七尾城登城記

 能登七尾城は、室町幕府管領家畠山氏の分家である、能登畠山氏の居城です。十二代まで続いた畠山氏の治世の元で城下町は発展し、その繁栄ぶりは越前朝倉氏の居城一乗谷に匹敵するものだったと言われています。そのような七尾城も、天正五年(1577年)9月に米沢藩祖上杉謙信公の攻撃を受け落城し、ここに畠山氏の能登支配は終わり、能登と七尾城は上杉家の支配となりました。しかし戦上手と言われる謙信公の采配をもってしても、軍事的に七尾城を攻略する事は出来ず、結局は畠山氏の重臣の遊佐氏等を内応させた事による、調略による落城でした。
 そのような七尾城に2011年9月に登城しました。戊辰戦争とは何の関係も無い七尾城ですが、謙信公でさえ攻めあぐねたと言われる七尾城が、どれ程の堅城なのかと言うのを実際に訪れたいと昔から思っていたのが、やっと実現しました。
 現在の七尾城は、麓から頂上の本丸付近まで一気に車で行けますが、麓の七尾城資料館の脇に当時の大手道が残っていますので、こちから登る方が七尾城の堅城ぶりを実感出来るかと思います。越後坂戸城の大手道のような険路ではないので、ハイキング気分で登れます。

   

 左:七尾駅・ここから七尾城麓まで徒歩一時間くらいです。
 右:麓から登って行き、大手道に入った登り口に当たる「長坂」。ここから歩いて約一時間で山頂の本丸跡に至ります。

   

 左:番所跡の直前に在る七曲り。その名のとおり、急な角度の曲がり道が連続して、敵の攻撃を阻みます。
 右:番所跡を超えると、いよいよ七尾場内に入ります。この道は三の丸付近の道です。

   

 左:三の丸跡を見下ろして。
 右:二の丸跡から温井屋敷跡を見て。画像は有りませんが、七尾城には他にも遊佐氏・長氏の屋敷が本丸周辺に配置されており、計重臣三氏の屋敷が本丸周辺に配置された構造になっています。

   

 左:温井屋敷跡に残る石垣
 右:本丸跡に残る石垣。この石垣は後に七尾城主となった前田利家によって築かれたのではなく、畠山氏時代に築かれた物です。

   

 左、右:本丸跡に残る石垣。
 謙信公によって攻略された七尾城ですが。この七尾城攻略後に加賀手取川で織田軍を破った謙信公は、帰国後急死してしまい、その家督を巡って米沢藩初代藩主となる景勝公と、北条家から養子に入った景虎が跡目を巡って「御館の乱」を争う事になります。この御館の乱の最中に、織田家は能登に調略の手を伸ばし、謙信公に降った遊佐氏と温井氏が織田家に降った事により、能登と七尾城は織田家の手に落ちる事になります。

   

 左:本丸の山頂付近。
 右:逆に山頂から見下ろして。
 織田家に降った遊佐氏と温井氏ですが、御館の乱に勝利した景勝公が越中に進出した際に動揺したのか、織田家家臣の菅谷長頼により遊佐氏は粛清され、温井氏は上杉家に亡命します。この菅谷の粛清後に七尾城は前田利家に受け渡され、その後は多くの方が知っている前田家による能登支配が始まります。しかし利家が居城を小丸山城に居城を移した事により、七尾城は廃城となりました。 

   

 左:山頂に建つ七尾城址の碑
 右:本丸跡から七尾湾を見下ろして。
 有名な「霜は軍営に満ちて秋気清し 数行の過雁月三更 越山併せ得たり能州の景 遮莫家郷の遠征を憶う」の詩が謙信公が残した物なのかは判りませんが、能登及び七尾城を手に入れたた謙信公の心情を表した詩だと言うのは異論が無いと思います。そして七尾城を手に入れた謙信公もまた、この手中にした地を一望出来る本丸から同じ光景を見た事でしょう。七尾城址に登り、謙信公が見た光景と同じ風景が見たいと思っていた私にとって、この光景は感無量の物でした。

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