窓辺で小鳥がさえずっている。つついているのはパンくずだ。
「どうぞ」
 目の前に置かれたカップを手にとって一口すする。
「ん、うまい」
「よかった。何か食べますか?」
「お前、何食ったの?」
「パンとポテトオムレツです」
「じゃ、それ」
 わかりました、と壁際にしつらえたキッチンスペースに向かう後姿を見つめる。弟はこれくらい身長が伸びているのだろうか。
「なあ、あれ。あれやったのお前?」
 振り返った青年は窓に視線をやる。
「すみません。いけませんでしたか」
「いや、別にいけないってことはねえよ。かわいいなあと思って」
 ならよかった、と青年は安心したようなそぶりを見せた。
 バターのいいにおいが漂ってくる。
 こうやって座っていると目の前に紅茶と朝食が出てくるようになって三日、青年と暮らすようになってからはもう一週間が経った。
 青年が店に来た翌日、ヒューズに連絡を取ると、驚いたことに財布は届いていた。青年と連れ立って取りに行くと、帰り際にヒューズが渋い顔で「ほどほどにしとけ」と言ってきたので曖昧に笑って返した。財布の中身はだいぶ減っているように見えたがもともとたいして入っていなかったのだという。
『当面の学費を賄える分は口座に入っているので』
 幸い、本人でなければ引き出せない銀行用の証明書は盗まれてはいなかった。それを確認した時点で他に宿を取ると言った青年を即座に引き止めた。
『学費なんだろ?それは取っておけよ。ウチなら宿泊費浮くんだからさ、余計なことに大切な金は使うな』
 もっともらしいことを述べたが本音は違う。わかっている。もう少し青年と一緒にいたかったのだ。
 青年は恐縮していたが結局、バーの二階に留まった。そして、とりあえず合格発表の日までは、昼と夜の接客、厨房での皿洗いとあとは開店前、閉店後の掃除を任せることにした。
 四日目のことだった。ランチタイムにあまりにも手が足りなかったので簡単な調理を手伝わせたら思いのほか手際がよく、試しにまかないを作らせてみたらハボックが一口食べてうんうんと頷いた。
『大将、明日から表は一人でお願いしますよ』
 つまり青年を厨房に置いてくれ、ということだった。ここのところランチの時間に客が増え、いくら狭い店内とはいえ回転率が上がれば厨房も忙しい。ハボックと二人でやるには少し無理を感じていたので、もともとバイトを一人入れようと思っていたから、一も二もなく承諾した。
「これ、揚げてあるのか」
「軽く」
 オムレツの中には蒸したジャガイモ。上には揚げたものの薄切りが乗せてある。生のトマトを炒めたソースがかけられ、なかなかうまい。
 覚えておいても損はないからと彼の叔父が教えてくれたのだそうだ。ひょっとしたら叔父という人物は彼がこうやって家を出ることを予想していたのかもしれない。
「ん、ソースはちょっと水っぽいな。もう少し飛ばしたほうがいい。あとレモン入れただろ。トマトの酸味が強いから入れなくていいぞ」
 青年は生真面目に頷いたが少し悲しそうだ。しかしそれも次の瞬間、明るくなる。
「明日もう一度作れよ。ハボックに食べさせてみてOKでたらメニューに追加だ」
「本当ですか!?ありがとうございます!」
 にこにこと笑顔を浮かべる中に、わずかな緊張があった。朝の挨拶を交わしたときから、ずっとそうだった。今日で出会ってからもう一週間。受験日から一週間。
「そういや今日だったよな、発表は」
「はい」
 緊張した面持ちで答えた青年が傍らに立ったまま拳を握り締めた。入学試験というものを受けたことがないので同じような緊張感を味わったことはないが、人生の大きな岐路に立って審判を待っている状態だと考えれば理解できないでもない。
「発表さ、オレも見に行っていい?」
 何しろ財布を落とした前科のある家出人なのでこんなに緊張していては発表後にまたとんでもないポカをやらかしてしまいそうだと心配になって申し出たら、青年は首をかしげて少しためらった。
