〜甲州の地で潰えた新選組百万石の夢〜
甲州勝沼(柏尾)の戦いまでの経過
鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍を撃破した新政府軍は、山陽・山陰・四国・九州の西国を平定した後、江戸制圧を目指し東海道・東山道・北陸道に別れて行軍を開始します。この内、薩摩の伊知地正治と土佐の板垣退助の両参謀が率いる東山道先鋒総督府(以下「東山道軍」と略)は、その名の通り東山道(中仙道)を進軍していましたが、諏訪に到着した際に、このまま東山道を進む伊地知率いる本隊と、幕府天領である甲州を制圧する為の板垣率いる別働隊に分かれる事となります。こうして土佐藩兵と鳥取藩兵等によって編成された別働隊である板垣隊は甲州街道を進軍し、甲州の中心である甲府を目指します。
これに対し、かつて京都で猛威を振るった新選組局長近藤勇が率いる甲陽鎮撫隊もまた甲州制圧の為に甲府を目指しており、この甲府を目指す板垣率いる東山道軍別働隊と、近藤率いる甲陽鎮撫隊が勝沼の地で激突したのが甲州勝沼(柏尾)の戦いです。
甲州行きは誰の発案なのか?
近藤勇が甲州を目指した理由については、当時徳川家の陸軍総裁だった勝海舟が近藤に甲州を制圧するようにそそのかしたというのが一般的な説です。これは実際に甲陽鎮撫隊に参加した旧新選組幹部の永倉新八がそう供述していますし、また実際陸軍総裁だった勝が当時目論んでいた江戸無血開城の障害となる過激派勢力を江戸から遠ざけていた形跡がありますので、私自身この「勝が近藤をそそのかした」説を以前は信じていました。
しかし近年これに対する説が出始め、特に松浦玲氏は「当時甲州は大久保一翁の管轄だったのだから、近藤の甲州行きには勝よりも大久保の方が関わっていた筈」という文献を駆使した説得力のある説を提唱されています。また松浦氏は近藤が大久保に「新政府軍とは戦う気はない」と偽り甲州に向かう許可を取ったのではとも述べています。
またあさくらゆう氏は大久保は当初は彰義隊に、この甲州鎮撫の任務を任せようとしたが、彰義隊がこれを拒否したので近藤に甲州鎮撫の任務が回ってきたと説明してくれています。
この様に松浦氏とあさくら氏の優れた先行研究を読むと、近藤達の甲州派遣は徳川家からの命令であり、その目的は浮浪や脱走歩兵等により治安が悪化した甲州の鎮撫を計るものであり、決して新政府軍との抗戦を指示したものではなかったというのが実際の所ではなかったのでしょうか。
しかし一方でこの甲州派遣に対する近藤の真意はどこにあったのかというのは謎が残ります、確実なのは甲州を目指し出陣した近藤は甲府城在城の抗戦派旧幕臣と連絡を取り、甲府城を目指していたという事です。これから考えれば近藤は抗戦派旧幕臣と合流して甲府城に篭城し、新政府軍との決戦を目指した様に見えるのですが、近藤自身や抗戦派幕臣の明確な意思が書かれた文献が無い以上、近藤の真意については現在の所私には判りません。
甲陽鎮撫隊の進発
このように甲陽鎮撫隊が進軍するまでの諸事情ははっきりしませんが、ともかく近藤は鳥羽伏見の戦いで壊滅した新選組の残党を呼び集め再編成し、それに新兵を募集して兵力を補充します。更に浅草の矢島内記の手勢などを加えて「甲陽鎮撫隊」を結成、この甲陽鎮撫隊を率いて甲府城目指して三月一日に甲州を目指し行軍を開始します。余談ですが、近藤自身は自分達を単に「鎮撫隊」と称していたと伝えられます。
