「いってきます」
「おう。気をつけてな」
 朝食をともにし、こうやって青年を送り出すのが朝目覚めてからの一連の流れだ。このやりとりもすっかり身になじんだ。
 入学式を経て、青年が大学へ通い出してからもう二ヶ月になる。ゼミはもちろんマスタングのところに入った。マスタングが気を惹かれた(至極真面目な意味で)のは本当のようで、熱心な指導を受けて、帰るのが遅くなるのもしばしばだった。あんな変人の巣窟に生真面目そうな青年を放り込んで大丈夫なものだろうかという些細な心配などまったくの無意味で、毎日楽しそうに、忙しそうにしている。
 たいていの学生は一年次は前期に一般教養、後期から専門科目の講義を取り始め、ゼミに所属するのは二年からだから、青年のように一年のうちから指導教官がつくのは珍しいことだった。卒業には教養から何単位、専門から何単位を取得とノルマが課せられるので、青年はゼミ以外の講義もおろそかに出来ず、一限から予定がびっしりとつまっている日もある。それほど体力自慢でもなさそうなのでそのうち倒れるんじゃないかと思っていたら、倒れるまでではないものの、目に見えてふらふらしていたので問い詰めてみたことがあった。
 今日、昼食を取る暇がなくて……、などという答えが返ってきたので、今日だけじゃないんだろ?と念を押してみたところ案の定。昨日も、おとといも、とか。
 その場で、アホか!と頭をポカリと叩き、翌日からは昼食を調達する時間がないときには弁当を持たせることにした。午前最後の講義が長引きがちで、午後最初の講義が離れた棟であると、食堂や購買が遠くて寄る暇もないらしい。大学のキャンパスは無駄に広い。棟と棟とが離れている上に、建物自体も大きく、特に研究室棟は防災上どう考えても問題なのに建物内部のあちこちで意味不明の通行規制がなされている。廊下を戸棚がふさいでいたり、真ん中に机と椅子が積み上げられていたり。各教授助教授が自分の使い勝手のよいように物を配置し、人通りをコントロールしようとした結果だ。初期でこそ教授連は「それをどかせ」だの「んなゴミは処分しろ」だの言い合っていたものの、今はもう互いに不可侵を貫くことにしたらしく、事務局もすでに諦めている節があって、おかげで学生たちは、本来なら入り口からすぐの研究室に行くために、全く反対側の入り口まで遠回りをしなければならない羽目に陥っている。
 そして今日もランチボックスを青年に持たせ――たはずが、机の上に鎮座していた。朝食の後片付けのあと、暢気に二杯目のコーヒーなんて飲んでいるところだったので、青年はとっくに大学についている頃だ。ちょうど今日は定休日だし、届けがてら学食で昼をすませよう。そう思って立ち上がると、階下で客の到来を告げるベルが鳴った。
「……なんだ、あんたか」
 ドアの向こうで微笑んでいるのはマスタングだった。
「おはよう、エドワード。せっかくの爽やかな朝なんだから、『おはよう、来てくれて嬉しいよ。上がってコーヒーでも飲んで行ってくれ』くらい言ってくれればいいのに」
「……おはよう、来てくれなくてもよかったのに。コーヒーは今飲んだところだからあんたの分はない。オレは他に用事があるから帰れ」
 マスタングは肩を竦めて「相変わらずつれないな」と笑みを深くする。あんなことがあってから二ヶ月とちょっとが経っていて、自分と同じようにマスタングも相変わらずだ。
 あの直後でこそマスタングにからかわれるたびに動揺したが、今はもう慣れた。何事も慣れだ。割り切れなければ日々は過ごせない。
 そして、こうやって口では好意を否定しながら結局はマスタングを二階に招き入れてコーヒーではないが紅茶をふるまうのだ。微妙な距離感が自分たち二人の間には必要なんじゃないかと思う。
「君が淹れてくれる紅茶は何故おいしいんだろう」
「茶葉のせいじゃねえの? あんたの研究室に置いてあるの、なんかよく湿気てるし」
「リザが入れ替えてくれなくてね。君が来ていた頃はそんなことはなかったのに」
「自分でやればいいだろ。何でもかんでも助手がやってくれると思ったら大間違いだ」
「そういう雑務も助手の仕事の範疇だと思っていたんだが……」
「リザさんに同情するよ」