「嫌だっつっても行くけど?」
「それじゃ聞いた意味がないです」
 青年の反論は尤もだが、聞かぬ振りをする。
「今日は店も休みだし、たまにはあそこの学食で飯食いたい」
 青年は、ふぅとため息をついた。
「わかりました。一緒に来てください」

 発表用のボードは正門から入って真っ直ぐのところにある講堂の前に立っている。すでに人だかりで辺りは騒がしい。
「何番?」
 青年が出した受験票を確認すると、ボードに合格者が貼り出されるのをじっと待った。受験票をつかむ青年の手が震えている。
「大丈夫だ」
 震える手に己の手を重ねた。
 見つめるボードの脇に大学の関係者と思しき人間が二人、ロール紙を持って立った。ついさっきまで気を紛らわせるために何くれと喋っていた人々のざわめきが、すっと静まる。巻かれていた紙が端からするすると開かれ、受験番号が姿を現した。
 皆が探す。自分の番号を。
 視線で穴が開くなら、ロール紙はあっという間に跡形もなく消えてしまうだろう。皆、真剣だった。
 青年の番号。1003を探す。
 997、999、1000――1003。
「合格、おめでとう」
 ありがとう、の言葉は無かった。見上げると、青年はボードを見つめたまま呆然としていた。
 背が高い青年の後ろにいた小柄な少女が、人混みをかき分けて自分の番号を探そうと頑張っていたので、青年の腕を引っ張って人混みの外に出る。
「おーい、いつまで飛んでるんだ」
 目の前で手を振ってみたり、パチンとたたいてみたりすると、まるで魔法が解けたみたいに青年の意識が戻った。
「え、あ、え?エドワードさん?あの、僕……」
「受かってるよ。夢じゃない。おめでとう」
 ありがとうございます、の言葉は涙混じりだった。

 入学の手続きのための書類を受け取ると、青年はどうしてもすぐに会いたい人がいるのだと言って研究室棟に向かおうとした。
「ちょっと待て。アポ取ってあんのか?」
「取らなきゃ駄目なものなんですか?」
「いや、必ずってわけじゃないけど。教授による。それに、いるかどうかわかんないぞ」
「それならそれでかまいません。ここまで来たんだし、行くだけ行ってみます」
 ここまで来たのだから入学してからでもいいだろうと思ったが青年はすでに数歩先を歩いていた。
「あ。そこから入れるみたいですね」
 青年の指し示した出入り口を見て、首を横に振る。
「そっち行くと別棟。工学部の研究室棟は二つあるんだ。A棟とB棟。会いたい人って、航空工学の教授だろ?」
「はい」
「なら、こっち。ついてきな」
 別に在学したわけではないが勝手知ったる場所だ。青年の前に立って見慣れた通路をすたすた歩く。階段を一階分昇って数メートル行ったところで足を止めた。
「そこがウントリッヒ、隣がノイマン、向かいがオースティン、その奥がウルマイネの研究室だよ。で、会いたい人ってどいつだ?」
 青年は誰でもないと答えた。
「あの……マスタング教授の研究室は、ここには無いんですか?」
「マスタングだと!?」
 まさか。よりによって。
 確かにマスタングは航空工学の教授だ、30代という異例の若さでの。
 古参の教授連に覚えもめでたく、実力実績は申し分無い。
 しかし。よりによって。
「なんでマスタング!?」
「な、何か問題あるんでしょうか」
 いーや……と返事が力無くなってしまうのはしょうがない。しかしまさか青年の口からあの男の名が出るとは思ってもみなかった。というより、単に考えたくなかったのかもしれない。
「マスタングの研究室はそこ……一番奥のつきあたり……」
「……ありがとうございます」
 戸惑いを顔に浮かべた青年は、そろそろと奥へ向かった。慎重にノックを二度。
 一拍置いて誰何の声があった。
「このたびこちらの大学に入学することになりました、アルフォンス・ハイデリヒと申します。航空工学を専攻するので早く先生にお目にかかりたいと思って参りました。お忙しいかとは存知ますが、少しお時間を割いていただけないでしょうか」
