「リゼンブールに行かないか?」
と誘ってみれば、青年はきょとんとした顔で首を傾げた。遅れて、慌てふためいたように「リゼンブールってエドワードさんの故郷のリゼンブールですか!?」なんて言う。
「そこ以外にオレはリゼンブールって地名、知らないけど。で、行く? 行くよな? 休みちゃんと取れたって言ってたもんな」
 たたみかけると、青年はおそるおそるといった風に「いいんですか?」と尋ねた。
「休暇まるまる実家で過ごすつもりなら今回は諦めるけど、一度お前をピナコばっちゃに会わせたいと思ってさ。あ、ピナコさんは隣に住んでてオレを育ててくれた人な」
 その名前は存じてます、と青年が相槌をうつ。
「リゼンブールは何もないけど、お前ここんとこずっと忙しかったから、何もやらないっていう時間も必要だぞ。ま、ふらふら歩いてたら畑仕事に駆り出されるかもしれないけどな」
「……本当に、行ってもいいんですか?」
「もちろん。これだけ誘ってるんだから、来てくれないと困る。つーか、さみしい、オレが」
 見上げると、青年はたじろいだように視線をそらし、しばらくしてから、こっくりと頷いた。


 この町からリゼンブールまでは半日がかりの列車の旅になる。途中で青年の故郷へと続く路線と別れ、ガッタンガッタンと揺れながら、列車は草と木と穀物と山と川しかない風景の中をひたすら走って行った。
 リゼンブールの駅に降り立つと、顔見知りの駅員が目をとめ、手をあげて振る。
「久し振りだなあ、エド」
「よお、おっさん。すっかり中年太りしてんな」
「口の減らないガキめ」
 繰り出した柔らかいパンチをでっぷりしたお腹で笑って受け止めた駅員は、数歩下がったところにいた青年を見上げた。
「この子は?」
 青年を隣に並ばせて「うちの居候のアルフォンス。大学生だよ」と教えると、ふくよかな駅員は、あれ?と何かを思い出すように視線を動かしたが、結局は思い出せなかったらしい。
 駅から出たところにちょうどピナコの家に馬車があるから乗せてもらうといいと教えてもらって、駅舎の前にいる馬車を見つけた。
 声をかけると快く承諾してくれたので、青年と二人、荷台に乗る。駅前にはここ数年でお店が十軒ほど集まり、見渡す限り野原と畑にぽつぽつと点在する家、という景色だったのがだいぶ変わったように見えた。が、ほんのわずかなメインストリートを抜けると、そこはもう見なれたのどかな風景だ。
「いいところですね。僕の故郷もこんな感じです」
「お前んとこは、もう少し拓けてるだろ」
「エドワードさん、いらしたことあるんですか?」
「たぶん、領地の端っこくらいだな。どっか行く途中に通った覚えがある」
「ずっと旅してたって言ってましたもんね」
 馬車に揺られているうちにお腹がぐうと鳴った。あはは、とごまかしたところで、もう一度、ぐうと鳴った。今度は隣からだ。
「着いたらちょうどお茶の時間だ」
 顔を見合せて二人で笑う。住民誰もが顔見知りという土地に余所からやってくる人間には、何かしらなじめないものを感じることがあるが、青年にはまったくそんな雰囲気はなかった。むしろ、驚くほどに普通だった。立ち居振る舞いこそ育ちの良さが感じられるものの、そのあたりの畑で鋤や鍬を持たせて立たせたら初めから土地の者に見えるだろう。なんとなくうれしくなった。
 ロックベル家に着くと、馬車主の荷物を運ぶのを手伝って、ドアベルを鳴らす。
「ばっちゃー、帰ったぞー。あと、客だぞー」
 ほとんど待たずにドアが開けられた。
「おや、いらっしゃい。注文の品はそっちだよ、確認しておくれ」
 ピナコは客に品物の場所を示し、こっちを向く。
「おかえり、エド。よく来たね、いらっしゃい」
 目を細めて青年を見上げたピナコは、にやりと笑うと二人を招き入れた。
「本当によく来た……人手が」
 にやりの理由がよくわかった。
「ばっちゃ……あの、こいつがアルフォンス・ハイデリヒ」
「はじめまして、アルフォンスです。お世話になります」
 深々と頭を下げたが、ピナコの身長とあいまって、傍から見たらなんとなくちぐはぐな光景だった。
「ああ、そんなにかしこまらなくていいよ。いつもどおりにしてとくれ。けど、働かざるもの食うべからずだからね」
「もちろんです。僕に出来ることでしたら何でも申しつけてください」
