神指城如来堂の戦いについて

はじめに

 新選組斎藤一の最後の戦いで知られる如来堂の戦いだが、多くの創作物で描かれるなど知名度は高いものの、その戦いの詳細は殆ど知られていない。筆者は2016年に、幕末史研究会三十一人会より刊行された『斎藤一論考集』にて、この如来堂の戦いについても書かせて頂いたが、あれから4年も経ち新たに判ってきたこともあるので、改めて軍事史の視点から見た、神指城如来堂の戦いについて書きたいと思う。ただし、斎藤個人や、他の新選組隊士一人一人の人物史については全く触れていないので、その辺はご容赦頂きたい。
 尚、文中の資料出典略称は以下の通り。 『復古記 第十一冊』→『復古11』、『復古記 第十三冊』→『復古13』、『会津若松市文化財調査報告書第120号 神指城跡』→『神指』、『島田魁日記(『新選組史料集』に収録』→『島田』、『中島登覚え書(『新選組史料集』に収録)』→『中島』、『近藤芳助書翰(『新選組史料集』に収録)』→『近藤』、『谷口四郎兵衛日記(『続新選組史料集』に収録)→『谷口』、『幕末実戦史』→『実戦』、『北国戦争概略衝鋒隊之記(『南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記』に収録)』→『北国』『浅田惟季北戦日誌』→『浅田』。

如来堂の戦いに至るまで

会津戊辰戦争関係地域略図:『斎藤一論考集』より転載

 慶応四年一月三日に行われた鳥羽伏見の戦いを契機に、戊辰戦争が始まった。鳥羽伏見の戦いで勝利した新政府軍は、京から東海道・東山道・北陸道の三道から江戸目指して進軍を開始したが、一方で奥羽鎮撫総督府軍を海路仙台藩領に上陸させ、会津藩と庄内藩の攻撃を目指した。この奥羽鎮撫総督府を実質率いる世良修蔵が、閏四月二十日に仙台藩士に謀殺され、また仙台藩と連携した会津藩兵が、同日二十日に奥州の玄関口である白河城(福島県白河市)を占拠した(『復古11』)。世良の謀殺を受けて、仙台藩を盟主とした奥羽列藩同盟が発足されたのを契機に、新政府軍と奥羽列藩同盟軍(以降、「同盟軍」と呼称する)による奥羽戊辰戦争が始まる事になる。奥羽戊辰戦争が開戦すると、開戦から三ヶ月程は白河城周辺で、新政府の東山道軍(五月十九日に「白河口軍」に改編される)と同盟軍が一進一退の攻防を続ける戦況となったが、この白河の戦いに斎藤一(当時は山口二郎と名乗っていたが、判り易くするために、以降も斎藤と呼称する)率いる新選組も参加していた。四月三日に下総流山で新選組局長を務めた近藤勇が、新政府の東山道軍に投降すると(『復古11』)、斎藤は残りの新選組を率いて会津藩領へ脱出する。新選組は会津藩領で再編成され、閏四月五日、会津藩主松平喜徳(松平容保養子)により、斎藤が新たに隊長に任命され(『島田』)、以降斎藤率いる新選組は白河で戦っていた。

  

