自己嫌悪自己嫌悪自己嫌悪。
 反省反省反省。
 朝から気分はどんよりだ。
 深夜で音は気になったがどうにも気持ち悪くて勝手にシャワーを借り、なぜかしっかり用意してあるタオルと下着を身につけ、色々と情けなさを引き摺りながらソファーに横になった。眠れないので時計の針がチクタクするのを数えたり、窓から空を眺めたり、今度の休みにはちょっと街を離れようかと考えたりしたが、気づけばあの顔が浮かんでしまってますます眠れない。そうこうしているうちに長いような短いような夜は明け、台所にマスタングと隣り合って立つ羽目に陥っている。
 意外だったのは、顔を合わせたときにこっちはともかく向こうも一瞬気まずそうにしたことだった。ほんの一瞬だったので見間違いかもしれないが。
 鼓動がやたらうるさくて、このままだと指を切り落とすことになりそうだと包丁を扱いながらふと横を伺うと、緊張や気まずさが勢いよく吹っ飛んだ。
 ぼこぼこ泡がたって沸騰した鍋に、マスタングが生の卵を入れようとしている。
「アホか!」
 そういえばこの男は料理がだめだった。一通り作れることは作れるが、味付けがまずいとも言い切れない、おいしいわけでもない微妙な具合で、加えてこんなふうに基本的なことを間違える。
「オレがやる。あんたは向こう行ってて」
 マスタングはきょとんとしたあと、うれしそうに笑った。
「君がよく泊まりに来た頃のことを思い出すよ。腰をさすりながらいつも朝食を作ってくれて――」
「黙れ、邪魔だ」
 脛を蹴り飛ばして台所から追い出すと、マスタングは痛みで涙目になりながらテーブルについた。
 昨夜のことはどちらも口にしなかった。自分から蒸し返すのは墓穴を掘るようなものだし、マスタングも多少考えるところはあったのかもしれない。
 コーヒー豆を出してテーブルに置くと、マスタングは心得たように豆を挽き始めた。
「ところで、エドワード。この豆はそんなに安くはないが、夫妻の口に合うだろうか」
 豆、と聞くと反射的にぴくぴく動いてしまうこめかみを努めて無視し、ごりごりと取っ手を回しているマスタングを眺める。
「気にしなくていいんじゃねえの? 同じもん飲んで食ってただろうアルフォンスは、好き嫌いねえし、安売りの野菜やら肉やらも旨そうに食ってたし」
「アルフォンスも不思議な子だね。地方の領主様の息子なのに料理が出来るなんて」
「それどころか、掃除洗濯にも不自由しねえぞ。フラワーアレンジメントもばっちりだ。師匠が誉めてた」
「君は美しいけれど美的センスは皆無だからな」
「余計なお世話だ。あと美しいって言うな、鳥肌立つから」
 そうこうしているうちに呼びに行くまでもなく、一家が降りてきて朝食となった。
 マスタングのうっかりのせいで気まずさと昨夜の醜態への自己嫌悪はひとまず忘れることが出来、青年とその両親の顔もまともに見られた。あるいはそれも、マスタングの狙いだったのかもしれない。
 朝食の後、お茶でも入れに立とうとすると、夫人に呼び止められた。
 まず、父親のほうから、電話の際の非礼を詫びられた。
「息子さんを心配なさるお気持ちからのことです。どうぞお気になさらず」
 そう言っていただけるとありがたい、と彼はほっと息をついた。
 そんなやり取りの間、かわりにお茶を入れようと台所に入ったマスタングがしきりとごそごそ棚をあさっている。
「エドワード、茶葉のストックが見当たらないんだが、どこだろう」
 定期的に来る家政婦は、日常の細々とした品の補充もやってくれている。よく気の回ることに、ストックされた品も期限が切れる頃には新しいものに取り替えてくれるので、その辺りがぐうたらなマスタングでも食品にカビを生やすようなことはない。そして家政婦の努力は、ストックの場所をちょくちょく忘れるマスタングによって水の泡になることもしょっちゅうだ。
 期限切れになる前に持って帰っちゃっていいよ、と彼女に入れ知恵をしたので、努力は水の泡にはなってもゴミになることは免れている。
