会津藩からみた北越戊辰戦争

*本記事は、幕末ヤ檄団様の09年夏コミ発行の、『明治維新-会津戦争U編-』に寄稿させて頂いた記事を転載した物です。

 戊辰戦争の際、会津藩は各地に出兵したが、「白河口」や「日光口」の会津藩兵の動向は広く知られているものの、日本海側の「越後口」での会津藩の動向についてはあまり知られていないと言うのが実情だろう。しかし戊辰戦争が始まる遥か前から、会津藩は越後内の利権を狙っており、戊辰戦争が始まったのを契機に、単に国境防衛だけではなく、その利権を狙って会津藩兵は越後に出兵したのである。純軍事的な出兵と言える白河口や日光口とは違い、越後口への出兵は政治的な利権を狙った出兵だったと言えよう。
 この項では、そのあまり知られていない会津藩兵の越後口への出兵が、どのような背景で行われ、そしてどのような過程を得て挫折したのかを検証したいと思う。


会津藩の新潟港への野望

 領地に海を持たない会津藩にとって、新潟港と、領内から新潟町に繋がる阿賀野川の利権は垂涎の的だった。戊辰戦争が始まる十年以上も前の安政元年(一八五四)には、阿賀野川流域下流の水原代官領に、城下の商人を派遣して経済活動を行わせるなど、阿賀野川流域の利権には長年注目していた。
 幕末になると、その功績から幕府から越後内に新領地を与えられるようになるが、会津藩は阿賀野川流域を含む蒲原郡を望み、着実に阿賀野川流域の利権を手に入れていくのである。しかし会津藩の最終的な望みは新潟港の領有であり、京都守護職の功績による元治元年の加増の際は、遂に新潟町の領有を求めたが、これは幕府に却下されてしまう(新潟県史通史編近世3)。
 しかし会津藩は新潟町への野望を忘れる事はなく、戊辰戦争を翌年に控えた慶応三年(一八六七)六月には、阿賀野川支流と信濃川が合流する酒屋の地に新たな陣屋を設置する。この酒屋は新潟町と目と鼻の先に位置し、会津藩の新潟町に対する執着心の深さが伺える。


村松七士事件

 中蒲原郡に領地を持つ村松藩三万石は、幕末になると他の多くの藩がそうだったように、佐幕派と尊皇派の対立が激化する事になる(越後内の諸藩の中で藩論が尊王に一本化されていたのは新発田藩のみ)。村松藩内の対立は万延元年(一八六〇)に第十代藩主堀直休が急死した事を発端とし、それまで実権を握っていた直休側近派と、藩主交替と共に実権を握った堀右衛門三郎等の門閥派の対立だった。しかし本来なら単なる権力闘争に終わる筈だった村松藩の藩内抗争は、幕末の混乱に巻き込まれ激化する事になる。
 新たに権力を握った門閥派は、佐幕派としての姿勢を見せた(これには燐藩の会津藩の影響も大きい)のに対して、直休側近派は尊皇派の姿勢を取るようになった。これは当時京都で幕府と対決姿勢を取るようになった長州藩のも影響とも、桜田門外の変の実行犯として村松藩に拘留されていた水戸藩浪士杉山弥一郎の影響とも言われているものの、ハッキリとした事は判らない。確実なのは幕末の村松藩内の対立は、いつしか佐幕門閥派と尊王前藩主側近派(やがて正義党を名乗る)との対立になった事である。
 両派の対立が続く中、遂に慶応二年十一月門閥派は正義党への弾圧を開始する。元々は尊王論の強い新発田藩領中之島村の草莽の士である長谷川鉄之進が、村松藩の正義党の元を訪れるのを、会津藩巡邏隊に見つかったのがきっかけと言われる。そして翌慶応三年五月に、会津藩立会いの下で下野勘平以下七人は処刑された。これが世に言う村松七士事件である。
 しかし村松七士事件には不明な事が多い。最大の疑問は村松藩と会津藩のどちらが処刑を主導したのかである。村松藩門閥派が、会津藩に責任を転嫁して政敵を排除したとも、越後内に影響力を伸ばしたい会津藩が、燐藩である村松藩の従属化と、親長州勢力の排除を狙ったとも言われているが、ハッキリとした事は判らない。或いは双方正しいのかもしれない。確かなのは、この事件を契機に村松藩は、会津藩の影響を深く受けることになり、村松藩の戊辰戦争にも影を落とす事になる。