左、右:五月一日の戦いまで、斎藤率いる新選組が宿舎にしていたと伝わる、白河城城下町に残る柳家脇本陣跡の現況


 三ヶ月近く一進一退の攻防が続いていた白河戦線だったが、同年六月十六日に新政府軍の別働隊(以降、「平潟口軍」と呼称する)が、常陸平潟に上陸し浜通り沿いに北上を開始(『復古13』)、また平潟口軍の上陸と連動して、白河口軍の別働隊が六月二十四日に棚倉城を攻略すると戦況が一変する。棚倉城を攻略した別働隊はその後も北上を続け、七月二十四日に三春藩、同二十七日に守山藩を降していた。この間、七月一日に同盟軍による六度目の白河攻撃が行われ、斎藤率いる新選組も参加していた。結局、この日の同盟軍の攻撃も失敗したが、この日の戦い後に新選組は白河街道長沼宿(福島県須賀川市)へ一旦後退した。
 こうして斎藤が新選組を率いて戦っていた一方で、近藤勇の盟友でもあった土方歳三は、新選組とは別行動を取り、大鳥圭介率いる伝習隊等の脱走軍と合流し、野州で転戦していた(『実戦』)。その後、第二次宇都宮城攻防戦で負傷した土方は、一旦戦線を離れて会津藩領で療養していたが、この頃元々伝習第一大隊長を務めていた秋月登之助に代わって、伝習第一大隊隊長に就任しており(『谷口』)、やがて新選組とも合流し(『中島』)、奥州街道須賀川宿に入って、白河攻撃に備えていた。
 ところが、白河口軍の別働隊が七月二十七日に奥州街道本宮宿を占領すると、須賀川宿に駐屯する同盟軍は退路を遮断されて孤立する事になった。更に困難な状況に陥ったのは二本松藩で、自藩兵の主力が須賀川宿に駐屯していた二本松藩は、白河口軍の別働隊に本宮宿を占領された事により、自藩兵の主力と二本松城が分断された状態になってしまった。そして主力が居ない状況で同二十九日に新政府軍の攻撃を受けた二本松城は、少年兵までも動員して抗戦するものの、同日二本松城は陥落した。
 二本松城の落城を知った会津藩は、休養のために鶴ヶ城城下に後退していた大鳥率いる伝習第二大隊に母成峠への転進を命じたが、八月三日に母成峠に到着した大鳥は、守備地域が想像以上に広大で迂回路も多く、指揮下の伝習第一大隊だけで守るのは不可能と判断し、会津藩に援軍を要請する(『実戦』)。紆余曲折の末、土方率いる伝習第一大隊と、斎藤率いる新選組が援軍として母成峠に到着したが、その到着は母成峠の戦いが行われる僅か二日前の同十九日の事だった(『谷口』)。土方率いる伝習第一大隊と、斎藤率いる新選組が母成峠に到着したのと、ほぼ入れ替わりに大鳥率いる伝習第二大隊は会津藩に二本松城奪回を命じられ、母成峠から猿岩路を通って二本松を目指したが、同二十日途中の山入村で白河口軍と遭遇した(『実戦』)。伝習第二大隊は善戦したが、同行した仙台・会津・二本松の三藩兵が伝習第二大隊を見捨てて逃走した為、伝習第二大隊は大損害を出して敗走した(『浅田』)。
 山入村の戦いが行われた翌日の同二十一日、平潟口軍の一部と合流した白河口軍が母成峠に来襲、これにより史上有名な母成峠の戦いが始まった。この日、斎藤率いる新選組は、土方率いる伝習第一大隊と共に、大鳥の指揮下に入り勝岩周辺を守った(『実戦』)。前述の通り、大鳥は迂回路の多い母成峠を守るのに当たって、猿岩路から母成峠に抜ける勝岩に布陣したと思われる。そして、その大鳥の目論見通り、翌二十一日白河口軍による母成峠攻撃が始まった際、母成峠の本道を主力部隊が進んだ一方で、別働隊が猿岩路を進んだ(『谷干城遺稿・上』)。勝岩を守る大鳥軍は、伝習第二大隊が前日の山入村の戦いで大損害を受け、伝習第一大隊と新選組は母成峠に到着して日が浅いと不利な状況にも関わらず、白河口軍別働隊の攻撃を防ぎつつあった。しかし肝心の母成峠本道を守る仙台・会津・二本松の三藩兵が、白河口軍の本隊に敗れた為に、退路を遮断された大鳥軍は乱戦の中で壊滅し、各自がバラバラに敗走した。敗残の将兵が個々に鶴ヶ城を目指して敗走する中、谷底の間道を進む二本松藩士黒田傳太が、道中で斎藤と出会っているが(『二本松藩史』)、正確な斎藤の逃走ルートは判らない。それでも斎藤をはじめ新選組の兵士達は、二十二日夜には鶴ヶ城東側の天寧寺に集結して宿陣した(『中島』)。しかし翌二十三日、白河口軍が鶴ヶ城城下になだれ込むと、天寧寺に集結したものの母成峠の敗戦で装備の大半を失っていた新選組は(『近藤』)、米沢街道の塩川宿に撤退した。