 ゆっくり休ませようと思ったのに、これでは当初の目的からずれてしまいそうだ。ただ、青年にしてみればその性格上、多少は仕事があるほうがよさそうだし――今も、ほっとしたような顔をしている――ピナコにしたって、何でもかんでもやらせようとすることはないだろう。
 それにしても領主の息子だというのに、まったくそんなことを感じさせない。
 部屋は上を使えとピナコに送り出され、二階へ上がる。いつもは一人だから作業場の脇の小さな部屋を使わせてもらっているが、今日は二人なので、二人部屋を用意してくれたらしい。
 あんなことを言いながらも、部屋はお客様待遇だった。ベッドカバーもシーツも真っ白で、よく干したのか陽の匂いがした。
 荷物を解き、青年を残して台所に入った。紅茶を四人分淹れ、ピナコと客に出し、二人分のカップを上へ運ぶ。
 青年はベランダに出て、外を眺めていた。
「もしかして、あれってエドワードさんの家ですか?」
「よくわかったな」
「……人の、住んでいる気配がしないので」
 定期的にピナコや近所の人が、帰省したときにウィンリィが掃除をしてくれるので、それほどさびれてはいないが、やはり人のいない家はそうとわかる。
 ぴっちりと閉められたカーテン、空っぽの鉢植え。
 迎えてくれるのは人のいない家。
 もうただの建物だが、取り壊したくなくてそのままにして旅に出た。きっとだんだん荒れていき、普通よりずっと早く朽ちていくのだろう。そう思っていた。
 なのに何年かぶりに帰った家は埃のにおいが想像していたよりずっと薄くて、空気もこもっていなかった。
 捨てようとした家を、守ってくれる人たちがいるのだと知って、一人でこっそり泣いたこともあった。だからあの建物は、ひとが入ったときにだけ家に戻る。
「家に案内するよ。化学や物理の貴重本があるんだ」
「いいんですかっ?」
 はじかれたように訊く青年がほほえましい。よほど知識の吸収に貪欲なのだろう。
「でも明日な。今日はオレ、これから買出しに行かなきゃなんないんだ。冷蔵庫に食糧ねえんだもん」
 いつも野菜や肉、卵を届けてくれる夫婦が旅行に出たのをピナコはすっかり忘れていたのだそうだ。
「僕も行きます」
「いいっていいって。疲れてるだろ? 休んどけよ」
「ずっと座ってたから少し歩きたいし、それに働かざるもの食うべからず、でしょ?」
 そんなに歩くわけではないから、散歩がてらに行くのもいいかもしれない。
 作業場を覘いて出かけると告げたら、客がよかったら馬車を使えと言ってくれたが気持ちだけいただくことにして外に出た。
 目的の店まではゆるい上り坂で、二人で並んでのんびりと歩く。
「こんなにゆっくり外を歩くのは久しぶりです」
「いつもせかせか歩いてるもんな。一年からこんなに忙しい学生なんてめったにいないよ」
 履修登録の相談に乗ったホークアイの話では、一年の前期で一般教養で取るべき単位のかなりの数を取る時間割を組んだとのことだった。もちろん不可を食らわなければの話だが、彼ならば不可どころか可すらもらわないに違いない。
「早くいろんなことを身につけたいんです。それに何もかもが面白いし」
 大変そうではあるが楽しそうでもあった。そして、楽しそうではあるが、時々、何かに追い立てられるように走ってもいた。
 やりたいことを見つけた若者に特有の、一途さ。
 何事にも一生懸命になる若さをもう持てなくなった自分には、まぶしく感じる一方で心配になる。
「あのさ……あんまり無理すんなよ」
 してませんよ、と笑った青年は、しばらく無言で歩き、「やっぱり嘘はいけませんよね」ともう一度笑った。
「多分、いまの僕に無理は必要なんです。いましか出来ないことだから、後悔したくない。でも倒れる前に休むようにします。エドワードさんに心配かけちゃいますから。……心配、してくれるんでしょう?」
 うかがうように問われて、もちろん、と強く頷いた。
 同時に、めったにない、青年からの求めに嬉しくなった。普段、こちらを先回りするように、わがままなんて言葉を知らないみたいにこちらの意に沿うように沿うように生活している彼は、それだけでも無理をしているんじゃないかと思う。だからこんなふうに、自身の望みを口にしてくれると、安心する。小首を傾ける仕草もなんとも可愛らしかった。

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