酒屋会議

 慶応二年から始まった村松藩の内紛(村松村松七士事件)を契機に村松藩を影響下に置けるようになった会津藩は、その影響力を越後全体に広めようと、慶応三年(1867)六月から長岡藩と連携し諸藩に働きかけるようになる(新潟県史通史編6)。この工作が実を結び、同年九月には会津と長岡・新発田・村上・村松の五藩主催による、越後内に領地を持つ諸藩の会議が新潟町にて開催される事になった。この時参加したのは先の五藩に加えて、桑名・高田・沼津・上ノ山・三根山・糸魚川・黒川・三日市・椎谷の計十四藩で、与板・高崎の二藩は不参加だった(村松町史上)。この時の席上で以下の五点が取り決められる。@浮浪の徒に対しては、これまで通り各藩で徹底して取り締まる事。A毎年五月十五日に会議を行う。B事の有無に関わり無く、毎年九月一日に糸魚川(越後の最南端)と村上(越後の最北端)の両藩から回状を回すようにする。C変事が発生したら飛脚をもって通報する。D他領内の浮説等でも会議で問い質す等が取り決められた。それほど過激な決議でも無かった為、諸藩にもこの取り決めは受け入れられたものの、@の「浮浪の徒」とは、長州藩に好を通じる草莽の志士の事を指し、幕長戦争での幕府軍の敗北を受けて、越後内でも反幕思想を持つ草莽の志士の活動が目立つようになった事を会津藩が苦々しく思っており、この草莽の志士の取締りを足掛かりにして、越後諸藩を会津藩の影響下に置こうとしたのが伺える。尚、会議に参加したとは言っても、新発田藩などは元々藩論が尊王に固まっており、新発田領内の中之島等は特に草莽の志士の活動が活発であった。
 Aで判る通り、会津藩としては越後諸藩を影響下に置く為に、諸藩会議を定期的に開催したいと思っていた。しかし新潟町で行われた本会議が新潟奉行所の抗議を受けた事もあり、次回会議は会津藩領酒屋陣屋か同津川陣屋で行う事として会議は終了した。ところが翌慶応四年(一八六八)正月に京都で鳥羽伏見の戦いが発生し、旧幕府軍敗北の報が会津藩に伝わると、越後諸藩の取り込みを早める為にも、何より宿願だった新潟港を入手する為、五月に行われる予定の会議を前倒しして開催するように工作を始める。まず友藩の長岡藩と影響下の村松藩との三藩連盟による書簡を諸藩に送り、最終的に酒屋陣屋に会津・長岡・村松・新発田・村上・高崎の六藩の代表が二月二日に屋陣屋に集まった。尚、高田藩にも書簡は届いていたものの、上方の情勢の変化を察知した同藩は、会議に人を送らなかった。
 この日の会議では、前回の会議のようなあいまいな議論ではなく、かなり踏み込んだ議論がされている。@新潟港を始め付近の幕領は残らず越後諸藩に一任し、各藩から人数を差し出し、警衛の面も厳重にし、幕府も安泰にさせたい。Aそのためには、多くの経費が必要になるので、年貢及び港の関税等をもって、人数のまかない、台場の築造、大砲鋳造、新潟表の警衛などに充てる。その他、要害の場は追々整備する。B年貢及び金銭出納の事は、幕府はもちろん諸藩立会いの上取り計らう。C外国船との貿易に関しては、諸藩とも経験がないので、新潟奉行所が取り扱う事とし、諸藩会合の上万事取り計らいたい。以上がこの日の会議で取り決めの内容だが、一見して判るように新潟奉行所に、新潟港の権益を諸藩会議に引き渡すようにとの物であった。諸藩会議はこの決議を翌日三日に新潟奉行所に通告し、また出席藩一同で江戸に上って旧幕府に本決議を報告する事とする(新発田市史下)。しかし諸藩共同の決議と言っても、越後の諸藩で新潟港に出兵が可能で、また新政府軍と戦うに当たって小銃弾薬の補給港が必要なのは会津藩だけであり、酒屋会議は会津藩に新潟港の占領を許す白紙委任状になってしまったのである。


