「どうしてお前がここにいる……」
「どうしてもなにも、お許しが出たからね。昨夜、『また明日』と言ったのをもう忘れたのか」
 来てはいけなかったかな?と聞かれても「いけない」と答えられないのが辛いところだ。しかしもう少し何がしかの配慮があってもいいんじゃないか。と、客を見送った先でにこにこと立っている男を見上げる。この身長差も腹立たしい。
「昨日も来たのに今日も来るのか」
「眉間に皺が寄ってるぞ」
「気のせいだ」
 どこでもいいからとっとと座れ、と言い置いてカウンターに戻る。ハボックにまで「眉間に皺」と注意されてあわてて元に戻した。
「教授の注文は?」
「知らん。オレ、ちょっと上見てくるから」
「ちょっ、大将! 俺一人じゃ無理ですって! 五分! 五分で戻ってきてくださいよー!」
 嘆くハボックを背にとっとと階段を上がる。マスタングがテーブル席を通り過ぎてカウンターに座ったのがちらりと見えた。ついでに、彼に向けられるご婦人方の視線も。
 そんなに注目を集める見てくれだろうかと疑問に思うが、造作がそんなに崩れているわけでもなく、教授という地位にあり且つ独身、人当たりもそこそこ良くて清潔そう、というある程度の条件が揃うと世の女性は好感を抱くものらしい。まあ、清潔というのは自分にとっても大きなポイントではある。食べ物を出す店を経営していることもあるし。
 二階に上がるとちょうどアルフォンスが部屋から出てきたところだった。
「起きたか。具合はどうだ?」
「なにからなにまで、一から十までなにもかもすみません」
 大きくて細い体をぺこりと折って、青年はまだ少し青い顔で申し訳なさそうに謝った。
「着替えたらすぐお店に出ますから」
「却下」
「でも」
「いいから休め。油や肉の匂いに今のお前が耐えられるのか?」
 ぐっ、とつまった青年を椅子に座らせ、鳥の巣のようになってしまっている髪をすいてやる。
「酒、呑んだの初めてか?」
「……初めてではないんですが、あんなに呑んだのは初めてです……」
「そっか。じゃあ今度は自分の適量を把握しないとな」
 本当に申し訳ないとばかり口にする青年の頬をびよーんと左右に引っ張った。
「許してる相手に何度も謝るのはかえって失礼ってもんだ。これから先、この件に関して謝ったらこうしてやるからな!」
「はっ、はひ! ふひはへっ――」
「すみません、はもう禁止つったろ」
「ふ、ふえ! ははひはひはっ!」
 青年がぶんぶんと首を縦に振ったのでようやく放してやる。赤くなった頬をさする青年はさらにもう一度何か言いかけたが、軽く睨みつけてやるとすごすごと引き下がった。鳥の巣頭がしょぼんとする。
「ところで、腹には何か入れといたほうがいいと思うんだけど、朝と同じものでいい?」
「あれ、おいしかったです。すーっと胃を通る感じなのにお腹にたまるし」
「じゃ、作ってくるからいい子にして待ってな。下りて来たら叩き出すからな」
 しょぼんとしていた青年は、こどものように頷いた。

 下に戻るとハボックは「二分ジャスト!」と両手を挙げて喜んだ。
「数えてたのかよ」
「数えてましたよ! ほらこれ、窓際に運んでください」
 トレイを持たされ窓側のテーブルへ向かう。贔屓にしてくれるご夫人もやっぱり、マスタングのことが気になるらしい。
「しばらくお見かけしなかったのは、大学のほうがお忙しかったからかしら」
 内心、入店禁止令を出したからっすよ、と思いながら引きつった笑みを浮かべる。
「あー、入試の試験問題作ってたみたいですからねー」
 マスタングがやったとは聞いたこともないが。
「やっぱり時間がかかるんだと思いますよ。その間、講義やゼミを休めるわけでもないですし」
 女に手を出す暇はあってもな!
