「あ、あれ?」
 唐突に視界が遮られる。
 床を見ると、髪を後ろでとめていたゴムが落ちていた。靴紐が切れるのは不幸の前触れとよく言われるが、靴紐でないにしろ、紐状のものがブチンと切れるのは根拠はなくとも嫌な予感がするものだ。
「ちょっと上行って来る」
 青年に告げ、二階で髪をくくり、下に戻ってきた途端、目の前に危険物が飛んでくる。
 間一髪で受け止めたのは、スパナ。投げた女性は仁王立ちで舌打ちした。
「……ウィンリィ……お前なあ!!頭当たったらどうすんだ死ぬぞ!本気で!」
「あーら、そうかしらあ?一度頭でも打てばメンテナンスの時期も忘れる記憶力の悪さも治るんじゃないかと思ってえ」
「ますます悪くなるわ!」
「チビで頭悪いなんて救いようがないわよ」
「誰が豆粒ミジンコどチビだ!」
 わあわあぎゃあぎゃあと騒いでいると、傍らで青年がポカンとその光景を見ていた。……恥ずかしい。
 ウィンリィも同じように思ったらしく、気まずさをわざとらしい咳払いでごまかす。
「アルフォンス、こっちはウィンリィ。オレの幼馴染。ウィンリィ、彼はアルフォンス。春から大学生になる」
 二人を互いに紹介すると、ウィンリィは「おや」という顔をしたが、何も言うなという目配せに気づいたらしい。
 彼女はアルフォンスの名前には触れず、青年に手を差し出した。
「ウィンリィ・ロックベルです。エドとは幼馴染、というか腐れ縁」
「アルフォンス・ハイデリヒです。ここで働かせてもらっています。エドワードさんには何から何までお世話になって」
「エドがお世話されてるんじゃないの?」
「ウィンリィ!」
 軽く咎めても彼女は悪びれた風でなし、こちらも元より本気ではない。
 何事もさくさくと進めるウィンリィは開店までまだ余裕があると見てとると、「さ、エド。下脱いで」と言った。
「アホか。ここ店だぞ」
「じゃあ、上行こ」
 彼女は足元に置いたトランクを持つと、家主の了解も得ずにすたすたと歩いていく。
 仕方が無いので後を追うと、青年からためらいがちに声をかけられた。
「あの、エドワードさん……」
 何を聞いたらよいのやら、と迷う青年を「一緒に来い」と誘って階段を順繰りに上がる。
 勝手知ったる他人の家とばかりにウィンリィはすでにトランクを開け、必要なものをテーブルに並べはじめていた。
 仕事以外でもてきぱきとしている彼女は仕事となるとさらにてきぱきとする。
 振り返ると青年はさっきと同じようにポカンと突っ立っていた。
「あー、これからな、オレの足のメンテナンス」
 手早くベルトをはずしてズボンを落とすと、青年は目を丸くした。
「オート、メイル……」
「見せてなかったっけな」
 この一週間、特に意識したわけではないが、風呂上りに下着一枚で歩く季節ではないし、着替えは自室ですませるから青年に見せる機会がなかったのは不思議ではない。
「歩き方を見ても……気づきませんでした」
「うちの職人は腕がいいからな」
「誉めても何も出ないわよ、エド」
「本当のことを言ったまでだ」
「あんたのそういうとこ、嫌いじゃないけどイヤだわ」
 ウィンリィはため息をついて、腕まくりをすると工具を手に取った。
「じゃあ、始めましょうか」

 時間にすれば30分ほど。予想されるトラブルをあらかじめ想定してきたウィンリィの作業は早い。
 その間、青年はその様子をじっと見つめ、そろそろ終わる頃を見計らってか、キッチンで湯を沸かしはじめた。
 ぴったりのタイミングで、「これで、終わり。やっぱりこの部品は磨耗が激しいから改善の余地ありだわ」とつぶやくウィンリィの前に紅茶が置かれる。
「ありがと、アルフォンスくん」
 青年は地方では名家の出で、裕福な暮らしをしていたようだから、こんな風に客に自ら茶を出すことなど無かっただろう。タイミングを見計らう術は、おじさんが教えてくれたのか、それとも生来の気質から来るものか。
「僕、ここまで精密な機械鎧を見るのは初めてです」
 青年の目は機械鎧に釘付けだ。
「見ていいぞ」
 瞬間ためらった青年も誘惑には勝てないのか、かがんで鋼の足に近づいた。
「アルフォンスくん。見てるだけじゃつまらないでしょ。触ってみれば?」
「でもうかつに触って壊しでもしたら……」
「大丈夫。精密っていっても水につっこんで平気なくらいなんだから。少しくらいいじったって壊れやしないわよ」
 製作者の次は持ち主が気になるのだろう。青年に見上げられ、了承する意味で頷いてやった。
 ありがとう、と小さく言って青年は左足に触れた。青年が見やすいように足を水平に上げたり、その場に立ったりする。
 しばらくそうやって観察した青年は、まるでこどものようだった。
「指の先まで動くんですね」
「そうしないと立つのも歩くのもバランス悪くなるのよ。人間ってこんな狭い面積で何十キロもある体重を支えてるんだから不思議なもんだわ。機械鎧に興味ある?」
「ええ。飛行機が好きなので、その影響で機械と名のつくものはいろいろと本で調べたり実物を見たりしてます。僕がいままで見たのは足首の部分が稼動するものだけなんです。指まで動くのは初めてだ」
「アルフォンス。ラッシュバレーって知ってるか?」
「もちろんです。機械鎧の聖地で、国外からも買い求めに来る人がいるって聞きました」
「ウィンリィはそこで機械鎧技師やってんだ」
 青年の目が感嘆に彩られる。
「すごいですね!あのラッシュバレーで職人をやっているだなんて!」