旧幕領の四藩預かりと、旧幕領領民の抵抗

 酒屋会議に先立つ慶応四年(一八六八)一月二十九日、旧幕府は越後内の旧幕領を悉く会津・桑名・高田・米沢の四藩に引き渡す事とする。元々旧幕府は越後内に約三十万石の領地を持っており、この内の約十三万石は既に会津・桑名・高田・米沢・新発田の五藩に預けられていたが、今回の布告は残りの十七万石も四藩に預けると言うものだった。これは鳥羽伏見の敗戦を受けて、旧幕府が遠方の領地の統治力を失った事と、譜代大名に旧幕領を預ける事によって越後での幕権強化の双方の狙いがあったと言われている(十日町市史通史編3)。それを示すように会津・桑名・高田・米沢の四藩に預けられたとはいえ、その内訳は岩船郡約二千四百石を米沢藩に、三島郡一万千七百石が桑名藩に、頸城郡三万七千石が高田藩に、そして出雲崎二万八千石と脇野町一万八千石、及び水原代官領六万七千石が会津藩に預けられるなど、譜代大名の会津・桑名・高田、特に親幕姿勢の会津に多くの領地を預けるものであった。
 元々会津藩は幕末には前述の通り、蒲原郡の酒屋陣屋領と魚沼郡の小千谷陣屋領を有していたが、これに上記の出雲崎・水原の旧幕領を預けられた事により、越後内の会津藩領は実に二十万石近くになり、越後諸藩の中で最大の封土となったのである。この通知は酒屋会議の前日の二月一日には越後にも伝わり、翌日の酒屋会議の決議にも影響を与えたと言われている。そして酒屋会議にて越後内への出兵の白紙委任状を得た会津藩は、新潟町と預けられた各地の旧幕領に出兵するのである。
 多大の旧幕領を預けられる事なった会津藩だったが、一方の旧幕領の領民達にとってこの決定は正に青天の霹靂だった。既に会津藩領になっている小千谷陣屋領等から、会津藩は年貢の前払いをさせられたり、石高に応じた御用金(塩沢村からは五五〇両、六日町からは五〇〇両、浦佐村からは四八〇両など)を負担させられたり、また新たな税(織着用税として五両、脇差税として十両など)を設けた(小千谷市史下・越後歴史考)。会津藩の搾取ぶりを聞いていた旧幕領の庄屋達は、それぞれの代官達にこれまで通り代官所による統治の据え置きを望み、代官に会津藩による支配に反対する建白書を出す事になる。「会津藩は、奥州若松から七、八十里も離れた魚沼の村々を守ってくれるとは思えない。越後が戦闘になったら小千谷・小出島・蒲原郡酒屋などの陣屋を焼き払って、会津口を固めるため撤兵するとのことだ。その上、預地となれば調達金や夫役を課せられ、私どもの村々は立ち行かなくなるだろう(十日町市史通史編3)」、以上がその建白の内容だが、いざ北越戦争が始まると越後の領民が危惧した通り、越後の民衆は会津藩兵の蛮行に苦しめられること事になるのである。尚、桑名藩と高田藩に対しても支配に対する反対の建白書を出されているが、米沢藩に対してだけは、その支配に対する反対の建白書が出されていないのが興味深い。
 会津藩の支配に抵抗した庄屋達に対し、四月五日に会津藩小千谷陣屋から、出雲崎代官領に「これ以上代官領の引渡しを拒むならば軍勢を差し向ける」との恫喝がされた為(津南町史通史編)、遂に代官領の領民達も恫喝に屈して、会津藩の支配を受け入れる事になるのである。他の旧幕領も同じような経緯で、四月には会津藩による旧幕領の制圧は終わった模様である。