 家のことにぐうたらな男は職場でも研究以外のことにはぐうたらで、研究室を仕事以外のことに使うのもしょっちゅうだった。そんな男の下についていたら紅茶のストックを湿気らせてしまうくらいご愛嬌だ。
 二杯目を要求する男にポットの中身を注いでやる。
「それ飲んだら帰れよ」
「今日は夕方まで休みだからデートに誘いに来たんだが、何か用事でも?」
「さっき用あるって言ったじゃん。届け物があるんだよ」
 テーブルの隅に置いてあるランチボックスを指すと、マスタングは「なるほど」と頷いた。
「アルフォンスに弁当を届けに行くのか。じゃあ、私も行くよ」
「せっかく休みなんだから、家か街かで休みを満喫すりゃいいだろ」
「憂鬱な仕事場でも君と一緒なら満喫出来るからね、お供させてもらおう」
 しかし席を立つでもなく、マスタングは昼食の包みをじーっと見つめている。そして、ちらっとこっちに視線を寄越す。
「……食べたいのか」
「食べたいな」
 ここでもし「食べたいな」に続けて「君を」とでも言おうものなら即座にたたき出すつもりだった(実際、マスタングはこの手のことをよく口にする男だ)が、純粋に弁当を食べたいようで、期待に満ちた表情でこちらの返答を待っている。しかたがない。
「あんたの分も作ってやるよ。ちょっと時間かかるけど待ってろ」
「君の分もね」
「はあ?」
「いい天気だ。外で一緒に食べよう」
 確かにいい天気だ。よく晴れているし、だからといってそう日差しはきつくない。風もそよいでいるから外は気持ちいいだろう。
「そっか。時間あったらアルフォンスと一緒に食べられたのか」
 こんな日に大学のキャンパスのどこかで、理想としては芝生の上なんかで昼食を取れたら、ピクニックみたいできっと楽しいだろう。久しくそんなことはしていなかったので、想像するだけでも気分が浮き立つ。
「誘ってみればいい」
「無理だよ。ゆっくり昼たべる時間がないんだから弁当持たせてるんだし」
「そういえばアルフォンスは随分忙しいようだな」
「あんたがそれを言うのか」
 自分たちの分も作ろうとまな板を洗いながらマスタングに言い返してふと気づいた。とても今更なことに。
「ゼミってさ、専門取ってから入るもんなんだよな? あいつ、教養とゼミ取ってるっていうけど専門科目はどうしてんの?」
 だいたいのシステムは知っているが、実際に通っているわけではないのでその辺りがよくわからない。その点、教授であるマスタングは当然のように心得ている。
「専門科目の単位は特に必要ない、内容についてこられるならね。アルフォンスは知識なら二年生よりもあるんじゃないかな。無論、卒業には専門の単位も必須だけどね。それに一年の前期では専門科目の講義には登録できないから、たぶん今のうちに一般教養の単位を取れるだけ取って、後期は専門を主に入れるつもりだろう。履修登録に関してはリザが相談に乗っていたようだが。心配かい?」
「そりゃそうさ。しょっちゅう帰りが遅くなるし、三日連続で昼飯抜いてふらふらになってたこともあるし……あのさあ、あんたにこんなこと頼むのも何だけど、あいつがあんまり無理してたら止めてやってくれないかな。オレが心配しても、『大丈夫です』としか言わないんだ」
 マスタングからすぐ返事が無いので振り向くと、彼は腕組みをして考えこんでいた。そんなに悩むことだろうか。青年はマスタングを慕っているし、尊敬する教授に諭されたならば少しは自分の体のことを考えると思ったのだが。
「マスタング?」
「……ん? ああ、いいよ。私から言ってみよう、他ならぬ君の頼みだしな。まあ君が言って駄目なら私が言っても意味がないとは思うがね」
「そんなことねーよ。だってアルフォンス、あんたのこと尊敬してるもん。オレには理解出来ないけど! でも……ありがと」
 フライパンにひいた油がパチパチとはぜる。切った材料を放り入れてから、思い描いたメニューがどれもこれもマスタングの好物だったことに気づいて頭を抱えたくなった。
 ――まあいい。青年を気にかけてくれることへの礼だ。

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