西南戦争は日本史上最後の内戦ですが、それだけでは無く戊辰戦争で導入された「近代戦」と言う概念が確立された戦いでもありました。また戊辰戦争で味方同士で戦った将兵が敵味方に分かれて戦い、一方で戊辰戦争を敵味方として戦った将兵が味方同士になり、明治維新最大の原動力となった薩摩藩と戦った何かと戊辰戦争と馴染みの深い戦いでもあります。
この西南戦争については基本的な知識しか持っていない私ですが、2004年7月に西南戦争の主戦場となった熊本〜鹿児島間を訪れましたので、その際に撮影した画像と簡単な説明を書かせて頂きます。
熊本城関連
明治政府打倒を目指して明治10年(1877)2月14日に北上を開始した西郷隆盛を頭首に掲げた薩摩軍(以下「薩軍」と呼称)と、明治政府軍(以下「政府軍」と呼称)が初めて本格的な戦闘を交えたのが熊本城の攻防戦です。
この攻防戦は2月22日に始りましたが、戦闘前は熊本城は戦わずして自落、若しくは戦ったとしても鎧袖一触で攻略出来ると思っていた桐野利秋を始めとした薩軍の将兵の多くの思惑とは裏腹に、谷千城率いる政府軍熊本鎮台兵は薩軍の猛攻に耐え続け、遂に50日以上に渡る攻防戦の末熊本城を守りきったのです。
戦う前は農町民の徴兵軍の政府軍を「糞鎮」を侮っていた薩軍ですが、熊本鎮台司令官の戊辰戦争の歴戦の勇将谷千城(土佐)はこの弱兵の政府軍を率いて、日本最強の薩軍との戦いに勝利するのです。この熊本城攻防戦での谷千城の勇姿は「一頭の獅子に率いられた羊の群れは、一頭の羊に率いられた獅子の群れを駆逐する」と言う言葉を彷彿させます。
左:50日余に渡る熊本城攻防戦を指揮した熊本鎮台司令長官谷千城の像
中:熊本城攻防戦に先立って焼失した熊本城復元天守閣
右:熊本城攻防戦を経ても現存する宇土櫓(後は復元天守閣)
左:熊本城復元天守閣から花岡山方面を見て、熊本城攻防戦で薩軍はこの花岡山に砲兵隊を配置しました。
中:熊本城復元天守閣から段山方面を見て、熊本城攻防戦ではこの段山で激戦が行なわれました。
右:段山付近に築かれた段山攻防戦戦死者達の慰霊碑
田原坂関連
薩軍の挙兵を知った政府軍は山県有朋の指揮の元すぐさま第1旅団(司令:野津鎮雄)と第2旅団(司令:三好重臣)を九州に派遣、熊本城攻防戦が始る前の2月20日に博多に上陸し南下を開始します。この政府軍の南下を知った薩軍は迎撃のため高瀬・木葉に北上し、一時は愚将乃木希典率いる部隊を撃破する等の戦果を挙げますが、政府軍の本隊が到着すると徐々に押されたため後退を決意して、田原坂・吉次峠に布陣します。
当時高瀬・木葉方面から植木・熊本方面に大軍を進軍させれる道路は田原坂と吉次峠しかなく、かつ砲車が通行出来るのは田原坂しかなかった為、政府軍は主攻撃を田原坂、助攻撃を吉次峠にして3月3日攻撃を開始します。兵力・装備共に政府軍に劣る薩軍でしたが、この田原坂では強靭な精神力と脅威的な身体力を発揮して政府軍の猛攻に耐え続ます。
薩軍の奮戦を見て田原坂の正面突破が不可能と判断した政府軍は、田原坂西方の横平山を突破して田原坂の後方を急襲する作戦を立案し、更にこの作戦を薩摩藩に恨みを持つ奥羽諸藩の士族による抜刀隊と言う奇策で行ない、激戦の末3月15日に横平山を奪取します。鉄壁の守りを誇った田原坂でしたが、この横平山から迂回部隊に後方の七本を急襲されたため遂に田原坂を放棄して後退します。
左より田原坂一の坂・二の坂・三の坂
左:田原坂攻略のため政府軍が迂回攻撃を行なった横平山
右:田原坂攻防戦での薩軍戦死者の慰霊碑
御船町関連
田原坂を突破したとは言え薩軍の防御陣を突破出来ずにいた政府軍は、黒田清隆・山田顕義等を指揮官とした別働隊を編成し、海上機動で薩軍の後方を突き補給線を遮断して一気に薩軍を崩壊させる作戦を立案します。かくして3月14日に海上別働隊は出撃し八代南部の日奈久に上陸し薩軍の補給線を遮断します。
これを受けた薩軍3番大隊長の永山弥一郎が迎撃の為南下しますが、海上部隊は黒田・山田等の主力部隊は熊本城救援に向い、一方川路利良率いる別働第3旅団は御船で永山率いる薩軍3番大隊と戦いこれを破ります。
左:川路利良率いる政府軍別働第3旅団と永山弥一郎率いる薩軍3番大隊が激突した御船川
右:御船川攻防戦で敗れた永山弥一郎が自刃した跡地
鹿児島市関連
これまで善戦していた薩軍でしたが、上記の海上別働隊により薩摩との補給線を分断された為遂に力尽き敗走します。しかし脅威的な精神力の薩軍は後方拠点を失ったのにも関らず、この後も人吉や宮崎等で抵抗を続けますが、いずれでも敗北するとやがて故郷の鹿児島に帰ろうと、8月18日残存兵力600で天険可愛岳を突破し故郷鹿児島に帰還します。
これに対し政府軍も次々に鹿児島に進軍し、薩軍は城山に篭り防戦しますが、9月24日に行なわれた政府軍の総攻撃で遂に西郷隆盛・桐野利秋以下多くの将兵が玉砕し半年以上に渡った西南戦争は終結します。
私学校跡地の石垣に今も残る銃弾跡
左:城山篭城時に西郷隆盛が暮らした洞窟
中:城山の麓に立つ西郷隆盛戦死の地の碑
右:城山東方の西南戦争薩軍戦死者の墓地「南州墓地」