会津藩兵の越後出兵と、民衆の苦悩の始まり

 酒屋会議と旧幕領預かりを受けて越後出兵の大義名分を得た会津藩は、三月上旬から越後への出兵を開始する。この会津藩の越後方面軍は家老一瀬要人を総督として、逐次投入の末に最終的に千名を超える軍勢となった。
 一方で新政府の北陸道先鋒総督府も、同じく三月上旬に越後に到着する。総督府は越後諸藩に新政府への恭順を求め、これに応じた十藩(長岡藩除く)の代表が、総督府が滞陣する高田に参集する事になるのだが、会津藩兵が越後に越境して来たのは正にこの時だった。「國情淘擾、藩士越後地方ニ逋逃スルヲ以テ、兵ヲ発シテ之ヲ鎮撫スルヲ告ク(復古記第十一巻)」会津藩の脱藩浪士が総督に不敬を働く事のないように、藩兵を越後に差し向けると言うのが会津藩の言い分だったが、流石にこの苦しい言い訳では総督府を納得させる事は出来ず、総督府は越後諸藩に会津藩兵が無理やり越境する場合は追討せよと命じる事になる。
 越後に侵攻した会津藩兵の目的は、会津藩預けとなった旧幕領の接収と統治、そしてやがて訪れる新政府軍との対決に備える事にあった。その為にも越後での継戦能力を得る為に、越後の民衆の支持を得るのが不可欠だった筈である。しかし長年の京都守護職と鳥羽伏見の敗戦による多大な出費で、半ば財政破綻した会津藩は慢性的な戦費不足から、近視眼的に進駐した各地で民衆から搾取・略奪を始めるのであった。
 旧幕領を接収した会津藩兵がまず行ったのは、戦費調達の為に各村々への御用金の名の元での搾取だった。この会津藩の御用金の割当は旧幕領の各地に及び、旧水原代官領での千唐仁村十八両、浮村一五七両、野田新田十八両(水原町編年史第一巻)を始め、前述の小千谷陣屋領での割り当てや、後述する新潟町での御用金の取りたて等、枚挙にいとまがない。またこのような組織だった徴発だけではなく、個人の会津藩士による略奪も多発した模様である。初期においては新潟町で強盗を働いた会津藩士数人が町民によって捕らえられて処刑されたなどしたが(新潟市史通紙編3)、武器を持ち民衆を恫喝する会津藩士や衝鋒隊の兵士達に民衆は次第に手も足も出せなくなる「会津勢、妙法寺山中に篭もり居り、度々村里へ出、百姓共へ無心申し掛け、或いは乱暴等いたし候(新潟県の百年と民衆 戊辰戦争と民衆 溝口敏麿)」
 金銭や食糧の徴発以外にも、小千谷等の戦場が近い村々では、農兵の取立てが行われた。半ば強制的に行われた徴募では貴重な労働力を強引に奪われただけでは済まず、農兵の食料までもが村々から取り立てられ、村々は二重の負担に苦しむ事になる。何より新政府軍の農兵が小銃を供与されたのに対して、正規軍にすら小銃が揃わない会津藩に徴募された農兵は、「先端に鉄の分銅が付いた鉄棒」や『竹槍』で、小銃を装備した新政府軍に挑まされ事になる。しかしこのような農兵の士気が上がる筈がなく、戦いが始まれば一目散に逃げた模様である(小千谷市史下巻)。
 会津藩兵による草莽の志士への襲撃も行われた。殆どの草莽の志士は会津藩の進駐を聞き、身の危険を感じて故郷から脱出した。しかし旧水原代官領に住む草莽の志士三浦杏雨は剛腹にも、会津藩兵が進駐して来ても留まっていたが、三月に会津藩兵の襲撃を受けて殺害されてしまう(水原町編年史第一巻)。
 越後の民衆に対する蛮行は会津藩正規軍だけに行われた訳ではなく、会津藩指揮下の衝鋒隊や水戸脱走軍によっても搾取や略奪は行われた。「衝鋒隊七〇〇名や水戸藩の脱走兵五七〇人余が相次いで新潟町に入り込み、会津兵と入り乱れながら、各地で金品強奪・暴行を繰り広げた。幕府の倒壊によって支配機能停止の状態に陥った新潟奉行所はこうした行動を停止出来なかったから、民衆の恐怖と憎悪は高まった(新潟市史通史編3)」を始めとして、新政府よりの新発田藩や与板藩の城下に乗り込み、軍資金を強要する等の蛮行を行った。尚、この衝鋒隊や水戸脱走軍の乱暴・略奪について「越後での略奪は会津藩士ではなく衝鋒隊が行った」との会津贔屓の主張があるが、衝鋒隊にしろ水戸脱走軍にしろ会津藩の指揮を仰ぎ、補給を受けており(もっとも殆ど現地調達だが)、会津藩士によって書かれた「会津戊辰戦史」に衝鋒隊も水戸脱走軍も会津藩兵の一部と記述されているのだから、会津藩兵と同一視するのが妥当だろう。何より衝鋒隊に略奪された越後の民衆が会津によって略奪されたと記録しているのだから、衝鋒隊と会津藩は無関係と主張する会津贔屓の主張は詭弁と言わざるを得ない。
 かくして会津藩兵による搾取・略奪によって、越後の民衆の心は会津藩から離れる事になる。これを危惧した会津藩は家老梶原平馬を新潟町に派遣して「乱暴兵ヲ斬テ規律ヲ示シタ」と藩兵による略奪を禁じたものの、「人心尚之ヲ厭ヘリ」(仙台戊辰史二巻)のように一度民衆から失った信頼を取り戻す事は出来なかった。また年貢の減免等も行ったが(水原町編年史第一巻)、その直後に人足を徴発したりしては民衆の歓心を得る事は出来なかった。
 会津藩兵の搾取・略奪に苦しんだ越後の民衆は、自分達を救ってくれる存在を求めるようになる。かくして越後の民衆が助けを求めたのが、会津藩兵と戦闘を繰り広げる新政府軍であり、かつて越後を統治した米沢藩上杉家だった。