 十秒ほどして、内からドアが開いた。
「入りなさい。あまり時間は取れないが」
 青年を迎え入れてそのまま閉まるはずのドアは、途中で止まる。いや、閉めていいぞ、そのまま閉めろ、という願いは誰にも聞き入れられなかった。
「久しぶりだね、エドワード。どうしてここに……ああ、彼は君の関係者なのかな?」
 中から出てきた男が手招いてくる。
「せっかく来たんだ、ちょっと寄っていけ」
「お知り合いだったんですか」
 目を丸くしている青年に、ああともうんとも答えられずに口ごもってしまった。確かにお知り合いではある。
 このまま帰って青年に何か変なことでも吹き込まれるより同席したほうがいいだろうか。
 そう考えて男の誘いに乗って研究室に入ると、中には先客がいて、ちょうどソファーから立ち上がるところだった。
「それでは先生、私はこれで」
 スカートの裾に見え隠れする足がすらりとした女性は、新たな客二人に会釈をすると部屋を出て行った。少し急ぎ足で慌てていたように見えたのは、多分気のせいではない。
「また研究室に連れ込んでんのか」
 呆れて横目で見ると、男は苦笑する。
「連れ込む、とは失敬だな。彼女とは、まだだよ」
「そうだな、鍵かけてなかったもんな」
「エドワード……誤解を招く表現はやめたまえ。ハイデリヒくんが困っているだろう」
 青年を見ると状況を飲み込めずにその場にたたずんでいる。
「掛けなさい。助手が席をはずしているから何のおもてなしも出来ないが」
「んなもん、不要だ」
 座り心地の良いソファーにどっかりと陣取ると、青年を手招いた。
「エドワードさん、あの……」
「いいから座れよ」
 立ったままの青年を引っ張って座らせると、同時に向かい側のソファーに男も腰を下ろした。
「それで、私に何の御用かな」
「はい、あの――」
 教授の論文を拝読しました、から始まってその内容にいかに感銘を受け教えを請いたいと思ったかについて青年は実に二十分ほど滔滔と語った。息継ぎをまともにしているのかも疑わしいほどだ。事実、青年は途中で何度か咳き込んだ。
 しかし男は最後まで真剣に聞いていた。青年が話し終わった後には満足気に微笑みすらした。
 二、三質問して青年から返って来た答えにゆっくりと頷くと、その場はお開きになった。
「良かったら私のゼミに来るといい。君のような生徒なら歓迎するよ」
 青年は、出会ってから今までに無いくらいに嬉しそうに何度も頭を下げた。
「ではまた入学後に」
「はい。今日は突然伺ったにもかかわらず、お話をしてくださって本当にありがとうございました」
「こちらこそ。なかなか楽しかったよ」
 本心だろうが、なんとなくこの男の笑顔は胡散臭いと思う。その笑顔がこっちに向けられた。
「たまにはこうやって顔を見せてほしいものだね、エドワード。それか、君の店の出入り禁止令を解いてほしいんだが」
「誰が解くか、馬鹿野郎」
「ほう、そういう口をきくか」
 男は青年をちらりと見た。嫌な予感がした。青年を追ってさっさと帰ろうときびすを返したところを引き戻される。そして耳元で囁かれた。
「君が私に優しくしてくれるなら、彼への指導にも熱が入るというものだよ」
 裏を返せば『出入禁止を解かないのならハイデリヒのゼミ参加を認めない』
「っ、きたねーぞ、この変態!」
 声を潜めて罵ったが男はどこ吹く風だ。
「で?どうするのかな?」
 すぐそこに青年がいなければこんな男、殴って蹴りつけてやるのに。
 握り締めた拳をどうにか抑えて、間近にいる男を睨み付けた。
 男はものすごく嬉しそうに答えを待っている。
「アイツに変なことしたら承知しねえからな」
 大丈夫、女性以外は君だけだから、とふざけた科白が返って来たので、青年が振り返ってこっちを見ていなければ今度こそ男を殴りつけるところだった。

(06.12)

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