「もうすぐ入学式ですから、また忙しくなるみたいですよ」
 だからまたしばらく来ないでくれ。
 並べ立てた嘘八百に夫人は「大変ねえ」と人の良い応えを返した。少々、良心が痛んだ。
 そしてカウンターに入るとその良心もあってなきがごとしに早変わり。
「私は試験問題など作った覚えはないなあ」
「じゃあ、お前が浮気三昧でオレがキレて振ってついでにもう顔も見たくねえから出入り禁止にしたって本当の理由を話してもいいんだな!」
 あまり外聞のいい話ではないので声は抑えているが、ハボックには聞こえているので「痴話げんかはよそでやってください」とダメ出しされた。
「誰が痴話げんかだ! ……オレ、アルフォンスの昼飯作るから。うん、朝と同じやつ。今度はささ身入れる」
 途中でハボックに材料を取ってもらいながら鍋を火にかける。その様子をマスタングが眺めている。
 それは何かと問われて必要最低限「粥」とだけ答え、むっつりと鍋を見つめた。
「今日はアルフォンスくんは?」
 黙っていると代わりにハボックが口を開いた。
「二日酔いで寝てますよ」
「なら、見舞いでもしようか」
 ハボックがちらりとこちらを見る。
「家主の許可が下りないみたいですよ」
「そうか。では、よろしく伝えておいてくれ」
 りょーかい、と頷くハボックは話しながらも手をとめず、食材を軽やかに刻んでいく。ハボックが切ったささ身はネギとごま油で軽く和えてお粥の上に乗せるのだ。
「あっさりしていておいしそうだね。明日はそれにしようかな」
「教授、大将はどうやら明日も来るのかと目で言ってます」
「以前もほとんど毎日来ていただろう?」
 学食行けよ、と心中で毒づいて鍋の中身が煮立つのを待った。客席に運んだり、客席から運んだりと忙しく立ち回っている間中、マスタングの視線を感じる。時折はずれるのはマスタングが周りのご婦人方に愛想良く笑いかけているからで、それ以外はずっと。ぐつぐつと大きな音がし始めたところを見計らってカウンターに戻るまでずっと。
「己は変態か!」
「いやなことを言うね。私の趣味指向は知っているだろう」
「知りたくなかったがな!」
「君のその険のある表情も非常に好みだよ」
「昼間っから何抜かしてやがるこの変態」
「夜ならいいのかね」
「夜はアルフォンスと過ごすって決めてんだよ、お前相手に割く時間は無えな」
「あーもー、どうでもいいからお二人さん、昼日中から不毛な言い争いしないでくださいよ。大将、ほら粥が煮立っちゃってますよ、早くアルフォンスに持ってってやれって。教授は他のご婦人方にへらへら愛想振りまいといてくださいよ、期待してらっしゃるみたいだから」
 確かに不毛ではあったが、ハボックの言い様も相当ひどい。ハボックがひそかに好感を抱いている女性がマスタングに微笑んでいるからか。そして二階へ運んで戻ってくると本当にマスタングは近くの席の女性たちと談笑してるのだから、ある意味律儀な男だ。
「ハイ、教授。お待ちどおさま」
 ちょうどマスタングのランチが出来上がったところで彼は早速食べ始める。マスタングはフォークとナイフの使い方が綺麗だ。姿勢もいい。マスタングが食べるところを見るのは好きだった。こうして見ていると今もまだ好きだなあと思う。がつがつ食べてくれるのも嬉しいが、こうやってとても綺麗に丁寧に食べてくれるのもまた嬉しい。食べる合間に「さっき言っていたことは気になるな。君とアルフォンスくんはどういう関係なんだ? 聞けば最近は夜出歩いてもいないようだし」などと人を怒らせるようなことを言わなければ。
 今まさに口の中でもぐもぐとしているウィンナーに激辛マスタードでも仕込んでやればよかった。
「アルフォンスと会ったのは一週間前。あいつが店先で座り込んでたから理由聞いてみたら財布落としたっつーからその日は泊めてやった。あんたんとこの大学の試験受けに来て、親に反対されて家出てきたんだよ。だから合格発表までここに置いてやることにして、店手伝わせてみたら料理のセンスがあるから働き手として住まわせることにしたってわけ。他に聞きたいことはあるか?」
「ある」
「あるのかよ……」
「彼は君にとって何だ?」
「どうしてこだわる」
「未練だと言ったはずだがね。覚えていないのか」
「……あいつとセックスしたかどうかって聞きたいんなら、答えはNOだ。あいつはノーマルだし、オレにもそんな気は毛頭ない」
 マスタングは耳がいいので相当声を抑えてもきちんとこちらの言うことを聞き分ける。彼は、ふうんとそこそこ納得したようで、しかし半分くらいはまだ納得しかねるようで、少し不満げにハボックに食後のコーヒーを要求した。
「ったく、何がそんなに不満なんだよ。だいたいヒューズさんに聞いてないわけ? ……え? ホントに聞いてな、い……?」
「ヒューズが何を知っているんだ?」
「アルフォンスがオレの……やーめた。気になるんならヒューズさんに聞いてみろよ」
「君が教えてくれればいいじゃないか」
「いやだね。あ、それオレ運ぶわ」
 カウンターを出て行こうとしたハボックからトレイを受け取って客席の間を縫う。背後でガタガタッと音がしてマスタングが折角のコーヒーを一口も飲まず、紙幣を一枚置いて席を立った。また明日、と言って慌しく出て行く。ちょうど今頃昼休みのヒューズのところへ向かうのだろう。
 マスタングが置いていった紙幣は桁が一つ間違っていた。
「大将……自分で教えてあげればよかったのに」
「だってなんかやだったんだよ。ついでに中年太りに食後の運動は利くんじゃねえの?」
「ちょっと痩せたようにも見えましたがね。にしても、教授は大将に未練たらたらだな。わかりやすいにもほどがあるってもんですよ。可愛いじゃないですか、入店禁止だって律儀に守ってたし」
「なあ、ハボック。あいつ、本気だと思うか?」
「俺にはどう見ても本気にしか思えませんよ。あとさ、大将もまんざらでもないように見えるな」
「ふざけんな」
「ふざけてませんって。これっぽっちもね」
 ふざけている。あんな男、二度も好きになるはずが無いのだから。

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