米沢藩兵の出兵と、新潟港開港

 現在(09年当時)大河ドラマで注目されている上杉景勝を祖とする米沢藩上杉家にとって、越後は故郷であり、並々ならぬ関心の地であった。そのかつての故郷に米沢藩が出兵する事となった経緯は、本稿とは関係ないので割愛するものの、奥羽越列藩同盟の盟約により越後担当となった米沢藩は、五月一日の大隊頭(長)中条豊前の率いる十一個小隊を皮切りに次々に出兵し、最終的には二千名余の大軍を越後戦線に投入する事になる。こうして出兵した米沢藩兵だったが、望郷の念では済まされない、「故郷である越後の民衆を救う」との不思議な使命感を、上層部から下級士官に至るまで持っていた。そして会津藩の搾取略奪に苦しんでいた越後の民衆もまた、かつての越後の支配者である米沢藩兵を慕った。「米沢藩兵は他人数だが馬は使わず、各自が荷物を背負ってきた。米沢様は別段のものだと衆人が感服した。それにひき比べ、会津は異形はなはだしいゆえか、衆人不服で負け戦の話をきくと婦女子までがよろこんだ(新津市史通史編下巻)」。また米沢藩兵が出兵した事をで、会津藩兵により乱された治安も回復した「この会津藩士がひきとったあと、九之助の分家新津町祐蔵から米沢出張所へこのことを報じた。するとただちに米沢藩士十八人が槍・鉄砲持参で、とりおさえのため九之助方へ出張してきた。米沢藩はくだんの会津藩士を拘留し、水原の会津藩陣屋へ照会した(新津市史通史編下巻)」
 越後の民衆が会津藩を嫌い、米沢藩を慕った一例として、会津藩によって徴募された出雲崎代官領の農兵隊が、会津藩の支配を嫌って米沢藩の家来になる事を懇願して許された事が挙げられる。この農兵隊は後に米沢藩から精義隊と命名され、米沢藩の指揮下に入り最後まで米沢藩兵と共に新政府軍と戦う事になる(新潟市史通史編3)。
 米沢藩兵が越後の民衆から慕われたのには金払いの良さも大きかったと思われる。米沢藩も決して裕福とは言えなかったものの、「越後戦争日誌」等の出兵した兵士達の日記を読むと、定期的に藩から酒肴代や草鞋代が給金されたらしく、こうした金払いの良さが、戦費不足から民衆から搾取・略奪を繰り返した会津藩兵とは違い、越後の民衆の信用を得たと思われる。こうして米沢藩兵は越後の民衆からの信用は得たものの、民衆から忌み嫌われた会津藩兵と協力して新政府軍と戦わなくてはいけなかった事が、後々米沢藩兵によって負担となっていくのである。
米沢藩兵の出兵を喜んだのは越後の民衆だけではなかった。会津藩兵の蛮行により無政府状態となった新潟町を管轄する新潟奉行所にとっても、越後の民衆に慕われる米沢藩兵の出兵は歓迎すべき事態であった。
 話は遡り、三月に越後に侵攻してきた北陸道先鋒総督府にとっても、新潟港を抱える新潟町の確保は優先事項であった。この為総督府は新潟奉行の白石千別の出頭を命じる。しかし白石は病気と称し、変わりに組頭の田中廉太郎を出頭させた。出頭した田中は総督府に関係書類の提出と恭順を求められるが、田中からこの事を聞いた白石は江戸の指示を仰ごうと、田中と共に江戸に向かう事とする。会津藩の勧めにより会津回りの行路を進んだ二人は、鶴ヶ城で会津藩から新潟町の引渡しを恫喝され、遂に白石はこれに屈して会津藩の新潟支配を認めてしまう。その後江戸に到着した二人は、旧幕府から新政府への恭順を指示されたものの、白石はそのまま奉行を辞任してしまったので、結局奉行代理となった田中一人が再度新潟町に向かった。
 しかし五月二日に田中が新潟町に帰還した時、新潟は既に会津藩の占領下にあり、その蛮行略奪により「市中之もの共殊之外動揺いたし、最寄最寄江家財取片付、惑乱一トならす(新潟市史 資料編5)」と言う無政府状態になっていた。この状況を打破しようと田中が考えたのが、越後の民衆に慕われ、また自身も越後の民衆を大事にする米沢藩への新潟町引渡しであった。
 米沢藩との交渉を開始した田中に対し、他藩(特に会津)の嫌疑を嫌う米沢藩は簡単には新潟町の受け取りを容易には了承しなかったが、軍事的にも武器補給港となる新潟町の治安が悪いのは、越後戦線の戦況にも芳しくないと考えたのか、遂に新潟町の受け取りを了承し、六月一日新潟町は米沢藩に引き渡された。尚、会津藩は新潟奉行所に約束違反と抗議し、五千両もの大金を脅し取ったが、とにかく新潟町は会津藩の蛮行略奪から解放されたのである「新潟港は外国貿易の場となり、同盟軍が武器弾薬を購入補給する基地となった。乱れていた新潟町の治安は米沢藩によって回復した(新潟市史通史編3)」。こうして同盟軍が新潟港で武器弾薬を補給可能な体制となると、新政府軍と同盟軍との戦況は一進一退となった。戦争は武士道や会津士魂と言った精神論で勝利出来る程甘いものではない。小銃弾薬と言った軍事物資の補給が可能になったからこそ北越戦争で同盟軍は新政府軍と互角の戦いが出来たのである。