こうして結成された甲陽鎮撫隊ですが功績を焦っていた為か、近藤は勝から多数のミニェー銃や砲を譲り受けた(後述)にも関わらず、殆ど西洋軍事の調練をする間も無いまま甲州に向けて行軍を開始します。しかし行軍を開始したものの、近藤がこの時率いたのは厳しい軍律を誇ったかつての新選組ではなく、少数の新選組の生き残りと多数の寄せ集め集団の混成部隊に過ぎませんでした。新選組なら厳しい軍律で士気を保つ事が出来ましたが、寄せ集めの集団ではそれは出来ず、とにかく甘い餌で釣るしかありませんでした。
かくして行軍を開始したものの、近藤は甲陽鎮撫隊の士気を保つ為、街道上の宿場宿場でどんちゃん騒ぎを行なったため、行軍速度は遅々たるものでした。更に行路に辺る多摩地方は近藤や土方歳三の故郷だったため、そこでも地元の歓迎を受けたため行軍速度が益々落ちてしまい、極めつけは行軍路が雪によってぬかるんで更に行軍速度が低下したため、甲府城目指しての進軍は遅々として進みませんでした。
新政府軍東山道軍の別働隊派遣
一方の新政府軍ですが、元々甲州は東海道軍の管轄でしたが、江戸を目指す東海道軍は甲州にこれといった対処をせずに江戸に向かった為、東山道(中仙道)を進軍する東山道軍の元に「甲府城に不穏の動きあり」との情報が入ります。この報を受けた東山道軍を率いる伊地知正治と板垣退助の両参謀は諏訪の地で軍議を行い、天領である甲州の制圧と不穏の動きのある甲府城接収の為、三月二日から三日にかけて土佐軍と鳥取軍を主力とした別働隊を板垣が率いて甲府を目指す事になります。
この板垣率いる別働隊は甲州街道を急行し、甲陽鎮撫隊よりも先に三月四日に甲府に到着します。甲府に到着した板垣隊はすぐさま甲府城に向かい、甲府城を守る旧幕臣に開城を勧告します。元々甲府城に篭る柴田監物・保々忠太郎等の抗戦派の旧幕臣は甲陽鎮撫隊との合流を望み、近藤にも早く甲府城に駆けつけるように書状を出していたのですが、甲陽鎮撫隊が到着する前に板垣隊に甲府城を囲まれたので、抗戦派の旧幕臣も遂に板垣隊に降伏開城したのです。
この甲陽鎮撫隊が板垣隊に先に甲府城に入られた事については、甲陽鎮撫隊の進軍した甲州街道が雪がぬかるんでいた為行軍速度が出せなかったと一般的に言われていますが、行軍している甲州街道が雪にぬかるんでいたのは板垣隊も同じ条件なのですから、甲州街道が雪にぬかるんでいたので遅れたというのは言い訳に過ぎません。また板垣隊が東山道軍本隊から分離した諏訪から甲府までの距離と、近藤達の故郷である多摩から甲府までの距離を比べても、甲陽鎮撫隊の方が有利ですし、何より甲府城目指して進軍を開始したのは板垣隊より甲陽鎮撫隊の方が先なのですから、板垣隊に遅れを取ったのは近藤の怠慢と言わざるを得ないと思われます。
また前述の通り近藤は甲州に出発する際、勝から多数のミニエー銃と砲を5門ないし4門を供与されたと伝えられますが、これらの装備に対する調練を殆ど行なっていない状況でしたし、更に折角与えられた砲も牽引する人員不足から途中で数門を放棄し、結局甲陽鎮撫隊が戦場に配置出来た砲は2門に過ぎませんでした。
甲州勝沼(柏尾)の戦い
こうして甲府城を手に入れた板垣ですが、甲府城を守っていた旧幕臣から、甲府城目指す近藤(この時近藤は大久保と名乗っていた為、板垣は近藤勇とは知りませんでした)の存在を知り、また猿橋宿に正体不明の集団(実は甲陽鎮撫隊の事)が集まっているとの報告を受けたため、これを甲府城奪取を目指して進軍する軍勢と判断し、これを討つ為に東山道軍内参謀を勤める鳥取藩の河田景与(河田左久馬)と軍監を勤める土佐藩の谷干城の両名に、この軍勢の撃破を命じて甲州街道を進軍させたのです。