「まだ修行中の身よ」
「独立したって言ってなかったか?」
「言い直すわ。人生これ修行の道。日々精進あるのみ、よ」
 二十年以上幼馴染をやってきたが、彼女のこういうところは何度見ても格好いいと思う。
「今日はゆっくりしていけるのか?」
「まあね。工房はお休みにしてきたし。一晩泊まって明日帰る」
「じゃ、今夜はパーティやるからお前も出ろよ。アルフォンスの大学合格祝いやるんだ」
「そうなんだ?アルフォンスくん、合格おめでと!お祝いってことは、ワイン開けるのかしら?あの年の」
「開けるよ。お前の目当てはどうせ、五年前のアレだろ?」
 ふふっ、とウィンリィはとても嬉しそうに微笑む。いつから彼女はこんなにワイン好きになったのだろう。
「その年は葡萄の出来がすごく良くて、でも竜巻の被害にあった農園が多かったのよねー。出来がいいのに数が少ないときたら、希少価値になって値段つりあがっちゃうんだもの」
「あんまり飲みすぎんなよ」
「別に平気よ。つぶれてもここに泊まればいいんだもの。一部屋空いてるし」
「残念でしたー。アルフォンスは住み込みなんですうー」
 そこで青年がおそるおそる手を挙げる。
「あの、僕はハボックさんに頼んで泊めてもらうので……」
「……変な気は遣うな。ったく、お前もいい加減にしろよ、ウィンリィ。嫁入り前の娘が若い男だけの家に泊まるもんじゃない」
「エドって変なとこで古風よね。お互いそんな気ぜんっぜんないんだから、気にしなくてもいいのに」
「そういう問題じゃない」
 完全に勘違いをしていたらしい青年は、戸惑いながら口を開く。
「……ということは、お二人は……」
「単なる幼馴染」
 答えはウィンリィと見事に重なった。
「ま、どうせ泊めてくれないと思ってたから、イズミさんに頼んできたわ。ここに来る前に寄ったのよ」
「先に言えよ、そういうことは」
 ウィンリィは幼馴染の苦言にはまったくお構いなしに、自分より背の高いアルフォンスを見上げた。
「この辺で大学っていうと、あそこしかないよね。すごいな、頭いいんだー」
「入るのが夢だったので。一生懸命勉強しました」
「学部は?あ、さっき飛行機が好きって言ってたわね。まさか……」
 答えを聞いたウィンリィは、渋いというか苦々しい顔をした。
「ひょっとして、そのお祝いにはあの男も来るのかしら……!?」
「あの男ってなんだ?」
「あの大学のその学部にいるあの男よ」
「マスタングか?あいつなら、誘ってないから来ないと思うが」
「ならいいわ……」
「お前ってさ、あいつのこと、なんか毛嫌いしてねえ?」
 ウィンリィは元々顔の造りは良い。目鼻立ちははっきりくっきりして、綺麗な輪郭のうちに納まっている。
 それが今はものすごい形相だ。
「あの男、私になんて言ったと思う?『エドワードは私が幸せにします、お義姉さん』って。そう言ったのよ!?エドの口から聞く前に何であの男から聞かなきゃいけないの!お義姉さんなんてあんたに言われる筋合い無いわよ誰がそう呼んでいいって許可したってのよ!しかも浮気って!二股三股四股って!あんなのとは別れて正解よ!」
 がっつりと肩をつかまれてゆさぶられて、その剣幕には答えを返す術が無い。いや、待て。
 オレの口から聞く前に?浮気?
 別れて、正解?
 別れて……つーか、知って、た……?
「おおおまえそれなんで知っ――」
「イズミさんに聞いたわよ」
 ウィンリィはけろりとして言った。あまりにあっさりとしすぎていて、「へえ、そーなんだ」で終わらせてしまいそうに……なるわけがない。
「ししょうにきいたって――」
「あの人はあんたの保護者みたいなものだし、私はあんたの家族だもの。いろいろ様子を教えてもらうのは当然のことでしょ」
「じゃ、なくて!師匠はなんで知って……ええ?全部ばれて……」
「イズミさんは何でもお見通しよ。この街のレストラン小料理屋呑み屋関係には顔がきく人だし」
「うわあ!オレの交友関係つーか交際関係って駄々漏れ……?」
 衝撃の事実だ。

(09.18)

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