの幕府軍と長州軍の戦いの呼称を幕長戦争に統一させて頂きます。
こうして始まった幕長戦争は、言わば徳川幕府の終りの始まりとなった戦いとなったのですが、各戦線の戦況につきましてはそれぞれの戦いの記事を参照下さい。
主な参考文献
「防長回天史 第5編上〜中」:末松春彦著
「昔夢会筆記」:平凡社
「長州戦争」:野口武彦著、中公新書
「参勤交代」:講談社現代新書
「大久保利通と明治維新」:佐々木克著、吉川弘文館
「大久保利通」:毛利敏彦著、中公新書
「高杉晋作」:一坂太郎著、文春新書
「長州奇兵隊:一坂太郎著、中公新書
「幕末長州藩の攘夷戦争」:古川薫著、中公新書
「徳川慶喜」:松浦玲著、中公新書
「孝明天皇と一会桑」:家近良樹著、文春新書
「幕府歩兵隊」:野口武彦著、中公新書