会津藩と米沢藩の確執 〜列藩同盟の内情〜

 新政府軍に対して攻勢を取れるようになった同盟軍だったものの、その内情は決して一枚岩ではなかった。米沢藩随一の主戦派であり、越後出兵を事実上リードした米沢藩参謀甘粕継成の日記に、六月頃から会津藩の批判が目立つようになる「時に越地の人民会津を悪みきらふ甚深く恰も仇敵の如し。依之所在の郷村御家を慕ふ心ありと雖会と相合するのを以て味方する者なし。是を以て大面在陣以来、村民を雇て篝火を焼せ死傷を舁せ弾薬兵糧等を運はせんと欲すれども、家々の老若男女尽く逃散て一人も応ずる者なし。其内衝鋒隊の歩兵乱妨せしより、大面村民自ら火を家々にかけて我が軍を追出し、賊へ応ぜんと企つる者有之由村役より忠信出、早く会兵とはなれて御一手にて御持なされずんば遖れ御大事なるへしと云う(甘糟備後継成遺文)」。これは六月一日の記述だが、「略奪を行なう会津藩兵と一緒に行動するのなら、もはや米沢様には協力出来ない」と民衆が米沢藩本陣を訪れて訴えたのを受けて、今は民衆に慕われている米沢藩だが、会津と行動を共にするのを続ければ、民衆の信頼を失いかねないので会津とは別行動を取るべきだと、米沢藩参謀の任にある甘粕が考えていたのが判る。
 また信濃川西岸の戦況が芳しくないのを受けて督戦に訪れた際に、この方面の庄内藩兵を率いる石原多門から次のように語られている「当地へ出張以来会の将佐藤折之進等表裏の所業甚しく危険の場へは必我庄兵を差向け、己は後へ廻りて分捕等を掠むる工夫を事とし一向義を重んじ信を守るの志なき故、我士卒いづれも不平を抱き元より越地出兵は会を援くる為なるに、会人の作業如斯にては何ぞ尽力する栓あらんと云て、自然と勇戦の心なく数十日空く日を送れるなりと云(甘糟備後継成遺文)」。甘粕は庄内藩兵を指揮する石原より、「会津を助ける為に越後に出兵したきたのに、肝心の会津藩兵は激戦地に庄内藩兵を送り、自分達(会津藩兵)は安全な後方で民衆からの略奪に狂奔しているので、庄内藩兵の士気が下がっている」と不満を述べられている。
 他にも「会津・長岡両藩、越地人民ノ心を取失候上」や「会兵と御離れ、仕事を別申て、御兵は越地鎮撫醜類掃除之御本位をいつく迄も御示被遊、御仁恤を御下し被為在候様無之候ては、危急此事ト奉存候(米沢藩戊辰文書)」のように新潟奉行所の役人から米沢藩に送られたと思われる書状にも、会津藩との別離を勧めるように書かれている(幕末維新と民衆社会 米沢藩からみた北越戊辰戦争 溝口敏麿)。
