その他の史跡

適塾(適々斎塾)

 適塾は多くの方がご存知の通り、蘭学医緒方洪庵が開いた蘭学の私塾です。この適塾について書くだけで一つのサイトが出来上がってしまいますが、私としては適塾は新政府軍の大村益次郎、旧幕府軍(脱走軍)の大鳥圭介と言う戊辰戦争の両軍を代表する名将2人が学んだ場所として認識しています。
 戦国時代の密集戦法の白兵戦から、西洋軍事の散兵火力戦への軍事技術の革命となった戊辰戦争ですが、その戦いを代表する2人が同じ場所で学んだと言うのは、戊辰戦争を学ぶ者としては1度訪れたいと思っていた場所です。

      

左:適塾の外観
中・右:適塾内部 大村や大鳥もここで学んでいた時、後に自分達が戊辰の際に指揮官として戦う事になると思わなかった事でしょう。

      

左:台所跡
中:2階への階段ですが、むしろ梯子と言った方が良い急な物です。
下:2階から中庭を見下ろして、大村や大鳥も勉学の合間にこの中庭を見下ろしたのでしょうか・・・。

      

左・中:1階廊下から中庭を見て
右:中庭にある井戸跡


信州松代藩(真田家10万石)製大砲、佐久間象山設計

    

左:前方より撮影
中:砲身内部の拡大、見てもらえば判りますがライフル(溝)が切られていません。
右:後方より撮影

 藩祖真田伊豆守信之の卓越した政治眼が幕末まで見据えていたのか、東国諸藩にしては珍しく幕末戊辰の戦いで活躍した信州松代藩ですが、その松代藩が幕末に横浜警護を命じられた際に、藩士の西洋学者佐久間象山に命じて製作させた大砲です。
 西洋学者の先駆けと言われる佐久間象山の設計だけあって、前装填方式が主流の当時の日本において、後装填方式を採用したのは流石は佐久間象山と思えますが、一方で砲身内部はアームストロング砲の様に装条(施条)式ではなく、従来型大砲の様に滑腔式のままです。そんなわけで佐久間象山設計と言うわりには、何かちぐはぐな気がするこの大砲ですが、そう言う意味では武器が急激な新化を遂げてる期間に製作されたと言うのがよく表されていると思います。

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