一方甲府城が新政府軍に奪われた事を知らない甲陽鎮撫隊は甲府城目指して行軍してましたが、勝沼村に到着した頃に甲府城が既に新政府軍の手に落ちたことを知り、また自分達を討伐する為の軍勢が甲州街道を進軍してくるとの報告が入ったので、勝沼村の柏尾山の麓に布陣します。近藤としては甲府城で新政府軍を迎え撃つのならともかく、勝沼の地で開戦するのは避けたいので、新政府軍に使者を送り時間稼ぎを試みますが、この使者を谷と河田が黙殺し行軍を続けた為、遂に両軍は甲州勝沼の地で激突します。
左:甲州街道勝沼宿本陣跡の碑と、本陣槍掛けの松
右:現在の勝沼宿の町並み
こうして甲陽鎮撫隊の撃滅を目指して進軍する谷と河田率いる部隊でしたが、その戦力は以下の通りです。
土佐藩兵2個小隊:小笠原謙吉迅衝隊三番隊・谷神兵衛迅衝隊四番隊、及び北村長兵衛迅衝隊砲兵隊(7門)
鳥取藩兵6個小隊:佐分利九充銃士隊・天野祐次隊・藤田束隊・宮脇縫殿隊・建部半之丞隊・山国隊、及び佐分利鉄次郎砲兵隊の内2門
高島藩半小隊(伍長岩本順吉朗指揮)
以上の戦力ですが、これだけの大軍が一度に甲州街道を進軍するのは無理なので、谷と河田で軍を分けて進軍する事となり、谷率いる前軍:土佐藩兵2個小隊(迅衝隊三番隊・同四番隊)及び砲兵隊・鳥取藩兵3個小隊(佐分利隊・天野隊・藤田隊)・高島半小隊と、河田率いる後軍:鳥取藩兵3個小隊(宮脇隊・建部隊・山国隊)と砲2門に分かれて、谷率いる前軍が出発した後に遅れて河田が率いる後軍が出発する事になります。
こうして先に出発した谷率いる前軍ですが、六日未明に斥候により勝沼柏尾山の麓に甲陽鎮撫隊が布陣しているのを知り、またその陣地が堅固なのを知ると、土佐迅衝隊大軍監の片岡健吉に甲州街道の南に流れる日川を渡河させ、甲州街道南に位置する柏尾山を見下ろす戦略の要所岩崎山の攻略を命じます。この命を受けた片岡は土佐迅衝隊三番隊・鳥取軍佐分利隊・高島藩兵による別働隊を率いて日川を渡河し、岩崎山に向かいます。
こうして二手に分かれた谷率いる新政府軍の前軍ですが、一方の甲陽鎮撫隊も甲州街道を進軍してくる新政府軍に対し、木を切り倒し甲州街道を塞ぎ、その後方の柏尾山の麓に胸壁を築くなど陣地を構成し、虎の子の大砲ニ門の内一門を甲州街道に向けて配置し、またもう一門を柏尾の南に位置する日川対岸の岩崎山に向けて配置します。また旧新選組幹部の永倉新八に一隊を率いさせ菱山を守らせ、更に近藤・土方の故郷である多摩の有志によって構成された春日隊を岩崎山に布陣させます。こうして布陣をした甲陽鎮撫隊ですが、鎮撫隊の兵力が少ない事を危惧した近藤は、土方に援軍を要請させるため江戸に向わせました。
しかし土方が援軍を連れ戻る前に、六日の朝ついに新政府軍は甲陽鎮撫隊が守る陣地への攻撃を開始します。甲州街道を進軍する新政府軍に対し、甲陽鎮撫隊は甲州街道に向けた砲1門による砲撃を開始しますが、殆ど戦果は挙げれず、逆に新政府軍の砲撃に甲陽鎮撫隊は晒される事になります。これは本来の砲手が斥候に出ていた事により不在だった為、信管の調整が出来なかったからとも言われていますが、詳細は不明です。
一方の谷率いる新政府軍も堅固な甲陽鎮撫隊の陣地を抜く事が出来なかったので、迂回部隊を設けて甲州街道北側の菱山を迂回し、更に深沢川を渡河し鎮撫隊が麓に陣を布く柏尾山をも乗り越えて鎮撫隊の背後を突かせようと土佐迅衝隊4番隊・鳥取軍藤田束隊を分離進発させます。