  
左:勝岩の麓から勝岩を見上げて。伝習隊はこの勝岩の上に布陣したと伝わる。
右:勝岩の麓に流れる沢(銚子ヶ滝の上流)。大鳥の手記を読む限り、新選組はこの沢の周辺に布陣した可能性がある

 ところで同じく母成峠で敗れた大鳥と土方達もまた装備の大半を失っていた為、米沢藩から銃砲弾の供給を頼ろうと米沢藩を目指すが、既に新政府軍への降伏を決めていた米沢藩に藩境で協力を断られてしまう(『実戦』)。やむを得なく米沢街道を引き返した大鳥達は塩川宿に後退した際に、斎藤達と再会したらしい。この時に大鳥は仙台藩領で体制を立て直そうと、仙台藩への転進を考えており、斎藤にも同行するように誘うが、斎藤は次のようにこの誘いを断っている。「一トタヒ会津来リタレハ今落城セントススルヲ見テ、志ヲ捨テ去、誠義ニアラスト知アイ」(『谷口』)。そして大鳥達が塩川宿を去った後も、同地に留まり続けた斎藤の元に、九月四日会津藩より越後街道に面した神指城如来堂に移動する指示が入り、斎藤率いる新選組は神指城如来堂を目指した。しかし島田魁などの歴戦の幹部は大鳥と土方に従っており、この時に斎藤に従ったのは二十名足らずだった(『中島』)。

米沢街道塩川宿の現況

神指城如来堂について

神指城如来堂略図:『斎藤一論考集』より転載、略図内では明治十五年頃としているが、後述するスタンフォード大学のサイトにより、明治21年までは現存しているのが確認出来る。

 こうして斎藤率いる新選組が到着した神指城如来堂について説明したい。実際に如来堂に訪れた方ならば判ると思うが、現在の如来堂は土手の上にお堂が建っており、何故ここを新選組が守ったのか不思議に思う人も居るかもしれない。実は現在如来堂の建っている土手は、慶長五年(1600年)に当時会津を本拠にしていた戦国大名上杉景勝が築いた神指城の二の丸南西の土塁遺構の一部であり、如来堂はその遺構の上に建っていた(『神指』)。今でこそ如来堂の周辺や、二の丸土塁の北東に位置する「高瀬の大木」周辺等の、四角にしか二の丸土塁の遺稿は残っていないが、米国スタンフォード大学のサイトに掲載されている、明治二十一年時の地図には、神指城の特徴である「回」字型の土塁が健在である様子が書かれており、当然戊辰戦争の時にもこの土塁が健在だっただろう。

  

左:神指城二の丸土塁跡南西部の遺構の上に建つ如来堂
右:神指城二の丸土塁跡北東部に残る、高瀬の大木

 また、如来堂の名から、斎藤率いる新選組が如来堂の建物を目指したように思えるが、当時二の丸南西部周辺に存在した集落の名前が「如来堂村」であり(『角川地名大辞典7福島県』)、「如来堂」と言うのは土手の上の建造物ではなく、この如来堂村の集落を指していたと考えるのが妥当ではないだろうか。そしてその目的は、単に如来堂の集落を守る事では無く、神指城の遺構を守ることだったのではないだろうか。上杉景勝が関ヶ原の戦い後に米沢に転封され廃城になった後も、神指城の遺構は残っていた。会津から越後に至る越後街道の近くに400000平方メートルもの土塁に囲まれた、上杉家120万石の居城となった城塞跡が残っていたのだから、会津藩としては放置するわけにはいかなかったのだろう。ただし直接街道沿いの集落では無いので、正規部隊では無く新選組のような外人部隊を派遣したのかもしれない。

神指城如来堂の戦い

新政府軍の思惑
 八月二十三日、鶴ヶ城城下に攻め込んだ新政府の白河口軍だったが、白河口軍の戦力だけでは巨大な鶴ヶ城を完全包囲する事が出来ず、包囲網未完成の状態は勢至堂口軍の援軍が到着しても続いた。この新政府軍の包囲網未完成の間隙を突いて、史上有名な山川大蔵の入城など、各地に散っていた会津藩兵が続々と鶴ヶ城に帰還していた。新政府軍はこの状況を打破するために、大軍を有する越後口軍の鶴ヶ城進軍を期待したが、越後口軍の進軍は越後街道坂下宿に駐屯する会津藩兵によって阻まれていた。鶴ヶ城の完全包囲を完成させるために、越後口軍の到着を欲した白河口軍は、九月五日別働隊を編制して越後街道を進軍させた。その目的は、背後から越後街道坂下宿を攻めてこの地を守る会津藩兵を駆逐して、越後口軍を鶴ヶ城に到着させ包囲網を完成する事だった。そしてこの過程で発生したのが、神指城如来堂の戦いだ。