 そして米沢藩総督である千坂高雅が国許に送った書状にも次のようなものがある「会也庄也亡国ニ成リ候ヲ助ケ候事ニ候ヘハ大兵モ差出可申処、両国共に三百ツゝ、其外ハ歩兵・水戸勢ニ候(米沢藩戊辰文書)」。会津と庄内がこのままでは新政府軍に滅ぼされるから助けて欲しいと言うのなら大軍を差し出しもするけれども、肝心の会津藩が衝鋒隊や水戸脱走軍と言った非正規軍ばかりを前線に送り、正規軍は三百程しか前線に出兵させないようなら話にならないと、米沢藩兵の総督である千坂自身が、会津藩兵に反感を抱いていると書かれた書状を送る時点で、会津藩と米沢藩の確執は限界に達していたと思われる。
 総勢千名余とされる越後戦線の会津藩兵だったが、実際に中越戦線の最前線で戦っていたのは佐川官兵衛の朱雀士中四番隊、土屋総蔵の朱雀寄合二番隊、木本愼吾の青龍士中三番隊と言った一部の兵だけで、越後に出兵した会津藩兵の大半は、戦場から遠い後方で民衆から搾取略奪を行い、これにより民衆の心は同盟軍から離れていったと言うのが実情だろう。
 そして大半の会津藩兵が後方で搾取略奪に狂奔している間に、前線では折角奪回した長岡城と、重要な武器補給港である新潟港の双方を新政府軍に奪取された事により、米沢藩兵も長岡藩兵も力尽き、越後における同盟軍の戦線は崩壊してしまったのである。


おわりに〜北越戊辰戦争の真の犠牲者とは〜

 北越戊辰戦争はある意味、会津藩にとって長年の宿願だった阿賀野川流域と、新潟港の利権を手に入れる好機でもあった。しかし戦費不足に陥っていた会津藩兵は、戦略的判断を失い、近視眼的、或いは刹那的に越後の民衆から略奪を行い、遂には戦闘活動より搾取略奪のほうを優先してしまい、越後の民衆の支持を失う事になるのである。
 そして越後の民衆に対しての蛮行は、友軍である米沢藩兵との確執にも繋がり、後の越後戦線の崩壊の一端となる。全てとは言わないものの、越後の民衆からの支持を失った事は越後戦線での会津藩の敗因の一つと言えるだろう。
 確かに会津藩には意地や誇りはあったかもしれない、しかし長期戦を戦う戦略眼は皆無だったと言わざるを得ない。この会津藩の意地や誇りの為に、財産を略奪され、住む家を焼かれ、遂には命すらも奪われた越後の民衆こそが、北越戊辰戦争最大の犠牲者ではないだろうか。


主な参考文献

「復古記第十一巻(東京大学史料編纂所編)」
「会津戊辰戦争史(会津戊辰戦史編纂会編)」
「米沢藩戊辰文書(日本史籍協会編)」
「甘粕備後継成遺文(甘粕勇雄編)」
「新潟県史通史編6」「新潟市史通史編3」
「新潟市史 資料編5」
「新発田市史下」
「津南町史通史編」
「水原町編年史第一巻」
「村松町史上」
「中之島村史」
「見附市史上巻」
「小千谷市史下」
「十日町市史通史編3」
「新潟県の百年と民衆 戊辰戦争と民衆 溝口敏麿」
「幕末維新と民衆社会 米沢藩からみた北越戊辰戦争 溝口敏麿」

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