秋も深まってくると、リゼンブールも緑を脱ぎ捨てて茶色に変わる。枯れかけた背の高い雑草の中に身を潜めてかくれんぼをするのが好きだった。
『お兄ちゃーん』
 よちよちと歩いていた弟がそのうちてくてくと歩くようになって、さらには走るようになった頃、まだ弟は「お兄ちゃん」と呼んでいた。それが「兄さん」に変わるのは母が亡くなってからだった。
『お兄ちゃーん、どこー?』
 鬼になった弟が探している。最初はじゃんけんで決めて、弟はいつも最初にグーを出すのでいつもパーを出せば勝てた。それで弟がわからない場所に隠れると、弟の呼びかける声がだんだん涙まじりになってくる。いつまで経っても見つからなくてとうとう弟が泣き出す。そうしたらなぜかホーエンハイムが水の入ったバケツとともに現れて「持ってろ」と言った。
 手を出さないでいたらいつまでもホーエンハイムはそこに立っているのでいたたまれなくなって受け取って、重いバケツを持って家まで帰った。道のりは小さかった自分には遠くて、時々水をこぼしそうになって、腕が抜けそうになりながら、ちくしょうと悪態をつきながら、一方でああ、あの男は怒っているんだ、と思った。
 その頃はまだ、ホーエンハイムは時々家に来ていて、来ている間は母が嬉しそうなので複雑に思ったことを覚えている。そして今ならば、あの時自分は怒られていたのではなく叱られていたのだとわかる。幼い子の躾をするとは、とんだ父親面をする、とは思わないでもない。ウィンリィに言ったらおそらく「ひねくれもの」と呆れられるだろう。
 当時の自分が実際、どう考えたのかはもう忘れたが、少なくとも弟に謝ったことは記憶に残っている。その後、弟が見つけにくいところには隠れなくなり、弟は自分よりもずっとかくれんぼがうまくなった。
「今もかくれんぼしてんじゃねえだろうな、アル」
 幼い時分のことを夢で思い出し、天井を見つめながらため息をついた。窓から差し込む光の角度の違い、天井の染みの違いで、青年に与えた部屋で寝ていることにはすぐに気がついた。横を向けば、いくぶん険しい顔つきで寝ている青年がいる。
「しっかし、なんでこんな態勢になってんだろな……」
 頭の下に敷かれているのは青年の腕だ。要するに腕枕。
 青年の空いた片腕はしっかり己の身体に回されている。要するに抱擁されている状態。
「……ほどけねえな」
 元々、青年の腕が解けないのでこのベッドに寝ることにしたのだし、二人で横になるにはベッドが狭いので、落ちないように青年が無意識のうちに一晩中こうしていたのはわからないでもないのだが、それにしても腕はしびれたりしないのだろうか。
「おい、アルフォンス。起きろ。こら、起きろってば」
 ぴしぴしと頬をやわらかく張っても目を覚ます様子がない。
「起ーきーろー!」
 昨晩と同じようなことをしていると思いつつ、今度は頬をつねってみた。青年の眉がぴくりと動いたので、もう一度つねってみる。
「痛っ」
「痛いのが嫌だったら起きろ」
 むっとした風に目が開いて、ぼやけていた焦点が合ったなあと思った瞬間、おいおい目がこぼれるぞというくらいに青い目が見開かれた。
 声にならない声。
 ついで、「な、でこれ、え? え? ちょっ、エドワード、さ、ええっ!?」と言葉にならない声。青年は慌てて腕を離し、勢いのままベッド脇に落下しそうだったのでこっちも慌てて青年の肩をつかんで引き戻した。とりあえずベッドの上に座らせて、自分も正面に座る。
「おはよう、アルフォンス」
 にっこり微笑んでやると青年はますますうろたえた。
「え、あの、僕、これって、なんで貴方がここに?」
「落ち着けよ」
「だって、ここ、僕の部屋――うわあっ!」
「落ち着けって、ほら。息吸ってー」
 青年は頭が回らないのか、こっちが言ったとおりに息を吸い、
「じゃあ吐いてー」
息を吐いた。
「落ち着いた?」
「いえ、あの……これ、ひょっとして僕がエドワードさんを……」
 ここで「オレ、嫌だって言ったのにアルフォンスが強引に……」などとからかうことも出来たが、そんなことをしたら青年の呼吸が止まってしまいそうなのでやめておいた。