神指城如来堂の戦い
 九月五日、この日鶴ヶ城を出発した別動隊の戦力は以下の通り。薩摩藩兵3個中隊、長州藩兵1個小隊、土佐藩兵3個小隊、佐賀藩兵4個小隊、彦根藩兵1個小隊、福井藩兵2個小隊、柳川藩兵3個小隊による混成部隊だった(『復古13』)。一方会津藩の方は、鶴ヶ城から越後街道を北西7km先、また神指城如来堂から凡そ4km先の高久村に、家老萱野権兵衛率いる部隊を駐屯させていた。神指城如来堂の戦いは、この白河口軍の別働隊が、高久村を攻める際に行われたと思われる。
 こうして板下宿を目指して、越後街道を進軍する白河口軍別働隊と、斎藤率いる新選組の間で行われた神指城如来堂の戦いだが、戦いの詳しい詳細が描かれた史料は管見の限り見た事がない。この為に当時の地形や、神指城跡の発掘調査記録を用いて、神指城如来堂の戦いを考察してみたい。
 まず戦端が開かれた場所だが、現在の二の丸土塁跡の如来堂に「新選組殉難地」の碑が建っている事から、一般的にはこの地で戦いが戦いが行われたように考えていられるが、筆書はこの考えには懐疑的だ。九月四日の夜を、斎藤率いる新選組が如来堂の本堂や周辺の集落に分宿していたとは考えられるが、夜が明けてからもそこに留まっていたとは考えにくい。当時の主要街道である越後街道を進軍する新政府軍と抗戦するには、越後街道に近い東側の二の丸土塁に布陣するのが理にかなっている。一方で南西の二の丸土塁に建つ如来堂に留まっていたのならば、予想される戦場から離れ過ぎている。また東側の二の丸土塁に布陣すれば、越後街道を進む敵軍の頭上を押さえる事が出来て、有利な状態で敵軍を迎撃する事が出来る(当時二の丸土塁の高さは風雨に浸食され均一では無かったと思うが、現存する遺構から考えると2〜3m程と考えられる)。しかし如来堂が建つ南西の土塁に留まっていれば、東側の二の丸土塁に取り付いた新政府軍と高低差が無くなってしまう。これまで多くの戦場を経験して生き残った斎藤が、敵より高所に位置すると言う優位をむざむざ放棄したとは考えにくい。斎藤率いる新選組は、越後街道を進軍する新政府軍を迎撃するのに適した東側の土塁に布陣したと考えるのが自然だろう。
 そして東側の二の丸土塁に布陣した新選組と、越後街道を進軍する白河口軍の別働隊は交戦を開始したものの、詳しくは後述するが、恐らく鎧袖一触で粉砕され、この場で壊滅したのだろう。そして現在受難の碑が建つ南西の二の丸の土塁上では、少なくとも組織的な戦いが行われた可能性が低いと思われる。その根拠は2009年に行われた神指城跡の発掘調査だ(『神指城』)。この時の発掘調査では、計19箇所を試掘(トレンチ)しているが、奇しくもそれは全て東側二の丸土塁の西側に位置している。つまり如来堂が建つ南西二の丸土塁と、東側二の丸土塁の中間に位置しており、もし東側の二の丸土塁を占拠した白河口軍別働隊と、如来堂に撤退した新選組との間に銃撃戦が行われたのだとしたら、白河口軍別働隊がどの侵攻ルートを辿ったとしても、銃弾が出土しそうなものだが、実際には一発の銃弾も出土していない(『神指』)。もちろん「後に住人が全ての弾丸を回収したから弾丸が出土しなかった」や「白河口軍別働隊と新選組は白兵戦をしたので、銃弾が出土しなかった」可能性もゼロではないが、東側の土塁上の戦いで新選組は壊滅したので、その後に白河口軍別働隊による掃討戦が行われたとしても、それは組織的なものではなく、ごく少数の斥候部隊によるもので、殆ど銃撃もせずに終わったので、発掘調査では一発の弾丸も出土しなかったと考えるのが自然ではないだろうか。その様な意味では、白河口軍別働隊にとって、神指城如来堂の戦いは小規模な戦いと認識された可能性が高い。余談だが、同じく戊辰戦争で戦場となった白河城の発掘調査では、戊辰戦争時と思われるミニエー弾が出土している(『小峰城跡本丸跡と石垣上の調査報告』)。
 この白河口軍別働隊にとって、神指城如来堂の戦いについての認識が、小規模な戦いだったと言うのにはもう一つ根拠がある。この日の白河口軍別働隊の戦いについての記録の中に、具体的に如来堂の地名を示す史料は存在しない事だ。ただ、この日の記録の中に、複数の戦いが起きた事が書かれている。薩摩藩の記録では「十字頃、若松ノ營ヲ発シ、斥候人数所々ニテ相戦、悉ク追散シ」(『復古13』)、彦根藩の記録に「弊藩人数、若松城出発、高久村近傍所々ニ於ヲ、諸藩斥候隊ニ相加り、賊徒追却」(『復古13)』と書かれている。恐らくこの日鶴ヶ城下を出発した白河口軍別働隊は、板下宿に到着するまでに多久村始め複数回、各地で抵抗を続ける会津藩兵と小規模な戦いを繰り広げたのだろう。
 つまり当日の戦況を推測するに、九月五日朝に鶴ヶ城を出発した白河口軍別働隊は板下宿を目指して越後街道を進軍した。やがて多久村に近づくと、左手に土塁跡が見えてきたので、少数の斥候部隊を抽出して向かわせた。この斥候部隊と、二の丸土塁の東側に布陣した新選組の間で戦端が開かれたが、鎧袖一触で粉砕され新選組はバラバラに敗走した。少数の兵の中には如来堂の本堂に向かった者も居ただろうが、組織だった抵抗はなく、斥候部隊も本隊に戻り、多久村を攻める戦いに復帰した。この様に白河口軍別働隊にとって神指城如来堂の戦いとは、この日遭遇した小規模な戦いの一つでしかなく、故に新政府軍側の記録では神指城如来堂の戦いについて特筆言及された記録がないのではないだろうか。