しかしこの為甲州街道を進む谷の手元には歩兵が1個小隊(鳥取軍天野隊)しか居なくなり、更に当時の鳥取軍は装備が旧式のゲベール銃だった為、甲州街道上に展開する新政府軍の攻撃力は低下する事になります。もっとも歩兵力は低下したものの、谷の手元には北村率いる砲兵隊は健在だったので、甲州街道上の新政府軍の攻撃はもっぱら砲撃に頼る事となります。上記の通り甲陽鎮撫隊の砲撃は殆ど威力を発揮しなかったので、砲撃線は新政府軍優位で進みます。
このように甲州街道上で戦闘が開始されましたが、やがて甲陽鎮撫隊が布陣する柏尾の南に位置する岩崎山でも戦いが開始されます。岩崎山方面に向けられていた甲陽鎮撫隊の大砲も役に立たなかった為、岩崎山を守る春日隊のみで新政府軍右翼部隊の攻撃を受ける事になります。幾ら戦意が高いとは言え、実戦経験の無い言わば素人の春日隊では片岡率いる別働隊の攻撃を受けたら鎧袖一触で壊滅するかと思われましたが、意外にも春日隊は善戦し、新政府軍右翼部隊はこの岩崎山を攻めあぐねる事となります。
こうして善戦を続けた春日隊ですが、新政府軍右翼部隊が岩崎山の麓の集落に火を放つと、その煙により春日隊も混乱し、その混乱を突いて新政府軍右翼部隊が岩崎山に攻めかかると、流石の春日隊も崩れ敗走します。こうして岩崎山は新政府軍右翼部隊に占領され、その後新政府軍右翼部隊は日川の渡河を開始して、甲陽鎮撫隊の側面を突きに掛かります。
左:岩崎山の外観、手前の山が岩崎山。
右:岩崎山から日川を見下ろして。
また岩崎山が新政府軍の手に落ちたこの頃には新政府軍の迂回部隊が、柏尾山北西の菱山を守る永倉隊を駆逐して、その後苦労の末菱山・深沢川・柏尾山の天険を悉く克服し、北方から甲陽鎮撫隊の背後に回りこみ後方から射撃を開始したので、これを受けた甲陽鎮撫隊は驚き混乱します。
左:甲州柏尾古戦場の碑と菱山の外観、この天険を土佐藩迅衝隊四番隊と鳥取軍藤田束隊は突破します。
中:菱山中腹から甲州街道を見下ろして。
右:菱山方面から、甲陽鎮撫隊の本陣方面を見て。真ん中に見える小道は旧甲州街道跡。
こうして甲陽鎮撫隊を正面の甲州街道と、南方の岩崎山、そして北方の菱山の三方から半包囲する事に成功した谷率いる新政府軍の前軍ですが、甲陽鎮撫隊は前述の通り付近の木を切り倒し街道を封鎖し、その陰や街道脇の焼き払った民家の陰から射撃を行なった為、歩兵が1個小隊しか居ない中央部隊はこれを突破する事が出来ませんでした。このように谷率いる前軍は甲陽鎮撫隊の半包囲には成功したものの、壊滅させる程の決定的な損害を与える事が出来ませんでした。
一方の甲陽鎮撫隊も瓦解こそま逃れていましたが、半包囲攻撃を受ける事により兵士達の士気は低下し、何より指揮官である近藤が有効な対策を打てなかった為(一応近藤は会津から援軍が来ると隊士に話していましたが、この援軍が来ない事が余計に混乱に拍車を掛けたと言われています)、新規募集の兵士が次々に逃走する危機的な状況に陥っていました。しかし脱走者が続出したものの、まだ一部の隊士(恐らく旧新選組の兵)は戦線を保っていた為、新政府軍の優位は間違いないものの、甲陽鎮撫隊の陣地の突破は出来ないでいました。
しかしこの一種の膠着状態は、戦場に河田率いる新政府軍後軍が到着した事により、急展開を迎えます。これにより歩兵不足を解消された甲州街道に展開する新政府軍は、河田と谷の指揮のもと一斉に甲陽鎮撫隊の陣地に猛攻を開始します。この新政府軍の猛攻に対し、未だ戦線を守っていた甲陽鎮撫隊の兵達も、遂に支えきれずに突き崩され、また近藤から有効な指示を与えられなかった為体制を立て直す事も出来ず、てんでばらばらに甲州街道を敗走していったのです。
