越後坂戸城は直接戊辰戦争には関係ありませんが、米沢藩初代藩主上杉景勝公の誕生の地であり、この坂戸城が無ければ米沢藩は存在しなかったかもしれない重要な城です。上杉謙信公の跡目争いである「御館の乱」については多くの方がご存知だと思いますが、この「御館の乱」で景勝公が勝利を収めるのに重要な役割を果たしたのがこの坂戸城です。
御館の乱勃発後、外交にて武田勝頼を友好的中立派とした景勝公でしたが、敵対する上杉景虎は実家である後北条家に援軍を要請した為、後北条勢が北上を開始します。この後北条勢の越後侵攻を阻止したのが、関東から越後に入る玄関口に位置する坂戸城です。もし坂戸城が突破されれば、後北条勢の越後侵入を許す事になり、景勝公が敗北する可能性が高かった事を考えると、坂戸城がその後の米沢藩存続に果たした貢献度は非常に高いと思われます。
また坂戸城攻防戦で活躍した城将深沢利重を始めとした、坂戸出身の上田衆は景勝公の重要な戦力として、その後も景勝公を支え続けます。米沢藩成立後は、上田衆の一部は五十騎組と取り立てられ、馬廻組(謙信公の旗本出身)、与板組(直江兼続家臣)と共に三手組で呼ばれ、米沢藩の中級家臣として幕末まで存続します。そして幕末には五十騎組出身では宮島誠一郎が主に外交方面で活躍し、また戊辰戦争でも多くの小隊長が選出されるなど、坂戸城を守った勇士達の子孫は幕末でも米沢藩(上杉家)を支えたのです。
そのような坂戸城に2011年5月に登城しました。実は十年前にも一度チャレンジしたのですが、その時は当時の上田衆が辿った旧大手道から登ろうとしたものの途中でギブアップした経緯があります。後日知った限りでは大手道は上級者コースらしく、今度は整備された薬師尾根コースでチャレンジして無事登城出来ました。ですので登山に慣れている人以外は薬師尾根コースを辿るのをお勧めします。
左:坂戸城跡の外観
中:同じく外観を拡大。中央の桜が立つ尾根路が薬師尾根コースです。
右:内堀跡。当時は熊野川から直接水源を引き入れていたそうです。
左:坂戸山の麓に建つ坂戸城跡の石碑
中:坂戸城跡の石碑の側に建つ、上田五十騎発祥の地の石碑
右:同じく麓に建つ上杉景勝公と直江兼続誕生の地の石碑
左:家臣団屋敷跡
中:御館跡に残る石垣。ただしこの石垣は上杉時代では無く、景勝公の後に入封した堀氏時代に築かれた物と伝わります、
右:薬師尾根コース登り始めに立つ桜並木
左:登り始めはまだ道幅が広いです。
中:御居間屋敷跡の分岐点。左に下りると御居間屋敷跡となり、ここから道幅が狭くなり、勾配もきつくなります。
右:中腹辺りから見下ろして。
左:頂上近くになるにしたがい、人の交差も難しくなるほど道幅が狭まります。
中:山頂付近
右:山頂(実城)に建つ富士権現。当時は物見台が建っていたと伝わります。
左:実城から西側(六日町方面)を見下ろして、真ん中に流れるのが熊野川。
中:実城から東側を見下ろして。
右:実城付近に現存する石垣。恐らくこれも堀氏時代の建造物かと。
左:実城から尾根で繋がる小城・大城
中:大城から見た実城
右:大城から見下ろして
左:下山は旧大手道コースで帰りました。見てのとおり薬師尾根コースよりも勾配がきつく、どおりで登るのは大変だったと実感。
中:五月にも関わらず雪が残っている所も多く、所々道が寸断されていました。
右:きつかった旧大手道コースも麓まで降りると、桜や梅が咲いていて目を楽しませてくれました。
以上のような要害の坂戸城は、三国峠を牽制する重要な位置を占していました。戊辰戦争の際、会津藩兵は坂戸城南方の三国峠や、逆に坂戸城北方の小千谷で新政府軍と交戦しますが、この坂戸城跡を利用する事はありませんでした。後北条勢の攻勢を退けた坂戸城が、戊辰戦争ではどれ程の効果を発揮したかを想像してしまうのは私だけでしょうか。