「いい加減覚えろよ。流しの反対の棚、向かって左」
 彼女が場所を変えていなければそこにあるはず、と思って答えると「あったあった、ありがとう」と返事があった。
 その様子を目にした夫人が微笑んだ。
「お二人は仲がよろしいのね。ミス・ホークアイは教授の助手でいらっしゃるものね」
 自分たちを引き合わせたのはホークアイ。その設定でいくと、ホークアイとどこで会ったのかも説明が必要になるかなあ、と曖昧に答えようとしたら、流しの向こうからやんわりと助け舟が割って入った。
「いえ、元々は彼と私が友人だったんです。私は彼の店の常連で、話しているうちになかなか気持ちがよくて面白い男だと知りましてね。研究室に招いているうちに、ホークアイとも親しくなったようで。彼女の目は厳しいですから、その眼鏡にかなったということは、信用のおける人間だという証になると私は思っています」
 こんなふうにぺらぺらと嘘を並べ立てたうえ、持ち上げてもくれるとは、抜かりないというかなんというか。
「そういうつもりではなかったのよ。ミズ・カーティスの息子さんとなれば、私たちの息子を預けるには心配の必要はなさそうだもの」
 イズミの息子、という部分を訂正するかどうか迷った。というより、まず夫妻は気づいているだろう。イズミとシグは、どちらも黒髪。対して自分は金髪金眼。実子とするには無理があるし、金髪はともかく金眼は割りと珍しい。
「エドワードさんの眼は綺麗ね。ご両親のどちらかも、やはり明るい瞳をなさっているのかしら」
 こちらから言うまでもなく、向こうから水を向けられた。
 まあ、気になるのは当然だろう。
「母さん、いきなり失礼だよ」
「かまわないさ、アルフォンス。そうですね、父がこんな色の眼をしていました。母は茶色で……あなたと同じ色でした」
 弟の眼は茶色寄りの金、顔立ちも母に似ていて、そういえばこの青年の母親もよく似ている。見間違うほどではないが、夫人の雰囲気をもっとやわらかくして髪の色を若干暗くすると姉妹で通じるくらいではないだろうか。幼い頃の記憶と、数枚の写真だけが母の姿を残している。
「こんなことを言っては失礼かもしれませんが、貴女はオレの母と似ている。アルフォンスは貴女そっくりだ。彼を店の前で見たとき、懐かしくなって引き止めてしまったんですが、後から考えたら、アルフォンスに母の面影を重ねていたのかもしれません。
 どうしてオレが彼を住まわせることにしたのか、気になるでしょう? これが理由です」
 隣で青年が驚いていた。理由を話すのはこれが初めてだったから、面食らうのも無理はない。
 対して夫人の表情はほとんど変わらなかった。
「もしかしてご両親は……」
「母は、オレが幼い頃に病で亡くなりました。父はその前に旅に出たまま、もう十年以上も会っていません。一所にとどまれない性質だったみたいで。それで近所の機械鎧技師の家で面倒を見てもらっていたんですが、家族を探そうと村を出たんです」
 その後はなぜかマスタングが引き継いだ。
「遠縁のイズミさんを頼って、しばらくはこの街を拠点に国内のあちこちをまわっていたんですがね、数年前ようやくここに腰を落ち着けた、というわけです」
 如才ないなあと思った。そしていつのまにか横に立っていたマスタングに頭にポンと手を置かれた拍子に、涙がこぼれ落ちた。
「すみません、オレ、なんで……」
 普段、日常の生活の中で母親のことはそう思い出すこともなくなった。この間、ウィンリィと少し話したこともあってか、目の前に母に似た人がいて、懐かしさが増してしまったのだろう。
 フラウ・ハイデリヒは、余計な詮索をしたことを詫び、夫ともども頭を下げた。
「これからも、息子をよろしくお願いします」
 その日の昼、夫妻は嵐のような来訪とは打って変わって穏やかに去って行った。

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