「酔っ払いのお前に水飲ませたらオレのシャツ握って離さないもんだから、そのままオレもここで寝た。でもってオレは一晩中、あんか代わりにされてたわけだ。まあ、昨日はちょっと冷え込んだしな」
 たぶん口移しで水を与えられたことは覚えていないだろうし、その後のことを説明するのも余計なことだ。とはいえ、ノーマルな人間が男である自分をどうかしたと誤解することについては若干気にならないこともなかったが、同性を性的な対象として見る人間と初めて会って、こんな風な状況に置かれたら当たり前の反応なのかもしれない。
「全然覚えてないのか?」
 しおしおと小さくなった青年は、かろうじて「はい」と頷いた。
「お酒を飲んで、狭いところを通ってあちこちぶつかったのは覚えてるんですが、そのあとのことはとんと……」
 あちこちぶつかったのは、階段をのぼっているときのことだろう。青年の長い手足は狭いところを運ぶには適さない。しかし、派手にすっ転んで顔を打ったことも覚えていないとは。
「お前、夜中に一回起きたんだよ。それで水飲もうとして部屋のところで蹴つまずいて転んで顔面ごと床に衝突した。鼻とか痛くねえ?」
「……そういえば、痛いです」
「まだ赤くなってるな」
 身を乗り出して確認すると、鼻の赤みが増した。
「あれ? 今頃腫れてきたのか?」
 つーか、鼻って腫れるっけな?と首を傾げていると、赤みは青年の頬に伝わっていき、最終的に全体に行き渡った。
「顔面総腫れ?」
「す、すみませんでした! ごめんなさい!」
 いきなり座ったまま器用に後ずさった青年は、今度こそベッドの下に落ちた。お尻から。
「ちょっ、アルフォンス、大丈夫か!?」
「平気です! それより、ご迷惑かけて申し訳ありませんでしたっ」
 今度は青くなった。赤くなったり青くなったりと忙しいことだ。そしてあたふたとした挙句、その場で昏倒した。


「やっぱり二日酔いですか」
 戸口からベッドにまた横たわっている青年を見ながら、ハボックは火をつけていない煙草をくわえている。毛布の下からは「ずびばせん」とくぐもった声がした。
「ハボック、朝飯は?」
「まだ食ってません。買出しついでに市場で食おうと思ってたんで」
「よかったら一緒にどう? 粥でよかったらだけど」
「御相伴に預かりましょう」
 最近粥など作ることがなかったので分量を間違えて作りすぎてしまった。この国では主食はパンで日常的に米を食べることは少ないが、消化が良いので重宝している。青年用には塩で味付けをしてたまごを溶き入れ、自分たち用にはピクルスを刻んだものと蒸したささ身を乗せた。ごま油で風味付けをしたワカメのスープを添える。東方のシン国産のごま油は、近くにある雑貨店で試しに買って、なかなか使いでがあるので常備している。
「うまいし、胃に優しいし、飲んだ日の次の朝にはいいっすね」
「なあ、思ったんだけど、これメニューにくわえてみるのはどうだろ」
「よさそうですね。俺は賛成です」
「問題は、うちの店は朝はやんないから、昼に需要があるかってことなんだけど」
「酒飲みじゃなくても、胃の弱い人には喜ばれると思いますよ。夜は夜で、飲んだあとの締めにこういうものを食べたいって人はいそうだし」
「なるほど」
 たまにこうしてここでハボックと差し向かいで朝食を取るということはこれまでにもあった。そうじゃないときはしばらくは一人だった。今までの相手は店の二階にはあまり泊まらなかったし――ベッドが狭いという物理的な理由で――、自然、このテーブルで食事をすることもない。ここで日常的に誰かと向かい合って食事をするようになったのは、ここに来てばかりの頃、師匠と暮らしていたとき以来だ。一人で食事をするのは味気ない。誰かと一緒に食べるというのは幸せなことだと思う。このところ、いつも傍に青年がいるのでとみにそう感じるようになった。
「大将、なんか嬉しそうっすね」
「そうか? 気のせいだろ」
 二日酔い継続中の青年に、昼飯は何を作ってやろうか、と考えることすら、なんだか楽しかった。

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