青年の父親は、頭に葉っぱを数枚くっつけた姿のまま青年を睨んだ。
「帰るったら帰るんだ!」
 そう言って何度引っ張っても無駄だった。とうとう青年は父親の手を振り払う。
「帰らないったら帰らないよ! 僕は、ここで、ちゃんと勉強して、小さいときからずっとずっとずっと大事にしてた夢を叶えるんだ。だからもう父さんは帰ってよ!」
「お前は家を継がなくてはならないんですよ!」
「家は継がないよ! 駄目だっていうなら勘当すればいいじゃないか。勘当してください。当主になりたいひとがなればいいんだ。そのうちの誰かがなったほうが、みんなだって喜ぶ――」
「もし今すぐにでも母さんが倒れたらどうする? お前がいなかったら皆我先にと手を挙げて、もめるに決まっている。私に抑えられるかどうかわからない。そうしたら困るのは領民なんですよ? お前には生まれた家に責任というものがある」
 ない、と青年は即答出来なかった。いや、出来なかったのではなく、しなかったのだろう。こういうものは一般的に世襲制で、長男、ましてや他に兄弟がいない家では彼が継ぐのが当然なのだから。
 ふと青年がこっちを見た。手助けを求めているのかと思ったが視線が合うと青年は、すうっと目をそらした。
「父さん。ずっと当主になる気がなかった僕に、その役目が務まると思う? 無理だよ。確かに僕には父さんの言うように責任がある。でもその責任を果たすことは出来ません」
「放棄するのか」
「はい」
 父親はため息をついて天を仰いだ。といっても上を見たって、あるのは年月とともに薄汚れた天井だけで、彼の心を晴らすような清々しい青が広がっているわけではない。
「母さんが悲しむな……心労で倒れたらどうするんだ」
「貴方、そんなに私を倒れさせたいの?」
 割って入ったのは女性の声だった。ドアのベルの音も足音も何ひとつ気づかなかった。女性はいつのまにかそこにいて、小柄な体で背筋をしゃっきりと伸ばしてしかめっ面をしている。
「まったく、何もないところで転んだり繁みに突っ込んだり看板にぶつかったりする貴方のおかげで、お家のひとやお店のひとにこんな深夜に謝る羽目になる私の身にもなってみなさい。貴方はどんどん先へ行ってしまうし、また迷子になったらどうしようと心配する羽目にもなるし、いい加減に落ち着くことを覚えてちょうだい」
「ご、ごめんなさい」
 まるで母親に叱られたこどもみたいに、もともと大きくもない体を丸めて謝る様子がこんなときなのになんだか可愛らしかった。小柄な母親は自分の夫を叱ったあとで自分の息子に向き直った。
「久しぶりね、アルフォンス。元気そうで安心したわ」
 そして、なぜか、ジャンプした。
 ゴツンと音がする。
 自分の見たものがにわかには信じられなかった。仕立てのよい服に身を包んだ一見淑やかな女性が、ジャンプして、自分の息子の頭を叩くなど。
 小柄な彼女に対して青年は背が高い。母親からのジャンピングパンチは再度繰り出されたが、青年ははじかれたように一歩退いて逃れた。
「なぜ避ける!?」
「避けますよ! 痛いから!」
 母からの抗議に叩かれた箇所を押さえながら青年は言い返す。隙あらばと狙う母と一瞬たりとも気を抜かない息子の攻防を眺めていた周囲の人間は、これはどういうことかと首を傾げた。
 青年の物腰ときちんとしつけられた仕草を見れば、両親はしっかりしているひとだとは推測出来た。ただ、跡取りの長男として接するときは多少厳しかったのだろうと。しかしこれでは、別の意味で厳しかったように思える。そして誰かに似ている。自分にもこんなふうに接してきたひとに覚えがある。
 疑問への回答は、少し離れたところからもたらされた。
「ねえ、アンタ。私はなぜか彼女に親近感を覚えるよ。なぜだろう」
「お前がエドにやってたことと同じだからだろう」
 イズミはなるほどと頷き、何のためらいも無く女性と青年の間に割って入った。
「そこまでだ。いつまでもこれじゃ話が進まないよ。察するに、あなたは力づくで連れ戻しに来たわけじゃないんでしょう、フラウ・ハイデリヒ?」
 フラウ・ハイデリヒはイズミの言葉に目を丸くすると、ワンテンポ置いて、構えていたこぶしを解いた。