  

左:二の丸土塁南東部の遺構、鶴ヶ城から出発した新政府軍を迎え撃つのに最も適していたのはこの場所と考えられる。
右:上記の南東部の土塁跡から越後街道方面を見下ろして。越後街道方面を見下ろせる二の丸土塁上は、越後街道方面から進軍する敵軍を迎撃するには最適の場所だったのが判る。

終わりに

 冒頭に書いたように、本記事は2016年に書いた『斎藤一論考集』内で書いた記事に、その後判った事を加えた再編集したものだ。実際に行われた神指城如来堂の戦いが、現在受難の碑が建っている付近ではなく、神指城東側の二の丸土塁付近で行われたと思われるとの指摘は同じだが、2009年に実施された神指城の発掘調査を根拠として、二の丸土塁の内側=受難の碑が建つ如来堂本堂を巡る組織的な銃撃戦は行われなかったとの仮説を立てている。恐らく実際に行われた神指城如来堂の戦いは、東側二の丸土塁の付近で、新政府白河口軍別働隊の、少数の斥候部隊と新選組の間で行われたが、鎧袖一触で新選組が壊滅されたと考えられる。そして、その戦いは新政府軍にとっては特筆すべき戦いでは無く、九月五日に行われた坂下宿を巡る戦いの一つに過ぎない小規模な戦闘だったと言うのが実情だろう。
 しかし小規模な戦いだったと言えども、この戦いは関ヶ原の戦いが行われた慶長五年(1600年)に築城され、一般的には「実戦を経験することなく廃城となった」と解説される神指城が、最初で最後に行われた実戦と言えるだろう。結果的に目的を果たす事は出来なかったが、斎藤率いる新選組にとって同地で戦ったその目的は、越後街道を辿って鶴ヶ城へ撤退する友軍を、援護する為の戦いだったと言えるのではないだろうか。

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