余談ですがこの河田が率いた後軍の先鋒を勤めていたのは丹波の有志の農民によって編成された山国隊でした、この山国隊は小銃に軍服に果ては食料まで自費で揃えた戦意の高い志願兵による部隊でした。このように山国隊は農民としての誇りを持って資財を投げ打ってまで新しい時代を切り開こうと新政府軍に参加したのですが、かつて農民から武士になる事を夢見て、遂に武士になり、幕府の重鎮となった近藤にとどめをさしたのが、農民としての誇りを持ち続けた山国隊だったと言うのは歴史の皮肉と言うべきものなのでしょうか。
更に余談ですが、山国隊はこの戦いでは旧式のゲベール銃を装備していましたが、この戦いの終了後鳥取藩から甲陽鎮撫隊が遺棄したミニエー銃20挺を貸出しされ、以降はこのミニエー銃を用いて数多くの戦いを重ねる事になるのも、また歴史の皮肉なのでしょうか。
新政府軍の戦後処理と近藤の最期
こうして甲陽鎮撫隊を撃破した新政府軍は一部を残敵掃討の為に残した以外は甲府城に帰還し、甲陽鎮撫隊と連携しようとした柴田達旧幕臣60余名を尋問の末に柴田・保々等を斬刑に処し、その首を城下に晒す事により天領の甲府の市民に、甲府が新政府軍の占領下に置かれた事を知らせたのです。
一方敗れた甲陽鎮撫隊ですが、結局組織が立ち直ることは無く、敗走の末に瓦解します。それでも近藤は新政府軍と戦う事は諦めずに土方と共に新選組を再発足させますが、流山の地で新選組の立て直し中に本陣を東山道軍に包囲された為投降し、遂に四月二十五日板橋の地にて斬首されるのです。
この後も板垣・谷・河田等が率いる東山道軍は大鳥圭介・土方等が率いる旧幕府軍と宇都宮・日光方面で激戦を繰り返す事になるのですが、詳しくはこちらを参照下さい。
岩崎山中腹から甲州勝沼(柏尾)古戦場を見下ろした画像です、左の画像が勝沼宿、中は甲陽鎮撫隊が本陣を置いた付近になります。また右は甲陽鎮撫隊が本陣を置いた辺りの拡大画像になります。。それぞれの画像の中央を走っているのが戦闘が行われた甲州街道、手前が中央高速道です。
画像左奥の山が菱山で、右手前の山が柏尾山になります。土佐軍迅衝隊四番隊と鳥取軍藤田束隊による迂回部隊はこの菱山を突破してし、柏尾山の麓に陣を布く鎮撫隊の背後に回りこむのに成功します。
一方谷千城率いる本隊は深沢橋(右の画像に写っている橋は現在の物で、当時の深沢橋はもう少し奥にかかっていました。上記の旧甲州街道の小道の辺り)を挟んで柏尾山の麓に陣を布く甲陽鎮撫隊と交戦しました。やがてこの画像では甲州街道を左側から駆けつけて来た河田景与率いる後軍と合流し、一気に鎮撫隊を撃破しました。
左:柏尾山の麓に立つ近藤勇の像、判りにくいですが上の画像の橋の隣すぐに立っています。ちなみに背後の山は菱山です。
中:柏尾山の麓の畑に築かれた、甲州柏尾戦争で戦死した会津藩士柴田八郎の墓。
右:甲州柏尾戦争の敗戦後に流山で投降し、板橋で斬首された近藤勇の墓。
主な参考文献
「戊辰役戦史」:大山柏著、時事通信社
「復古記第11巻」:内外書籍
「三百藩戊辰戦争辞典」:新人物往来社
「土佐藩戊辰戦争資料集成」:林英夫編、高知市民図書館
「鳥取藩史 第1巻」:鳥取県立図書館
「鳥取県史」:鳥取県
「鳥取県郷土史」:名著出版
「鳥取市史」:鳥取市役所
「丹波山国隊史」:水口民次郎著
「山国隊」:仲村研著、中公文庫
「新選組」:松浦玲著、岩波新書
「慶応四年新撰組近藤勇始末」:あさくらゆう著、崙書房
「新撰組顛末記」:新人物往来社
参考にさせて頂いたサイト
幕末ヤ撃団様内「戊辰戦争兵器辞典」