 店内は、重苦しいようなそうでないような微妙な雰囲気に包まれていた。
 ひとつのテーブルの一方にハイデリヒ夫妻、向かいに青年が座り、あとの人間は周りに適当に座ったり立ったりしている。すぐ隣にはホークアイがいて、恋人同士といっても不自然じゃないように寄り添っている。こんなときだが、間近に美人がいるのはいい気分だなと思う。
 夫妻の自己紹介が終わり、次はこちらの番だった。
 まず先ほどの流れからイズミが口火を切る。
「私はイズミ・カーティス。こっちは夫のシグ。ここは私の店で、今はそこにいるエドワードに任せています。その隣がエドの婚約者のリザ」
と順々に紹介していき、最後にマスタングが残された。
「……ミズ・カーティス。私は紹介してはいただけないのですか」
「何を言うか。いわば今回のメインはあんただからね、自分で大々的に名乗ればいいさ」
 まさか本当の理由を明かすわけにはいかないのでイズミは堂々と誤魔化したが、あまりおおっぴらにしたくはない自分の恋愛遍歴の一部に触れられるようで恥ずかしい。それにしてもこうなるとマスタングが気の毒にも思えてくる。ましてや、マスタング教授の助手をしているホークアイにまでくすくすと笑われているのだ。リザさん……と呟くと、彼女は唇に指をあてて小声で囁いた。リザって呼んで。
 どうも彼女はこの状況を楽しんでいるらしい。普段の怜悧な面影はなりを潜め、かわりに柔らかい笑みが浮かんでいる。そんな彼女と自分をちらっと視界におさめたマスタングはちょっとむっとしたみたいだった。日ごろよっぽど彼女に冷たくあしらわれているのだろう、この状況がうらやましいらしい。
 わざとらしく咳払いをしたマスタングは、低音の美声で自分の名と大学の教授であることを述べた。
「アルフォンスくんが研究室を訪ねてくれましてね、そこで話をしたんですが、現時点で断言出来ます。彼は優秀だ。論文の理解度が高いですし、私の質問にも的確な答えを返してくれました。ぜひうちの研究室へ迎え入れたい。この分野は国が力を入れていますから、進学は彼の将来にとって決して無駄にはならないと思いますよ」
 別にたいしたことは言っていないのだが、よどみなく流れ出るマスタングの言葉にはなんだかとても説得力があった。これは彼の武器の一つなのだろう。そして、出会った頃の自分はその武器の前に防御する術を持たなかったのだ。
 しかし自分とは違ってフラウ・ハイデリヒはしっかりとした盾をお持ちだった。
「領地を治めるのに飛行機をとばす勉強など役に立ちませんでしょう。国が力を入れているといっても、所詮は水物。先行きなどわかりません。情勢が変われば国など手のひらを返したように予算を引き上げます。ましてや、勢いがあるとはいえ、先駆者の多くは多分野からの転進組で航空工学それ自体はまだ若い。失礼ですが、まだお若い貴男が教授の地位についているのも、絶対数が不足しているからでしょう。違いますか?」
「それを理由の一つとすることに否定は出来ませんね」
「ならば、息子にその道を選ばせることを不安に思う親の気持ちも理解していただけるかと思います」
「私は未婚でこどももおりませんが、子を思う親心には感じ入ることが多々あります。しかし、貴女のご意見にあえて反論を申し上げるなら、私が教授であるのはそれにふさわしい実力と実績を積み上げたからですし、この国は内乱の傷跡が癒えつつある今、外の世界に目を向け、工業国として諸外国と渡り合う力をつけることに国をあげて取り組んでいます。機械鎧はご存知ですか? あれは外国のレベルをはるかに超えている。軍事上、又経済上で空を手中に収めることは現在最も求められていることです。この分野で何がしかの成功を収めることは国策へ影響を与える人間とのパイプを持つことにもなる。多少なりとも私にはそれがあって、彼が私の教え子になるならば……彼にとっても、もちろん貴方がたにとっても悪い話ではありますまい」
 初耳だ。マスタングにそのようなつながりがあるとは。
 つきあっていたときもそんな関係をにおわせるようなことは何ひとつなかった。隣のホークアイの様子を窺うと、彼女はただ恋人を装いながら微笑んでいる。
「すぐに断るにはあまりにも魅力的な話ですね。所詮わたしどもは地方の端の一部を治めているにすぎない。何かあったとき、中央に口添えを頼めるとあれば、それに越したことはありません」
 意外な展開になってきたやり取りに皆が身を乗り出し始めた。
「アルフォンス、お前は学問を政治に利用することをどう考えているのかしら」
 問われた青年は迷う間もなく口を開く。
「学問はそれのみで成り立つものじゃない。関わりを持つうちの一つに政治があったとしても、僕が否定する筋にはないよ」
 そう、と母は息子の顔を見上げた。そして、声に出さずに呟いた。
『あのひととはちがうのね』
 唇の動きからはそう取れた。あのひと、とは誰だろう。考えても詮無いことだし、そもそも読み取り間違いかもしれない。
 母は笑った。気持ち、弱弱しい笑みだった。
「アルフォンス、お前がしたことはフェアじゃない。勝手に飛び出して、心配させて……本当に心配したのよ」
 ついさっき自分で叩いたところを手を伸ばして撫でる。青年は少し前かがみになって、母親のするに任せた。
「ごめんなさい」
「賭けをしましょう、アルフォンス」
 賭け?と皆が擬音符を浮かべつつ、状況を見守る。その輪の中で母は息子に告げた。
「時間をあげるわ。卒業までにものにならなかったら、家に戻りなさい。教授が短時間でお前に少しでも価値を見出したのなら、四年もあれば充分でしょう? ねえ、教授」
 そうですね、とマスタングは鷹揚に頷いたが、組んだ腕がぴくっと動いた。あれは自分の気持ちをごまかすときの彼の癖だ。つまり、四年では無理、という意味だった。
 おそらく青年もわかっているのだろう。しかし可能性はないとは言い切れない。
 青年は賭けにのることを宣言し、父親は天井を仰ぎ、母親は厳かな面持ちで受け入れた。

>> 17

※フラウ=「Frau」 英語でいう「Ms」
※ヘル=「Herr」 英語でいう「Mr」